甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

文字の大きさ
246 / 263
第二部九章 慶事

使者と帰還

しおりを挟む
 武田家の嫡孫が誕生した事を祝う宴が催されてから五日後の昼下がり――。
 この日も自分の屋敷で寛いでいた信繁の元に、信玄からの使者が訪れた。
 使者が『直ちに参るように』という信玄からの短い伝言を伝えると、それだけで用件の内容を察した信繁はすぐに支度を調え、屋敷に詰めていた与力の昌幸を伴って、急ぎ躑躅ヶ崎館へと向かったのである。

「やあ、典厩様。急な呼び出しにも関わらず、お早いお着きで」

 近習の案内で本主殿の一室に入った信繁を迎えたのは、逍遥軒信廉だった。

「そういうお主こそ、早いではないか」
「いやぁ、何分、私の屋敷は典厩様とは違って、躑躅ヶ崎館のすぐ北に御座いますからな。早いのは当然です」

 そう言ってにこやかな笑顔を浮かべる弟に小さく頷きかけた信繁は、用意されていた円座わろうだに腰を下ろし、下座で平伏しているふたりの男に目を向ける。

「……やはり、呼び出された理由は、そなたらが戻ってきたからか」

 そう、未だ旅装のままのふたりに声をかけながら、彼はふっと表情を緩めた。

「ひと月ぶりくらいか……お久しゅう御座るな、明智十兵衛殿」
「はっ」

 信繁に声をかけられた壮年の男――明智十兵衛光秀は、顔を伏せたまま応える。

「久方ぶりに御座ります、武田典厩様。新年の訪れと共に、誠にお目出度き事があったと帰途の最中に伺いました。――心よりお祝い申し上げます」
「うむ。かたじけのう御座る」

 光秀の祝いの言葉に穏やかな笑みを浮かべながら、信繁は小さく頷いた。
 そして、太股に手を置いて少し身を乗り出し、隻眼を鋭く細めながら「して……」と続ける。

「越後での御首尾は、如何だったかな……?」
「……畏れながら」

 信繁に問いかけられた光秀は、少し顔を上げてちらりと上座に敷かれた円座わろうだに視線を向けてから、落ち着いた声で答えた。

「その件に関しては、信玄公が御出でになられてからお話しいたしとう存じます」
「そうか。これは不躾ぶしつけな事を申した。お赦し下され」

 慇懃な中にもどこか冷たさを感じさせるものを含んだ光秀の返事にも、信繁はさほど気を悪くした様子も見せず、苦笑しながら軽く頭を下げた。
 そして、彼の横で平伏したままの、もう一人の男に声をかける。

「――明智殿の道案内、ご苦労であったな、孫次郎」
「はっ!」

 曽根昌世は、信繁の労りの言葉に、顔を上げながら短く答えた。
 信繁は、旅塵に塗れた彼の旅装と疲れた顔を見て、しみじみと労りの言葉をかける。

「雪の降り積もった真冬の山越えは、さぞや難儀であったろう」
「あ……いえ……」

 信繁の労りの言葉に、昌世はなぜか歯切れ悪く言葉を濁した。

「その……長年信濃攻めに従軍しておりましたゆえ、雪には慣れておりました。が……」

 そう言いながら、彼は隣に座る光秀のすまし顔をちらりと一瞥する。
 そんな彼の僅かな仕草と表情の変化を見た昌幸が、信繁の背中にそっと囁いた。

「……どうやら、曽根様がご苦労なされていたのは、雪以外の事だったようですね……」
「……そのようだ」

 昌幸に言われるまでもなく、何となく事情を察した信繁は、コホンと咳払いをして、昌世に言う。

「まあ……此度の件の首尾をお屋形様に報告したら、暫しゆるりと休むが良い」
「はっ……ありがとう御座ります……」

 信繁の温かい言葉に、昌世はホッとした顔で頷いた。
 ――と、

「……」

 昌世は、無言で信繁の顔をじっと見つめる。

「……どうした?」

 彼の視線が気になった信繁は、怪訝な表情を浮かべながら尋ねた。

「儂の顔に何か付いておるのか?」
「あ……いえ」

 信繁の問いかけに、昌世は慌てて目を逸らしながら、首を左右に振る。

「その……」
「……?」

 妙に歯切れの悪い昌世に、信繁はますます訝しげに眉根を寄せた。

「……もしや、越後で何かあっ――」
「失礼いたします」

 信繁の問いかけは、襖を開けた小姓の声によって遮られる。
 襖の向こうの廊下で立膝を付いた小姓は、一同に向けて頭を下げた。

「皆様、お直り下さい。お屋形様と若殿の御成りです」
「おお……そうか」

 近習の言葉に、信繁たちも居ずまいを正し、両手を床について平伏する。
 廊下の方から、微かな衣擦れと静かな足音が上がり、首を垂れる皆の前を通り過ぎた。
 そして、上座に腰を下ろす気配がし、

