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第二部九章 慶事
指名と理由
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「な……」
信繁は、光秀の口から自分の名が出た事に驚き、目を丸くする。
「なぜ、某が……?」
「私には分かりませぬ」
思わず訊き返す信繁に対し、光秀は小さく首を左右に振った。
「弾正少弼様は、武田家の中から、敢えて典厩様をお選びになった理由をお明かしになりませんでしたから」
そう答えた光秀は、顎に指を当てながら、「……ですが」と続ける。
「典厩様は、武田家の副将格として、大膳大夫様の傍らで……時には大膳大夫様に代わって御家の差配を行う立場に居られます。弾正少弼様が、甲越和与という大事の仔細を詰める相手として、武田家の中枢に最も近い典厩様をお選びになるのは、分からなくもありませぬ」
「だが……」
義信が、怪訝な表情を浮かべながら、光秀に尋ねた。
「長尾景虎が、和与の条件を自分の口から直接伝えると申しておるという事は……典厩様御自身が越後まで赴かねばならぬのではないのですか?」
「仰る通りです」
義信の問いかけに、光秀はあっさりと頷く。
「弾正少弼様は、典厩様が直々に春日山城を訪れになる事を望まれております。……相手が典厩様でなくば、和与の話をする気は無いと……」
「……典厩様の名代でも駄目なのですか?」
今度は、昌幸が光秀に尋ねる。
「例えば……典厩様の与力である拙者では……?」
「申し訳ございませんが」
昌幸の問いに、光秀はきっぱりと首を横に振った。
「弾正少弼様は、典厩様御本人でなくばならぬとハッキリ申されておりました。あの御様子から見て、本当に典厩様以外の方とは話をする気は無いようです」
「左様ですか……」
光秀の答えを聞いた昌幸は、小さく息を吐きながら、表情を曇らせる。
「一体、何故そこまで頑迷に典厩様を……?」
「……そんな事、考えるまでも無く明白であろうが」
首を傾げながらの昌幸の呟きに、険しい声で言ったのは、信廉だった。
彼は、眉間に深い皺を寄せながら、吐き捨てるように言う。
「典厩様を自分の城に呼び寄せて、騙し討ちする気なのだ」
「いや……さすがにそれは……」
信廉の言葉に、昌幸が思わず声を上げた。
「いくら何でも、武田家の副将格にして当主の実弟でもある典厩様を騙し討ちするような卑怯な真似をするとは……」
「副将格の典厩様だからこそ、卑劣な奸計を使ってでも騙し討ちする価値があると考えるのかもしれぬ」
昌幸の声を遮った信廉は、思案顔をしている信繁に険しい顔を向ける。
「思案する余地などありませぬぞ、典厩様。飛んで火にいる夏の虫宜しく、わざわざ敵の策に嵌ってやる事は御座いませぬ」
「うむ……いや、しかし……」
信繁は、信廉の言葉に曖昧な返事をしながら、顎髭を指で撫でた。
――と、
「……ですが、それでは和与の話が進みませぬ」
落ち着き払いながらも、微かに苛立ちを含んだ声が上がる。
一同の注目を一身に浴びながら、光秀は静かに言葉を継いだ。
「……ご安心下さい。弾正少弼様に、逍遥軒様がご懸念なされているような害意などありませぬ。それは、弾正少弼様と直にお会いして、その為人に触れた私が確と保証いたします」
「一度本人に会うただけの貴殿の保証など、何のあてになる?」
光秀の言葉に、信廉が険しい声を上げる。
「失礼ながら、明智殿は良くお分かりになっておらぬ。もう十二年余りも対峙し、幾度も激しく刃を交わしてきた甲斐と越後の因縁の深さを」
「……左様」
信廉の言葉に、それまで黙っていた信玄も小さく頷いた。
「実際……我らは何度も越後に裏切られてきた。永禄元年には、前公方様 (足利義輝)直々の御要請に従って和議を結んだにもかかわらず、景虎めが一方的に破り、信濃に攻め込んできおった」
そう言って、苦々しげに顔を顰めた信玄は、信繁の顔をチラリと見る。
