甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

文字の大きさ
244 / 263
第二部九章 慶事

祝宴と祝杯

しおりを挟む
 それから二日後。
 躑躅ヶ崎館では、予定通りに年賀の祝宴が催された。
 もちろん、その宴には当主の信玄と嫡男の義信も顔を出したものの、いつ妻が産気づくか分からない義信と、二人目の孫の誕生を待つ信玄のふたりは、どこか上の空であった。
 もし、生まれてくる子が男児であれば、義信にとって初めての息子――つまり、信玄にとっては初めての男孫であり――ゆくゆくは武田家の当主になる嫡孫である。ふたりが宴どころではないのも無理はない。
 信玄の次弟であり、義信の叔父でもある信繁も、そわそわと落ち着かないのは同じだったが、彼は武田家の副将として、当主と嫡男に代わって宴を差配する役目を請け負った。
 彼が躑躅ヶ崎館に集まった諸将への応対に忙殺されるうちに、宴の時は慌ただしく過ぎていったのである。

 だが――そんな信繁の苦労は、僅か一日の後に報われる事になる。
 宴が催された翌日の未明から遂に産気づいた義信の妻・嶺が、日付が変わる間際に元気な子を産んだのだ。
 しかも――その子は、家中の誰もが待ち望んでいた男児であった。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 次の日の夜、躑躅ヶ崎館では、義信の子が生まれた事を祝う“初夜の祝い”が催された。

「いやはや! めでたい!」

 と、陽気な声を上げながら、義信の盃に酒を注いだのは、彼の叔父である逍遥軒信廉である。
 酒を注ぎ終えた彼は、酒が回って真っ赤になった顔に満面の笑みを浮かべながら、頻りにウンウンと頷く。

「無事に嶺殿が子を生んだだけでもめでたいが、元気な男の子とは実に重畳! これで、武田家は安泰じゃ! いやぁ~、めでたし!」
「ありがとうございます」

 注がれた酒を一気に飲み干した義信は、叔父の率直な祝いの言葉に顔を綻ばせながら頭を下げた。

「叔父上には、屋敷に嶺の産屋を用意して頂くなど、ひとかたならぬお世話になりました。嶺に代わって篤く御礼申し上げます」
「ははは! 何を言うておられる! 礼を言うのは私の方ですぞ!」

 礼を言う義信に、信廉は大きくかぶりを振る。

「武田の御嫡孫を我が屋敷でお迎えできた事は、武田家の臣としてこの上なき名誉に御座る!」

 そう言うと、彼は再び片口を手に持った。

「ささ! もう一献!」
「あ、いや……」

 信廉に片口を向けられた義信は、少し困った顔をする。
 と、

「おい、逍遥」

 そんな甥の表情に目ざとく気付いた信繁が、彼に助け舟を出した。

「そのくらいにしておけ。太郎は、昨日一日がかりで嶺殿のお産に立ち会って疲れておるのだ。あまりしつこく飲ませるものではない」
「あぁ……確かに」

 信繁の言葉に、信廉はハッとした顔をする。

「次郎兄の仰る通りですな。これは失礼をばいたしました」

 そう言って義信に一礼した信廉は――そのまま上座ににじり寄った。

「――と、いう訳で、太郎の代わりに一献受けて下され、兄上!」
「……儂がか?」

 ちょうど膳の肴に箸を伸ばそうとしていたところで信廉に声をかけられた信玄は、虚を衝かれた様子で目を丸くする。
 
「いや……儂は儂で、まる一日御旗楯無の御前で安産の護摩行を上げ続けておったから、かなり草臥くたびれておるのだが……」

 そうぼやきながらも、彼は箸を置き、信廉の求めに応じて盃を手に取った。

「まあ……今宵は武田の世継ぎが生まれた事を祝う宴だ。儂などで良ければ、いくらでも付き合おうぞ」
「おお! さすがは兄上!」

 信玄の返答に喝采を上げながら、信廉は兄の盃に酒を注ぎ込む。

「あ、おい、その辺で…………いや、さすがにこんなに並々となるまで注げとまでは言うておらぬぞ……」
「まあまあ、そう言わずに」

 辟易した声を上げる信玄に、信廉はニヤリと笑いかけた。

「つい先ほど、『いくらでも付き合う』とおっしゃったばかりではありませぬか。私の耳は節穴ではありませぬぞ」
「ぐ……っ」

 信廉の言葉にぐうの音も出ない信玄は、縁から盛り上がるほどに酒が注がれた盃を一瞥すると、意を決した様子で口元に運び、一気に傾ける。

「……ふぅ~!」
「おお! さすが、武田家の惣領にあらせられる兄上! 見事な飲みっぷりに御座りますな!」

 盃を干して、赤らんだ顔で大きく息を吐いている信玄に喝采を送った信廉は――今度は信繁の方に片口の注ぎ口を向けた。

「では――次は、次郎兄という事で……」
「あ……いや、儂は……」

 信廉に迫られた信繁は、慌てて盃の上に手を翳して酒を注がれぬようにしながら、首を横に振る。
 正直、先日催された年賀の祝宴で、信玄や義信の分まで飲んだ乾杯の酒がまだ残っているせいで、今の彼はあまり酒を飲める状態ではなかったのである。
 ……だが、

「……」
「う……」

 信廉酔っ払いから解放され、ホッとした顔で盃を置いた信玄が、自分の事をじっと見つめている事に気付き、たじろいだ。

「……分かった」

 信玄の眼からそれとなく発せられる圧を敏感に感じ取った信繁は、観念して盃を手に取る。

「ははは! そうこなくては!」

 そんな彼を見て嬉しげに笑いながら、信廉は差し出された盃に遠慮なく酒を注ぎ込んだ。
 信繁の盃にも、先ほどの信玄の時と同じくらい……いや、それ以上になみなみと酒が満たされる。

「……」

 盃に目を落として小さく息を吐いた信繁は、無言で盃を掲げると、零れないよう慎重に口に運び、ゆっくりと傾けた。

「ふぅ……」

 隻眼を軽く瞑りながら、喉を鳴らして酒を飲み干した信繁は、盃の縁から口を離す――。
 ――と、

「おお! さすがは我が武田家の副将殿! さあ、もう一献どうぞ!」
「あ! お、おい、やめろ逍遥!」

 すかさず自分の盃に二杯目を注ごうとする信廉を見て、慌てて止めようとする信繁。
 だが、信廉はそんな兄の制止も知らぬ顔で、片口を傾け――ようとしたその時、

「そ、そういえば、逍遥様!」
「……ん?」

 上ずった声で自分の名を呼ばれた信廉は、怪訝な顔をしながら振り返った。

「どうした、源五郎?」

 彼に声をかけたのは、寄親である信繁が困っている事に気付いて、急ぎ下座から馳せ参じてきた武藤昌幸だった。

「あ……ええと」

 咄嗟に声をかけたはいいが、その後をどうするかについては何も考えていなかった昌幸は、信廉に訊き返されて答えに窮する。
 彼は、信廉の気を逸らせるような話の種が無いか、大慌てで頭の中の引き出しをひっくり返し――ようやく見つけ出した。

「――あの……そ、そういえば……せ、先日甲斐を発った曽根様から、その後何か報せはあったのでしょうか?」
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら? 国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。 真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。 破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。 現在1945年夏まで執筆

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。

東亜の炎上 1940太平洋戦線

みにみ
歴史・時代
1940年ドイツが快進撃を進める中 日本はドイツと協働し連合国軍に宣戦布告 もしも日本が連合国が最も弱い1940年に参戦していたらのIF架空戦記

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...