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第二部九章 慶事
縁談と希望
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その日の夜――。
「ははあ、なるほど……」
夕刻に信繁の屋敷を訪れた嫡男の信豊は、父の酌を受けながら、納得顔で頷いた。
「だから、某が四郎殿と同道して屋敷へ参る事をお止めなさったのですね」
「まあ、そういう事だ」
先ほど躑躅ヶ崎館から戻って来てから寛いだ恰好に着替え、久々に息子と夕餉の膳を共にした信繁は、信豊の言葉に苦笑いを浮かべる。
「年が近い男のお主が一緒にいては、四郎が本音を打ち明けられぬだろうと思ってな」
「それは確かに……そうでしょうね」
信繁の答えに、信豊は口元を緩めた。
「やはり、いくら気心の知れた仲であっても、男の前で己の色恋の事を口にするのは照れくさいものがありますからね。父上の御憂慮も当然かと」
「そんなところだ」
「ですが……」
頷く信繁に、信豊は少し不満げな目を向ける。
「斯様な事を企みなさっておられるのでしたら、某にも一言伝えて下されば良かったのに……」
「六郎次郎……」
「一応、某は四郎殿の従兄弟であり朋輩なのですから。彼の大事な節目で、ひとり蚊帳の外に置かれたままというのは、正直……」
「うふふ……」
憮然とする兄の顔を見ながら、綾は微笑みを浮かべた。
「しょうがありません。なにせ、兄上は兄上なのですから」
「……なんだ、それは? どういう意味だ?」
信豊は、意味深な綾の言葉が気になって、訝しげに眉を寄せながら妹に尋ねる。
そんな兄の問いかけに、綾はしたり顔で「ですから……」と答えた。
「兄上は単純で態度に出やすいですから。もし、こたびの企みを兄上にお伝えしたら、うっかり四郎さまにもらして気取られてしまうかもしれないと、父上は心配したのですよ」
「な、何を申す!」
綾の答えを聞いた信豊は、顔を真っ赤にして声を荒げる。
「そ、某は武田家の臣として、一城を任されておる身だぞ! た、企みを漏らして相手に気取られるなどと……そのような粗忽者な訳が無かろう!」
憤懣やるかたない様子で叫んだ信豊は、信繁に顔を向けて尋ねた。
「もちろん、父上もそうお思いですよねッ?」
「ん? あぁ……まあ、どうかな……」
「……父上?」
妙に歯切れが悪い父の反応に、信豊は表情を曇らせる。
と、
「――そんな事より、六郎次郎殿、おかわりはいかがですか?」
すかさず桔梗が声を上げ、彼に向けて手を差し出した。
「え? あぁ……はい。じゃあ……」
信豊は、母の問いかけの優しい声にすっかり気を抜かれた様子で頷き、空になった椀を彼女に預ける。
「お願いします……」
「はい、かしこまりました」
そう答えて信豊の手から椀を受け取った桔梗は、櫃の中から飯をよそいながら、さりげなく夫の方に視線を向けた。
「ご……ゴホン……」
妻の表情で、彼女が(あまり六郎次郎殿を不安がらせないで下さいまし)と自分をやんわり咎めている事に気付いた信繁は、慌てた様子でわざとらしく咳払いをしてから、場を取り成すように口を開く。
「まあ……そういう訳で、今後は四郎と龍姫の婚姻に向けて忙しくなるだろう。お屋形様は、早ければ夏前には祝言を済ませたいとの御意向だ。お主にも、親族衆のひとりとして動いてもらう事があるかもしれぬから、そのつもりでおれ」
「はっ……畏まりました」
信繁の言葉に、姿勢を正して一礼した信豊は、顔を上げながら、「……ところで」と尋ねた。
「美濃の遠山家は、此度の縁談話を承知しているのですか?」
「……正式には、まだだ」
そう答えて軽く首を振った信繁は、酒を一口含んでから、「しかし」と続ける。
「遠山宗家の当主である大和守 (景任)夫妻には、儂が美濃から甲斐に戻る前にそれとなく話してある」
「そうだったのですね……」
「遠山家としても、お屋形様の子である四郎と龍姫が夫婦となれば、色々と利が多い。それに加えて、此度の縁談は龍姫自身が望んでいるという事なのだから、つや殿たちは否やとは言うまい」
