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第二部九章 慶事
見送りと握り飯
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それから十日後――。
甲越和与の話を進める為に越後へ発つ信繁は、本格的な春の訪れを感じさせる朝日の暖かな光が降り注ぐ屋敷の門前まで自分たちを見送りに出た桔梗と綾の顔を見回しながら、穏やかな声で言った。
「では……桔梗、綾。行って参る。留守は任せたぞ」
「……はい」
夫の言葉に、妻の桔梗は小さく頷く。
「どうぞ、こちらの事はご心配なさらず、お務めにご専念下さい、主様」
「ああ」
「……越後は、ここよりも冬が長く、寒さも厳しいと聞き及んでおります。くれぐれもお体に気を付けて、悪い風邪などお召しになりませぬように……」
「ははは。分かっておる」
気丈に振る舞いながらも、隠し切れない憂いが顔に浮かんでいる妻を不安がらせまいとするように、信繁は殊更に明るい声で答えた。
「安心せい、桔梗。儂は何も知らぬ童ではないぞ」
敢えておどけた調子で言った信繁は、「それに……」と続けながら、自らが纏っている旅装の袖を摘まんで見せる。
「お主が夜なべして縫い上げてくれたこの衣を着ておれば、風邪をひくどころか寒い思いひとつする事もあるまい。だから、心安くして儂の帰りを待っておれ」
「主様……」
桔梗は、軽口で自分を安心させようとする信繁の心遣いを察して口元を緩めるが、その笑顔はどこかぎこちなく強張っていた。
……と、
「……父上、そういうことではありません」
母の横でふたりのやり取りを聞いていた綾が、眉を顰めながら口を挟む。
「母上が心配なさっているのは、父上のご健康のことだけではありません。……なにせ、これから父上は敵地へ向かおうとなさっているのですから……」
そう言うと、彼女は母親以上に不安げな表情を浮かべ、懇願するような眼差しで信繁を見た。
「父上……どうかくれぐれもお気をつけください。越後では、いつなんどき命を狙われるか分かりませんから……」
「ははは……」
「笑い事ではありませんっ!」
「あ……あぁ、すまぬ、綾」
思わず苦笑しかけたところを強い口調で叱責された信繁は、慌てて表情を引き締め、娘に謝る。
そして、ひとつ咳払いをしてから、心配顔のふたりを安心させようと言葉を継いだ。
「……勿論、向こうでは決して気を緩めることなく、重々注意するつもりだ。だから、そう心配せずとも良い」
「心配するなとおっしゃられても……」
「ご安心下さい、綾様」
父の言葉を聞いても不安を隠せぬ様子で言い淀む綾に声をかけたのは、厩から信繁と自分の馬を牽いてきた昌幸だった。
信繁と同じく旅装に身を包んだ彼は、険しい顔をしている綾に微笑みかけながら言葉を継ぐ。
「典厩様には、拙者と佐助がついております。我らが居る限り、典厩様には何者にも掠り傷一つ付けさせぬとお約束いたしましょう」
「昌幸の申す通りだ」
昌幸の言葉に、信繁は大きく頷いた。
「昌幸も佐助も、頼りになる者たちだ。ふたりに任せておけば、滅多な事は起こるまい」
「そうかもしれませんが……」
「それに、ふたりだけではない。とあるやんごとなき御方の使者殿も、儂らと同道される。その使者殿と共に居る限り、越後衆が儂に手を出す事はあり得ぬと思って良い」
そう言った信繁は、少し声の調子を落として、「というか……」と続ける。
「あの上杉殿が、そのような姑息な策を弄して儂を殺めようとするとは思えぬしな……」
