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第二部九章 慶事
問いと本意
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「……」
信繁の話を神妙な顔で聞いていた勝頼は、無言で膳の上の盃に手を伸ばすと、半分ほど残っていた酒を一気に呷った。
酒の辛さ――或いは別の理由で僅かに眉を顰めた彼は、干した盃を膳に置くと、再び叔父の顔に視線を向ける。
その目からは、先ほどまで浮かんでいた苛立ちや怒りの感情が消えていた。
信繁は、そんな勝頼の視線を隻眼で受け止め、再び口を開く。
「……先ほど申した通り、儂はお主と龍姫が夫婦となるのが、今後の武田家にとって望ましい事だと考えておる」
「……」
「武田家の当主であるお屋形様も、儂と同じお考えだ」
「……!」
「――とはいえ」
「……?」
信繁も信玄も自分たちの婚姻を望んでいると聞いて一瞬表情を険しくさせた勝頼だったが、叔父が更に言葉を続けた事に、思わず怪訝な表情を浮かべた。
そんな甥の当惑する様子を見つめながら、信繁は言葉を継ぐ。
「儂は、叔父として、出来る限りお主の気持ちを汲んでやりたいと思うておる。もしも、お主が龍姫との婚姻を望まぬというのなら、今回の話ははじめから無かった事にするつもりだ」
「えっ……?」
信繁の言葉を聞いた勝頼の口から、思わず驚きの声が漏れた。
「無かった事にする? ……で、ですが、典厩様はつい先ほど、私が龍姫を娶る事が今後の武田家の戦略には必要と……」
「ああ、確かに言うたな」
勝頼の問いかけに、信繁は小さく頷き、「……だがな」と続ける。
「家の都合の為に、お主らに望まぬ婚姻を結ばせ、苦い思いを強いる真似をしたくは無いのだ」
そう言うと、彼は天井を見上げ、瞑目するように隻眼を薄く細めた。
「……儂とあやつのように、な」
「……っ!」
信繁の言葉に、勝頼はハッとする。
少しの間、瞑目したままだった信繁は、小さく息を吐いてから目を開け、再び甥の方に顔を向けた。
「――その思いは、兄上……お主の父も同じなのだ」
「父上……も?」
「ああ」
訊き返した勝頼に小さく頷いた信繁は、つと沈鬱な表情を浮かべる。
「――兄上は、未だに諏訪御前様の事を忘れておられぬからな」
「ッ!」
勝頼は、信繁の口から唐突に自分の母の名が出て、思わず息を呑んだ。
「は、母上の事を……父上が……?」
「決して、ご自分から口に出したりなどはしないがな」
信繁は、驚く勝頼に穏やかな目を向ける。
「しかし……血を分けた弟であり、副将としてずっと側にいた儂には、はっきりと分かる」
勝頼の整った面立ちに母親の面影を見ながら、信繁は確信を込めて言った。
「兄上は、諏訪御前様……お主の母の事を愛しておった。――他の誰よりも」
「……っ!」
「そして……その経緯の為に、諏訪御前様がご自身に対して心を開かぬまま身罷られた事を悲しみ……幸せな生涯を送らせてやる事が出来なかった事を、未だに深く悔いておる」
そう言った信繁の脳裏に、十数年前――諏訪御前がこの世を去った直後に見た光景が浮かぶ。
それは、躑躅ヶ崎館の不動堂に籠り、諏訪御前の病平癒の為の護摩行を行っていた兄の後ろ姿だった。
信繁から諏訪御前の死を伝えられた信玄――晴信は、背を向けたまま「そうか」と短く答え、そのまましばらく動かなかった。
不動明王像の方を向いていたせいで、信繁からは兄の顔が見えなかった――が、少し丸まった彼の背が小刻みに震えていた事から、見えずとも彼がどんな表情を浮かべていたのかは明白だった――。
「……だからな」
蘇った辛い記憶に胸が痛むのを感じながら、信繁は言葉を継ぐ。
「兄上も、儂と同じ……いや、儂以上に、お主らに自分たちのような思いを味合わせたくはないと考えておるのだ」
「父上が……」