「そのような豺狼の如き敵の元に、進んで典厩を差し出すような真似など出来ぬ」
「……お屋形様の仰る通り」
義信も、信玄の言葉に同意を示した。
「典厩様は、武田家の扇の要と言っても差し支えない御方。万が一、典厩様が居なくなってしまったら、当家は大いに揺らぎ、弱まる事となりましょう。そして……それは、敵である越後方にとって願ってもない状況となるのは明らか」
そう言うと、彼は目を伏せ、「それに……」と続ける。
「つい一年半前にも、典厩様は川中島で越後勢と直に戦い、手痛い一撃を食らわせています。……越後方にとっては、色々と遺恨を抱いている存在なのは確か」
そこで義信は目を上げ、光秀の顔に向けた。
「……明智殿が感じた通り、今の弾正少弼殿の頭の中には邪な考えなど無いのかもしれませぬが――いざ典厩様を前にした時に、『搦め手の奸計を用いてでも排したい』と考えを変えてしまう可能性は否めぬかと」
「その恐れも大いにあるな」
義信の言葉に頷きながら、小さく息を吐いた信玄は、光秀に告げる。
「使者殿、そういう訳だ。申し訳ないが、典厩を越後に向かわせる事は承服しかねる。ご苦労だが、今一度越後に赴き、景と……弾正少弼に心変わりを促してくれぬか?」
「……畏まりました」
信玄の言葉に少し間を置いて、光秀は頷いた。
「仰る通り、春日山に舞い戻り、大膳大夫様のお言葉をお伝えし、何とか弾正少弼様の翻意を促す事と致しましょう」
「すまぬな。あの男相手では難儀するかもしれぬが」
「いえ」
信玄がかけた声に、光秀は表情を変えぬまま、軽く頭を振る。
「それこそが、使者の役目と心得ておりますから」
そう答えて、光秀は両手を床に付き、頭を下げようとした。
「それでは、私はこれにて――」
「お待ち下され」
だが、彼の声は途中で遮られる。
ゆっくりと頭を巡らせた光秀は、声を上げた男に訝しげな目を向けた。
「……武田典厩様、何か?」
「――お屋形様」
光秀に軽く頷いた信繁は、信玄の方に向き直る。
そして、強い意志を湛えた目で兄の顔を見据え、凛とした声で告げた。
「某が、越後に参りましょう」
信繁は、光秀の口から自分の名が出た事に驚き、目を丸くする。
「なぜ、某が……?」
「私には分かりませぬ」
思わず訊き返す信繁に対し、光秀は小さく首を左右に振った。
「弾正少弼様は、武田家の中から、敢えて典厩様をお選びになった理由をお明かしになりませんでしたから」
そう答えた光秀は、顎に指を当てながら、「……ですが」と続ける。
「典厩様は、武田家の副将格として、大膳大夫様の傍らで……時には大膳大夫様に代わって御家の差配を行う立場に居られます。弾正少弼様が、甲越和与という大事の仔細を詰める相手として、武田家の中枢に最も近い典厩様をお選びになるのは、分からなくもありませぬ」
「だが……」
義信が、怪訝な表情を浮かべながら、光秀に尋ねた。
「長尾景虎が、和与の条件を自分の口から直接伝えると申しておるという事は……典厩様御自身が越後まで赴かねばならぬのではないのですか?」
「仰る通りです」
義信の問いかけに、光秀はあっさりと頷く。
「弾正少弼様は、典厩様が直々に春日山城を訪れになる事を望まれております。……相手が典厩様でなくば、和与の話をする気は無いと……」
「……典厩様の名代でも駄目なのですか?」
今度は、昌幸が光秀に尋ねる。
「例えば……典厩様の与力である拙者では……?」
「申し訳ございませんが」
昌幸の問いに、光秀はきっぱりと首を横に振った。
「弾正少弼様は、典厩様御本人でなくばならぬとハッキリ申されておりました。あの御様子から見て、本当に典厩様以外の方とは話をする気は無いようです」
「左様ですか……」
光秀の答えを聞いた昌幸は、小さく息を吐きながら、表情を曇らせる。
「一体、何故そこまで頑迷に典厩様を……?」
「……そんな事、考えるまでも無く明白であろうが」
首を傾げながらの昌幸の呟きに、険しい声で言ったのは、信廉だった。
