259 / 263
第二部九章 慶事
企み事と理由
しおりを挟む
――だが、
それから四半刻 (約三十分)も経たぬうちに、
「母上ぇ~……」
と、すっかり弱り顔になった綾が、信繁の部屋の襖を勢いよく開けて飛び込んできた。
「おう、なんだ、綾。四郎たちの相手はどうした?」
「……小用を足しに行くと言って抜けてきました」
躑躅ヶ崎館に参る為、大紋に着替えていた信繁の問いかけにバツ悪げに答えた綾は、大きな溜息を吐いてから、夫の着付けを手伝っていた桔梗に懇願する。
「もう、あやひとりでたつ姉様たちのお相手をするのは限界です。母上、早く戻ってきてください」
「あらあら」
娘の弱音に、桔梗は怪訝な顔をした。
「一体どうしたのですか? 向こうで何か問題でも起こりましたか?」
「まさか……」
信繁の差料を捧げ持って控えていた昌幸が、不吉な予感を抱いて表情を曇らせる。
「四郎様と龍様が、仲違いを……?」
「い、いえ、そうではなくって……」
昌幸の言葉に頭を振った綾は、僅かに頬を染めながら、少し言いづらそうに「そのぉ……」と続けた。
「むしろ……逆です……」
「逆? ……ああ、なるほど」
綾の答えに一瞬首を傾げかけた昌幸だったが、すぐに彼女が何を言いたいのかを察して、口元を緩める。
「つまり……おふたりの仲が睦まじくて、間を取り仕切るどころか、すっかりひとり蚊帳の外に置かれて、居堪れなくなったから桔梗様に助けを……といったところでしょうか」
「喜兵衛どのっ! 確かにその通りですけど、みなまで言わないで下さいませ!」
「あっ……失礼いたしました……」
恥ずかしそうに赤面した綾に抗議され、昌幸は慌てて謝った。
そんなふたりのやり取りに、信繁は思わず吹き出したが、綾から恨めしげな目で睨まれ、急いで表情を引き締める。
そして、口元に拳を当てて、わざとらしく咳払いをしてから、大きく頷いた。
「そうか……。仲睦まじいのなら何よりだ」
「本当に良かったですね……」
信繁の呟きに、桔梗も微笑む。
「好き合う者同士が夫婦として結ばれる――それが本来一番自然な事のはずなのでしょうけど、なかなかそうもいきませんから……」
「……そうだな」
桔梗の言葉に、信繁は少し複雑な表情を浮かべながら、小さく頷いた。
と、
「そのことなんですけど……」
綾が、不思議そうな顔をして信繁に尋ねる。
「結局、四郎さまとたつ姉様がおたがいを好きだったから良かったものの……もしそうじゃなかったら、どうなさるおつもりだったんですか?」
「ん?」
信繁は、綾の問いかけに小首を傾げた。
「そうじゃなかったら……とは?」
「ですから……」
先ほどの光景を思い出して頬を赤らめながら、綾は言葉を継ぐ。
「その……父上がおふたりにおたがいの気持ちをたずねた時……もし、どちらかのお答えが違ったものだったら……」
「ああ、そういう事か」
綾の言葉の意図を察した信繁は、ニヤリと笑った。
「どうするつもりも何も……そもそも、あの時点でそのような返答が返ってくるはずがないから、初めから考えてはいなかった」
「え……っ?」
信繁の答えを聞いた綾は、その意味を測りかねた様子で、ポカンとした表情を浮かべる。
そんな娘の反応に満足げな表情を浮かべながら、信繁は更に話を続けた。
「綾……儂が、四郎と龍姫を同時に屋敷に招き、本殿と離れにそれぞれ通した理由が分かるか?」
「え? ……い、いえ……どうしてですか?」
父から急に問いかけられ、綾は当惑しながら首を横に振る。
そんな彼女に答えを教えたのは、桔梗だった。
「……お父上も、本殿で四郎様をもてなしながら、それとなく確認なさったのです。四郎様のたつ様へのお気持ちを。――私が、たつ様に対して四郎様への想いを確かめたのと同じように」
「えっ……?」
「そして、四郎様がたつ様の事を好いていると確認した上で、喜兵衛殿を離れに遣わして、私たちを本殿へ呼んだのです」
「そ、そうだったのですか……?」
桔梗の答えを聞いた綾は、思わず目を丸くして、父の顔を見上げる。
「でも……もし、たつ姉様が四郎様のことを別にお好きじゃなかったりしたら……?」
「もしそうならば、桔梗様が離れに来た拙者にその旨を秘かにお伝えなさる手筈でした」
綾の疑問に、今度は昌幸が答えた。
「それを聞いた拙者は、適当な理由で場を誤魔化して、そのまま本殿へ戻り……」
