247 / 263
第二部九章 慶事
面会と要求
しおりを挟む
「……それはさておき」
そう言って、すっかり緩んでしまった場の空気を取り繕うように咳払いをした信玄は、下座に座る光秀に目を向けた。
「使者の御役目、誠にご苦労である。使者殿」
「労りのお言葉をおかけ頂き、恐悦至極に存じます、武田大膳大夫様」
信玄の言葉に対し、光秀は無表情で軽く会釈する。
そんな彼の態度に、信玄の眉は僅かに上がったが、すぐに気を取り直した様子で言葉を継いだ。
「越後までの道のりは、さぞ雪が深くて大変であったろう」
「……まあ、確かに色々と難儀はいたしましたが」
そう答えた光秀は、横に座る曽根昌世の顔をチラリと一瞥する。
「……曽根殿の案内のお陰で、何とか無事に越後へ辿り着けました」
「……」
光秀の言葉を聞いた昌世は、僅かに眉間を寄せたものの、何も言わなかった。
信玄は、そんな昌世の表情の変化に目敏く気付いたものの、ひとまず光秀との会話を優先する。
「それで……越後で長尾景虎と会う事は出来たのか?」
「はい」
信玄の問いかけに、光秀はあっさりと頷いた。
「春日山に到着した翌々日には、御目通りが叶いました」
「「……!」」
彼の返事に、信繁と義信は思わず互いの顔を見合わせる。
「ほう……」
一方の信玄は、小さく唸ると、頬を撫でながら、僅かに身を乗り出した。
興味を惹かれた時の彼の癖だ。
「翌々日とは……随分と早いな」
そう呟いた信玄は、ぺろりと唇を舌で湿してから、光秀に尋ねる。
「して……景虎は、甲越和与の件は何と言うておった?」
その目が、光秀の一挙手一投足を余さず観察しようとするように鋭くなった。
だが、一国を率いる帥の眼光に晒されながらも、光秀は顔色一つ変えずに見返し、静かな声で答える。
「……弾正少弼様は、光源院様 (足利義輝)の弟君にして足利将軍家の後継者であらせられる覚慶様の仰せであれば、武田家と和与を結ぶ事も吝かではないとの事です」
「……!」
光秀の答えを聞いた一同は、思わず目を見張る。
だが、信玄は光秀に鋭い目を向けたまま、吐き捨てるように呟いた。
「ふん……どうだかな。口ではそう申しても、肚の中では何を考えておるのか分かったものではないわ」
「お屋形様、覚慶様の使者殿がおられます」
「……分かっておる」
義信に小声で窘められた信玄は、憮然とした表情を浮かべながらも頷き、光秀に向かって軽く頭を下げる。
「……失言であった。今のは聞かなかった事にしてくれ」
「相分かりました」
信玄の謝罪に軽く会釈した光秀は、「……とはいえ」と続けた。
「弾正少弼殿も、諸手を挙げて賛同という訳では御座いませぬ。和与を結ぶなら、いくつか条件があるとの事です。それが守られなくば、たとえ覚慶様の御意志であっても従う事は能わぬと」
「それはそうだろう」
傍らの脇息にもたれかかりながら、信玄は光秀の言葉に苦笑いを浮かべる。
そして、冷ややかな目をしながら、光秀に尋ねた。
「……で、景虎は何を条件に出してきたのだ? 海津城の破却か? 北信濃の割譲か? それとも……越後に逃げ込んだ小笠原長時に信濃守護職を返せとでも言うてきたか?」
「――いえ」
光秀は、信玄の皮肉交じりの問いかけに対し、小さく首を横に振る。
それを見た信玄は、フンと鼻を鳴らした。
「まあ……さすがの景虎も、そこまで図々しくはないか」
そう独り言ちた信玄は、更に光秀に尋ねる。
「ならば、やはり金か?」
「いえ」
「……違うのか?」
再び頭を振った光秀に、信玄は訝しげに眉を顰めた。
「では……景虎めは一体何を我らに求めておるのだ?」
「……実は、聞けておりませぬ」
信玄の問いに、光秀はあっさりと答える。
その顔は相変わらずの無表情だったが……心なしか憮然としているようにも見えた。
「……聞けていない?」
「はい」
思わず訊き返した信玄に、光秀は小さく頷く。
「弾正少弼殿は、和与の条件として何を求めるのかを、私には明示しませんでした。『条件に関しては、武田家の然るべき者に、余の口から直接伝える』と申されて……」
「然るべき者……だと?」
