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第二部九章 慶事
出産と女心
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――と、
「……そういえば」
ようやく酌を強いる綾から解放された信豊が、盃を干した信繁に声をかけた。
「父上は、随分早く躑躅ヶ崎館からお帰りになっておられたのですね。お屋形様へ年始参りを終えた後、父上にもご挨拶申し上げようと、館の中をお探ししたのですが、どこにも姿が見られず……」
「ようやく近習から『お帰りになった』と聞いて、慌ててこちらに罷り越した次第です」
盃の酒を飲み干して、白皙の顔を僅かに赤らめた勝頼が、信豊の言葉を引き継ぐ。
「てっきり、今年も例年通りに躑躅ヶ崎館に留まっておられると思ったのですが……」
「ああ、それはな……」
勝頼の問いかけに、信繁は苦笑を浮かべながら答えた。
「今年は、お屋形様も若殿も正月祝いどころではない様子だったのでな。気を利かせて、早めにお暇したのだ」
「あ……!」
信繁の答えを聞いた勝頼が、何か思い当たった様子でハッとする。
「北の方様の事ですか……」
「そうだ」
勝頼の言葉に、信繁は小さく頷いた。
“北の方”とは、駿河の今川氏真の妹であり、武田家嫡男・義信の妻である嶺の事である。
「信濃に居たお主らには詳しく知らされておらぬかもしれぬが、嶺殿はもう産月 (臨月)でな」
「はい。今朝の年始参りの際に、若殿……兄上から伺いました。四年前にも園姫 (義信の娘)を取り上げた女房の看立てでは、産月どころか、もう数日内には生まれそうだと……」
「ああ」
信繁は、軽く頷くと微笑を浮かべた。
「まだ兆しは無いようだが、いつ来ても良いように、嶺殿は既に逍遥の屋敷に移っている。いざ産痛が始まったら、速やかに屋敷内に設けた産屋へと入れるようにな」
――当時の出産は、自宅ではなく、親族や重臣の屋敷に設けられた産屋で行うのが普通であった。
武田逍遥軒信廉の屋敷は躑躅ヶ崎館のすぐ北にあり、義信の叔父という血縁上の繋がりもあって、義信夫人が子を産む場として選ばれたのである。
「そういう訳で、父親になる若殿も、祖父になるお屋形様も、元旦早々落ち着かぬ様子でな。儂が居ても邪魔だろうと思うて辞去してきたのだ」
「そういう事でしたか……」
信繁が苦笑交じりに述べた理由を聞いた信豊は、納得した様子で頷いたが、すぐに「あっ」と声を上げ、おずおずと尋ねた。
「……という事は、明後日に催される予定だった年賀の宴は、ひょっとして取り止めに……?」
「まったく! 兄上が心配なのは、嶺様とお腹のお子様の事より宴の方なのですか?」
「あ、い、いや……決して、そういう訳では……」
呆れ顔を浮かべた綾が口にした非難混じりの問いかけに、信豊はしどろもどろになる。
そんな兄を見て、綾は大きな溜息を吐いた。
「まったく……喜兵衛どのといい、兄上といい……少し女子の事を軽く見過ぎではありませんか?」
「……喜兵衛?」
綾の声に眉を上げた信豊は、訝しげに首を傾げる。
「そういえば……今日は喜兵衛の姿が見えませんな」
「確かに……」
信豊の言葉に、勝頼も部屋の中を見回した。
「今日は妙に静かだと思っていましたが、武藤が居ないからか……」
そう不思議そうに呟いた勝頼は、信繁に尋ねる。
「どうかしたのですか、あやつは?」
「あぁ……」
勝頼の問いかけに、なぜか少しだけ困った顔をした信繁は、彼の盃に酒を注いでいた桔梗と顔を見合わせた。
そして、互いに苦笑を浮かべた後、綾の方をちらりと一瞥し、怪訝な表情を浮かべている勝頼たちに答える。
「実は……昌幸は、昼過ぎに儂と共にこの屋敷に戻ってきたのだが、その……綾に追い出されて、自分の屋敷に帰ったのだ」
「は……?」
信繁の答えを聞いた勝頼たちは、思わずポカンと口を開けた。
「追い出されたって……綾どのにですか?」