信繁の話を聞いた勝頼は、呆然とした表情を浮かべたまま、うわごとのように呟いた。
そんな彼の目をじっと見つめながら、信繁は静かな声で言う。
「それを心に置いた上で、答えてくれ」
「……」
「――お主は、龍姫と一緒になりたいか?」
「……っ」
「武田家の事など考えずとも良い。あくまで、お主がひとりの男として、龍姫を己の妻として愛する事が出来るか否かの話だ。――出来ぬというのなら、正直にそう答えよ。さすれば、儂らはお主の意志を尊重し、無理には――」
「――いえ」
信繁の言葉を途中で遮るように声を上げた勝頼は、確固とした意志を宿した瞳で叔父の顔を見つめながら、静かに首を横に振った。
「それには及びませぬ」
「では……」
「はい」
目を見開く信繁に、勝頼は小さく頷く。
「私としては、龍姫を娶る事に対して、何ら異存は御座いませぬ……いえ」
そう言ってつと目を逸らした勝頼の白皙の頬が、みるみる紅く染まった。
「その……むしろ、龍姫を我が妻とする事が出来るなら、願ってもないというか……」
「……!」
「実は……」
照れくさげに鼻頭を触りながら、勝頼はおずおずと言う。
「躑躅ヶ崎館まで同道した時から、私は龍姫の事を好ましく思っていました。特に、道中を共にする間に知った、ただ優しいだけではない……一本固い芯が通っているように感じられる心根の強さに、私は強く惹かれたのです」
「……左様か」
勝頼の答えを聞いた信繁は、ふっと口元を緩めながら頷いた。
「ならば――」
「お待ち下さい、叔父上」
信繁の声を制止するように手を挙げた勝頼は、真剣な表情を浮かべる。
「確かに、私は此度の縁談に対して異存は御座いませぬ。……ですが、夫婦はひとりだけで成るものでは非ず」
「……ああ」
勝頼の言葉を聞いた信繁も、真顔になって頷いた。
「もちろん、その通りだ」
「……お願いいたします」
おもむろに膳を脇へ退かした勝頼は、両手を床につき、信繁に向かって頭を下げながら訴える。
「縁談の件をお進めになる前に、龍姫の意志もお確め下さい。……今ここで私に問うたのと同じように、龍姫が私と夫婦になる事を望むか否か……を」
信繁の話を神妙な顔で聞いていた勝頼は、無言で膳の上の盃に手を伸ばすと、半分ほど残っていた酒を一気に呷った。
酒の辛さ――或いは別の理由で僅かに眉を顰めた彼は、干した盃を膳に置くと、再び叔父の顔に視線を向ける。
その目からは、先ほどまで浮かんでいた苛立ちや怒りの感情が消えていた。
信繁は、そんな勝頼の視線を隻眼で受け止め、再び口を開く。
「……先ほど申した通り、儂はお主と龍姫が夫婦となるのが、今後の武田家にとって望ましい事だと考えておる」
「……」
「武田家の当主であるお屋形様も、儂と同じお考えだ」
「……!」
「――とはいえ」
「……?」
信繁も信玄も自分たちの婚姻を望んでいると聞いて一瞬表情を険しくさせた勝頼だったが、叔父が更に言葉を続けた事に、思わず怪訝な表情を浮かべた。
そんな甥の当惑する様子を見つめながら、信繁は言葉を継ぐ。
「儂は、叔父として、出来る限りお主の気持ちを汲んでやりたいと思うておる。もしも、お主が龍姫との婚姻を望まぬというのなら、今回の話ははじめから無かった事にするつもりだ」
「えっ……?」
信繁の言葉を聞いた勝頼の口から、思わず驚きの声が漏れた。
「無かった事にする? ……で、ですが、典厩様はつい先ほど、私が龍姫を娶る事が今後の武田家の戦略には必要と……」
「ああ、確かに言うたな」
勝頼の問いかけに、信繁は小さく頷き、「……だがな」と続ける。
「家の都合の為に、お主らに望まぬ婚姻を結ばせ、苦い思いを強いる真似をしたくは無いのだ」
そう言うと、彼は天井を見上げ、瞑目するように隻眼を薄く細めた。
「……儂とあやつのように、な」
「……っ!」
信繁の言葉に、勝頼はハッとする。
少しの間、瞑目したままだった信繁は、小さく息を吐いてから目を開け、再び甥の方に顔を向けた。
