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第二部九章 慶事
比翼と連理
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「ふむ……」
勝頼の言葉を聞いた信繁は、顎に指を当てて、小さく唸った。
そして、顎髭を指の腹で撫でながら、じっと甥の顔を見据え、「ならば……」と切り出す。
「もし、龍姫に尋ねた結果が“否”であったとしたら……お主はどうする?」
「……」
信繁の問いかけに、勝頼は逡巡するように一瞬目を伏せた。
……だが、すぐに目を上げて信繁の視線を受け止め、きっぱりと頭を振る。
「ならば、もちろん……諦めます」
「四郎……」
「確かに、私は龍姫と“夫婦”になりたい」
そう言って照れくさげに口元を緩めた勝頼は、「……それも」と言葉を続けた。
「単なる家の都合で結びつけられただけの係わりではなく、白居易の『長恨歌』の中の――『在天願作比翼鳥 在地願為連理枝 (天に在りては願はくは比翼の鳥と作り 地に在りては願はくは連理の枝と為らん)』という一節の如く、互いを支え合う仲睦まじき夫婦に……」
そこで勝頼は一旦口を噤み、今度は表情を曇らせる。
「……ですが、それは所詮、龍姫の意志を考慮に入れぬ、私の勝手な望みでしかありませぬ。――もし、そんな私の一方的な想いだけで龍姫と夫婦となったとしても、“比翼連理”どころか、互いを傷つけ合って双方の心を疲弊させるばかりでしょう」
そう言った勝頼は、きゅっと唇を噛んだ。
「私は、童の頃からずっとそれを見てきましたから……分かります」
「……」
勝頼が何を……誰の事を思い浮かべて、このように苦しげな表情を浮かべているのかは、訊くまでもない。
自身の辛い経験から、彼が感じているやるせなさや哀しさが良く解る信繁は、そんな彼の顔を無言で見つめていた。
少ししてから、勝頼は気持ちを鎮めようとするかのように細く息を吐き、「申し訳ありません」と短く詫びてから、「――ですから」と続ける。
「……私になさったのと同じ問いかけを、龍姫にもして下さい。もし、その答えが――“否”……即ち、龍姫の意に染まぬものであると分かったのなら……此度の縁談は、直ちに最初から無かった事にして頂きとう御座ります」
「そうか……」
勝頼の言葉を聞いた信繁は、小さく頷いた。
……と、
「――典厩様」
それまで黙って下座に控えていた昌幸が、信繁に声をかける。
「そろそろ良い頃合いかと思われますので、拙者は離れの方へ向かいます」
「ああ、分かった」
昌幸の言葉に、信繁は小さく頷いた。
「頼む」
「はっ」
信繁と勝頼に向けて一礼して静かに立ち上がった昌幸は、「失礼仕ります」と言い残して、部屋から出ていく。
そんな彼の後ろ姿をキョトンとした顔で見送った勝頼は、訝しげに首を傾げた。
「武藤は……何をしに離れへ?」
「ああ。実はな……」
傍らの片口を手に取り、空になった勝頼の盃に酒を注ぎながら、信繁は答える。
「今、離れの方にも、とある客人を招いておるのだ」
「客人……私以外にもいらっしゃったのですか?」
「ああ」
目を丸くする勝頼に、信繁は頷いた。
「離れの客人の事は、桔梗と綾に任せている。昌幸は、その様子を窺いに行ったという訳だ」
「成程……そういう事でしたか」
信繁から受け取った片口で、彼の盃に酒を注ぎながら、勝頼は納得する。
……が、興味と共に新たな疑問が頭に浮かんだ彼は、おずおずと信繁に尋ねた。
「ところで……その“とある客人”とは、一体どなたなのですか?」
「ふふ……」
勝頼の問いかけに、信繁は意味深な笑みを漏らす。
「それは……そのうち分かる――かもな」
「……?」
「まあ、もう少し……昌幸が離れから戻ってくるまで、酒でも飲みながらゆるりと待つが良かろう」
そう答えながら、彼は酒が満ちた盃を高く掲げた。
「ささ……ひとまず今の話は措いておいて、飲もうではないか」
「は……はあ……」
勝頼は、自分の問いを妙にはぐらかす信繁の様子に違和感を覚えて眉を顰めながらも、彼からの乾杯の誘いに応じるべく、ひとまず盃を手に取るのだった――。
◆ ◆ ◆ ◆
――それから四半刻 (約三十分)ほど経った。
