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第二部九章 慶事
意思と意志
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「四郎様……?」
呆然とした顔で自分を見つめた勝頼に負けず劣らず驚いた様子で一瞬立ち尽くした龍だったが、すぐにその場で膝をつき、深々と頭を垂れた。
「堅苦しい挨拶は抜きだ。疾く入られよ、龍姫」
「は……はい。失礼いたします……」
信繁の招きに応じてぎこちなく頷いた龍は、微かな衣擦れの音を立てて、大広間の中に足を踏み入れる。
「え? なぜここに四郎さまが……?」
彼女の後に続いて姿を見せた綾も、勝頼の顔を見た瞬間、目を丸くした。
綾は、含み笑いを浮かべながら盃を傾ける父に険しい目を向ける。
「――父上! どういうことですかっ? あやは、四郎さまがお屋敷に来ていらっしゃるとは聞いておりません!」
「ははは、すまぬ、綾」
娘の剣幕に苦笑しながら、信繁は軽く詫びた。
「聞いておらぬのも当然だ。何せ、儂が桔梗と昌幸に口止めしておったからな。『綾には悟られるな』とな」
「なっ……」
信繁の答えを聞いた綾は、あんぐりと口を開け、隣に控えている昌幸に尋ねる。
「母上だけでなく、喜兵衛どのも知ってらしたのですか? 四郎さまがいらっしゃる事を」
「あ……は、はい。まあ……」
綾に恨めしげな目で睨まれた昌幸は、おずおずと頷いた。
それを見るや不満げに頬を膨らませた綾に、信繁が苦笑しながら取り成した。
「そう昌幸の事を睨んでやるな。あくまでこやつは、儂が命じた事を守っただけなのだからな」
「……それは、分かりました」
父の言葉に不承不承頷いた綾だったが、今度は訝しげに眉を顰める。
「でも……どうしてですか? なぜ、あやに四郎さまの事を伏せていたのですか?」
「あぁ、それは……」
綾の問いかけに、信繁は少し言いづらそう顔で頬を掻いた。
「まあ……お前が四郎が屋敷に来ている事を知ったら、たとえ口止めしても龍姫に漏らしてしまうだろうと思ってな……」
「は?」
信繁の答えを聞くや、綾は眉を吊り上げる。
「父上は、あやがそんなに口が軽いとお思いになっておられるのですか? 口止めされたことをあっさりしゃべってしまうような――!」
「あ、いや、そうではないのだ」
綾の激しい剣幕に、信繁は慌てて首を横に振った。
と、
「誰も、綾の口が軽いなどとは思っておりませんよ」
見かねた桔梗が口を挟む。
困り笑いを浮かべながら、彼女は娘をなだめるように言った。
「ただ、あなたは根がとても素直で正直な娘ですから、四郎様の事を知ってしまったら、思わずついつい口を滑らせてしまうかもしれないと、お父上は心配なさったのです」
「あ……つまり、最初から知らなければ、四郎さまの事を漏らすこともない……と」
母の言葉を聞いた綾は、途端に機嫌を直した様子でにっこりと微笑む。
「そういうことだったのですね。あやは納得しました」
「解ってくれたか……」
娘の機嫌が直った事に、ほっと安堵の息を吐く信繁。
と、
「では……」
今度は、龍が怪訝な声を上げる。
昌幸が急いで敷いた円座に腰を下ろした彼女は、勝頼が自分に軽く目礼した事に気付いて、慌てて顔を赤らめながら会釈を返してから、おずおずと信繁に尋ねた。
「な、なぜ……四郎様がお屋敷にいらっしゃる事を、私に隠そうとなさったのですか?」
「うむ……」
龍の問いかけに、表情を引き締めながら小さく頷いた勝頼は、向かいに座る勝頼の顔をちらりと見てから口を開く。
「……恐らく、離れで桔梗から話をされたと思うが」
「……っ!」
信繁の言葉を聞いた瞬間、龍の顔が更に真っ赤になった。
動揺を隠せぬ様子で視線を泳がせる彼女に、信繁は更に言葉を継ぐ。
「儂はここで、同じ話を四郎にして――それに対する四郎の考えを聞いた」
「えっ……」
「……ッ!」
今度は、龍だけでなく勝頼も息を呑み、思わず互いの方に顔を向けた。
結果として顔を見合わせた形になったふたりは、互いにハッとした表情を浮かべて、慌てて目を逸らす。
そんなふたりの素振りを見て見ぬ振りしながら、信繁は「――それで」と続けた。
