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第二部九章 慶事
憧憬と対象
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「……先ほどは、大変申し訳ございませんでした」
夜が更けて、寝室で寝ようとしていた信繁に、寝間着姿の桔梗は深々と頭を下げた。
「先ほど? 何の事だ?」
桔梗の謝罪に、信繁は戸惑いながら首を傾げる。
頭を上げた桔梗は、彼の問いかけに曇った表情で答えた。
「綾の事でございます。何も知らぬ女子にもかかわらず、軽々しく御家の政に口を出すような真似を……」
「あぁ、あの時の事か」
彼女の答えで、躑躅ヶ崎館から屋敷へ帰った後のやり取りを思い出した信繁は、笑いながら首を横に振った。
「ははは、別に構わぬ。綾は、今年で八歳になったばかりの童だ。まだ、政というものがどんなものなのか良く分かっておらぬから、あのような事を申したのだろう。そう気に病むな」
「ですが……」
信繁の言葉にホッとしつつも、桔梗は憂いの表情を変えない。
「武家の……それも、武田家の親族衆の娘であるにもかかわらず、慎ましさを忘れ、『自らが越後へ赴いて国主に物申す』などと男勝りな事を言い出すなんて……」
「まあ……それは確かにそうかもしれぬが……」
妻が何を憂いているのか理解した信繁は、少し困った顔をしながら頷いた。
「まあ……今は乱世だ。女子といえど、そのくらいの勇ましさ……というか、気概は必要なのかもしれぬ」
そう、一度は言った信繁だったが、「……とはいえ」と首を傾げる。
「確かに……前から勝気なところはあったが、最近はとみに勇ましい事を言うようになったような気がするな……」
「あの……恐らくそれは……」
信繁の呟きに対し、桔梗は言いづらそうに口を開いた。
「その……たつ様の影響かと思います」
「たつ様?」
桔梗の言葉を聞いて、訝しげに眉根を寄せかけた信繁だったが、すぐに誰の事か思い至る。
「……ああ、遠山家の龍姫か」
「ええ」
信繁の言葉に、桔梗は頷いた。
「綾はたつ様の事を大層慕っている様子で、最近では“たつ姉様”と呼ぶほどで……」
「ほう、そうなのか」
桔梗の言葉に、信繁は思わず目を丸くする。
「確かに、親元から離れ、遠い甲斐にひとりでいる龍姫の無聊を慰める遊び相手になるよう、綾に頼んだが……儂が思っていた以上に親しい間柄になったという事か、あのふたりは」
「はい」
信繁の言葉に小さく頷いた桔梗は、口元を綻ばせた。
彼女につられて微笑みかけた信繁だったが、ふと引っかかるものを感じて、怪訝な表情を浮かべる。
「はて……だが、あの龍姫の影響で、綾があそこまで男勝りな娘になったとは、少し考えづらいが……」
信繁の知る龍は、確かに心の中に一本強い芯を持った娘だ。母の死を知らされても取り乱さずに振る舞える気丈さも持っている。
だが、『他国からも“軍神”と呼ばれ畏れられる上杉輝虎の元に単身で出向いて、甲斐まで連れてくる』と本気で言ってのけた綾が見せたような勇ましさは、彼女からは感じない……。
そう考えて首を捻る信繁に、桔梗がおずおずと「いえ……」と言った。
「その……たつ様ご本人ではなく……たつ様が綾にお話しになった叔母君の方に……」
「叔母? ……あぁ、成程な」
桔梗の言葉を聞いた瞬間、脳裏に緋色威の胴丸を身に纏った美しい女性の姿が思い浮かんだ信繁は、今度こそ合点がいく。
「つや殿の影響か……」
「ええ。その御方です」
信繁の呟きに苦笑いを浮かべながら、桔梗は小さく頷いた。
「綾は、たつ様から聞いた叔母君のお勇ましい話に、とても感銘を受けたようです。何でも、たつ様のお父上を説得する為、女子の身でありながら、甲冑を纏って苗木城に出向かれたとか……」
「うむ……」
「……正直、綾の口から聞いた時は半信半疑だったのですが……どうやら、真の話だったようですね」
夫の表情を見た桔梗は、納得した様子で微笑む。
そんな妻に「あぁ……」と頷いた信繁は、四ヶ月前の事を思い出した。
