甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部九章 慶事

根拠と不安

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 「え……?」

 その日の夜、屋敷へ帰った信繁から昼間の顛末を聞いた桔梗は、思わず声を漏らした。

「越後へ……ですか?」
「ああ」

 大紋を脱ぎ、寛いだ恰好になって円座わろうだの上に腰を下ろした信繁は、桔梗が差し出した木椀を受け取りながら小さく頷く。
 木椀の中の白湯を一口含んで喉を湿した信繁は、ほうと息を吐いてから言葉を継いだ。

「……お主らには詳しく話せぬが、御役目の為に越後へ向かう事となった。まあ……今すぐという訳ではなく、もう少し暖かくなってからの事になると思うが、覚えておいてくれ」
「は……はい、かしこまりました……」

 信繁の言葉に頷いた桔梗は、少しだけ顔を曇らせ、目を伏せる。

「ははは、そのような暗い顔をするな」

 そんな妻の表情を見た信繁は、彼女が抱いた不安を少しでも和らげようと、敢えて明るい声で笑ってみせた。

「そう心配する事は無い。ただ、越後の上杉輝虎に会って話を聞いてくるだけだ。そんなに日もかからず、すぐに帰ってこれるであろう」
「……それは分かっております。が……」
「お考え直し下さいませ、父上!」

 桔梗の代わりに鋭い声を上げたのは、娘の綾だった。
 小袖の裾を翻しながら前に進み出た綾は、険しい表情を浮かべながら父親に訴えかける。

「越後の上杉といえば、武田家にとっては長年の敵ではありませぬか! そのような敵のところに、なぜ父上ご自身が行かなければいけないのですか?」
「だから、それは先ほども言うたであろう?」

 娘の剣幕に辟易しながら、信繁は答えた。

「他ならぬ上杉殿が、儂が相手でなくば話をせぬと申しておるのだ。ならば、儂自らが赴かねばなるまい」
「父上と話がしたいのであれば、向こうが甲斐ここまで来ればいいじゃないですか」

 綾は、信繁の説明にも承服できぬ様子で頬を膨らませる。

「むしろ、そうするのが筋というものでしょう? そもそも、父上と話をしたいと言い出したのは向こうの方なのですから!」
「ははは……確かにそうだな」

 眉を吊り上げる綾に思わず苦笑した信繁だったが、困った顔をしながら「だがな……」と続けた。

「だからといって、一国の主である上杉殿を呼びつける訳にもいくまい。言ったところで、『相分かった』と応じてくれる訳も無いしな」
「それは、言ってみなければ分かりません!」

 信繁の言葉にそう答えた綾は、自分の胸に手を置き、固い決意を湛えた顔で言う。

「ならば、あやが父上の代わりに越後へ参ります! そして、『父上に会いたいのなら、そちらが甲斐まで出向いて来なさい』って言ってやります!」
「いやいや……」

 威勢のいい綾の言葉に思わず声を上げたのは、信繁と共に躑躅ヶ崎館から帰って来て、下座に控えていた昌幸だった。
 彼は、僅かに頬を引き攣らせながら、綾の事を諭すように言う。

「綾様のお気持ちは良く分かりますが、それはさすがに……」
女子おなごひとりで越後へ向かうのが無謀だというのですか?」

 昌幸の言葉にムッとした綾は、「でしたら……」と続けた。

「あなたが供として一緒に来て下さい、喜兵衛どの」
「は……?」

 綾の言葉に、昌幸は思わずポカンと口を開ける。

「と、供ですか? 拙者が、綾様の?」
「そうです。お嫌ですか?」
「い、いえ、嫌だなんて滅相もな……って、い、いや、そうではなくて!」

 昌幸は、慌てて首を横に振った。

「た、大変申し上げにくい事ですが、たとえ綾様が越後へ赴かれたとしても、さすがに上杉輝虎を甲斐まで呼びつける事は難しいかと……」
「ですから、それはやってみなければ分からないじゃないですか!」

 綾は、昌幸の言葉に反発する。
 だが、

「いや、さすがに昌幸の言う通りだぞ、綾」

 さすがに見かねた様子で、信繁が口を挟んだ。
 彼は、ハッとした顔をした娘をじっと見つめながら、静かに言葉を継ぐ。

「儂の事をそこまで案じてくれるお前の気持ちは嬉しい。……だが、そこまで心配する事は無い」
「で、でも……」
「もちろん、ただの気休めで申しておるのではないぞ」

 不安そうな表情を浮かべる綾に、信繁は優しい眼差しを向けた。

「まだ家中のほとんどの者にも伏せておるゆえ、まだお主らにも明かせぬが、無事に帰れると言い切れるだけの根拠もある。だから、安心するが良い」
「いくら安心しろとおっしゃられましても……あやは心配です」

 安心させようとする信繁の言葉にも、綾の心配顔は晴れない。
 彼女は、目の端に涙の粒を溜めながら、震える声で言った。

「だって……四年前、父上は川中島で越後の上杉家と戦って……」
「……っ!」

 綾の涙声を聞いた瞬間、信繁は娘がここまで自分が越後に行く事を嫌がるのかを理解する。

「あ、綾よ……」
「――綾」

 信繁がおずおずとかけようとした言葉は、凛とした声によって遮られた。
 声の主である桔梗は、娘の顔を真っ直ぐに見据えながら、諭すように言う。

「父上が大丈夫だとおっしゃっているのです。娘の貴女がそのお言葉を信じないでどうしますか」
「で、ですが、母上……」

 いつになく厳しい母親の声にたじろぎながらも、綾は言葉を返した。

「も、もちろん、あやも父上のお言葉を信じたいのはやまやまです! でも――」
「……信じましょう」

 桔梗が娘に対してかけた声は、半分は自分自身に向けて言ったもののようだった。
 彼女は、夫の顔を見つめながら、確かめるようにゆっくりと尋ねる。

「……信じて宜しいのですよね、主様?」
「あ、ああ……もちろんだ」

 その凛とした声の奥底に、縋るような響きが僅かに含まれているのを感じた信繁は、強い決意を込めて大きく頷いてみせた。

「安心せよ。儂は必ず帰ってくる。この屋敷……いや、お前達ふたりの元にな。この武田左馬助信繁、御旗楯無の御名みなに懸けて、篤と誓おうぞ」
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