「ち、父上っ! そ、そんな……『追い出された』なんて、誤解を招く風におっしゃるのはやめて下さいっ!」
目を丸くする盛信を見て顔を真っ赤に染めた綾は、大慌てで声を荒げる。
「あ、あやは、ただ……喜兵衛どのを諭しただけです! 『せっかくの元旦なのに、奥方さまをほったらかしにして、こんなところにいてはいけません』って! そうしたら、喜兵衛どのも分かってくれて、おとなしくお帰りになったのです。決して、無理に追い帰した訳ではありませんっ!」
「お、おお、そ、そうだな、うん……」
綾の剣幕に気圧されながら、信繁はコクコクと頷いた。
「た、確かにお主の言う通りであったな。父の言い方が悪かった。許せ」
「これ、綾。お父上にそんな不躾な言葉で申してはいけませんよ」
謝る信繁の横で、桔梗が娘をやんわりと窘める。
母に叱られた綾は、ハッとした顔をして、慌てて両手をついた。
「あ……申し訳ございません、母上。つい、頭に血が上ってしまいまして……」
「謝るのは、私にではありませんよ。お父上にきちんとお詫びなさい」
「あ、いや、構わぬ」
信繁は首を横に振りながら、優しくも厳しい声で綾に告げる桔梗を制止する。
「今のは儂が悪い。綾が怒るのも無理はない」
そう、穏やかな声で言った信繁は、綾に向けて頷きかけた。
「綾……お主は、昌幸の妻がひとりで寂しがっていないかと案じて、敢えて彼奴に厳しく言ったのであろう? お主は何も間違ってはおらぬ」
「そうですね」
勝頼も、その整った面立ちに微笑みを浮かべながら頷く。
「むしろ……悪いのは、せっかくの元旦に、家で夫の帰りを待っている奥方殿の心を慮る事も出来ぬ武藤の方です。そんなあいつを諭して家に帰らせた綾どのは、実に正しい事を為されたと思います」
そう言うと、彼は盛信に目を向けた。
「……お前もそう思うであろう、五郎?」
「はい」
兄の問いかけに、盛信も大きく頷く。
そして、綾の方に顔を向け、ニコリと笑いかけた。
「綾どのは、本当に心根がまっすぐでお優しい方ですね。この五郎、感服いたしました」
「ご、五郎さま! そ、そんな……もったいないお言葉……」
盛信からの賛辞に、綾は恥ずかしそうにもじもじしながら、真っ赤になった顔を袖で隠すのだった。
「……そういえば」
ようやく酌を強いる綾から解放された信豊が、盃を干した信繁に声をかけた。
「父上は、随分早く躑躅ヶ崎館からお帰りになっておられたのですね。お屋形様へ年始参りを終えた後、父上にもご挨拶申し上げようと、館の中をお探ししたのですが、どこにも姿が見られず……」
「ようやく近習から『お帰りになった』と聞いて、慌ててこちらに罷り越した次第です」
盃の酒を飲み干して、白皙の顔を僅かに赤らめた勝頼が、信豊の言葉を引き継ぐ。
「てっきり、今年も例年通りに躑躅ヶ崎館に留まっておられると思ったのですが……」
「ああ、それはな……」
勝頼の問いかけに、信繁は苦笑を浮かべながら答えた。
「今年は、お屋形様も若殿も正月祝いどころではない様子だったのでな。気を利かせて、早めにお暇したのだ」
「あ……!」
信繁の答えを聞いた勝頼が、何か思い当たった様子でハッとする。
「北の方様の事ですか……」
「そうだ」
勝頼の言葉に、信繁は小さく頷いた。
“北の方”とは、駿河の今川氏真の妹であり、武田家嫡男・義信の妻である嶺の事である。
「信濃に居たお主らには詳しく知らされておらぬかもしれぬが、嶺殿はもう産月 (臨月)でな」
「はい。今朝の年始参りの際に、若殿……兄上から伺いました。四年前にも園姫 (義信の娘)を取り上げた女房の看立てでは、産月どころか、もう数日内には生まれそうだと……」
「ああ」
信繁は、軽く頷くと微笑を浮かべた。
「まだ兆しは無いようだが、いつ来ても良いように、嶺殿は既に逍遥の屋敷に移っている。いざ産痛が始まったら、速やかに屋敷内に設けた産屋へと入れるようにな」
――当時の出産は、自宅ではなく、親族や重臣の屋敷に設けられた産屋で行うのが普通であった。
武田逍遥軒信廉の屋敷は躑躅ヶ崎館のすぐ北にあり、義信の叔父という血縁上の繋がりもあって、義信夫人が子を産む場として選ばれたのである。
