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第二部九章 慶事
客人と歓待
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「待たせたな」
主殿の大広間に入った信繁は、部屋の真ん中で両手をついて深々と頭を垂れている客人に向けて、気さくに声をかけた。
「高遠に帰る仕度で忙しい身だろうに、わざわざ呼びつけてすまなかった、四郎」
「いえ」
円座に腰を下ろしながら謝った信繁に対し、客人――諏訪四郎勝頼は、穏やかな笑みを浮かべながら小さく頭を振る。
「典厩様のお招きと聞いて、喜んで馳せ参じました。すまないなどと仰られる事は全く御座いませぬ」
「典厩はよせ」
苦笑しながら、信繁は勝頼に言った。
「儂は、武田家親族衆筆頭ではなく、ただの叔父として、甥のお主と会いたくて屋敷に呼んだのだからな」
「あっ……」
叔父の言葉にハッとした表情を浮かべた勝頼は、口元に拳を当てて軽く咳払いをしてから、軽く頭を下げる。
「では……お言葉に甘えさせて頂きます――叔父上」
「ああ、それで構わぬ」
勝頼の言葉に満足げな顔で頷いた信繁は、昌幸の手から白湯が入った碗を受け取った。
白湯を一口飲んで喉を潤した彼は、椀の縁から唇を離して「ふぅ……」と息を吐くと、勝頼の端正な顔に目を向ける。
「それで……高遠へはいつ発つのだ?」
「……明日の朝一番で躑躅ヶ崎館に参り、お屋形様と若と……」
そう言いかけた勝頼は、ふと口を噤み、はにかむような笑みを浮かべながら「……いえ」と言い直した。
「――父上と兄上にご挨拶申し上げてからにするつもりです」
「そうか……」
勝頼が、信玄と義信の事を“父上”“兄上”と呼び直した意味を察した信繁は、思わず口元を綻ばせる。
そして、
「明日発つのなら、もう始めた方が良いな」
そう呟いた信繁は、襖近くで控えている昌幸に向けて声をかけた。
「昌幸。少し早いが、酒を頼む。何か、適当につまめる肴も一緒にな」
「……そう仰られると思いまして」
信繁の命を聞いた昌幸は、ニヤリと笑うと、廊下に向けて軽く手を叩く。
すると、数名の下女たちが、酒の盃と肴が盛りつけられた小皿が載った膳を捧げ持ちながら、大広間へと入ってきた。
「既にご用意しております」
「こ奴め……さすがというか抜け目がないというか……」
得意げに言う昌幸に、思わず感嘆と呆れが入り混じった苦笑を浮かべた信繁は、下女が自分の前に置いた膳から片口を手に取る。
「さあ、盃を取れ、四郎」
「あ、い、いえ、滅相も無い。ここは私から……」
勝頼は、信繁の誘いに慌てて首を横に振り、片口を受け取ろうと手を伸ばした。
だが、信繁は彼に片口を渡さず、眉を顰める。
「だから、ここでは武田家の立場は忘れよと……」
「いえ、そうではなく。甥の方が先に酒を注ぐのが筋かと」
「……確かに」
勝頼の言葉を聞いた信繁は、フッと相好を崩し、素直に片口を渡した。
「では、頼む」
「はっ」
片口を受け取った勝頼は、信繁が持った盃に酒を注ぐ。
盃が白く濁った酒で満たされると、今度は信繁が勝頼の盃に酒を注いだ。
そして、ふたりは酒で満たされた盃を互いに掲げ合う。
「では……乾杯」
「乾杯」
和やかな視線を交わしたふたりは、音頭をかけ合うと盃を一息に飲み干した。
「ふぅ……」
胃の腑に落ちた酒で、冬の寒気で冷えた体が温まるのを感じながら、信繁は小さく息を吐く。
そして、白皙の顔を仄かに紅潮させた勝頼に向けて声をかけた。
「四郎……あの後、太郎――兄とはどうだ?」
「はい」
信繁の問いかけに、勝頼はニコリと微笑む。
「先日御子が生まれた事も相まってお忙しいご様子で、頻繁にお会いする事は出来ませんでしたが、先日の宴の後には部屋へお招き頂き、親しく酒を酌み交わせて頂きました」
「そうか……その時は、どのような話を?」
「私からは、主に高遠での暮らしぶりや美濃での戦の事を……」
そう答えた勝頼は、フッと口元を緩めてから、更に言葉を継いだ。
「兄上からは……先日生まれたやや子の様子や愛おしさをたくさん……というか、ほぼそのお話でした」
「はっはっはっ! そうであったか!」
勝頼の答えを聞いた信繁は、思わず吹き出す。
「それは、お互いに大変だったな」
「お互い……という事は、叔父上も?」
「ああ」
目を丸くする勝頼に、信繁はくすくす笑いながら頷き、「……もっとも」と続けた。
「儂の方は“息子自慢”ではなく、“孫自慢”だったがな」
「あ……っ」
