252 / 263
第二部九章 慶事
招待と訪問
しおりを挟む
それから数日後の朝――。
「たつ姉様! ようこそお出で下さいました!」
襖の敷居の前で一礼する間ももどかしい様子で、離れの一室の中に入った綾は、部屋の中で座っていた少女の姿を見るや顔を輝かせ、彼女に弾んだ声をかけた。
「これは綾様、おはようございます」
綾の声に振り返った少女――遠山大和守景任の息女・龍は、口元を綻ばせながら、両手を床について頭を下げる。
「この度は、私めをお屋敷にお招き下さりまして、ありがとうございます」
「そんな……お顔を上げて下さいませ!」
龍に頭を下げられた綾は、慌てて首を横に振りながら彼女の前に膝をついた。
「お礼を言うのは、あやの方です! わざわざ、あやのわがままを聞いてここまでお越しいただきまして、本当にありがとうございます、たつ姉さま」
「うふふ、別に、綾様の我儘を聞いたから来た訳ではありませんよ」
床についた自分の手に小さな掌を重ねながら謝る綾に対し、龍は首を横に振る。
「私もかねてより綾様のお屋敷に行きたいと思ってましたから。でも……躑躅ヶ崎館の西曲輪に住まわせていただいている身ゆえ、自分から申し上げる事も気後れしてしまって、なかなか……」
そう言うと、彼女は綾に微笑みかけた。
「ですから、綾様にお招きいただけたのを奇貨として、図々しくも喜んで応じさせて頂いた次第です。……むしろ、お気を遣わせてしまったようで、心苦しい気持ちも……」
「そ、そんな……気をつかわせただなんてとんでもない!」
龍の言葉を聞いた綾は、目を大きく見開きながら、大きく首を左右に振る。
「どうか、心苦しいだなんて思わないでください! あやだけでなく、母上も父上も、たつ姉様が来てくれるのをずっとお待ちしていたのです。どうぞ、これからもお気軽にお越しくださいませ!」
「うむ。綾の申す通りだぞ、龍姫」
不意に、綾の言葉に続いて、男の低い声が上がった。
その落ち着いた声を聞いた綾と龍は、ハッとした顔をして、慌てて平伏しようとする。
「ははは。ふたりとも、そう畏まらずとも良い。面を上げてくれ」
妻の桔梗を伴って部屋に入ってきた信繁は、頭を下げようとするふたりを手で制しながら、鷹揚に言った。
上座に敷かれた円座の上に腰を下ろした信繁は、緊張した面持ちの龍に穏やかな目を向けながら、優しく声をかける。
「龍姫、我が屋敷へ良う御出で下さった。心より歓迎いたすぞ」
「は、はい……歓迎だなんて、勿体なきお言葉にございます。武田典厩様……」
信繁がかけた穏やかな声に、龍姫は緊張の中にもホッとした表情を浮かべた。
そんな彼女に優しく微笑みかけた信繁は、立膝で腰を下ろした桔梗にチラリと目を向けてから、龍に尋ねる。
「そういえば……龍姫は、我が妻と顔を合わせるのは初めてだったかな?」
「あ、いえ……」
信繁の問いかけに、龍は軽く頭を振った。
「私が甲斐に着いてまだ間もない頃……綾様が初めて私の元へ遊びに来て下さった際にご一緒にいらっしゃって、ご挨拶させていただきました」
「ええ、そうでしたね」
龍の言葉に、桔梗は穏やかな笑みを浮かべながら頷いた。
「お久しぶりです、たつ様。ようこそお越し下さいました。どうぞ、ご自分の家と思ってお寛ぎ下さいね」
「ありがとうございます、桔梗様」
桔梗の優しい言葉に、嬉しそうに顔を綻ばせる龍。
そんなふたりのやり取りを微笑みながら見ていた信繁は、龍に向かって申し訳なさそうに言った。
「だが……相済まぬな。主殿ではなく、離れに通す事となってしまって。生憎と、今日は別の客も来る予定があってな……」
「あ、いえ、そんな……滅相もございません」
信繁の謝罪に、龍は恐縮した様子で頭を振る。
「こちらこそ、申し訳ございません。私など、離れで十分でございます。どうか、私などにお気を遣われる事など無きよう――」
「……ご歓談中、失礼いたします」
龍の言葉を遮るように上がった声の主は、武藤昌幸だった。
敷居の向こうで片膝をついた彼は、軽く頭を下げてから、信繁に向かって言う。
「典厩様、例のお客人が参られました。御指示通り、主殿の大広間にお通ししております」
「うむ、来たか」