「? 何とおっしゃいましたか、父上?」
「あ……いや、何でもない」
ひとりごとの拍子に、善光寺の宿坊で互いに酒を酌み交わした時に見た、上杉輝虎の妖艶な女姿をふと思い出した信繁は、綾の怪訝な問いかけに慌てて首を横に振った。
そんな父の反応に対し、綾は腑に落ちぬ様子で首を傾げるが、すぐに気を取り直したように小さく息を吐くと、胸に抱えていた竹皮の包みを信繁に向けて差し出す。
「……これは?」
「あやが作った握り飯です」
信繁の問いかけに、綾は少し照れくさげな顔をしながら答えた。
「母上と違って、あやはまだお裁縫はじょうずにできませんから……。おなかがすいたら食べてください」
「おお……まことか」
綾の言葉を聞いた信繁は、思わず感嘆の声を上げ、彼女の手から竹皮の包みを受け取る。
「儂の為に、お主が握り飯を……」
「……母上のようにおいしく作れたかは自信ありませんけど」
頬をほんのり赤く染めながら、綾は頷いた。
「喜兵衛どのや佐助どのの分もありますので、よかったらいっしょに食べてください」
「おお! 左様にございますか?」
綾の言葉を聞いて、昌幸が表情を輝かせる。
「かたじけのう御座います! 道中で有難く頂戴いたします!」
「そ、そんなに期待しないでくださいね……」
無邪気に喜ぶ昌幸を前に、綾は自信なさげに言った。
そんな娘に微笑みかけた信繁は、ふっと表情を引き締め、桔梗に向けて軽く頷いた。
「では……そろそろ行く。ふたりとも、息災でな」
「はい……」
信繁の言葉に一瞬寂しげな表情を浮かべた桔梗だったが、すぐに口元を一文字に結んでから、一転して穏やかな微笑を湛えてみせる。
「いってらっしゃいませ、主様。くれぐれもお気をつけて……」
「いってらっしゃいませ……」
「ああ」
深々と頭を下げた桔梗と綾に力強く頷き返した信繁は、昌幸が牽いていた自身の乗騎の鐙に足をかけ、軽々と身を躍らせた。
騎上の人となった信繁は、ふたりに向けて片手を軽く上げながら、微笑みと共にしばしの別れを告げる。
「さらばだ、桔梗、綾! 儂は、御旗楯無に誓って必ず帰って参る。だから、安心して待っておれ。良いな!」
甲越和与の話を進める為に越後へ発つ信繁は、本格的な春の訪れを感じさせる朝日の暖かな光が降り注ぐ屋敷の門前まで自分たちを見送りに出た桔梗と綾の顔を見回しながら、穏やかな声で言った。
「では……桔梗、綾。行って参る。留守は任せたぞ」
「……はい」
夫の言葉に、妻の桔梗は小さく頷く。
「どうぞ、こちらの事はご心配なさらず、お務めにご専念下さい、主様」
「ああ」
「……越後は、ここよりも冬が長く、寒さも厳しいと聞き及んでおります。くれぐれもお体に気を付けて、悪い風邪などお召しになりませぬように……」
「ははは。分かっておる」
気丈に振る舞いながらも、隠し切れない憂いが顔に浮かんでいる妻を不安がらせまいとするように、信繁は殊更に明るい声で答えた。
「安心せい、桔梗。儂は何も知らぬ童ではないぞ」
敢えておどけた調子で言った信繁は、「それに……」と続けながら、自らが纏っている旅装の袖を摘まんで見せる。
「お主が夜なべして縫い上げてくれたこの衣を着ておれば、風邪をひくどころか寒い思いひとつする事もあるまい。だから、心安くして儂の帰りを待っておれ」
「主様……」
桔梗は、軽口で自分を安心させようとする信繁の心遣いを察して口元を緩めるが、その笑顔はどこかぎこちなく強張っていた。
……と、
「……父上、そういうことではありません」
母の横でふたりのやり取りを聞いていた綾が、眉を顰めながら口を挟む。