勝頼は、信繁の答えの意味を取りかね、一瞬呆気にとられたが、すぐにどういう意味か察し、白い歯を見せて笑う。
「それは……私よりも遥かに大変でしたね」
「まあ、あのように嬉しそうな兄上の顔を見れるのなら、どんなに大変だろうと大歓迎だがな」
「同感です」
信繁の言葉に満面の笑みで大きく頷いた勝頼は、片口を取って信繁の盃に注いだ。
勝頼の酌を受けた信繁は、盃を飲み干すと、彼の顔に目を向ける。
「ときに……お主、此度府中に参ってから、龍姫に会うたか?」
「……龍姫に……ですか?」
唐突な信繁の問いかけに、勝頼は目を丸くした。
「何故、急に龍姫の話に……?」
「いいから、儂の問いに答えよ」
「あ……申し訳ございません……」
信繁の静かな声に、有無を言わせぬという微かな圧を感じた勝頼は、表情を改め、「……いえ」と頭を振った。
「龍姫とはお会いしておりませぬ。龍姫とは、所詮美濃から甲斐へ送り届けただけの縁ですし……」
「……そうか」
勝頼の返事を聞いた信繁は、僅かに表情を曇らせる。
「……ひょっとして、甲斐までの道中に、龍姫と何か諍いでもあったのか?」
「諍い……?」
信繁の問いかけに、勝頼は訝しむような顔をしながら、首を横に振った。
「いいえ、諍う事などは全く……」
そう答えた勝頼は、ふと目を細めて「それどころか……」と言葉を継ぐ。
「傷を受けたせいで陣から離れ、ひとりで国へ帰らねばならぬ己の身の不甲斐なさに鬱々としていた私の事が気にかかったようで、何かと親しく話しかけてくれたものです」
「ほう……」
「美濃の土地の事や、美味しい食べ物の話など……おかげで、甲斐に入る頃には、曇っていた私の心も大分晴れました」
そう言うと、勝頼は決まりが悪そうに頭を掻いた。
「……本来なら、ひとりで慣れぬ地へ向かう龍姫を私が元気づけてやらねばならぬはずだったのに、逆に私の方が励まされてしまうとは……我ながら情けない限りです」
そう自嘲する勝頼だったが、その顔には穏やかな微笑が浮かんでいる。
そんな甥の表情を見ながら、信繁も口元を綻ばせた。
と、
「――四郎よ」
彼はおもむろに盃を置くと、改まった声で勝頼を呼ぶ。
それを聞いた勝頼も、表情を引き締め、背筋を伸ばした。
「……何でしょう?」
「ひとつ、つかぬ事を訊ねるが――」
信繁は、隻眼で勝頼の顔をじっと見据えながら、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「お主は……龍姫の事をどう思うておる?」
主殿の大広間に入った信繁は、部屋の真ん中で両手をついて深々と頭を垂れている客人に向けて、気さくに声をかけた。
「高遠に帰る仕度で忙しい身だろうに、わざわざ呼びつけてすまなかった、四郎」
「いえ」
円座に腰を下ろしながら謝った信繁に対し、客人――諏訪四郎勝頼は、穏やかな笑みを浮かべながら小さく頭を振る。
「典厩様のお招きと聞いて、喜んで馳せ参じました。すまないなどと仰られる事は全く御座いませぬ」
「典厩はよせ」
苦笑しながら、信繁は勝頼に言った。
「儂は、武田家親族衆筆頭ではなく、ただの叔父として、甥のお主と会いたくて屋敷に呼んだのだからな」
「あっ……」
叔父の言葉にハッとした表情を浮かべた勝頼は、口元に拳を当てて軽く咳払いをしてから、軽く頭を下げる。
「では……お言葉に甘えさせて頂きます――叔父上」
「ああ、それで構わぬ」
勝頼の言葉に満足げな顔で頷いた信繁は、昌幸の手から白湯が入った碗を受け取った。
白湯を一口飲んで喉を潤した彼は、椀の縁から唇を離して「ふぅ……」と息を吐くと、勝頼の端正な顔に目を向ける。
「それで……高遠へはいつ発つのだ?」
「……明日の朝一番で躑躅ヶ崎館に参り、お屋形様と若と……」
そう言いかけた勝頼は、ふと口を噤み、はにかむような笑みを浮かべながら「……いえ」と言い直した。
「――父上と兄上にご挨拶申し上げてからにするつもりです」
「そうか……」
勝頼が、信玄と義信の事を“父上”“兄上”と呼び直した意味を察した信繁は、思わず口元を綻ばせる。
そして、
「明日発つのなら、もう始めた方が良いな」
そう呟いた信繁は、襖近くで控えている昌幸に向けて声をかけた。
「昌幸。少し早いが、酒を頼む。何か、適当につまめる肴も一緒にな」
「……そう仰られると思いまして」
信繁の命を聞いた昌幸は、ニヤリと笑うと、廊下に向けて軽く手を叩く。
すると、数名の下女たちが、酒の盃と肴が盛りつけられた小皿が載った膳を捧げ持ちながら、大広間へと入ってきた。
「既にご用意しております」
「こ奴め……さすがというか抜け目がないというか……」
