甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部九章 慶事

縁談と和与

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 ――その翌日から、躑躅ヶ崎館を中心に、諏訪勝頼の縁談の話が本格的に進み始めた。

 数日の後に、勝頼の叔父であり、当主信玄の弟である武田信廉が、信玄の名代として美濃へと向かう。
 まだ雪深い伊那街道を辿って美濃へ至った信廉は、龍姫の伯父である岩村城主・遠山景任と実父である苗木城主・遠山直廉に、携えてきた信玄からの親書を手渡し、勝頼と龍姫の縁談を申し入れた。
 信繁が考えていた通り、美濃遠山家にとって、主家となった武田家の四男との縁談は願ってもない事であった。
 また、以前に信繁がそれとなく縁談の話を仄めかしていた事もあって、景任らは信玄の申し入れをすぐに受け入れたのである。

 それから、何度か甲斐と美濃の間を使者が行き交い、縁談の話はとんとん拍子にまとまっていった。
 その話し合いの中で、龍姫が遠山景任の養女となる事も決められた。
 甲斐武田家の四男にして、大国主神オオクニヌシの後裔を称する諏訪家の当主でもある勝頼に嫁ぐにあたって、龍姫を分家筋である苗木遠山家の娘としてではなく本家である岩村遠山家の娘とした方が、家格の釣り合いが取れるからである。
 ……また、その決定の裏には、『実母の影を消す』というもうひとつの意図もあった。
 龍の実母――琴が、夫である直廉を苗木城内に幽閉して城内の実権を掌握し、西進する武田信繁軍に兵を差し向けた事は、武田家中にも広く知られていた。
 その後、信繁らによって企みが破られた琴は、直廉から離縁されて実家のある尾張に帰る途中、非業の死を遂げたが……それを以て彼女が仕出かした所業が全て無かった事になる訳ではない。
 つまり、今のままでは、龍は「夫を押し籠め、武田家に弓を引いた女の娘」という事になり、それによって武田家家中で余計な反発が生じるであろう……。
 それを少しでも緩和する為にと考えられたのが、彼女を遠山景任夫妻の養女とするという案だったのだ。
 龍の実父である遠山直廉は、一人娘である彼女を養女に取られる事に内心では抵抗を覚えたものの、元妻の所業に対する負い目と――何より娘の幸せを考える以上、提案を拒絶する事など出来ようはずもなかった。
 一方、養女話の当の本人である龍は、少し気弱で優柔不断なところもあるものの、父として自分を愛し育ててくれた直廉と親子でなくなる事に一抹の寂しさを感じつつも、景任の妻であるつやが自分の養母となる事を素直に喜んだのである。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 勝頼の縁談と並行して、信繁の越後行きの話も着々と進んでいた。

 信玄は、甲斐府中にある長延寺の住持である実了師慶を越後春日山に遣わし、信繁を派遣するにあたって必要な調整を行わせた。
 実了師慶は、元関東管領で、今は上杉輝虎の庇護を受けて春日山にいる上杉兵部少輔憲政の一族に連なる男である。
 彼は、憲政が相模の北条氏康によって関東から逐われた事から、それまで居た相模長延寺から甲斐へと逃れてきた。
 その後、信玄の庇護を受けた実了は、甲斐府中の一角に再興する事を許された長延寺の住持となり、それと共に、武田家の外交僧としてしばしば各地の大名家の元に遣わされ、重要な務めを果たす事となる。
 その能力の高さに加え、人柄も優れていた事で信玄からの信頼も厚く、彼の次男で生まれつき盲目だった次郎信親 (後に出家して竜芳と名乗る)の養育を命じられた程だった。
 能力・人柄に加えて、輝虎の養父である上杉憲政との縁もある実了は、使僧として越後へ遣わすには最適な人物だったと言えよう。

 越後を訪れた実了は、信玄の期待に応える働きをした。
 昨年の時点で「武田左馬助以外には会わぬ」と明言していた当主の輝虎に目通りする事こそ叶わなかったものの、上杉家の重臣である宇佐美駿河守定満や直江大和守景綱と会談を行い、信繁が越後を訪れた際の段取りを整えたのである。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 上杉家との交渉を終えた実了が甲斐に戻ったのは、冬の厳しい寒さが和らぎ、固く縮こまっていた山桜の蕾が徐々に開きつつある二月の中旬だった。

「左様か」

 躑躅ヶ崎館の濡れ縁に腰を掛け、庭で咲き誇る梅の花を眺めていた信玄は、実了から越後での首尾を聞き出し終えると、そう短く答えて立ち上がった。
 そのまま沓脱石くつぬぎいしの上の草履に足を通した信玄は、さっきまで眺めていた梅の木に歩を進めながら、小さく頷く。

「……もう、越後との国境くにざかいに厚く積もっておった雪も融け始める頃合いか」

 そう独り言ちた彼は、ふと身を屈め、庭にこぼれた梅の花弁はなびらを一枚拾った。
 摘まみ上げた白く円い花弁に目を落とした信玄は、ゆっくりと振り返り、彼の背後に付き従うように立っていた隻眼の男に目を向ける。
 そして、手にしていた花弁を彼に向けて差し出しながら、期待と心配が綯い交ぜになった表情を浮かべた。

「……越後へ行く気は変わらぬか、典厩?」
「――ふ」

 確かめるような信玄の問いかけに思わず苦笑しながら、信繁は掌を差し出し、兄から梅の花弁を受け取る。
 彼は、梅の花弁が潰れぬようにそっと掌を握り込みながら、信玄に向けて力強く頷いた。

「……無論です。越後に参った某が、必ずや甲越の和与を実現してみせましょうぞ」
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