「そういう訳で、父親になる若殿も、祖父になるお屋形様も、元旦早々落ち着かぬ様子でな。儂が居ても邪魔だろうと思うて辞去してきたのだ」
「そういう事でしたか……」
信繁が苦笑交じりに述べた理由を聞いた信豊は、納得した様子で頷いたが、すぐに「あっ」と声を上げ、おずおずと尋ねた。
「……という事は、明後日に催される予定だった年賀の宴は、ひょっとして取り止めに……?」
「まったく! 兄上が心配なのは、嶺様とお腹のお子様の事より宴の方なのですか?」
「あ、い、いや……決して、そういう訳では……」
呆れ顔を浮かべた綾が口にした非難混じりの問いかけに、信豊はしどろもどろになる。
そんな兄を見て、綾は大きな溜息を吐いた。
「まったく……喜兵衛どのといい、兄上といい……少し女子の事を軽く見過ぎではありませんか?」
「……喜兵衛?」
綾の声に眉を上げた信豊は、訝しげに首を傾げる。
「そういえば……今日は喜兵衛の姿が見えませんな」
「確かに……」
信豊の言葉に、勝頼も部屋の中を見回した。
「今日は妙に静かだと思っていましたが、武藤が居ないからか……」
そう不思議そうに呟いた勝頼は、信繁に尋ねる。
「どうかしたのですか、あやつは?」
「あぁ……」
勝頼の問いかけに、なぜか少しだけ困った顔をした信繁は、彼の盃に酒を注いでいた桔梗と顔を見合わせた。
そして、互いに苦笑を浮かべた後、綾の方をちらりと一瞥し、怪訝な表情を浮かべている勝頼たちに答える。
「実は……昌幸は、昼過ぎに儂と共にこの屋敷に戻ってきたのだが、その……綾に追い出されて、自分の屋敷に帰ったのだ」
「は……?」
信繁の答えを聞いた勝頼たちは、思わずポカンと口を開けた。
「追い出されたって……綾どのにですか?」
「ち、父上っ! そ、そんな……『追い出された』なんて、誤解を招く風におっしゃるのはやめて下さいっ!」
目を丸くする盛信を見て顔を真っ赤に染めた綾は、大慌てで声を荒げる。
「あ、あやは、ただ……喜兵衛どのを諭しただけです! 『せっかくの元旦なのに、奥方さまをほったらかしにして、こんなところにいてはいけません』って! そうしたら、喜兵衛どのも分かってくれて、おとなしくお帰りになったのです。決して、無理に追い帰した訳ではありませんっ!」
「お、おお、そ、そうだな、うん……」
綾の剣幕に気圧されながら、信繁はコクコクと頷いた。
「た、確かにお主の言う通りであったな。父の言い方が悪かった。許せ」
「これ、綾。お父上にそんな不躾な言葉で申してはいけませんよ」
謝る信繁の横で、桔梗が娘をやんわりと窘める。
母に叱られた綾は、ハッとした顔をして、慌てて両手をついた。
「あ……申し訳ございません、母上。つい、頭に血が上ってしまいまして……」
「謝るのは、私にではありませんよ。お父上にきちんとお詫びなさい」
「あ、いや、構わぬ」
信繁は首を横に振りながら、優しくも厳しい声で綾に告げる桔梗を制止する。
「今のは儂が悪い。綾が怒るのも無理はない」
そう、穏やかな声で言った信繁は、綾に向けて頷きかけた。
「綾……お主は、昌幸の妻がひとりで寂しがっていないかと案じて、敢えて彼奴に厳しく言ったのであろう? お主は何も間違ってはおらぬ」
「そうですね」
勝頼も、その整った面立ちに微笑みを浮かべながら頷く。
「むしろ……悪いのは、せっかくの元旦に、家で夫の帰りを待っている奥方殿の心を慮る事も出来ぬ武藤の方です。そんなあいつを諭して家に帰らせた綾どのは、実に正しい事を為されたと思います」
そう言うと、彼は盛信に目を向けた。
「……お前もそう思うであろう、五郎?」
「はい」
兄の問いかけに、盛信も大きく頷く。
そして、綾の方に顔を向け、ニコリと笑いかけた。
「綾どのは、本当に心根がまっすぐでお優しい方ですね。この五郎、感服いたしました」
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