得意げに言う昌幸に、思わず感嘆と呆れが入り混じった苦笑を浮かべた信繁は、下女が自分の前に置いた膳から片口を手に取る。
「さあ、盃を取れ、四郎」
「あ、い、いえ、滅相も無い。ここは私から……」
勝頼は、信繁の誘いに慌てて首を横に振り、片口を受け取ろうと手を伸ばした。
だが、信繁は彼に片口を渡さず、眉を顰める。
「だから、ここでは武田家の立場は忘れよと……」
「いえ、そうではなく。甥の方が先に酒を注ぐのが筋かと」
「……確かに」
勝頼の言葉を聞いた信繁は、フッと相好を崩し、素直に片口を渡した。
「では、頼む」
「はっ」
片口を受け取った勝頼は、信繁が持った盃に酒を注ぐ。
盃が白く濁った酒で満たされると、今度は信繁が勝頼の盃に酒を注いだ。
そして、ふたりは酒で満たされた盃を互いに掲げ合う。
「では……乾杯」
「乾杯」
和やかな視線を交わしたふたりは、音頭をかけ合うと盃を一息に飲み干した。
「ふぅ……」
胃の腑に落ちた酒で、冬の寒気で冷えた体が温まるのを感じながら、信繁は小さく息を吐く。
そして、白皙の顔を仄かに紅潮させた勝頼に向けて声をかけた。
「四郎……あの後、太郎――兄とはどうだ?」
「はい」
信繁の問いかけに、勝頼はニコリと微笑む。
「先日御子が生まれた事も相まってお忙しいご様子で、頻繁にお会いする事は出来ませんでしたが、先日の宴の後には部屋へお招き頂き、親しく酒を酌み交わせて頂きました」
「そうか……その時は、どのような話を?」
「私からは、主に高遠での暮らしぶりや美濃での戦の事を……」
そう答えた勝頼は、フッと口元を緩めてから、更に言葉を継いだ。
「兄上からは……先日生まれたやや子の様子や愛おしさをたくさん……というか、ほぼそのお話でした」
「はっはっはっ! そうであったか!」
勝頼の答えを聞いた信繁は、思わず吹き出す。
「それは、お互いに大変だったな」
「お互い……という事は、叔父上も?」
「ああ」
目を丸くする勝頼に、信繁はくすくす笑いながら頷き、「……もっとも」と続けた。
「儂の方は“息子自慢”ではなく、“孫自慢”だったがな」
「あ……っ」
勝頼は、信繁の答えの意味を取りかね、一瞬呆気にとられたが、すぐにどういう意味か察し、白い歯を見せて笑う。
「それは……私よりも遥かに大変でしたね」
「まあ、あのように嬉しそうな兄上の顔を見れるのなら、どんなに大変だろうと大歓迎だがな」
「同感です」
信繁の言葉に満面の笑みで大きく頷いた勝頼は、片口を取って信繁の盃に注いだ。
勝頼の酌を受けた信繁は、盃を飲み干すと、彼の顔に目を向ける。
「ときに……お主、此度府中に参ってから、龍姫に会うたか?」
「……龍姫に……ですか?」
唐突な信繁の問いかけに、勝頼は目を丸くした。
「何故、急に龍姫の話に……?」
「いいから、儂の問いに答えよ」
「あ……申し訳ございません……」
信繁の静かな声に、有無を言わせぬという微かな圧を感じた勝頼は、表情を改め、「……いえ」と頭を振った。
「龍姫とはお会いしておりませぬ。龍姫とは、所詮美濃から甲斐へ送り届けただけの縁ですし……」
「……そうか」
勝頼の返事を聞いた信繁は、僅かに表情を曇らせる。
「……ひょっとして、甲斐までの道中に、龍姫と何か諍いでもあったのか?」
「諍い……?」
信繁の問いかけに、勝頼は訝しむような顔をしながら、首を横に振った。
「いいえ、諍う事などは全く……」
そう答えた勝頼は、ふと目を細めて「それどころか……」と言葉を継ぐ。
「傷を受けたせいで陣から離れ、ひとりで国へ帰らねばならぬ己の身の不甲斐なさに鬱々としていた私の事が気にかかったようで、何かと親しく話しかけてくれたものです」
「ほう……」
「美濃の土地の事や、美味しい食べ物の話など……おかげで、甲斐に入る頃には、曇っていた私の心も大分晴れました」
そう言うと、勝頼は決まりが悪そうに頭を掻いた。
「……本来なら、ひとりで慣れぬ地へ向かう龍姫を私が元気づけてやらねばならぬはずだったのに、逆に私の方が励まされてしまうとは……我ながら情けない限りです」
そう自嘲する勝頼だったが、その顔には穏やかな微笑が浮かんでいる。
そんな甥の表情を見ながら、信繁も口元を綻ばせた。
と、
「――四郎よ」
彼はおもむろに盃を置くと、改まった声で勝頼を呼ぶ。
それを聞いた勝頼も、表情を引き締め、背筋を伸ばした。
「……何でしょう?」
「ひとつ、つかぬ事を訊ねるが――」
信繁は、隻眼で勝頼の顔をじっと見据えながら、ゆっくりと言葉を継ぐ。
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