「確かに……」
理に適った信繁の言葉に、信豊は納得した様子で頷いた。
と、
「たのしみですね、たつ姉様の嫁入り姿……。きれいでしょうねぇ」
綾がうっとりした顔で呟く。
「しかも……決められた相手じゃなくて、好き合っている同士で結ばれるなんて……本当にすてきな話」
そう言った綾は、やにわに目を輝かせながら、盃に口をつけようとしていた父に向かって身を乗り出した。
「父上! あやも、たつ姉様と同じように、好きな相手の元に嫁ぎとうございます!」
「ん、んんっ?」
突然の綾の発言に驚き、思わず口に含んだ酒を噴き出してしまった信繁は、酒で濡れた口元を手の甲で拭いながら、目を何度も瞬かせながら娘に尋ねる。
「ど、どうした綾? い、いきなり『嫁ぎたい』とか……お主には、まだ早い話だぞ」
「もちろん、それは分かっております」
綾は信繁の言葉にコクンと頷いたが、「でも」と続けた。
「いずれは、あやにも嫁ぐ時が参ります。その時の話です」
「と、嫁ぐ時……か。う、うむ……」
娘の言う事に対し、信繁は狼狽を隠せぬ様子で曖昧に頷く。
「た、確かにそうだが……さすがに、まだ嫁入り云々という話は気が早いというか、時期尚早というか……」
「おい、綾」
信豊が、動揺を隠せぬ様子の父の様子に込み上げてくる笑いを噛み殺しながら、妹に問いかけた。
「ちなみに、その相手というのは、もう決めておるのか?」
「え……?」
綾は、兄の問いかけに目を丸くする。
キョトンとした顔の妹にニヤリと笑みかけながら、信豊は言葉を継いだ。
「決まっておるのなら、早めに明言しておいた方がいいかもしれぬぞ。うかうかしていたら、別の娘がお主の意中の男の嫁として宛がわれてしまうかもしれぬからな」
「そ……それは……イヤです! イヤですけど……」
ハッとした顔をした綾は、兄の言う通り、意中の相手の名を父に告げようかと、少しの間葛藤していた様子だったが、
「や、やっぱり、縁談のお話はまだいいですっ!」
結局、顔を真っ赤にしながら、首を大きく左右に振るのだった。
「ははあ、なるほど……」
夕刻に信繁の屋敷を訪れた嫡男の信豊は、父の酌を受けながら、納得顔で頷いた。
「だから、某が四郎殿と同道して屋敷へ参る事をお止めなさったのですね」
「まあ、そういう事だ」
先ほど躑躅ヶ崎館から戻って来てから寛いだ恰好に着替え、久々に息子と夕餉の膳を共にした信繁は、信豊の言葉に苦笑いを浮かべる。
「年が近い男のお主が一緒にいては、四郎が本音を打ち明けられぬだろうと思ってな」
「それは確かに……そうでしょうね」
信繁の答えに、信豊は口元を緩めた。
「やはり、いくら気心の知れた仲であっても、男の前で己の色恋の事を口にするのは照れくさいものがありますからね。父上の御憂慮も当然かと」
「そんなところだ」
「ですが……」
頷く信繁に、信豊は少し不満げな目を向ける。
「斯様な事を企みなさっておられるのでしたら、某にも一言伝えて下されば良かったのに……」
「六郎次郎……」
「一応、某は四郎殿の従兄弟であり朋輩なのですから。彼の大事な節目で、ひとり蚊帳の外に置かれたままというのは、正直……」
「うふふ……」
憮然とする兄の顔を見ながら、綾は微笑みを浮かべた。
「しょうがありません。なにせ、兄上は兄上なのですから」
「……なんだ、それは? どういう意味だ?」
信豊は、意味深な綾の言葉が気になって、訝しげに眉を寄せながら妹に尋ねる。
そんな兄の問いかけに、綾はしたり顔で「ですから……」と答えた。
「兄上は単純で態度に出やすいですから。もし、こたびの企みを兄上にお伝えしたら、うっかり四郎さまにもらして気取られてしまうかもしれないと、父上は心配したのですよ」
「な、何を申す!」
綾の答えを聞いた信豊は、顔を真っ赤にして声を荒げる。
「そ、某は武田家の臣として、一城を任されておる身だぞ! た、企みを漏らして相手に気取られるなどと……そのような粗忽者な訳が無かろう!」
憤懣やるかたない様子で叫んだ信豊は、信繁に顔を向けて尋ねた。
