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第二部九章 慶事
使者と帰還
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武田家の嫡孫が誕生した事を祝う宴が催されてから五日後の昼下がり――。
この日も自分の屋敷で寛いでいた信繁の元に、信玄からの使者が訪れた。
使者が『直ちに参るように』という信玄からの短い伝言を伝えると、それだけで用件の内容を察した信繁はすぐに支度を調え、屋敷に詰めていた与力の昌幸を伴って、急ぎ躑躅ヶ崎館へと向かったのである。
「やあ、典厩様。急な呼び出しにも関わらず、お早いお着きで」
近習の案内で本主殿の一室に入った信繁を迎えたのは、逍遥軒信廉だった。
「そういうお主こそ、早いではないか」
「いやぁ、何分、私の屋敷は典厩様とは違って、躑躅ヶ崎館のすぐ北に御座いますからな。早いのは当然です」
そう言ってにこやかな笑顔を浮かべる弟に小さく頷きかけた信繁は、用意されていた円座に腰を下ろし、下座で平伏しているふたりの男に目を向ける。
「……やはり、呼び出された理由は、そなたらが戻ってきたからか」
そう、未だ旅装のままのふたりに声をかけながら、彼はふっと表情を緩めた。
「ひと月ぶりくらいか……お久しゅう御座るな、明智十兵衛殿」
「はっ」
信繁に声をかけられた壮年の男――明智十兵衛光秀は、顔を伏せたまま応える。
「久方ぶりに御座ります、武田典厩様。新年の訪れと共に、誠にお目出度き事があったと帰途の最中に伺いました。――心よりお祝い申し上げます」
「うむ。忝う御座る」
光秀の祝いの言葉に穏やかな笑みを浮かべながら、信繁は小さく頷いた。
そして、太股に手を置いて少し身を乗り出し、隻眼を鋭く細めながら「して……」と続ける。
「越後での御首尾は、如何だったかな……?」
「……畏れながら」
信繁に問いかけられた光秀は、少し顔を上げてちらりと上座に敷かれた円座に視線を向けてから、落ち着いた声で答えた。
「その件に関しては、信玄公が御出でになられてからお話しいたしとう存じます」
「そうか。これは不躾な事を申した。お赦し下され」
慇懃な中にもどこか冷たさを感じさせるものを含んだ光秀の返事にも、信繁はさほど気を悪くした様子も見せず、苦笑しながら軽く頭を下げた。
そして、彼の横で平伏したままの、もう一人の男に声をかける。
「――明智殿の道案内、ご苦労であったな、孫次郎」
「はっ!」
曽根昌世は、信繁の労りの言葉に、顔を上げながら短く答えた。
信繁は、旅塵に塗れた彼の旅装と疲れた顔を見て、しみじみと労りの言葉をかける。
「雪の降り積もった真冬の山越えは、さぞや難儀であったろう」
「あ……いえ……」
信繁の労りの言葉に、昌世はなぜか歯切れ悪く言葉を濁した。
「その……長年信濃攻めに従軍しておりましたゆえ、雪には慣れておりました。が……」
そう言いながら、彼は隣に座る光秀のすまし顔をちらりと一瞥する。
そんな彼の僅かな仕草と表情の変化を見た昌幸が、信繁の背中にそっと囁いた。
「……どうやら、曽根様がご苦労なされていたのは、雪以外の事だったようですね……」
「……そのようだ」
昌幸に言われるまでもなく、何となく事情を察した信繁は、コホンと咳払いをして、昌世に言う。
「まあ……此度の件の首尾をお屋形様に報告したら、暫しゆるりと休むが良い」
「はっ……ありがとう御座ります……」
信繁の温かい言葉に、昌世はホッとした顔で頷いた。
――と、
「……」
昌世は、無言で信繁の顔をじっと見つめる。
「……どうした?」
彼の視線が気になった信繁は、怪訝な表情を浮かべながら尋ねた。
「儂の顔に何か付いておるのか?」
「あ……いえ」
信繁の問いかけに、昌世は慌てて目を逸らしながら、首を左右に振る。
「その……」
「……?」
妙に歯切れの悪い昌世に、信繁はますます訝しげに眉根を寄せた。
「……もしや、越後で何かあっ――」
「失礼いたします」
信繁の問いかけは、襖を開けた小姓の声によって遮られる。
襖の向こうの廊下で立膝を付いた小姓は、一同に向けて頭を下げた。
「皆様、お直り下さい。お屋形様と若殿の御成りです」
「おお……そうか」
近習の言葉に、信繁たちも居ずまいを正し、両手を床について平伏する。
