甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部九章 慶事

面会と要求

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 「……それはさておき」

 そう言って、すっかり緩んでしまった場の空気を取り繕うように咳払いをした信玄は、下座に座る光秀に目を向けた。

「使者の御役目、誠にご苦労である。使者殿」
「労りのお言葉をおかけ頂き、恐悦至極に存じます、武田大膳大夫様」

 信玄の言葉に対し、光秀は無表情で軽く会釈する。
 そんな彼の態度に、信玄の眉は僅かに上がったが、すぐに気を取り直した様子で言葉を継いだ。

「越後までの道のりは、さぞ雪が深くて大変であったろう」
「……まあ、確かに難儀はいたしましたが」

 そう答えた光秀は、横に座る曽根昌世の顔をチラリと一瞥する。

「……曽根殿の案内のお陰で、何とか無事に越後へ辿り着けました」
「……」

 光秀の言葉を聞いた昌世は、僅かに眉間を寄せたものの、何も言わなかった。
 信玄は、そんな昌世の表情の変化に目敏く気付いたものの、ひとまず光秀使者との会話を優先する。

「それで……越後で長尾景虎と会う事は出来たのか?」
「はい」

 信玄の問いかけに、光秀はあっさりと頷いた。

「春日山に到着した翌々日には、御目通りが叶いました」
「「……!」」

 彼の返事に、信繁と義信は思わず互いの顔を見合わせる。

「ほう……」

 一方の信玄は、小さく唸ると、頬を撫でながら、僅かに身を乗り出した。
 興味を惹かれた時の彼の癖だ。

「翌々日とは……随分と早いな」

 そう呟いた信玄は、ぺろりと唇を舌で湿してから、光秀に尋ねる。

「して……景虎は、甲越和与の件は何と言うておった?」

 その目が、光秀の一挙手一投足を余さず観察しようとするように鋭くなった。
 だが、一国を率いる帥の眼光に晒されながらも、光秀は顔色一つ変えずに見返し、静かな声で答える。

「……弾正少弼様は、光源院様 (足利義輝)の弟君にして足利将軍家の後継者であらせられる覚慶様の仰せであれば、武田家と和与を結ぶ事も吝かではないとの事です」
「……!」

 光秀の答えを聞いた一同は、思わず目を見張る。
 だが、信玄は光秀に鋭い目を向けたまま、吐き捨てるように呟いた。

「ふん……どうだかな。口ではそう申しても、肚の中では何を考えておるのか分かったものではないわ」
「お屋形様、覚慶様の使者殿がおられます」
「……分かっておる」

 義信に小声で窘められた信玄は、憮然とした表情を浮かべながらも頷き、光秀に向かって軽く頭を下げる。

「……失言であった。今のは聞かなかった事にしてくれ」
「相分かりました」

 信玄の謝罪に軽く会釈した光秀は、「……とはいえ」と続けた。

「弾正少弼殿も、諸手を挙げて賛同という訳では御座いませぬ。和与を結ぶなら、いくつか条件があるとの事です。それが守られなくば、たとえ覚慶様の御意志であっても従う事は能わぬと」
「それはそうだろう」

 傍らの脇息にもたれかかりながら、信玄は光秀の言葉に苦笑いを浮かべる。
 そして、冷ややかな目をしながら、光秀に尋ねた。

「……で、景虎は何を条件に出してきたのだ? 海津城の破却か? 北信濃の割譲か? それとも……越後に逃げ込んだ小笠原長時に信濃守護職を返せとでも言うてきたか?」
「――いえ」

 光秀は、信玄の皮肉交じりの問いかけに対し、小さく首を横に振る。
 それを見た信玄は、フンと鼻を鳴らした。

「まあ……さすがの景虎も、そこまで図々しくはないか」

 そう独り言ちた信玄は、更に光秀に尋ねる。

「ならば、やはり金か?」
「いえ」
「……違うのか?」

 再びかぶりを振った光秀に、信玄は訝しげに眉を顰めた。

「では……景虎めは一体何を我らに求めておるのだ?」
「……実は、聞けておりませぬ」

 信玄の問いに、光秀はあっさりと答える。
 その顔は相変わらずの無表情だったが……心なしか憮然としているようにも見えた。

「……聞けていない?」
「はい」

 思わず訊き返した信玄に、光秀は小さく頷く。

「弾正少弼殿は、和与の条件として何を求めるのかを、私には明示しませんでした。『条件に関しては、武田家の然るべき者に、余の口から直接伝える』と申されて……」
「然るべき者……だと?」

 光秀の言葉を聞いた信玄は、胡乱げな目で曾根昌世の方を見た。

「それは、そこの曽根内匠助では駄目だったのか?」
「お屋形様、それが……」

 信玄の視線を受けた昌世は、表情を曇らせながらおずおずと答える。

「それがしは、春日山城に上がる事も許されず、明智殿が目通りしている間もずっと麓の家臣の屋敷で留め置かれておりまして……」
「景虎とは直接会っていないから、和与の条件を聞けなかったという事か」
「――というよりは」

 頷きかけた信玄の声を遮るように口を挟んだのは、光秀だった。
 彼は、昌世の顔をちらりと一瞥してから、淡々とした口調で言葉を継ぐ。

「そもそも、曽根殿は弾正少弼様が仰る“然るべき者”には当たらないようです」
「……!」

 光秀の言葉を聞いた昌世が、無言のまま、悔しげに唇を噛んだ。
 一方の信玄は、眉毛に深い皺を寄せる。

「……孫次郎は、儂が側近として恃みにしておる奥近習衆の筆頭だ。これ以上“然るべき者”として相応しき男は居ないと思うがな」
「お屋形様……!」

 信玄の声に怒気と憤懣が滲んでいる事を感じ取った昌世が、ハッと目を見開いた。
 と、

「……畏れながら」

 信玄の鋭い眼光を一身に浴びても眉ひとつ動かさず、光秀は口を開く。

「曽根殿が“然るべき者”に選ばれなかったのは、弾正少弼様から能力が劣っていると見做された訳ではありませぬ」
「……何? それは、どういう意味だ?」

 光秀の言葉を聞いた信玄は、訝しげに首を傾げた。
 そんな彼の顔をじっと見据えながら、光秀は更に言葉を継ぐ。

「私は、『武田家家中のどなたなら、“然るべき者”として相応しいのか』と伺いました。それに応じて、弾正少弼様が挙げた御方は唯ひとり」

 そう言うと、彼はおもむろに首を横に向け――その怜悧な瞳で信繁の顔を真っ直ぐに見つめた。

「――武田典厩様です」
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