光秀の言葉を聞いた信玄は、胡乱げな目で曾根昌世の方を見た。
「それは、そこの曽根内匠助では駄目だったのか?」
「お屋形様、それが……」
信玄の視線を受けた昌世は、表情を曇らせながらおずおずと答える。
「それがしは、春日山城に上がる事も許されず、明智殿が目通りしている間もずっと麓の家臣の屋敷で留め置かれておりまして……」
「景虎とは直接会っていないから、和与の条件を聞けなかったという事か」
「――というよりは」
頷きかけた信玄の声を遮るように口を挟んだのは、光秀だった。
彼は、昌世の顔をちらりと一瞥してから、淡々とした口調で言葉を継ぐ。
「そもそも、曽根殿は弾正少弼様が仰る“然るべき者”には当たらないようです」
「……!」
光秀の言葉を聞いた昌世が、無言のまま、悔しげに唇を噛んだ。
一方の信玄は、眉毛に深い皺を寄せる。
「……孫次郎は、儂が側近として恃みにしておる奥近習衆の筆頭だ。これ以上“然るべき者”として相応しき男は居ないと思うがな」
「お屋形様……!」
信玄の声に怒気と憤懣が滲んでいる事を感じ取った昌世が、ハッと目を見開いた。
と、
「……畏れながら」
信玄の鋭い眼光を一身に浴びても眉ひとつ動かさず、光秀は口を開く。
「曽根殿が“然るべき者”に選ばれなかったのは、弾正少弼様から能力が劣っていると見做された訳ではありませぬ」
「……何? それは、どういう意味だ?」
光秀の言葉を聞いた信玄は、訝しげに首を傾げた。
そんな彼の顔をじっと見据えながら、光秀は更に言葉を継ぐ。
「私は、『武田家家中のどなたなら、“然るべき者”として相応しいのか』と伺いました。それに応じて、弾正少弼様が挙げた御方は唯ひとり」
そう言うと、彼はおもむろに首を横に向け――その怜悧な瞳で信繁の顔を真っ直ぐに見つめた。
「――武田典厩様です」
そう言って、すっかり緩んでしまった場の空気を取り繕うように咳払いをした信玄は、下座に座る光秀に目を向けた。
「使者の御役目、誠にご苦労である。使者殿」
「労りのお言葉をおかけ頂き、恐悦至極に存じます、武田大膳大夫様」
信玄の言葉に対し、光秀は無表情で軽く会釈する。
そんな彼の態度に、信玄の眉は僅かに上がったが、すぐに気を取り直した様子で言葉を継いだ。
「越後までの道のりは、さぞ雪が深くて大変であったろう」
「……まあ、確かに色々と難儀はいたしましたが」
そう答えた光秀は、横に座る曽根昌世の顔をチラリと一瞥する。
「……曽根殿の案内のお陰で、何とか無事に越後へ辿り着けました」
「……」
光秀の言葉を聞いた昌世は、僅かに眉間を寄せたものの、何も言わなかった。
信玄は、そんな昌世の表情の変化に目敏く気付いたものの、ひとまず光秀との会話を優先する。
「それで……越後で長尾景虎と会う事は出来たのか?」
「はい」
信玄の問いかけに、光秀はあっさりと頷いた。
「春日山に到着した翌々日には、御目通りが叶いました」
「「……!」」
彼の返事に、信繁と義信は思わず互いの顔を見合わせる。
「ほう……」
一方の信玄は、小さく唸ると、頬を撫でながら、僅かに身を乗り出した。
興味を惹かれた時の彼の癖だ。
「翌々日とは……随分と早いな」
そう呟いた信玄は、ぺろりと唇を舌で湿してから、光秀に尋ねる。
「して……景虎は、甲越和与の件は何と言うておった?」
その目が、光秀の一挙手一投足を余さず観察しようとするように鋭くなった。
だが、一国を率いる帥の眼光に晒されながらも、光秀は顔色一つ変えずに見返し、静かな声で答える。
「……弾正少弼様は、光源院様 (足利義輝)の弟君にして足利将軍家の後継者であらせられる覚慶様の仰せであれば、武田家と和与を結ぶ事も吝かではないとの事です」
「……!」
光秀の答えを聞いた一同は、思わず目を見張る。
だが、信玄は光秀に鋭い目を向けたまま、吐き捨てるように呟いた。
「ふん……どうだかな。口ではそう申しても、肚の中では何を考えておるのか分かったものではないわ」
「お屋形様、覚慶様の使者殿がおられます」
「……分かっておる」
義信に小声で窘められた信玄は、憮然とした表情を浮かべながらも頷き、光秀に向かって軽く頭を下げる。
