甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部九章 慶事

未熟と経験

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 「な――?」

 信繁の言葉を聞いた瞬間、信廉は思わず口をあんぐりと開けた。

「な、何をおっしゃっているのです、典厩様ッ?」
「何を……? 聞こえなかったか?」

 目を剥きながら声を荒げる信廉に首を傾げながら、信繁は先ほどと同じ言葉をもう一度繰り返す。

「儂自らが越後に参る……そう申した」
「な……」
「弾正少弼殿から、和与の条件を直接聞き出す為にな」
「なりませぬぞっ!」

 信繁の答えを聞いた信廉は、大きく目を見開きながら、激しく首を左右に振った。

「私が先ほども言うたでしょう、あからさまな敵の策だと! 自らの懐に呼び寄せた典厩様の命を奪う気に決まっております!」
「いや……必ずしもそうとは限らぬであろう」

 顔を真っ赤にして捲し立てた信廉に、信繁はそう言って苦笑を向けた。

「和与の交渉に来た使者を騙し討ちにするなど、一国の主としてあるまじき卑劣極まる真似。人一倍事の正道と体面に拘る弾正少弼殿が、そのような手段を好んで用いようとするとは、とても思えぬ」
「で、ですが……」
「それに、儂だけではない」

 なおも心配顔をする信廉にそう言った信繁は、下座に控える光秀の顔を一瞥する。

「当然……明智殿も、越後へ赴く某に御同道頂けるのであろうな?」
「勿論に御座います」

 信繁の問いかけに、光秀は小さく頷いた。

「そもそも、此度の和与の話は、他ならぬ覚慶様がお求めになられたもの。その和与の進展に係わる話とあらば、覚慶様の使者である私が共に行かぬ訳には参りませぬでしょう」
「忝い」

 光秀の言葉に軽く頷いた信繁は、再び信廉の方を向いて微笑む。

「――まあ、つまりはそういう事だ」
「そ……そういう事とは?」

 信繁の言葉の意味するところが掴めず、胡乱げな顔をして首を傾げる信廉。
 そんな彼に、信繁は苦笑しながら言った。

「解らぬか? 覚慶様の使者殿に同行して頂いている限り、儂の身は安全だという事だ」
「あぁ……ようやく理解いたしました」

 信廉は、合点がいったという表情を浮かべる。

「もし使者殿の目の前で典厩様を斬り捨てたりすれば、それは和与を勧めた覚慶様の顔に泥どころか糞を塗るに等しい不敬の極み」
「……そんな事を仕出かせば最後、越後はせっかく前公方様から頂いた関東管領職も七免許も取り上げられる事になる。……だから、越後方は典厩様には手を出せず、その身は安全という訳ですか」

 信廉の言葉を引き継ぐように、義信が言った。

「確かに一理はありますが……」

 そう言いながらも、彼の表情は曇っている。

「それでも、典厩様を敵地に赴かせる事に対して、一抹の不安は残ります」
「若殿……」
「先ほども申しましたが、今の武田家にとっての大黒柱にも等しい存在である典厩様を失う怖れが少しでもある以上、私は賛同しかねます。どうかお考え直しを……」
「……」

 訴えかけるような義信の眼差しを前に、信繁は小さく溜息を吐いた。
 そして、鋭い目を甥に向け、

「若殿……いや、よ」

 と、低い声で呼ぶ。

「……っ!」

 その声に逆らい難い威圧の響きが籠っている事に気付いた義信の顔が、緊張で強張った。
 気圧された義信を隻眼で見据えながら、信繁は静かに言葉を継ぐ。

「……いつまでも、そのような事では困るぞ」
「……」
「確かに、儂は武田家の副将だ。だが、儂という柱が一本抜けただけで潰れてしまうほど、この武田という家は危うく脆いものなのか?」
「それは……」

 信繁の問いかけに、義信は言い淀んだ。
 と、

「正直……四年前はだいぶ危うかった」

 そう、ぼそりと呟いたのは、上座に座る信玄である。
 彼は、信繁の眼――盲いた右目をじっと見つめながら、小さく息を吐いた。

「四年前……八幡原の戦でお前が人事不省となった後、儂はまるで大海に浮かぶ小舟に取り残されたような心持ちであったぞ。いや……儂だけではなく、家中の者どもも、皆同じ心持ちであったろう」
「「「……」」」

 信玄の言葉に、義信も信廉も、そして昌幸も無言で頷く。
 そんな一同の反応をちらりと見た信玄は、「つまり……」と言葉を継いだ。

「それほど、お前の存在は大きいものなのだ。まつりごとに関してはもちろん――儂が心を許し、頼りに出来るかけがえのない存在としても……な」
「お屋形様……」
「――だからと言ってな」

 と、信玄は義信に目を向けた。

「いつまでも典厩に頼りっ放しでは困るぞ、太郎」
「……!」

 信玄の言葉に、義信はハッと目を見開く。
 そんな彼に厳しくも温かい目を向けながら、信玄は言葉を継いだ。

「四年前のお前と今のお前は違うはずだ。重ねた四年という歳月としつきの中で経験を経て、様々な事を学んできたのであろう? 儂や……典厩からな」
「……!」
「で、あれば、もう典厩を頼りにすべきではない。仮に典厩が居らぬようになったとしても、今度は自分が武田家……そして当主わしを支える新たな大黒柱となる――そのような気概を持ってほしいものだ」
「お屋形様の仰る通りだ」

 信玄の言葉に小さく頷きながら、信繁は義信に微笑みかける。

「昔ならいざ知らず、今のお主なら、十分に儂の代わりを務める事が出来るはずだ。儂は、最近のお主の働きを見て、そう確信しておる」
「叔父上……!」
「太郎、もっと自信を持て。期待しておるぞ」
「――はっ!」

 感激で頬を上気させながら、義信は大きく頷いた。

「必ずや、典厩様の御期待に沿えますよう、精進して参ります!」
「うむ、頼んだぞ」

 義信の力強い言葉に、信繁は満面の笑みを浮かべる。
 ――と、

「いやいや……縁起でもない事を申されますな」

 信廉が頬を引き攣らせながら呆れ声を上げた。

「それではまるで、その……遺言ではないですか」
「あ……」
「そうだぞ、典厩」

 信玄も、信廉の指摘にハッとする信繁に渋い顔で言う。

「太郎にはああ言うたが、だからといって、お主が居なくなっても良いという訳では全く無いからな。それとこれとは話が別だ」
「あ、もちろん、そのようなつもりは毛頭無いのですが……」
「――典厩」

 気まずげに頬を掻く信繁に、信玄は真剣な顔で声をかけた。

「お主の望み通り、越後へ向かう事を許そう。あの景虎めから、和与の条件とやらを確と聞き出して参れ」
「お屋形様……! ありがとうござ――」
「だが、同時に命じる」

 感謝の声を中途で遮るように言葉を継いだ彼は、円座わろうだから腰を上げると、ゆっくりと信繁の元に歩み寄り、その肩に手を置く。
 そして、弟の隻眼を真っ直ぐに見つめながら、有無を言わさぬ声で言った。

「――何があっても必ず戻って来い。この命令を破る事は決して許さぬ。分かったな……次郎!」
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