「――その思いは、兄上……お主の父も同じなのだ」
「父上……も?」
「ああ」
訊き返した勝頼に小さく頷いた信繁は、つと沈鬱な表情を浮かべる。
「――兄上は、未だに諏訪御前様の事を忘れておられぬからな」
「ッ!」
勝頼は、信繁の口から唐突に自分の母の名が出て、思わず息を呑んだ。
「は、母上の事を……父上が……?」
「決して、ご自分から口に出したりなどはしないがな」
信繁は、驚く勝頼に穏やかな目を向ける。
「しかし……血を分けた弟であり、副将としてずっと側にいた儂には、はっきりと分かる」
勝頼の整った面立ちに母親の面影を見ながら、信繁は確信を込めて言った。
「兄上は、諏訪御前様……お主の母の事を愛しておった。――他の誰よりも」
「……っ!」
「そして……その経緯の為に、諏訪御前様がご自身に対して心を開かぬまま身罷られた事を悲しみ……幸せな生涯を送らせてやる事が出来なかった事を、未だに深く悔いておる」
そう言った信繁の脳裏に、十数年前――諏訪御前がこの世を去った直後に見た光景が浮かぶ。
それは、躑躅ヶ崎館の不動堂に籠り、諏訪御前の病平癒の為の護摩行を行っていた兄の後ろ姿だった。
信繁から諏訪御前の死を伝えられた信玄――晴信は、背を向けたまま「そうか」と短く答え、そのまましばらく動かなかった。
不動明王像の方を向いていたせいで、信繁からは兄の顔が見えなかった――が、少し丸まった彼の背が小刻みに震えていた事から、見えずとも彼がどんな表情を浮かべていたのかは明白だった――。
「……だからな」
蘇った辛い記憶に胸が痛むのを感じながら、信繁は言葉を継ぐ。
「兄上も、儂と同じ……いや、儂以上に、お主らに自分たちのような思いを味合わせたくはないと考えておるのだ」
「父上が……」
信繁の話を聞いた勝頼は、呆然とした表情を浮かべたまま、うわごとのように呟いた。
そんな彼の目をじっと見つめながら、信繁は静かな声で言う。
「それを心に置いた上で、答えてくれ」
「……」
「――お主は、龍姫と一緒になりたいか?」
「……っ」
「武田家の事など考えずとも良い。あくまで、お主がひとりの男として、龍姫を己の妻として愛する事が出来るか否かの話だ。――出来ぬというのなら、正直にそう答えよ。さすれば、儂らはお主の意志を尊重し、無理には――」
「――いえ」
信繁の言葉を途中で遮るように声を上げた勝頼は、確固とした意志を宿した瞳で叔父の顔を見つめながら、静かに首を横に振った。
「それには及びませぬ」
「では……」
「はい」
目を見開く信繁に、勝頼は小さく頷く。
「私としては、龍姫を娶る事に対して、何ら異存は御座いませぬ……いえ」
そう言ってつと目を逸らした勝頼の白皙の頬が、みるみる紅く染まった。
「その……むしろ、龍姫を我が妻とする事が出来るなら、願ってもないというか……」
「……!」
「実は……」
照れくさげに鼻頭を触りながら、勝頼はおずおずと言う。
「躑躅ヶ崎館まで同道した時から、私は龍姫の事を好ましく思っていました。特に、道中を共にする間に知った、ただ優しいだけではない……一本固い芯が通っているように感じられる心根の強さに、私は強く惹かれたのです」
「……左様か」
勝頼の答えを聞いた信繁は、ふっと口元を緩めながら頷いた。
「ならば――」
「お待ち下さい、叔父上」
信繁の声を制止するように手を挙げた勝頼は、真剣な表情を浮かべる。
「確かに、私は此度の縁談に対して異存は御座いませぬ。……ですが、夫婦はひとりだけで成るものでは非ず」
「……ああ」
勝頼の言葉を聞いた信繁も、真顔になって頷いた。
「もちろん、その通りだ」
「……お願いいたします」
おもむろに膳を脇へ退かした勝頼は、両手を床につき、信繁に向かって頭を下げながら訴える。
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