「昌幸が龍姫を連れて戻ってこなかった事で、その答えを知った儂は、そのまま素知らぬ顔で四郎を持て成し、それぞれ時をずらして帰らせる……そのような段取りだったのだ、一応はな」
昌幸の言葉を引き継ぐ形で口を開いた信繁は、「だが……」と続ける。
「あのふたりの気持ちは、訊かずとも大体分かっておったから、そのような備えは杞憂に終わると思っておった。……実際そうなったしな」
「じゃ、じゃあ……」
昌幸の手から刀を受け取りながらそう言う信繁に、綾は釈然としない顔で尋ねた。
「おふたりの気持ちが分かっているのに、なんで今日のようなことを?」
「まあ……」
綾の問いかけに、信繁は苦笑を漏らしながら答える。
「どちらかというと、此度の企み事は、あのふたりの為に行なったようなものだからな」
「え? おふたりのため……?」
「あそこまでお膳立てしてやらねば、本当の気持ちを口にはせなんだだろうからな、あのふたりは」
そう言った信繁は、少しだけ表情を曇らせた。
「……特に四郎は、諏訪御前様の事もあって、こと男女の事に対して消極的だった。……いや、期待をせずに諦めてしまっているといった方が正しいか」
「……!」
「その頑なになった心を解きほぐし、素直に自分の望みを吐き出させるには、あのくらいの荒療治が必要だったという事だ」
「だから……父上はこたびのようなことを……」
信繁の真意を聞いた綾は、目を大きく見開く。
そんな彼女に微笑みかけた信繁は、昌幸に向けて言った。
「さて……そろそろ躑躅ヶ崎に参るとするか」
「はい」
信繁の言葉に頷いた昌幸が、彼を先導するように廊下に向かう。
昌幸に続いて部屋を出る信繁に深々と一礼した桔梗は、綾に微笑みかけた。
「では……私たちも戻りましょうか。四郎様とたつ様のところへ……」
「あ……はい!」
ポカンとして信繁の背中を見送っていた綾は、桔梗の言葉で我に返り、ホッとした表情を浮かべて頷くのだった。
それから四半刻 (約三十分)も経たぬうちに、
「母上ぇ~……」
と、すっかり弱り顔になった綾が、信繁の部屋の襖を勢いよく開けて飛び込んできた。
「おう、なんだ、綾。四郎たちの相手はどうした?」
「……小用を足しに行くと言って抜けてきました」
躑躅ヶ崎館に参る為、大紋に着替えていた信繁の問いかけにバツ悪げに答えた綾は、大きな溜息を吐いてから、夫の着付けを手伝っていた桔梗に懇願する。
「もう、あやひとりでたつ姉様たちのお相手をするのは限界です。母上、早く戻ってきてください」
「あらあら」
娘の弱音に、桔梗は怪訝な顔をした。
「一体どうしたのですか? 向こうで何か問題でも起こりましたか?」
「まさか……」
信繁の差料を捧げ持って控えていた昌幸が、不吉な予感を抱いて表情を曇らせる。
「四郎様と龍様が、仲違いを……?」
「い、いえ、そうではなくって……」
昌幸の言葉に頭を振った綾は、僅かに頬を染めながら、少し言いづらそうに「そのぉ……」と続けた。
「むしろ……逆です……」
「逆? ……ああ、なるほど」
綾の答えに一瞬首を傾げかけた昌幸だったが、すぐに彼女が何を言いたいのかを察して、口元を緩める。
「つまり……おふたりの仲が睦まじくて、間を取り仕切るどころか、すっかりひとり蚊帳の外に置かれて、居堪れなくなったから桔梗様に助けを……といったところでしょうか」
「喜兵衛どのっ! 確かにその通りですけど、みなまで言わないで下さいませ!」
「あっ……失礼いたしました……」
恥ずかしそうに赤面した綾に抗議され、昌幸は慌てて謝った。
そんなふたりのやり取りに、信繁は思わず吹き出したが、綾から恨めしげな目で睨まれ、急いで表情を引き締める。
そして、口元に拳を当てて、わざとらしく咳払いをしてから、大きく頷いた。
「そうか……。仲睦まじいのなら何よりだ」
「本当に良かったですね……」
信繁の呟きに、桔梗も微笑む。
「好き合う者同士が夫婦として結ばれる――それが本来一番自然な事のはずなのでしょうけど、なかなかそうもいきませんから……」
「……そうだな」
桔梗の言葉に、信繁は少し複雑な表情を浮かべながら、小さく頷いた。
と、
「そのことなんですけど……」
綾が、不思議そうな顔をして信繁に尋ねる。
「結局、四郎さまとたつ姉様がおたがいを好きだったから良かったものの……もしそうじゃなかったら、どうなさるおつもりだったんですか?」
「ん?」