「龍姫の言う通りだ。つや殿は、武田と織田のどちらにつくか旗幟を鮮明にしなかった義弟の遠山勘太郎 (直廉)殿を武田方へ引き入れる為に、我らと共に苗木城まで同道下さったのだ。甲冑を身に纏った姿でな」
「まあ……」
「その勇ましい姿を目にしていた龍姫は、つや殿に対して憧れに近い感情を抱いておるのかもしれぬ。……特に、実の母親があのような事を仕出かし、その後に悲惨な末路を辿ったのもあったから、尚更……な」
今度は、整いながらもやや険のある女の容貌が、信繁の脳裏に浮かぶ。自業自得とはいえ、彼女の身を襲った不幸を思って胸を痛めながら、彼は小さく息を吐いた。
「そんな龍姫の話を聞いて、綾も同じようにつや殿への憧れを抱いたという事か……。それで、自ら越後に赴いて上杉殿を連れてくるなどという無茶な事を……」
「申し訳ございません……」
「あ、いや……だから、お前が謝る事ではないと言うに」
恐縮した様子で頭を下げる桔梗に、信繁は慌てて声をかけた。
と、
「そうだ……」
ある事を思い出し、彼は顎に指を当てる。
「龍姫と言えば……」
「……主様?」
急に考え込んだ夫の顔に訝しげな視線を向けながら、桔梗はおずおずと尋ねた。
「いかがなさったのです? たつ様が何か?」
「あ……いや」
桔梗の問いかけにも、どこか上の空といった様子で返事をした信繁は、顎髭を親指で撫でながら思案する。
(最近色々と立て込んでおって、ついつい失念しておったが、考えてみれば、今が絶好の好機だな……)
そう考えながら息を吐いた信繁は、キョトンとした顔をしている桔梗に顔を向けた。
「……桔梗よ」
「は、はい。何でしょう、主様?」
信繁の呼びかけに少し戸惑いながら、桔梗は問い返す。
そんな彼女に、口元を隠すように手を当てながら、信繁は尋ねた。
「近いうちに、屋敷へ客人をふたりほど招く事になるかもしれぬが、構わぬな?」
「え? ええ……もちろん。それは結構でございますが……」
夫の問いかけに答えながら、桔梗は首を傾げる。
「その……一体どなたを?」
「ふふ……それはな――」
妻に尋ねられた信繁は、まるで悪戯を思いついた童のようにほくそ笑んだのだった――。
夜が更けて、寝室で寝ようとしていた信繁に、寝間着姿の桔梗は深々と頭を下げた。
「先ほど? 何の事だ?」
桔梗の謝罪に、信繁は戸惑いながら首を傾げる。
頭を上げた桔梗は、彼の問いかけに曇った表情で答えた。
「綾の事でございます。何も知らぬ女子にもかかわらず、軽々しく御家の政に口を出すような真似を……」
「あぁ、あの時の事か」
彼女の答えで、躑躅ヶ崎館から屋敷へ帰った後のやり取りを思い出した信繁は、笑いながら首を横に振った。
「ははは、別に構わぬ。綾は、今年で八歳になったばかりの童だ。まだ、政というものがどんなものなのか良く分かっておらぬから、あのような事を申したのだろう。そう気に病むな」
「ですが……」
信繁の言葉にホッとしつつも、桔梗は憂いの表情を変えない。
「武家の……それも、武田家の親族衆の娘であるにもかかわらず、慎ましさを忘れ、『自らが越後へ赴いて国主に物申す』などと男勝りな事を言い出すなんて……」
「まあ……それは確かにそうかもしれぬが……」
妻が何を憂いているのか理解した信繁は、少し困った顔をしながら頷いた。
「まあ……今は乱世だ。女子といえど、そのくらいの勇ましさ……というか、気概は必要なのかもしれぬ」
そう、一度は言った信繁だったが、「……とはいえ」と首を傾げる。
「確かに……前から勝気なところはあったが、最近はとみに勇ましい事を言うようになったような気がするな……」
「あの……恐らくそれは……」
信繁の呟きに対し、桔梗は言いづらそうに口を開いた。
「その……たつ様の影響かと思います」
「たつ様?」
桔梗の言葉を聞いて、訝しげに眉根を寄せかけた信繁だったが、すぐに誰の事か思い至る。
「……ああ、遠山家の龍姫か」
「ええ」
信繁の言葉に、桔梗は頷いた。
「綾はたつ様の事を大層慕っている様子で、最近では“たつ姉様”と呼ぶほどで……」