彼は、眉間に深い皺を寄せながら、吐き捨てるように言う。
「典厩様を自分の城に呼び寄せて、騙し討ちする気なのだ」
「いや……さすがにそれは……」
信廉の言葉に、昌幸が思わず声を上げた。
「いくら何でも、武田家の副将格にして当主の実弟でもある典厩様を騙し討ちするような卑怯な真似をするとは……」
「副将格の典厩様だからこそ、卑劣な奸計を使ってでも騙し討ちする価値があると考えるのかもしれぬ」
昌幸の声を遮った信廉は、思案顔をしている信繁に険しい顔を向ける。
「思案する余地などありませぬぞ、典厩様。飛んで火にいる夏の虫宜しく、わざわざ敵の策に嵌ってやる事は御座いませぬ」
「うむ……いや、しかし……」
信繁は、信廉の言葉に曖昧な返事をしながら、顎髭を指で撫でた。
――と、
「……ですが、それでは和与の話が進みませぬ」
落ち着き払いながらも、微かに苛立ちを含んだ声が上がる。
一同の注目を一身に浴びながら、光秀は静かに言葉を継いだ。
「……ご安心下さい。弾正少弼様に、逍遥軒様がご懸念なされているような害意などありませぬ。それは、弾正少弼様と直にお会いして、その為人に触れた私が確と保証いたします」
「一度本人に会うただけの貴殿の保証など、何のあてになる?」
光秀の言葉に、信廉が険しい声を上げる。
「失礼ながら、明智殿は良くお分かりになっておらぬ。もう十二年余りも対峙し、幾度も激しく刃を交わしてきた甲斐と越後の因縁の深さを」
「……左様」
信廉の言葉に、それまで黙っていた信玄も小さく頷いた。
「実際……我らは何度も越後に裏切られてきた。永禄元年には、前公方様 (足利義輝)直々の御要請に従って和議を結んだにもかかわらず、景虎めが一方的に破り、信濃に攻め込んできおった」
そう言って、苦々しげに顔を顰めた信玄は、信繁の顔をチラリと見る。
「そのような豺狼の如き敵の元に、進んで典厩を差し出すような真似など出来ぬ」
「……お屋形様の仰る通り」
義信も、信玄の言葉に同意を示した。
「典厩様は、武田家の扇の要と言っても差し支えない御方。万が一、典厩様が居なくなってしまったら、当家は大いに揺らぎ、弱まる事となりましょう。そして……それは、敵である越後方にとって願ってもない状況となるのは明らか」
そう言うと、彼は目を伏せ、「それに……」と続ける。
「つい一年半前にも、典厩様は川中島で越後勢と直に戦い、手痛い一撃を食らわせています。……越後方にとっては、色々と遺恨を抱いている存在なのは確か」
そこで義信は目を上げ、光秀の顔に向けた。
「……明智殿が感じた通り、今の弾正少弼殿の頭の中には邪な考えなど無いのかもしれませぬが――いざ典厩様を前にした時に、『搦め手の奸計を用いてでも排したい』と考えを変えてしまう可能性は否めぬかと」
「その恐れも大いにあるな」
義信の言葉に頷きながら、小さく息を吐いた信玄は、光秀に告げる。
「使者殿、そういう訳だ。申し訳ないが、典厩を越後に向かわせる事は承服しかねる。ご苦労だが、今一度越後に赴き、景と……弾正少弼に心変わりを促してくれぬか?」
「……畏まりました」
信玄の言葉に少し間を置いて、光秀は頷いた。
「仰る通り、春日山に舞い戻り、大膳大夫様のお言葉をお伝えし、何とか弾正少弼様の翻意を促す事と致しましょう」
「すまぬな。あの男相手では難儀するかもしれぬが」
「いえ」
信玄がかけた声に、光秀は表情を変えぬまま、軽く頭を振る。
「それこそが、使者の役目と心得ておりますから」
そう答えて、光秀は両手を床に付き、頭を下げようとした。
「それでは、私はこれにて――」
「お待ち下され」
だが、彼の声は途中で遮られる。
ゆっくりと頭を巡らせた光秀は、声を上げた男に訝しげな目を向けた。
「……武田典厩様、何か?」
「――お屋形様」
光秀に軽く頷いた信繁は、信玄の方に向き直る。
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