「もちろん、父上もそうお思いですよねッ?」
「ん? あぁ……まあ、どうかな……」
「……父上?」
妙に歯切れが悪い父の反応に、信豊は表情を曇らせる。
と、
「――そんな事より、六郎次郎殿、おかわりはいかがですか?」
すかさず桔梗が声を上げ、彼に向けて手を差し出した。
「え? あぁ……はい。じゃあ……」
信豊は、母の問いかけの優しい声にすっかり気を抜かれた様子で頷き、空になった椀を彼女に預ける。
「お願いします……」
「はい、かしこまりました」
そう答えて信豊の手から椀を受け取った桔梗は、櫃の中から飯をよそいながら、さりげなく夫の方に視線を向けた。
「ご……ゴホン……」
妻の表情で、彼女が(あまり六郎次郎殿を不安がらせないで下さいまし)と自分をやんわり咎めている事に気付いた信繁は、慌てた様子でわざとらしく咳払いをしてから、場を取り成すように口を開く。
「まあ……そういう訳で、今後は四郎と龍姫の婚姻に向けて忙しくなるだろう。お屋形様は、早ければ夏前には祝言を済ませたいとの御意向だ。お主にも、親族衆のひとりとして動いてもらう事があるかもしれぬから、そのつもりでおれ」
「はっ……畏まりました」
信繁の言葉に、姿勢を正して一礼した信豊は、顔を上げながら、「……ところで」と尋ねた。
「美濃の遠山家は、此度の縁談話を承知しているのですか?」
「……正式には、まだだ」
そう答えて軽く首を振った信繁は、酒を一口含んでから、「しかし」と続ける。
「遠山宗家の当主である大和守 (景任)夫妻には、儂が美濃から甲斐に戻る前にそれとなく話してある」
「そうだったのですね……」
「遠山家としても、お屋形様の子である四郎と龍姫が夫婦となれば、色々と利が多い。それに加えて、此度の縁談は龍姫自身が望んでいるという事なのだから、つや殿たちは否やとは言うまい」
「確かに……」
理に適った信繁の言葉に、信豊は納得した様子で頷いた。
と、
「たのしみですね、たつ姉様の嫁入り姿……。きれいでしょうねぇ」
綾がうっとりした顔で呟く。
「しかも……決められた相手じゃなくて、好き合っている同士で結ばれるなんて……本当にすてきな話」
そう言った綾は、やにわに目を輝かせながら、盃に口をつけようとしていた父に向かって身を乗り出した。
「父上! あやも、たつ姉様と同じように、好きな相手の元に嫁ぎとうございます!」
「ん、んんっ?」
突然の綾の発言に驚き、思わず口に含んだ酒を噴き出してしまった信繁は、酒で濡れた口元を手の甲で拭いながら、目を何度も瞬かせながら娘に尋ねる。
「ど、どうした綾? い、いきなり『嫁ぎたい』とか……お主には、まだ早い話だぞ」
「もちろん、それは分かっております」
綾は信繁の言葉にコクンと頷いたが、「でも」と続けた。
「いずれは、あやにも嫁ぐ時が参ります。その時の話です」
「と、嫁ぐ時……か。う、うむ……」
娘の言う事に対し、信繁は狼狽を隠せぬ様子で曖昧に頷く。
「た、確かにそうだが……さすがに、まだ嫁入り云々という話は気が早いというか、時期尚早というか……」
「おい、綾」
信豊が、動揺を隠せぬ様子の父の様子に込み上げてくる笑いを噛み殺しながら、妹に問いかけた。
「ちなみに、その相手というのは、もう決めておるのか?」
「え……?」
綾は、兄の問いかけに目を丸くする。
キョトンとした顔の妹にニヤリと笑みかけながら、信豊は言葉を継いだ。
「決まっておるのなら、早めに明言しておいた方がいいかもしれぬぞ。うかうかしていたら、別の娘がお主の意中の男の嫁として宛がわれてしまうかもしれぬからな」
「そ……それは……イヤです! イヤですけど……」
ハッとした顔をした綾は、兄の言う通り、意中の相手の名を父に告げようかと、少しの間葛藤していた様子だったが、
「や、やっぱり、縁談のお話はまだいいですっ!」
結局、顔を真っ赤にしながら、首を大きく左右に振るのだった。
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