「失礼仕ります」
そう声をかけながら、離れから戻ってきた昌幸が襖を開ける。
敷居の向こうで片膝をついて一礼する昌幸に、信繁は酒で仄かに赤くなった顔を向け、大きく頷きかけた。
「おう、戻って参ったか」
「はい」
信繁の声に短く答えた昌幸は、ちらりと横に目を向ける。
「――お連れいたしました」
「失礼いたします」
彼の声に続いて、女の穏やかな声が上がった。
微かな衣擦れの音を立てながら進み出て、指を板張りの廊下について一礼したのは、信繁の妻の桔梗である。
信繁は、鷹揚に頷きながら、妻を手招いた。
「構わぬ。中に入れ」
「はい、主様」
信繁の声に応じて、部屋の中に進み入った桔梗は、勝頼の側に腰を下ろすと、彼に向けて深々と頭を下げる。
「本日は、ようこそお出で下さいました。四郎様」
「これは……叔母上。御無沙汰しております」
桔梗の挨拶に、勝頼は慌てて威儀を正して一礼した。
そんな彼に穏やかな微笑みを向けた桔梗は、傍らに置かれた片口を手に取る。
「盃が空になっております。お注ぎいたしましょう」
「あ……頂きます」
桔梗の言葉に一瞬躊躇の表情を見せた勝頼だったが、すぐに自分の盃を差し出した。
酌をしながら、彼の白皙の顔がすっかり赤くなっている事に気付いた桔梗は、くすりと笑う。
「次は、白湯が宜しいでしょうか?」
「あ……」
桔梗の問いかけに頬を更に赤く染めながら、勝頼はぎこちなく頷いた。
「は、はい……お願いいたします」
「うふふ、畏まりました」
笑いながら勝頼の答えに頷いた桔梗は、今度は信繁の盃に酒を注ぐ。
「……桔梗よ」
信繁は、酌を受けながら、妻に尋ねた。
「そちらの首尾はどうだ?」
「……それは」
夫の問いかけに、桔梗はすぐに答えず、ただ襖の方をちらりと見る。
敷居の向こうに控えていた昌幸は、彼女の目配せに小さく頷き、襖の向こうにいる誰かに向けて、合図するように軽く頷きかけた。
彼らの様子を見た勝頼は、訝しげに眉を顰める。
「はて……他にどなたかいらっしゃるので――」
彼の声は、襖の影から出てきた者の姿を見た途端、尻すぼみで途切れた。
「あ、貴女は……」
白粉の上からもはっきりと分かるほどに頬が赤く染まった少女の顔を凝視しながら、勝頼は上ずった声を漏らした。
「た……龍姫が……なぜ、ここに……?」
勝頼の言葉を聞いた信繁は、顎に指を当てて、小さく唸った。
そして、顎髭を指の腹で撫でながら、じっと甥の顔を見据え、「ならば……」と切り出す。
「もし、龍姫に尋ねた結果が“否”であったとしたら……お主はどうする?」
「……」
信繁の問いかけに、勝頼は逡巡するように一瞬目を伏せた。
……だが、すぐに目を上げて信繁の視線を受け止め、きっぱりと頭を振る。
「ならば、もちろん……諦めます」
「四郎……」
「確かに、私は龍姫と“夫婦”になりたい」
そう言って照れくさげに口元を緩めた勝頼は、「……それも」と言葉を続けた。
「単なる家の都合で結びつけられただけの係わりではなく、白居易の『長恨歌』の中の――『在天願作比翼鳥 在地願為連理枝 (天に在りては願はくは比翼の鳥と作り 地に在りては願はくは連理の枝と為らん)』という一節の如く、互いを支え合う仲睦まじき夫婦に……」
そこで勝頼は一旦口を噤み、今度は表情を曇らせる。
「……ですが、それは所詮、龍姫の意志を考慮に入れぬ、私の勝手な望みでしかありませぬ。――もし、そんな私の一方的な想いだけで龍姫と夫婦となったとしても、“比翼連理”どころか、互いを傷つけ合って双方の心を疲弊させるばかりでしょう」
そう言った勝頼は、きゅっと唇を噛んだ。
「私は、童の頃からずっとそれを見てきましたから……分かります」
「……」
勝頼が何を……誰の事を思い浮かべて、このように苦しげな表情を浮かべているのかは、訊くまでもない。
自身の辛い経験から、彼が感じているやるせなさや哀しさが良く解る信繁は、そんな彼の顔を無言で見つめていた。
少ししてから、勝頼は気持ちを鎮めようとするかのように細く息を吐き、「申し訳ありません」と短く詫びてから、「――ですから」と続ける。
「……私になさったのと同じ問いかけを、龍姫にもして下さい。もし、その答えが――“否”……即ち、龍姫の意に染まぬものであると分かったのなら……此度の縁談は、直ちに最初から無かった事にして頂きとう御座ります」