昌幸の言葉に小さく頷いた信繁は、再び龍の方に顔を向けた。
「と、いう事で……挨拶早々で申し訳ないが、これで失礼いたす」
「あ……はい。どうぞお気になさらず」
信繁の声に、龍は床に手をついて頭を下げる。
そんな彼女に軽く会釈した信繁は、今度は綾に目を向けた。
「綾、龍姫を退屈させぬよう、頼んだぞ」
「もちろん、父上に言われるまでもありません!」
信繁の頼みに対し、綾は少しむくれた顔で答える。
「たつ姉様のことは、どうぞあやにおまかせ下さいませ。父上は、その大切なお客人様の元へ早くお行き下さいな」
「……」
つっかかるような綾の物言いに苦笑を浮かべた信繁は、彼女を窘めようとした桔梗を目で制した。
「桔梗、後の事は任せたぞ」
「……かしこまりました、主様」
信繁が言葉に込めた意図を機敏に察した桔梗は、小さく頷く。
そんな彼女に目で頷き返した信繁は、「では、これにて」と龍に告げてから席を立ち、部屋から出た。
そして、主殿に向かう廊下を歩きながら、後からついてくる昌幸に向けて声をかける。
「――昌幸よ。今日参ったのは、あやつひとりだけか?」
「はい」
信繁の問いかけに、昌幸は短く答えた。
それを聞いた信繁は、「そうか」と呟き、更に問いを重ねる。
「……龍姫が屋敷を訪れている事、気取られてはおらぬだろうな?」
「はい。『些か土が泥濘んでおりますゆえ』と申し上げて、龍様の輿と供回りの者たちの姿を見られぬよう、少し遠回りして主殿へお通ししましたから、大丈夫なはずです」
「善し」
昌幸の答えに満足げに答えた信繁は、主殿へ向かう足の運びを心持ち早めるのだった。
「たつ姉様! ようこそお出で下さいました!」
襖の敷居の前で一礼する間ももどかしい様子で、離れの一室の中に入った綾は、部屋の中で座っていた少女の姿を見るや顔を輝かせ、彼女に弾んだ声をかけた。
「これは綾様、おはようございます」
綾の声に振り返った少女――遠山大和守景任の息女・龍は、口元を綻ばせながら、両手を床について頭を下げる。
「この度は、私めをお屋敷にお招き下さりまして、ありがとうございます」
「そんな……お顔を上げて下さいませ!」
龍に頭を下げられた綾は、慌てて首を横に振りながら彼女の前に膝をついた。
「お礼を言うのは、あやの方です! わざわざ、あやのわがままを聞いてここまでお越しいただきまして、本当にありがとうございます、たつ姉さま」
「うふふ、別に、綾様の我儘を聞いたから来た訳ではありませんよ」
床についた自分の手に小さな掌を重ねながら謝る綾に対し、龍は首を横に振る。
「私もかねてより綾様のお屋敷に行きたいと思ってましたから。でも……躑躅ヶ崎館の西曲輪に住まわせていただいている身ゆえ、自分から申し上げる事も気後れしてしまって、なかなか……」
そう言うと、彼女は綾に微笑みかけた。
「ですから、綾様にお招きいただけたのを奇貨として、図々しくも喜んで応じさせて頂いた次第です。……むしろ、お気を遣わせてしまったようで、心苦しい気持ちも……」
「そ、そんな……気をつかわせただなんてとんでもない!」
龍の言葉を聞いた綾は、目を大きく見開きながら、大きく首を左右に振る。
「どうか、心苦しいだなんて思わないでください! あやだけでなく、母上も父上も、たつ姉様が来てくれるのをずっとお待ちしていたのです。どうぞ、これからもお気軽にお越しくださいませ!」
「うむ。綾の申す通りだぞ、龍姫」
不意に、綾の言葉に続いて、男の低い声が上がった。
その落ち着いた声を聞いた綾と龍は、ハッとした顔をして、慌てて平伏しようとする。
「ははは。ふたりとも、そう畏まらずとも良い。面を上げてくれ」
妻の桔梗を伴って部屋に入ってきた信繁は、頭を下げようとするふたりを手で制しながら、鷹揚に言った。
上座に敷かれた円座の上に腰を下ろした信繁は、緊張した面持ちの龍に穏やかな目を向けながら、優しく声をかける。
「龍姫、我が屋敷へ良う御出で下さった。心より歓迎いたすぞ」
「は、はい……歓迎だなんて、勿体なきお言葉にございます。武田典厩様……」
信繁がかけた穏やかな声に、龍姫は緊張の中にもホッとした表情を浮かべた。
そんな彼女に優しく微笑みかけた信繁は、立膝で腰を下ろした桔梗にチラリと目を向けてから、龍に尋ねる。