「……皆の者、大儀である」

 という芯の通った低い声が、部屋の中に響いた。

「苦しゅうない、面を上げよ」
「「「「はっ!」」」」
「……はい」

 声に応じて、一同はゆっくりと顔を上げる。
 ――彼らの前には、武田家の当主・信玄と、嫡男の義信が鎮座していた。
 信玄は、居並ぶ一同の顔を見回し、穏やかな顔で言う。

「皆を待たせてしまったようだな。遅くなってすまぬ」
「いえ」

 軽く頭を下げた信玄に、信繁が首を横に振った。

「某と昌幸は、今参ったばかりです。どうかお気になさらず」
「そうか」

 信繁の言葉に、信玄は微笑みを浮かべる。
 ……と、

「ははあ……」

 信玄の方に目を向けた信廉が、したり顔で頷いた。

「そういう事で、いつもより御出でになられるのが遅かったのですなぁ」

 そう言うと、彼はニコリと笑いながら何度も頷く。

「まあ、それも致し方ありますまい。何せ……」
「……おい、逍遥」

 ひとりで納得している様子の信廉に、眉を顰めながら信玄が声をかけた。

「お主、一体何が言いたい――」
「……お屋形様、ここです」

 信玄の問いかけを遮って、信廉は自分の大紋の袷のあたりを指さす。

「……付いておりますぞ、べったりと」
「何が……あ……っ!」

 信廉の仕草に訝しげな顔をしながら、何気なく自分の胸に目を落とした信玄は、思わず声を漏らした。
 ――彼の胸元は、少し粘り気のある透明な液体で濡れていた。

「ははは……ご明察に御座ります、逍遥様」

 狼狽する父を横目で見ながら、義信は苦笑いを浮かべて言う。

「つい先ほどまで、お屋形様は我が子を胸に抱いてあやしていたのです。胸が稚児ややこの涎でびしょ濡れになるまで……。そのせいで、こちらに向かうのが遅れてしまい……申し訳ございませぬ」
「ははは! やはりそうでしたか!」

 義信の言葉を聞いた信廉は、愉快そうに大笑した。

「いやはや、しかし、お気持ちは分かります! 私も、平太郎 (信廉の長男)が生まれてすぐの頃は、お屋形様と同じで、時も忘れてベッタリとしておりましたからな!」
「……」

 満面の笑みを浮かべる信廉を恨めしげに見ながら、何とも言えぬバツの悪い顔をしている信玄。
 そんな信玄の顔を目の当たりにした信繁と昌幸は、笑いを堪えるのに難儀するのだった……。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

日本が危機に?第二次日露戦争

歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。 なろう、カクヨムでも連載しています。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

電子の帝国

Flight_kj
歴史・時代
少しだけ電子技術が早く技術が進歩した帝国はどのように戦うか 明治期の工業化が少し早く進展したおかげで、日本の電子技術や精密機械工業は順調に進歩した。世界規模の戦争に巻き込まれた日本は、そんな技術をもとにしてどんな戦いを繰り広げるのか? わずかに早くレーダーやコンピューターなどの電子機器が登場することにより、戦場の様相は大きく変わってゆく。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

東亜の炎上 1940太平洋戦線

みにみ
歴史・時代
1940年ドイツが快進撃を進める中 日本はドイツと協働し連合国軍に宣戦布告 もしも日本が連合国が最も弱い1940年に参戦していたらのIF架空戦記

幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。

克全
歴史・時代
 西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。  幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。  北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。  清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。  色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。 一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。 印旛沼開拓は成功するのか? 蝦夷開拓は成功するのか? オロシャとは戦争になるのか? 蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか? それともオロシャになるのか? 西洋帆船は導入されるのか? 幕府は開国に踏み切れるのか? アイヌとの関係はどうなるのか? 幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?

処理中です...