「……失言であった。今のは聞かなかった事にしてくれ」
「相分かりました」
信玄の謝罪に軽く会釈した光秀は、「……とはいえ」と続けた。
「弾正少弼殿も、諸手を挙げて賛同という訳では御座いませぬ。和与を結ぶなら、いくつか条件があるとの事です。それが守られなくば、たとえ覚慶様の御意志であっても従う事は能わぬと」
「それはそうだろう」
傍らの脇息にもたれかかりながら、信玄は光秀の言葉に苦笑いを浮かべる。
そして、冷ややかな目をしながら、光秀に尋ねた。
「……で、景虎は何を条件に出してきたのだ? 海津城の破却か? 北信濃の割譲か? それとも……越後に逃げ込んだ小笠原長時に信濃守護職を返せとでも言うてきたか?」
「――いえ」
光秀は、信玄の皮肉交じりの問いかけに対し、小さく首を横に振る。
それを見た信玄は、フンと鼻を鳴らした。
「まあ……さすがの景虎も、そこまで図々しくはないか」
そう独り言ちた信玄は、更に光秀に尋ねる。
「ならば、やはり金か?」
「いえ」
「……違うのか?」
再び頭を振った光秀に、信玄は訝しげに眉を顰めた。
「では……景虎めは一体何を我らに求めておるのだ?」
「……実は、聞けておりませぬ」
信玄の問いに、光秀はあっさりと答える。
その顔は相変わらずの無表情だったが……心なしか憮然としているようにも見えた。
「……聞けていない?」
「はい」
思わず訊き返した信玄に、光秀は小さく頷く。
「弾正少弼殿は、和与の条件として何を求めるのかを、私には明示しませんでした。『条件に関しては、武田家の然るべき者に、余の口から直接伝える』と申されて……」
「然るべき者……だと?」
光秀の言葉を聞いた信玄は、胡乱げな目で曾根昌世の方を見た。
「それは、そこの曽根内匠助では駄目だったのか?」
「お屋形様、それが……」
信玄の視線を受けた昌世は、表情を曇らせながらおずおずと答える。
「それがしは、春日山城に上がる事も許されず、明智殿が目通りしている間もずっと麓の家臣の屋敷で留め置かれておりまして……」
「景虎とは直接会っていないから、和与の条件を聞けなかったという事か」
「――というよりは」
頷きかけた信玄の声を遮るように口を挟んだのは、光秀だった。
彼は、昌世の顔をちらりと一瞥してから、淡々とした口調で言葉を継ぐ。
「そもそも、曽根殿は弾正少弼様が仰る“然るべき者”には当たらないようです」
「……!」
光秀の言葉を聞いた昌世が、無言のまま、悔しげに唇を噛んだ。
一方の信玄は、眉毛に深い皺を寄せる。
「……孫次郎は、儂が側近として恃みにしておる奥近習衆の筆頭だ。これ以上“然るべき者”として相応しき男は居ないと思うがな」
「お屋形様……!」
信玄の声に怒気と憤懣が滲んでいる事を感じ取った昌世が、ハッと目を見開いた。
と、
「……畏れながら」
信玄の鋭い眼光を一身に浴びても眉ひとつ動かさず、光秀は口を開く。
「曽根殿が“然るべき者”に選ばれなかったのは、弾正少弼様から能力が劣っていると見做された訳ではありませぬ」
「……何? それは、どういう意味だ?」
光秀の言葉を聞いた信玄は、訝しげに首を傾げた。
そんな彼の顔をじっと見据えながら、光秀は更に言葉を継ぐ。
「私は、『武田家家中のどなたなら、“然るべき者”として相応しいのか』と伺いました。それに応じて、弾正少弼様が挙げた御方は唯ひとり」
そう言うと、彼はおもむろに首を横に向け――その怜悧な瞳で信繁の顔を真っ直ぐに見つめた。
「――武田典厩様です」
14
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。
現在1945年夏まで執筆
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
徳川慶勝、黒船を討つ
克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。
もしかしたら、消去するかもしれません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる