甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

文字の大きさ
251 / 263
第二部九章 慶事

憧憬と対象

しおりを挟む
 「……先ほどは、大変申し訳ございませんでした」

 夜が更けて、寝室で寝ようとしていた信繁に、寝間着姿の桔梗は深々と頭を下げた。

「先ほど? 何の事だ?」

 桔梗の謝罪に、信繁は戸惑いながら首を傾げる。
 頭を上げた桔梗は、彼の問いかけに曇った表情で答えた。

「綾の事でございます。何も知らぬ女子おなごにもかかわらず、軽々しく御家おいえまつりごとに口を出すような真似を……」
「あぁ、あの時の事か」

 彼女の答えで、躑躅ヶ崎館から屋敷へ帰った後のやり取りを思い出した信繁は、笑いながら首を横に振った。

「ははは、別に構わぬ。綾は、今年で八歳になったばかりの童だ。まだ、まつりごとというものがどんなものなのか良く分かっておらぬから、あのような事を申したのだろう。そう気に病むな」
「ですが……」

 信繁の言葉にホッとしつつも、桔梗は憂いの表情を変えない。

「武家の……それも、武田家の親族衆の娘であるにもかかわらず、慎ましさを忘れ、『自らが越後へ赴いて国主に物申す』などと男勝りな事を言い出すなんて……」
「まあ……それは確かにそうかもしれぬが……」

 妻が何を憂いているのか理解した信繁は、少し困った顔をしながら頷いた。

「まあ……今は乱世だ。女子といえど、そのくらいの勇ましさ……というか、気概は必要なのかもしれぬ」

 そう、一度は言った信繁だったが、「……とはいえ」と首を傾げる。

「確かに……前から勝気なところはあったが、最近はとみに勇ましい事を言うようになったような気がするな……」
「あの……恐らくそれは……」

 信繁の呟きに対し、桔梗は言いづらそうに口を開いた。

「その……たつ様の影響かと思います」
「たつ様?」

 桔梗の言葉を聞いて、訝しげに眉根を寄せかけた信繁だったが、すぐに誰の事か思い至る。

「……ああ、遠山家の龍姫か」
「ええ」

 信繁の言葉に、桔梗は頷いた。

「綾はたつ様の事を大層慕っている様子で、最近では“たつ姉様”と呼ぶほどで……」
「ほう、そうなのか」

 桔梗の言葉に、信繁は思わず目を丸くする。

「確かに、親元から離れ、遠い甲斐にひとりでいる龍姫の無聊を慰める遊び相手になるよう、綾に頼んだが……儂が思っていた以上に親しい間柄になったという事か、あのふたりは」
「はい」

 信繁の言葉に小さく頷いた桔梗は、口元を綻ばせた。
 彼女につられて微笑みかけた信繁だったが、ふと引っかかるものを感じて、怪訝な表情を浮かべる。

「はて……だが、あの龍姫の影響で、綾があそこまで男勝りな娘になったとは、少し考えづらいが……」

 信繁の知る龍は、確かに心の中に一本強い芯を持った娘だ。母の死を知らされても取り乱さずに振る舞える気丈さも持っている。
 だが、『他国からも“軍神”と呼ばれ畏れられる上杉輝虎の元に単身で出向いて、甲斐まで連れてくる』と本気で言ってのけた綾が見せたような勇ましさは、彼女からは感じない……。
 そう考えて首を捻る信繁に、桔梗がおずおずと「いえ……」と言った。

「その……たつ様ご本人ではなく……たつ様が綾にお話しになった叔母君の方に……」
「叔母? ……あぁ、成程な」

 桔梗の言葉を聞いた瞬間、脳裏に緋色威の胴丸を身に纏った美しい女性にょしょうの姿が思い浮かんだ信繁は、今度こそ合点がいく。

「つや殿の影響か……」
「ええ。その御方です」

 信繁の呟きに苦笑いを浮かべながら、桔梗は小さく頷いた。

「綾は、たつ様から聞いた叔母君のお勇ましい話に、とても感銘を受けたようです。何でも、たつ様のお父上を説得する為、女子おなごの身でありながら、甲冑を纏って苗木城に出向かれたとか……」
「うむ……」
「……正直、綾の口から聞いた時は半信半疑だったのですが……どうやら、まことの話だったようですね」

 夫の表情を見た桔梗は、納得した様子で微笑む。
 そんな妻に「あぁ……」と頷いた信繁は、四ヶ月前の事を思い出した。

「龍姫の言う通りだ。つや殿は、武田と織田のどちらにつくか旗幟を鮮明にしなかった義弟の遠山勘太郎 (直廉)殿を武田方へ引き入れる為に、我らと共に苗木城まで同道下さったのだ。甲冑を身に纏った姿でな」
「まあ……」
「その勇ましい姿を目にしていた龍姫は、つや殿に対して憧れに近い感情を抱いておるのかもしれぬ。……特に、実の母親があのような事を仕出かし、その後に悲惨な末路を辿ったのもあったから、尚更……な」

 今度は、整いながらもやや険のある女の容貌かんばせが、信繁の脳裏に浮かぶ。自業自得とはいえ、彼女の身を襲った不幸を思って胸を痛めながら、彼は小さく息を吐いた。

「そんな龍姫の話を聞いて、綾も同じようにつや殿への憧れを抱いたという事か……。それで、自ら越後に赴いて上杉殿を連れてくるなどという無茶な事を……」
「申し訳ございません……」
「あ、いや……だから、お前が謝る事ではないと言うに」

 恐縮した様子で頭を下げる桔梗に、信繁は慌てて声をかけた。
 と、

「そうだ……」

 ある事を思い出し、彼は顎に指を当てる。

「龍姫と言えば……」
「……主様?」

 急に考え込んだ夫の顔に訝しげな視線を向けながら、桔梗はおずおずと尋ねた。

「いかがなさったのです? たつ様が何か?」
「あ……いや」

 桔梗の問いかけにも、どこか上の空といった様子で返事をした信繁は、顎髭を親指で撫でながら思案する。

(最近色々と立て込んでおって、ついつい失念しておったが、考えてみれば、今が絶好の好機だな……)

 そう考えながら息を吐いた信繁は、キョトンとした顔をしている桔梗に顔を向けた。

「……桔梗よ」
「は、はい。何でしょう、主様?」

 信繁の呼びかけに少し戸惑いながら、桔梗は問い返す。
 そんな彼女に、口元を隠すように手を当てながら、信繁は尋ねた。

「近いうちに、屋敷へ客人を招く事になるかもしれぬが、構わぬな?」
「え? ええ……もちろん。それは結構でございますが……」

 夫の問いかけに答えながら、桔梗は首を傾げる。

「その……一体どなたを?」
「ふふ……それはな――」

 妻に尋ねられた信繁は、まるで悪戯を思いついた童のようにほくそ笑んだのだった――。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら? 国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。 真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。 破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。 現在1945年夏まで執筆

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。

東亜の炎上 1940太平洋戦線

みにみ
歴史・時代
1940年ドイツが快進撃を進める中 日本はドイツと協働し連合国軍に宣戦布告 もしも日本が連合国が最も弱い1940年に参戦していたらのIF架空戦記

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...