「ほう、そうなのか」
桔梗の言葉に、信繁は思わず目を丸くする。
「確かに、親元から離れ、遠い甲斐にひとりでいる龍姫の無聊を慰める遊び相手になるよう、綾に頼んだが……儂が思っていた以上に親しい間柄になったという事か、あのふたりは」
「はい」
信繁の言葉に小さく頷いた桔梗は、口元を綻ばせた。
彼女につられて微笑みかけた信繁だったが、ふと引っかかるものを感じて、怪訝な表情を浮かべる。
「はて……だが、あの龍姫の影響で、綾があそこまで男勝りな娘になったとは、少し考えづらいが……」
信繁の知る龍は、確かに心の中に一本強い芯を持った娘だ。母の死を知らされても取り乱さずに振る舞える気丈さも持っている。
だが、『他国からも“軍神”と呼ばれ畏れられる上杉輝虎の元に単身で出向いて、甲斐まで連れてくる』と本気で言ってのけた綾が見せたような勇ましさは、彼女からは感じない……。
そう考えて首を捻る信繁に、桔梗がおずおずと「いえ……」と言った。
「その……たつ様ご本人ではなく……たつ様が綾にお話しになった叔母君の方に……」
「叔母? ……あぁ、成程な」
桔梗の言葉を聞いた瞬間、脳裏に緋色威の胴丸を身に纏った美しい女性の姿が思い浮かんだ信繁は、今度こそ合点がいく。
「つや殿の影響か……」
「ええ。その御方です」
信繁の呟きに苦笑いを浮かべながら、桔梗は小さく頷いた。
「綾は、たつ様から聞いた叔母君のお勇ましい話に、とても感銘を受けたようです。何でも、たつ様のお父上を説得する為、女子の身でありながら、甲冑を纏って苗木城に出向かれたとか……」
「うむ……」
「……正直、綾の口から聞いた時は半信半疑だったのですが……どうやら、真の話だったようですね」
夫の表情を見た桔梗は、納得した様子で微笑む。
そんな妻に「あぁ……」と頷いた信繁は、四ヶ月前の事を思い出した。
「龍姫の言う通りだ。つや殿は、武田と織田のどちらにつくか旗幟を鮮明にしなかった義弟の遠山勘太郎 (直廉)殿を武田方へ引き入れる為に、我らと共に苗木城まで同道下さったのだ。甲冑を身に纏った姿でな」
「まあ……」
「その勇ましい姿を目にしていた龍姫は、つや殿に対して憧れに近い感情を抱いておるのかもしれぬ。……特に、実の母親があのような事を仕出かし、その後に悲惨な末路を辿ったのもあったから、尚更……な」
今度は、整いながらもやや険のある女の容貌が、信繁の脳裏に浮かぶ。自業自得とはいえ、彼女の身を襲った不幸を思って胸を痛めながら、彼は小さく息を吐いた。
「そんな龍姫の話を聞いて、綾も同じようにつや殿への憧れを抱いたという事か……。それで、自ら越後に赴いて上杉殿を連れてくるなどという無茶な事を……」
「申し訳ございません……」
「あ、いや……だから、お前が謝る事ではないと言うに」
恐縮した様子で頭を下げる桔梗に、信繁は慌てて声をかけた。
と、
「そうだ……」
ある事を思い出し、彼は顎に指を当てる。
「龍姫と言えば……」
「……主様?」
急に考え込んだ夫の顔に訝しげな視線を向けながら、桔梗はおずおずと尋ねた。
「いかがなさったのです? たつ様が何か?」
「あ……いや」
桔梗の問いかけにも、どこか上の空といった様子で返事をした信繁は、顎髭を親指で撫でながら思案する。
(最近色々と立て込んでおって、ついつい失念しておったが、考えてみれば、今が絶好の好機だな……)
そう考えながら息を吐いた信繁は、キョトンとした顔をしている桔梗に顔を向けた。
「……桔梗よ」
「は、はい。何でしょう、主様?」
信繁の呼びかけに少し戸惑いながら、桔梗は問い返す。
そんな彼女に、口元を隠すように手を当てながら、信繁は尋ねた。
「近いうちに、屋敷へ客人をふたりほど招く事になるかもしれぬが、構わぬな?」
「え? ええ……もちろん。それは結構でございますが……」
夫の問いかけに答えながら、桔梗は首を傾げる。
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