「そういえば……龍姫は、我が妻と顔を合わせるのは初めてだったかな?」
「あ、いえ……」
信繁の問いかけに、龍は軽く頭を振った。
「私が甲斐に着いてまだ間もない頃……綾様が初めて私の元へ遊びに来て下さった際にご一緒にいらっしゃって、ご挨拶させていただきました」
「ええ、そうでしたね」
龍の言葉に、桔梗は穏やかな笑みを浮かべながら頷いた。
「お久しぶりです、たつ様。ようこそお越し下さいました。どうぞ、ご自分の家と思ってお寛ぎ下さいね」
「ありがとうございます、桔梗様」
桔梗の優しい言葉に、嬉しそうに顔を綻ばせる龍。
そんなふたりのやり取りを微笑みながら見ていた信繁は、龍に向かって申し訳なさそうに言った。
「だが……相済まぬな。主殿ではなく、離れに通す事となってしまって。生憎と、今日は別の客も来る予定があってな……」
「あ、いえ、そんな……滅相もございません」
信繁の謝罪に、龍は恐縮した様子で頭を振る。
「こちらこそ、申し訳ございません。私など、離れで十分でございます。どうか、私などにお気を遣われる事など無きよう――」
「……ご歓談中、失礼いたします」
龍の言葉を遮るように上がった声の主は、武藤昌幸だった。
敷居の向こうで片膝をついた彼は、軽く頭を下げてから、信繁に向かって言う。
「典厩様、例のお客人が参られました。御指示通り、主殿の大広間にお通ししております」
「うむ、来たか」
昌幸の言葉に小さく頷いた信繁は、再び龍の方に顔を向けた。
「と、いう事で……挨拶早々で申し訳ないが、これで失礼いたす」
「あ……はい。どうぞお気になさらず」
信繁の声に、龍は床に手をついて頭を下げる。
そんな彼女に軽く会釈した信繁は、今度は綾に目を向けた。
「綾、龍姫を退屈させぬよう、頼んだぞ」
「もちろん、父上に言われるまでもありません!」
信繁の頼みに対し、綾は少しむくれた顔で答える。
「たつ姉様のことは、どうぞあやにおまかせ下さいませ。父上は、その大切なお客人様の元へ早くお行き下さいな」
「……」
つっかかるような綾の物言いに苦笑を浮かべた信繁は、彼女を窘めようとした桔梗を目で制した。
「桔梗、後の事は任せたぞ」
「……かしこまりました、主様」
信繁が言葉に込めた意図を機敏に察した桔梗は、小さく頷く。
そんな彼女に目で頷き返した信繁は、「では、これにて」と龍に告げてから席を立ち、部屋から出た。
そして、主殿に向かう廊下を歩きながら、後からついてくる昌幸に向けて声をかける。
「――昌幸よ。今日参ったのは、あやつひとりだけか?」
「はい」
信繁の問いかけに、昌幸は短く答えた。
それを聞いた信繁は、「そうか」と呟き、更に問いを重ねる。
「……龍姫が屋敷を訪れている事、気取られてはおらぬだろうな?」
「はい。『些か土が泥濘んでおりますゆえ』と申し上げて、龍様の輿と供回りの者たちの姿を見られぬよう、少し遠回りして主殿へお通ししましたから、大丈夫なはずです」
「善し」
昌幸の答えに満足げに答えた信繁は、主殿へ向かう足の運びを心持ち早めるのだった。
12
あなたにおすすめの小説
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
電子の帝国
Flight_kj
歴史・時代
少しだけ電子技術が早く技術が進歩した帝国はどのように戦うか
明治期の工業化が少し早く進展したおかげで、日本の電子技術や精密機械工業は順調に進歩した。世界規模の戦争に巻き込まれた日本は、そんな技術をもとにしてどんな戦いを繰り広げるのか? わずかに早くレーダーやコンピューターなどの電子機器が登場することにより、戦場の様相は大きく変わってゆく。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
日本が危機に?第二次日露戦争
杏
歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。
なろう、カクヨムでも連載しています。
大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる