甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部九章 慶事

家と個々

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 「龍姫の事を……ですか?」

 信繁の問いかけに、勝頼は怪訝な表情を浮かべながら訊き返す。

「叔父上……それは一体、どういった……?」
「……回りくどく言うても仕方がないな」

 当惑を隠せぬ様子の勝頼の顔をじっと見据えながらそう呟いた信繁は、口元に拳を当てて軽くしわぶいてから、言葉を継いだ。

「――四郎、お主ももう二十歳を過ぎた。嫁を取るには些か遅いと言ってもよい年齢としだ」
「……!」
「儂は、お主に妻合めあわせるのは、龍姫が良いと考えておる」
「龍姫を……私の妻に……?」

 信繁の言葉を聞いた勝頼は、驚いた様子で目を丸くする。
 そんな彼に小さく頷いた信繁は、「実はな……」と続けた。

「儂の考えは、既に兄上にもお伝えし、賛同して頂いておる」
「……」
「お主も知っている通り、龍姫は、元は藤原北家より発した名族で、今では美濃東部に深く根を張った美濃遠山家の娘だ。我が武田家としても、婚姻によって血のえにしを結び、遠山家を親族衆として家中に深く取り込む事は多大な利となろう。……今後我らが取る戦略の上でもな」

 そう言って一旦言葉を切った信繁は、おもむろに盃を手にし、半分ほど残っていた酒を一口含む。
 舌と喉を酒で湿らせた信繁は、小さく息を吐いてから、再び口を開いた。

「……そこで、儂が龍姫の婿として白羽の矢を立てたのが、お主という訳だ」
「…………解せませぬ」

 それまで微かに俯き、黙って信繁の言葉を聞いていた勝頼が、ぼそりと声を漏らす。

「解せぬ、とは?」

 信繁が静かに訊き返すと、勝頼は無言で顔を上げた。
 その顔には、先ほどまでとは打って変わって、険しい表情が浮かんでいる。
 勝頼は、叔父の顔をまっすぐに見つめながら、静かな声で言った。

「……のお考えは、理解できます」

 そう言う勝頼の目は、一見冬の諏訪湖のように冷たく静かな光を湛えていたが、その奥には苛立ちと静かな怒りが陽炎のように揺蕩たゆたっているのが分かる。
 だが、それでも彼は、努めて淡々とした口調で言葉を継いだ。

「確かに、今後当家が更なる西進を行う為には、東美濃の統治が盤石である事が不可欠であり、それには婚姻によって遠山家を親族衆として取り込むのが一番でしょう」
「……」
「であれば、私と龍姫の婚姻は、既に決まったようなもの。……なのに、何故私に龍姫の事をどう思っているのかを訊くのですか? 私が龍姫にどのような心証を抱いているかなど、もはや関係ありますまい」

 そう言った勝頼は、鋭い目を信繁に向ける。

「御家の大事を前にしたら、個々の事情や感情など、無いも同然でしょうからね」
「……」

 薄っすらと皮肉と非難が感じられる勝頼の言葉を受け、信繁はキュッと唇を結んだ。
 ――穏やかで優しい性格の彼が、ここまで感情を露わにする理由は、信繁にも解っていた。

(……諏訪御前様の事か)

 彼の脳裏に、ひとりの若い女の面影が浮かぶ。
 それは、信繁の義姉であり、勝頼の実母――つまり、信玄の側室だった諏訪御前だった。
 はっと息を呑むほどに美しい面立ちを持つ女子おなごだったが、信繁の記憶にある限り、彼女はいつ見ても沈んだ表情をしていて、最期まで笑顔を見せなかった。
 ……恐らく、それは夫である信玄の前でも同じだったのだろう。
 だが、それも致し方なかった。
 何せ、彼女にとって信玄は、自分の夫である以前に、実父である諏訪頼重を攻め滅ぼした憎い仇でもあったのだ。
 結局……信玄の側室として子を成しても、その恨みの感情が消える事は無かったようだ。
 ――僅か三十五という若さで亡くなるまで。

(……勝頼は、そんな母親を一番近いところでずっと見ながら育ってきた。だから、武田家の将として――武家に生まれた男として、個々の感情よりも御家の事情が優先されることわりは理解しつつ、それでもその不条理に反発を感じているのだ)

 そう考えながら、信繁は静かに目を瞑る。
 ……そして、再び隻眼を見開くと、勝頼の顔を真っ直ぐに見つめながら、「……四郎よ」と静かに口を開いた。

「……お主は知らぬかもしれぬが、儂には桔梗の他にも妻が居た」
「え……?」

 勝頼は、信繁が唐突に自分の話を始めた事に戸惑いの表情を浮かべる。
 だが、勝頼の動揺にも構わず、信繁は話を続けた。

「その女は、佐久の望月氏の当主だった望月遠江守 (昌頼)の娘でな」
「……」
「天文十二年 (西暦1544年)に、望月遠江守の居城である望月城を我らが攻め落とした際、遠江守は落城前に落ち延びたが、妻子は城内に残され、我らの捕虜となった」
 「……それが――」
「ああ」

 ハッとした表情を浮かべた勝頼に、信繁は小さく頷く。

「佐久の滋野三家のひとつである望月氏を武田に取り込もうと考えたお屋形様の命を受け、儂は捕虜になった遠江守の娘を側室としたのだ」

 信繁は、膳の上の盃に手を伸ばし、残っていた酒を一気に呷った。
 「ふぅ……」と微かな息を漏らしながら唇を盃から離した信繁は、干した盃を膳に置きながら、話を続ける。

「……子もふたり出来たが、結局、強いられて夫婦めおととなった儂らは、互いに心を通じ合わせる事が出来なかった。……ふたり目の子を産んだ後の肥立ちが悪かったあやつが、一年後に身罷るまでな」
「……」
「……恐らく、産後の肥立ちが悪かっただけでは無かったのだろう。意に沿わぬ相手の妻とされ、その子を産まされたという心労が祟った事が……」

 語尾を濁し、僅かに唇を噛んだ信繁の顔には、沈痛な表情が浮かんでいた。

「結果として、儂はあやつに女としての喜びを与える事が出来ず、ただただ不幸にしてしまったのだ。そんなあやつに儂がしてやれたのは、遺言に従って、ふたりの子を望月家の現当主である望月左衛門佐 (信雅)の元へ養子に出す事だけだった……」

 彼はそう言うと、固唾を呑んで話を聞いていた勝頼の顔をじっと見つめる。

「だからな……お主と龍姫には、儂らと同じ道を辿ってほしくはないのだ。――押し付けられるままに夫婦めおととなったせいで、心を通わせる事も無く、ただ互いの気持ちを疲弊させていくだけの人生をな……」
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