「その件――“四郎との縁談”に対する龍姫の考えは……如何様なものかな?」
「……っ」
信繁の問いかけに、龍は目を大きく見開く。
「わ……私は……」
顔を紅潮させながら、龍姫は上ずった声で言い淀んだ。
と、
「お、お待ち下され、叔父上!」
傍らで彼女の様子を見ていた勝頼が、慌てて声を上げる。
「そ、そのような大事をいきなり問い質されても、龍姫はお困りになるだけかと存じます! ここは、一度ゆっくりと考える時間をお与え頂き、その上で……」
「別に、いきなりという訳ではないぞ」
勝頼の声に、信繁は軽く頭を振った。
「先ほども申した通り、離れで桔梗が同じ事を訊いていたはずだ。……そして、龍姫も既にその答えを出している」
そう言った信繁は、傍らに控える桔梗に顔を向け、「そうであろう?」と尋ねる。
「ええ。左様にございます」
夫の問いかけに、桔梗は軽く頷いた。
「離れで、私と綾がそれとなくお伺いいたしました。たつ様のお気持ちと答えを……」
そう答えると、桔梗はつと目を龍に向け、気遣うように尋ねる。
「……たつ様。もし、ご自身の口からお答えする事が難しいようでしたら、私から申し上げましょうか?」
「…………いえ」
桔梗の申し出に、一瞬躊躇した様子を見せた龍だったが、すぐに首を左右に振った。
「お気遣い頂きまして、ありがとうございます。……ですが、これは他ならぬ自分自身のことですから、私の口からお答え申し上げとうございます」
「……そうですか」
龍の答えを聞いた桔梗は、ニコリと微笑む。
「ええ、それが良うございますわ」
「はい……」
桔梗に頷き返した龍は、軽く目を瞑って、気持ちを落ち着かせるように深く息を吸った。
吸った空気を長く吐いてから、ゆっくりと目を開いた龍は、傍らに座る勝頼の顔を見る。
そんな彼女の視線を、勝頼も正面から受け止め、真剣な眼差しで見つめ返した。
「……」
勝頼と見つめ合い、頬をほんのりと染めた龍は、信繁の方に向き直る。
そして――、
「……典厩様」
桔梗は、微かに震えていて……それでも固い意志を込めた声で、信繁の問いかけにハッキリと答えた。
「私は…………四郎様と夫婦になりとうございます」
――と。
呆然とした顔で自分を見つめた勝頼に負けず劣らず驚いた様子で一瞬立ち尽くした龍だったが、すぐにその場で膝をつき、深々と頭を垂れた。
「堅苦しい挨拶は抜きだ。疾く入られよ、龍姫」
「は……はい。失礼いたします……」
信繁の招きに応じてぎこちなく頷いた龍は、微かな衣擦れの音を立てて、大広間の中に足を踏み入れる。
「え? なぜここに四郎さまが……?」
彼女の後に続いて姿を見せた綾も、勝頼の顔を見た瞬間、目を丸くした。
綾は、含み笑いを浮かべながら盃を傾ける父に険しい目を向ける。
「――父上! どういうことですかっ? あやは、四郎さまがお屋敷に来ていらっしゃるとは聞いておりません!」
「ははは、すまぬ、綾」
娘の剣幕に苦笑しながら、信繁は軽く詫びた。
「聞いておらぬのも当然だ。何せ、儂が桔梗と昌幸に口止めしておったからな。『綾には悟られるな』とな」
「なっ……」
信繁の答えを聞いた綾は、あんぐりと口を開け、隣に控えている昌幸に尋ねる。
「母上だけでなく、喜兵衛どのも知ってらしたのですか? 四郎さまがいらっしゃる事を」
「あ……は、はい。まあ……」
綾に恨めしげな目で睨まれた昌幸は、おずおずと頷いた。
それを見るや不満げに頬を膨らませた綾に、信繁が苦笑しながら取り成した。
「そう昌幸の事を睨んでやるな。あくまでこやつは、儂が命じた事を守っただけなのだからな」
「……それは、分かりました」
父の言葉に不承不承頷いた綾だったが、今度は訝しげに眉を顰める。
「でも……どうしてですか? なぜ、あやに四郎さまの事を伏せていたのですか?」
「あぁ、それは……」
綾の問いかけに、信繁は少し言いづらそう顔で頬を掻いた。
「まあ……お前が四郎が屋敷に来ている事を知ったら、たとえ口止めしても龍姫に漏らしてしまうだろうと思ってな……」
「は?」
信繁の答えを聞くや、綾は眉を吊り上げる。
「父上は、あやがそんなに口が軽いとお思いになっておられるのですか? 口止めされたことをあっさりしゃべってしまうような――!」