廊下の方から、微かな衣擦れと静かな足音が上がり、首を垂れる皆の前を通り過ぎた。
そして、上座に腰を下ろす気配がし、
「……皆の者、大儀である」
という芯の通った低い声が、部屋の中に響いた。
「苦しゅうない、面を上げよ」
「「「「はっ!」」」」
「……はい」
声に応じて、一同はゆっくりと顔を上げる。
――彼らの前には、武田家の当主・信玄と、嫡男の義信が鎮座していた。
信玄は、居並ぶ一同の顔を見回し、穏やかな顔で言う。
「皆を待たせてしまったようだな。遅くなってすまぬ」
「いえ」
軽く頭を下げた信玄に、信繁が首を横に振った。
「某と昌幸は、今参ったばかりです。どうかお気になさらず」
「そうか」
信繁の言葉に、信玄は微笑みを浮かべる。
……と、
「ははあ……」
信玄の方に目を向けた信廉が、したり顔で頷いた。
「そういう事で、いつもより御出でになられるのが遅かったのですなぁ」
そう言うと、彼はニコリと笑いながら何度も頷く。
「まあ、それも致し方ありますまい。何せ……」
「……おい、逍遥」
ひとりで納得している様子の信廉に、眉を顰めながら信玄が声をかけた。
「お主、一体何が言いたい――」
「……お屋形様、ここです」
信玄の問いかけを遮って、信廉は自分の大紋の袷のあたりを指さす。
「……付いておりますぞ、べったりと」
「何が……あ……っ!」
信廉の仕草に訝しげな顔をしながら、何気なく自分の胸に目を落とした信玄は、思わず声を漏らした。
――彼の胸元は、少し粘り気のある透明な液体で濡れていた。
「ははは……ご明察に御座ります、逍遥様」
狼狽する父を横目で見ながら、義信は苦笑いを浮かべて言う。
「つい先ほどまで、お屋形様は我が子を胸に抱いてあやしていたのです。胸が稚児の涎でびしょ濡れになるまで……。そのせいで、こちらに向かうのが遅れてしまい……申し訳ございませぬ」
「ははは! やはりそうでしたか!」
義信の言葉を聞いた信廉は、愉快そうに大笑した。
「いやはや、しかし、お気持ちは分かります! 私も、平太郎 (信廉の長男)が生まれてすぐの頃は、お屋形様と同じで、時も忘れてベッタリとしておりましたからな!」
「……」
満面の笑みを浮かべる信廉を恨めしげに見ながら、何とも言えぬバツの悪い顔をしている信玄。
そんな信玄の顔を目の当たりにした信繁と昌幸は、笑いを堪えるのに難儀するのだった……。
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使者が『直ちに参るように』という信玄からの短い伝言を伝えると、それだけで用件の内容を察した信繁はすぐに支度を調え、屋敷に詰めていた与力の昌幸を伴って、急ぎ躑躅ヶ崎館へと向かったのである。
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「いやぁ、何分、私の屋敷は典厩様とは違って、躑躅ヶ崎館のすぐ北に御座いますからな。早いのは当然です」
そう言ってにこやかな笑顔を浮かべる弟に小さく頷きかけた信繁は、用意されていた円座に腰を下ろし、下座で平伏しているふたりの男に目を向ける。
「……やはり、呼び出された理由は、そなたらが戻ってきたからか」
そう、未だ旅装のままのふたりに声をかけながら、彼はふっと表情を緩めた。
「ひと月ぶりくらいか……お久しゅう御座るな、明智十兵衛殿」
「はっ」
信繁に声をかけられた壮年の男――明智十兵衛光秀は、顔を伏せたまま応える。
「久方ぶりに御座ります、武田典厩様。新年の訪れと共に、誠にお目出度き事があったと帰途の最中に伺いました。――心よりお祝い申し上げます」
「うむ。忝う御座る」
光秀の祝いの言葉に穏やかな笑みを浮かべながら、信繁は小さく頷いた。
そして、太股に手を置いて少し身を乗り出し、隻眼を鋭く細めながら「して……」と続ける。
「越後での御首尾は、如何だったかな……?」
「……畏れながら」
信繁に問いかけられた光秀は、少し顔を上げてちらりと上座に敷かれた円座に視線を向けてから、落ち着いた声で答えた。
「その件に関しては、信玄公が御出でになられてからお話しいたしとう存じます」
「そうか。これは不躾な事を申した。お赦し下され」
慇懃な中にもどこか冷たさを感じさせるものを含んだ光秀の返事にも、信繁はさほど気を悪くした様子も見せず、苦笑しながら軽く頭を下げた。