「そうか……」
勝頼の言葉を聞いた信繁は、小さく頷いた。
……と、
「――典厩様」
それまで黙って下座に控えていた昌幸が、信繁に声をかける。
「そろそろ良い頃合いかと思われますので、拙者は離れの方へ向かいます」
「ああ、分かった」
昌幸の言葉に、信繁は小さく頷いた。
「頼む」
「はっ」
信繁と勝頼に向けて一礼して静かに立ち上がった昌幸は、「失礼仕ります」と言い残して、部屋から出ていく。
そんな彼の後ろ姿をキョトンとした顔で見送った勝頼は、訝しげに首を傾げた。
「武藤は……何をしに離れへ?」
「ああ。実はな……」
傍らの片口を手に取り、空になった勝頼の盃に酒を注ぎながら、信繁は答える。
「今、離れの方にも、とある客人を招いておるのだ」
「客人……私以外にもいらっしゃったのですか?」
「ああ」
目を丸くする勝頼に、信繁は頷いた。
「離れの客人の事は、桔梗と綾に任せている。昌幸は、その様子を窺いに行ったという訳だ」
「成程……そういう事でしたか」
信繁から受け取った片口で、彼の盃に酒を注ぎながら、勝頼は納得する。
……が、興味と共に新たな疑問が頭に浮かんだ彼は、おずおずと信繁に尋ねた。
「ところで……その“とある客人”とは、一体どなたなのですか?」
「ふふ……」
勝頼の問いかけに、信繁は意味深な笑みを漏らす。
「それは……そのうち分かる――かもな」
「……?」
「まあ、もう少し……昌幸が離れから戻ってくるまで、酒でも飲みながらゆるりと待つが良かろう」
そう答えながら、彼は酒が満ちた盃を高く掲げた。
「ささ……ひとまず今の話は措いておいて、飲もうではないか」
「は……はあ……」
勝頼は、自分の問いを妙にはぐらかす信繁の様子に違和感を覚えて眉を顰めながらも、彼からの乾杯の誘いに応じるべく、ひとまず盃を手に取るのだった――。
◆ ◆ ◆ ◆
――それから四半刻 (約三十分)ほど経った。
「失礼仕ります」
そう声をかけながら、離れから戻ってきた昌幸が襖を開ける。
敷居の向こうで片膝をついて一礼する昌幸に、信繁は酒で仄かに赤くなった顔を向け、大きく頷きかけた。
「おう、戻って参ったか」
「はい」
信繁の声に短く答えた昌幸は、ちらりと横に目を向ける。
「――お連れいたしました」
「失礼いたします」
彼の声に続いて、女の穏やかな声が上がった。
微かな衣擦れの音を立てながら進み出て、指を板張りの廊下について一礼したのは、信繁の妻の桔梗である。
信繁は、鷹揚に頷きながら、妻を手招いた。
「構わぬ。中に入れ」
「はい、主様」
信繁の声に応じて、部屋の中に進み入った桔梗は、勝頼の側に腰を下ろすと、彼に向けて深々と頭を下げる。
「本日は、ようこそお出で下さいました。四郎様」
「これは……叔母上。御無沙汰しております」
桔梗の挨拶に、勝頼は慌てて威儀を正して一礼した。
そんな彼に穏やかな微笑みを向けた桔梗は、傍らに置かれた片口を手に取る。
「盃が空になっております。お注ぎいたしましょう」
「あ……頂きます」
桔梗の言葉に一瞬躊躇の表情を見せた勝頼だったが、すぐに自分の盃を差し出した。
酌をしながら、彼の白皙の顔がすっかり赤くなっている事に気付いた桔梗は、くすりと笑う。
「次は、白湯が宜しいでしょうか?」
「あ……」
桔梗の問いかけに頬を更に赤く染めながら、勝頼はぎこちなく頷いた。
「は、はい……お願いいたします」
「うふふ、畏まりました」
笑いながら勝頼の答えに頷いた桔梗は、今度は信繁の盃に酒を注ぐ。
「……桔梗よ」
信繁は、酌を受けながら、妻に尋ねた。
「そちらの首尾はどうだ?」
「……それは」
夫の問いかけに、桔梗はすぐに答えず、ただ襖の方をちらりと見る。
敷居の向こうに控えていた昌幸は、彼女の目配せに小さく頷き、襖の向こうにいる誰かに向けて、合図するように軽く頷きかけた。
彼らの様子を見た勝頼は、訝しげに眉を顰める。
「はて……他にどなたかいらっしゃるので――」
彼の声は、襖の影から出てきた者の姿を見た途端、尻すぼみで途切れた。
「あ、貴女は……」
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