「あ、いや、そうではないのだ」
綾の激しい剣幕に、信繁は慌てて首を横に振った。
と、
「誰も、綾の口が軽いなどとは思っておりませんよ」
見かねた桔梗が口を挟む。
困り笑いを浮かべながら、彼女は娘をなだめるように言った。
「ただ、あなたは根がとても素直で正直な娘ですから、四郎様の事を知ってしまったら、思わずついつい口を滑らせてしまうかもしれないと、お父上は心配なさったのです」
「あ……つまり、最初から知らなければ、四郎さまの事を漏らすこともない……と」
母の言葉を聞いた綾は、途端に機嫌を直した様子でにっこりと微笑む。
「そういうことだったのですね。あやは納得しました」
「解ってくれたか……」
娘の機嫌が直った事に、ほっと安堵の息を吐く信繁。
と、
「では……」
今度は、龍が怪訝な声を上げる。
昌幸が急いで敷いた円座に腰を下ろした彼女は、勝頼が自分に軽く目礼した事に気付いて、慌てて顔を赤らめながら会釈を返してから、おずおずと信繁に尋ねた。
「な、なぜ……四郎様がお屋敷にいらっしゃる事を、私に隠そうとなさったのですか?」
「うむ……」
龍の問いかけに、表情を引き締めながら小さく頷いた勝頼は、向かいに座る勝頼の顔をちらりと見てから口を開く。
「……恐らく、離れで桔梗から話をされたと思うが」
「……っ!」
信繁の言葉を聞いた瞬間、龍の顔が更に真っ赤になった。
動揺を隠せぬ様子で視線を泳がせる彼女に、信繁は更に言葉を継ぐ。
「儂はここで、同じ話を四郎にして――それに対する四郎の考えを聞いた」
「えっ……」
「……ッ!」
今度は、龍だけでなく勝頼も息を呑み、思わず互いの方に顔を向けた。
結果として顔を見合わせた形になったふたりは、互いにハッとした表情を浮かべて、慌てて目を逸らす。
そんなふたりの素振りを見て見ぬ振りしながら、信繁は「――それで」と続けた。
「その件――“四郎との縁談”に対する龍姫の考えは……如何様なものかな?」
「……っ」
信繁の問いかけに、龍は目を大きく見開く。
「わ……私は……」
顔を紅潮させながら、龍姫は上ずった声で言い淀んだ。
と、
「お、お待ち下され、叔父上!」
傍らで彼女の様子を見ていた勝頼が、慌てて声を上げる。
「そ、そのような大事をいきなり問い質されても、龍姫はお困りになるだけかと存じます! ここは、一度ゆっくりと考える時間をお与え頂き、その上で……」
「別に、いきなりという訳ではないぞ」
勝頼の声に、信繁は軽く頭を振った。
「先ほども申した通り、離れで桔梗が同じ事を訊いていたはずだ。……そして、龍姫も既にその答えを出している」
そう言った信繁は、傍らに控える桔梗に顔を向け、「そうであろう?」と尋ねる。
「ええ。左様にございます」
夫の問いかけに、桔梗は軽く頷いた。
「離れで、私と綾がそれとなくお伺いいたしました。たつ様のお気持ちと答えを……」
そう答えると、桔梗はつと目を龍に向け、気遣うように尋ねる。
「……たつ様。もし、ご自身の口からお答えする事が難しいようでしたら、私から申し上げましょうか?」
「…………いえ」
桔梗の申し出に、一瞬躊躇した様子を見せた龍だったが、すぐに首を左右に振った。
「お気遣い頂きまして、ありがとうございます。……ですが、これは他ならぬ自分自身のことですから、私の口からお答え申し上げとうございます」
「……そうですか」
龍の答えを聞いた桔梗は、ニコリと微笑む。
「ええ、それが良うございますわ」
「はい……」
桔梗に頷き返した龍は、軽く目を瞑って、気持ちを落ち着かせるように深く息を吸った。
吸った空気を長く吐いてから、ゆっくりと目を開いた龍は、傍らに座る勝頼の顔を見る。
そんな彼女の視線を、勝頼も正面から受け止め、真剣な眼差しで見つめ返した。
「……」
勝頼と見つめ合い、頬をほんのりと染めた龍は、信繁の方に向き直る。
そして――、
「……典厩様」
桔梗は、微かに震えていて……それでも固い意志を込めた声で、信繁の問いかけにハッキリと答えた。
「私は…………四郎様と夫婦になりとうございます」
――と。
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