信繁は、綾の問いかけに小首を傾げた。
「そうじゃなかったら……とは?」
「ですから……」
先ほどの光景を思い出して頬を赤らめながら、綾は言葉を継ぐ。
「その……父上がおふたりにおたがいの気持ちをたずねた時……もし、どちらかのお答えが違ったものだったら……」
「ああ、そういう事か」
綾の言葉の意図を察した信繁は、ニヤリと笑った。
「どうするつもりも何も……そもそも、あの時点でそのような返答が返ってくるはずがないから、初めから考えてはいなかった」
「え……っ?」
信繁の答えを聞いた綾は、その意味を測りかねた様子で、ポカンとした表情を浮かべる。
そんな娘の反応に満足げな表情を浮かべながら、信繁は更に話を続けた。
「綾……儂が、四郎と龍姫を同時に屋敷に招き、本殿と離れにそれぞれ通した理由が分かるか?」
「え? ……い、いえ……どうしてですか?」
父から急に問いかけられ、綾は当惑しながら首を横に振る。
そんな彼女に答えを教えたのは、桔梗だった。
「……お父上も、本殿で四郎様をもてなしながら、それとなく確認なさったのです。四郎様のたつ様へのお気持ちを。――私が、たつ様に対して四郎様への想いを確かめたのと同じように」
「えっ……?」
「そして、四郎様がたつ様の事を好いていると確認した上で、喜兵衛殿を離れに遣わして、私たちを本殿へ呼んだのです」
「そ、そうだったのですか……?」
桔梗の答えを聞いた綾は、思わず目を丸くして、父の顔を見上げる。
「でも……もし、たつ姉様が四郎様のことを別にお好きじゃなかったりしたら……?」
「もしそうならば、桔梗様が離れに来た拙者にその旨を秘かにお伝えなさる手筈でした」
綾の疑問に、今度は昌幸が答えた。
「それを聞いた拙者は、適当な理由で場を誤魔化して、そのまま本殿へ戻り……」
「昌幸が龍姫を連れて戻ってこなかった事で、その答えを知った儂は、そのまま素知らぬ顔で四郎を持て成し、それぞれ時をずらして帰らせる……そのような段取りだったのだ、一応はな」
昌幸の言葉を引き継ぐ形で口を開いた信繁は、「だが……」と続ける。
「あのふたりの気持ちは、訊かずとも大体分かっておったから、そのような備えは杞憂に終わると思っておった。……実際そうなったしな」
「じゃ、じゃあ……」
昌幸の手から刀を受け取りながらそう言う信繁に、綾は釈然としない顔で尋ねた。
「おふたりの気持ちが分かっているのに、なんで今日のようなことを?」
「まあ……」
綾の問いかけに、信繁は苦笑を漏らしながら答える。
「どちらかというと、此度の企み事は、あのふたりの為に行なったようなものだからな」
「え? おふたりのため……?」
「あそこまでお膳立てしてやらねば、本当の気持ちを口にはせなんだだろうからな、あのふたりは」
そう言った信繁は、少しだけ表情を曇らせた。
「……特に四郎は、諏訪御前様の事もあって、こと男女の事に対して消極的だった。……いや、期待をせずに諦めてしまっているといった方が正しいか」
「……!」
「その頑なになった心を解きほぐし、素直に自分の望みを吐き出させるには、あのくらいの荒療治が必要だったという事だ」
「だから……父上はこたびのようなことを……」
信繁の真意を聞いた綾は、目を大きく見開く。
そんな彼女に微笑みかけた信繁は、昌幸に向けて言った。
「さて……そろそろ躑躅ヶ崎に参るとするか」
「はい」
信繁の言葉に頷いた昌幸が、彼を先導するように廊下に向かう。
昌幸に続いて部屋を出る信繁に深々と一礼した桔梗は、綾に微笑みかけた。
「では……私たちも戻りましょうか。四郎様とたつ様のところへ……」
「あ……はい!」
ポカンとして信繁の背中を見送っていた綾は、桔梗の言葉で我に返り、ホッとした表情を浮かべて頷くのだった。
3
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。
現在1945年夏まで執筆
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
徳川慶勝、黒船を討つ
克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。
もしかしたら、消去するかもしれません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる