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第二部九章 慶事
招待と訪問
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それから数日後の朝――。
「たつ姉様! ようこそお出で下さいました!」
襖の敷居の前で一礼する間ももどかしい様子で、離れの一室の中に入った綾は、部屋の中で座っていた少女の姿を見るや顔を輝かせ、彼女に弾んだ声をかけた。
「これは綾様、おはようございます」
綾の声に振り返った少女――遠山大和守景任の息女・龍は、口元を綻ばせながら、両手を床について頭を下げる。
「この度は、私めをお屋敷にお招き下さりまして、ありがとうございます」
「そんな……お顔を上げて下さいませ!」
龍に頭を下げられた綾は、慌てて首を横に振りながら彼女の前に膝をついた。
「お礼を言うのは、あやの方です! わざわざ、あやのわがままを聞いてここまでお越しいただきまして、本当にありがとうございます、たつ姉さま」
「うふふ、別に、綾様の我儘を聞いたから来た訳ではありませんよ」
床についた自分の手に小さな掌を重ねながら謝る綾に対し、龍は首を横に振る。
「私もかねてより綾様のお屋敷に行きたいと思ってましたから。でも……躑躅ヶ崎館の西曲輪に住まわせていただいている身ゆえ、自分から申し上げる事も気後れしてしまって、なかなか……」
そう言うと、彼女は綾に微笑みかけた。
「ですから、綾様にお招きいただけたのを奇貨として、図々しくも喜んで応じさせて頂いた次第です。……むしろ、お気を遣わせてしまったようで、心苦しい気持ちも……」
「そ、そんな……気をつかわせただなんてとんでもない!」
龍の言葉を聞いた綾は、目を大きく見開きながら、大きく首を左右に振る。
「どうか、心苦しいだなんて思わないでください! あやだけでなく、母上も父上も、たつ姉様が来てくれるのをずっとお待ちしていたのです。どうぞ、これからもお気軽にお越しくださいませ!」
「うむ。綾の申す通りだぞ、龍姫」
不意に、綾の言葉に続いて、男の低い声が上がった。
その落ち着いた声を聞いた綾と龍は、ハッとした顔をして、慌てて平伏しようとする。
「ははは。ふたりとも、そう畏まらずとも良い。面を上げてくれ」
妻の桔梗を伴って部屋に入ってきた信繁は、頭を下げようとするふたりを手で制しながら、鷹揚に言った。
上座に敷かれた円座の上に腰を下ろした信繁は、緊張した面持ちの龍に穏やかな目を向けながら、優しく声をかける。
「龍姫、我が屋敷へ良う御出で下さった。心より歓迎いたすぞ」
「は、はい……歓迎だなんて、勿体なきお言葉にございます。武田典厩様……」
信繁がかけた穏やかな声に、龍姫は緊張の中にもホッとした表情を浮かべた。
そんな彼女に優しく微笑みかけた信繁は、立膝で腰を下ろした桔梗にチラリと目を向けてから、龍に尋ねる。
「そういえば……龍姫は、我が妻と顔を合わせるのは初めてだったかな?」
「あ、いえ……」
信繁の問いかけに、龍は軽く頭を振った。
「私が甲斐に着いてまだ間もない頃……綾様が初めて私の元へ遊びに来て下さった際にご一緒にいらっしゃって、ご挨拶させていただきました」
「ええ、そうでしたね」
龍の言葉に、桔梗は穏やかな笑みを浮かべながら頷いた。
「お久しぶりです、たつ様。ようこそお越し下さいました。どうぞ、ご自分の家と思ってお寛ぎ下さいね」
「ありがとうございます、桔梗様」
桔梗の優しい言葉に、嬉しそうに顔を綻ばせる龍。
そんなふたりのやり取りを微笑みながら見ていた信繁は、龍に向かって申し訳なさそうに言った。
「だが……相済まぬな。主殿ではなく、離れに通す事となってしまって。生憎と、今日は別の客も来る予定があってな……」
「あ、いえ、そんな……滅相もございません」
信繁の謝罪に、龍は恐縮した様子で頭を振る。
「こちらこそ、申し訳ございません。私など、離れで十分でございます。どうか、私などにお気を遣われる事など無きよう――」
「……ご歓談中、失礼いたします」
龍の言葉を遮るように上がった声の主は、武藤昌幸だった。
敷居の向こうで片膝をついた彼は、軽く頭を下げてから、信繁に向かって言う。
「典厩様、例のお客人が参られました。御指示通り、主殿の大広間にお通ししております」
「うむ、来たか」
昌幸の言葉に小さく頷いた信繁は、再び龍の方に顔を向けた。
「と、いう事で……挨拶早々で申し訳ないが、これで失礼いたす」
「あ……はい。どうぞお気になさらず」
信繁の声に、龍は床に手をついて頭を下げる。
そんな彼女に軽く会釈した信繁は、今度は綾に目を向けた。
「綾、龍姫を退屈させぬよう、頼んだぞ」
「もちろん、父上に言われるまでもありません!」
信繁の頼みに対し、綾は少しむくれた顔で答える。
「たつ姉様のことは、どうぞあやにおまかせ下さいませ。父上は、その大切なお客人様の元へ早くお行き下さいな」
「……」
つっかかるような綾の物言いに苦笑を浮かべた信繁は、彼女を窘めようとした桔梗を目で制した。
「桔梗、後の事は任せたぞ」
「……かしこまりました、主様」
信繁が言葉に込めた意図を機敏に察した桔梗は、小さく頷く。
そんな彼女に目で頷き返した信繁は、「では、これにて」と龍に告げてから席を立ち、部屋から出た。
そして、主殿に向かう廊下を歩きながら、後からついてくる昌幸に向けて声をかける。
「――昌幸よ。今日参ったのは、あやつひとりだけか?」
「はい」
信繁の問いかけに、昌幸は短く答えた。
それを聞いた信繁は、「そうか」と呟き、更に問いを重ねる。
「……龍姫が屋敷を訪れている事、気取られてはおらぬだろうな?」
「はい。『些か土が泥濘んでおりますゆえ』と申し上げて、龍様の輿と供回りの者たちの姿を見られぬよう、少し遠回りして主殿へお通ししましたから、大丈夫なはずです」
「善し」
昌幸の答えに満足げに答えた信繁は、主殿へ向かう足の運びを心持ち早めるのだった。
「たつ姉様! ようこそお出で下さいました!」
襖の敷居の前で一礼する間ももどかしい様子で、離れの一室の中に入った綾は、部屋の中で座っていた少女の姿を見るや顔を輝かせ、彼女に弾んだ声をかけた。
「これは綾様、おはようございます」
綾の声に振り返った少女――遠山大和守景任の息女・龍は、口元を綻ばせながら、両手を床について頭を下げる。
「この度は、私めをお屋敷にお招き下さりまして、ありがとうございます」
「そんな……お顔を上げて下さいませ!」
龍に頭を下げられた綾は、慌てて首を横に振りながら彼女の前に膝をついた。
「お礼を言うのは、あやの方です! わざわざ、あやのわがままを聞いてここまでお越しいただきまして、本当にありがとうございます、たつ姉さま」
「うふふ、別に、綾様の我儘を聞いたから来た訳ではありませんよ」
床についた自分の手に小さな掌を重ねながら謝る綾に対し、龍は首を横に振る。
「私もかねてより綾様のお屋敷に行きたいと思ってましたから。でも……躑躅ヶ崎館の西曲輪に住まわせていただいている身ゆえ、自分から申し上げる事も気後れしてしまって、なかなか……」
そう言うと、彼女は綾に微笑みかけた。
「ですから、綾様にお招きいただけたのを奇貨として、図々しくも喜んで応じさせて頂いた次第です。……むしろ、お気を遣わせてしまったようで、心苦しい気持ちも……」
「そ、そんな……気をつかわせただなんてとんでもない!」
龍の言葉を聞いた綾は、目を大きく見開きながら、大きく首を左右に振る。
「どうか、心苦しいだなんて思わないでください! あやだけでなく、母上も父上も、たつ姉様が来てくれるのをずっとお待ちしていたのです。どうぞ、これからもお気軽にお越しくださいませ!」
「うむ。綾の申す通りだぞ、龍姫」
不意に、綾の言葉に続いて、男の低い声が上がった。
その落ち着いた声を聞いた綾と龍は、ハッとした顔をして、慌てて平伏しようとする。
「ははは。ふたりとも、そう畏まらずとも良い。面を上げてくれ」
妻の桔梗を伴って部屋に入ってきた信繁は、頭を下げようとするふたりを手で制しながら、鷹揚に言った。
上座に敷かれた円座の上に腰を下ろした信繁は、緊張した面持ちの龍に穏やかな目を向けながら、優しく声をかける。
「龍姫、我が屋敷へ良う御出で下さった。心より歓迎いたすぞ」
「は、はい……歓迎だなんて、勿体なきお言葉にございます。武田典厩様……」
信繁がかけた穏やかな声に、龍姫は緊張の中にもホッとした表情を浮かべた。
そんな彼女に優しく微笑みかけた信繁は、立膝で腰を下ろした桔梗にチラリと目を向けてから、龍に尋ねる。
「そういえば……龍姫は、我が妻と顔を合わせるのは初めてだったかな?」
「あ、いえ……」
信繁の問いかけに、龍は軽く頭を振った。
「私が甲斐に着いてまだ間もない頃……綾様が初めて私の元へ遊びに来て下さった際にご一緒にいらっしゃって、ご挨拶させていただきました」
「ええ、そうでしたね」
龍の言葉に、桔梗は穏やかな笑みを浮かべながら頷いた。
「お久しぶりです、たつ様。ようこそお越し下さいました。どうぞ、ご自分の家と思ってお寛ぎ下さいね」
「ありがとうございます、桔梗様」
桔梗の優しい言葉に、嬉しそうに顔を綻ばせる龍。
そんなふたりのやり取りを微笑みながら見ていた信繁は、龍に向かって申し訳なさそうに言った。
「だが……相済まぬな。主殿ではなく、離れに通す事となってしまって。生憎と、今日は別の客も来る予定があってな……」
「あ、いえ、そんな……滅相もございません」
信繁の謝罪に、龍は恐縮した様子で頭を振る。
「こちらこそ、申し訳ございません。私など、離れで十分でございます。どうか、私などにお気を遣われる事など無きよう――」
「……ご歓談中、失礼いたします」
龍の言葉を遮るように上がった声の主は、武藤昌幸だった。
敷居の向こうで片膝をついた彼は、軽く頭を下げてから、信繁に向かって言う。
「典厩様、例のお客人が参られました。御指示通り、主殿の大広間にお通ししております」
「うむ、来たか」
昌幸の言葉に小さく頷いた信繁は、再び龍の方に顔を向けた。
「と、いう事で……挨拶早々で申し訳ないが、これで失礼いたす」
「あ……はい。どうぞお気になさらず」
信繁の声に、龍は床に手をついて頭を下げる。
そんな彼女に軽く会釈した信繁は、今度は綾に目を向けた。
「綾、龍姫を退屈させぬよう、頼んだぞ」
「もちろん、父上に言われるまでもありません!」
信繁の頼みに対し、綾は少しむくれた顔で答える。
「たつ姉様のことは、どうぞあやにおまかせ下さいませ。父上は、その大切なお客人様の元へ早くお行き下さいな」
「……」
つっかかるような綾の物言いに苦笑を浮かべた信繁は、彼女を窘めようとした桔梗を目で制した。
「桔梗、後の事は任せたぞ」
「……かしこまりました、主様」
信繁が言葉に込めた意図を機敏に察した桔梗は、小さく頷く。
そんな彼女に目で頷き返した信繁は、「では、これにて」と龍に告げてから席を立ち、部屋から出た。
そして、主殿に向かう廊下を歩きながら、後からついてくる昌幸に向けて声をかける。
「――昌幸よ。今日参ったのは、あやつひとりだけか?」
「はい」
信繁の問いかけに、昌幸は短く答えた。
それを聞いた信繁は、「そうか」と呟き、更に問いを重ねる。
「……龍姫が屋敷を訪れている事、気取られてはおらぬだろうな?」
「はい。『些か土が泥濘んでおりますゆえ』と申し上げて、龍様の輿と供回りの者たちの姿を見られぬよう、少し遠回りして主殿へお通ししましたから、大丈夫なはずです」
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