そして、彼の横で平伏したままの、もう一人の男に声をかける。
「――明智殿の道案内、ご苦労であったな、孫次郎」
「はっ!」
曽根昌世は、信繁の労りの言葉に、顔を上げながら短く答えた。
信繁は、旅塵に塗れた彼の旅装と疲れた顔を見て、しみじみと労りの言葉をかける。
「雪の降り積もった真冬の山越えは、さぞや難儀であったろう」
「あ……いえ……」
信繁の労りの言葉に、昌世はなぜか歯切れ悪く言葉を濁した。
「その……長年信濃攻めに従軍しておりましたゆえ、雪には慣れておりました。が……」
そう言いながら、彼は隣に座る光秀のすまし顔をちらりと一瞥する。
そんな彼の僅かな仕草と表情の変化を見た昌幸が、信繁の背中にそっと囁いた。
「……どうやら、曽根様がご苦労なされていたのは、雪以外の事だったようですね……」
「……そのようだ」
昌幸に言われるまでもなく、何となく事情を察した信繁は、コホンと咳払いをして、昌世に言う。
「まあ……此度の件の首尾をお屋形様に報告したら、暫しゆるりと休むが良い」
「はっ……ありがとう御座ります……」
信繁の温かい言葉に、昌世はホッとした顔で頷いた。
――と、
「……」
昌世は、無言で信繁の顔をじっと見つめる。
「……どうした?」
彼の視線が気になった信繁は、怪訝な表情を浮かべながら尋ねた。
「儂の顔に何か付いておるのか?」
「あ……いえ」
信繁の問いかけに、昌世は慌てて目を逸らしながら、首を左右に振る。
「その……」
「……?」
妙に歯切れの悪い昌世に、信繁はますます訝しげに眉根を寄せた。
「……もしや、越後で何かあっ――」
「失礼いたします」
信繁の問いかけは、襖を開けた小姓の声によって遮られる。
襖の向こうの廊下で立膝を付いた小姓は、一同に向けて頭を下げた。
「皆様、お直り下さい。お屋形様と若殿の御成りです」
「おお……そうか」
近習の言葉に、信繁たちも居ずまいを正し、両手を床について平伏する。
廊下の方から、微かな衣擦れと静かな足音が上がり、首を垂れる皆の前を通り過ぎた。
そして、上座に腰を下ろす気配がし、
「……皆の者、大儀である」
という芯の通った低い声が、部屋の中に響いた。
「苦しゅうない、面を上げよ」
「「「「はっ!」」」」
「……はい」
声に応じて、一同はゆっくりと顔を上げる。
――彼らの前には、武田家の当主・信玄と、嫡男の義信が鎮座していた。
信玄は、居並ぶ一同の顔を見回し、穏やかな顔で言う。
「皆を待たせてしまったようだな。遅くなってすまぬ」
「いえ」
軽く頭を下げた信玄に、信繁が首を横に振った。
「某と昌幸は、今参ったばかりです。どうかお気になさらず」
「そうか」
信繁の言葉に、信玄は微笑みを浮かべる。
……と、
「ははあ……」
信玄の方に目を向けた信廉が、したり顔で頷いた。
「そういう事で、いつもより御出でになられるのが遅かったのですなぁ」
そう言うと、彼はニコリと笑いながら何度も頷く。
「まあ、それも致し方ありますまい。何せ……」
「……おい、逍遥」
ひとりで納得している様子の信廉に、眉を顰めながら信玄が声をかけた。
「お主、一体何が言いたい――」
「……お屋形様、ここです」
信玄の問いかけを遮って、信廉は自分の大紋の袷のあたりを指さす。
「……付いておりますぞ、べったりと」
「何が……あ……っ!」
信廉の仕草に訝しげな顔をしながら、何気なく自分の胸に目を落とした信玄は、思わず声を漏らした。
――彼の胸元は、少し粘り気のある透明な液体で濡れていた。
「ははは……ご明察に御座ります、逍遥様」
狼狽する父を横目で見ながら、義信は苦笑いを浮かべて言う。
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「ははは! やはりそうでしたか!」
義信の言葉を聞いた信廉は、愉快そうに大笑した。
「いやはや、しかし、お気持ちは分かります! 私も、平太郎 (信廉の長男)が生まれてすぐの頃は、お屋形様と同じで、時も忘れてベッタリとしておりましたからな!」
「……」
満面の笑みを浮かべる信廉を恨めしげに見ながら、何とも言えぬバツの悪い顔をしている信玄。
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