「母上が心配なさっているのは、父上のご健康のことだけではありません。……なにせ、これから父上は敵地へ向かおうとなさっているのですから……」
そう言うと、彼女は母親以上に不安げな表情を浮かべ、懇願するような眼差しで信繁を見た。
「父上……どうかくれぐれもお気をつけください。越後では、いつなんどき命を狙われるか分かりませんから……」
「ははは……」
「笑い事ではありませんっ!」
「あ……あぁ、すまぬ、綾」
思わず苦笑しかけたところを強い口調で叱責された信繁は、慌てて表情を引き締め、娘に謝る。
そして、ひとつ咳払いをしてから、心配顔のふたりを安心させようと言葉を継いだ。
「……勿論、向こうでは決して気を緩めることなく、重々注意するつもりだ。だから、そう心配せずとも良い」
「心配するなとおっしゃられても……」
「ご安心下さい、綾様」
父の言葉を聞いても不安を隠せぬ様子で言い淀む綾に声をかけたのは、厩から信繁と自分の馬を牽いてきた昌幸だった。
信繁と同じく旅装に身を包んだ彼は、険しい顔をしている綾に微笑みかけながら言葉を継ぐ。
「典厩様には、拙者と佐助がついております。我らが居る限り、典厩様には何者にも掠り傷一つ付けさせぬとお約束いたしましょう」
「昌幸の申す通りだ」
昌幸の言葉に、信繁は大きく頷いた。
「昌幸も佐助も、頼りになる者たちだ。ふたりに任せておけば、滅多な事は起こるまい」
「そうかもしれませんが……」
「それに、ふたりだけではない。とあるやんごとなき御方の使者殿も、儂らと同道される。その使者殿と共に居る限り、越後衆が儂に手を出す事はあり得ぬと思って良い」
そう言った信繁は、少し声の調子を落として、「というか……」と続ける。
「あの上杉殿が、そのような姑息な策を弄して儂を殺めようとするとは思えぬしな……」
「? 何とおっしゃいましたか、父上?」
「あ……いや、何でもない」
ひとりごとの拍子に、善光寺の宿坊で互いに酒を酌み交わした時に見た、上杉輝虎の妖艶な女姿をふと思い出した信繁は、綾の怪訝な問いかけに慌てて首を横に振った。
そんな父の反応に対し、綾は腑に落ちぬ様子で首を傾げるが、すぐに気を取り直したように小さく息を吐くと、胸に抱えていた竹皮の包みを信繁に向けて差し出す。
「……これは?」
「あやが作った握り飯です」
信繁の問いかけに、綾は少し照れくさげな顔をしながら答えた。
「母上と違って、あやはまだお裁縫はじょうずにできませんから……。おなかがすいたら食べてください」
「おお……まことか」
綾の言葉を聞いた信繁は、思わず感嘆の声を上げ、彼女の手から竹皮の包みを受け取る。
「儂の為に、お主が握り飯を……」
「……母上のようにおいしく作れたかは自信ありませんけど」
頬をほんのり赤く染めながら、綾は頷いた。
「喜兵衛どのや佐助どのの分もありますので、よかったらいっしょに食べてください」
「おお! 左様にございますか?」
綾の言葉を聞いて、昌幸が表情を輝かせる。
「かたじけのう御座います! 道中で有難く頂戴いたします!」
「そ、そんなに期待しないでくださいね……」
無邪気に喜ぶ昌幸を前に、綾は自信なさげに言った。
そんな娘に微笑みかけた信繁は、ふっと表情を引き締め、桔梗に向けて軽く頷いた。
「では……そろそろ行く。ふたりとも、息災でな」
「はい……」
信繁の言葉に一瞬寂しげな表情を浮かべた桔梗だったが、すぐに口元を一文字に結んでから、一転して穏やかな微笑を湛えてみせる。
「いってらっしゃいませ、主様。くれぐれもお気をつけて……」
「いってらっしゃいませ……」
「ああ」
深々と頭を下げた桔梗と綾に力強く頷き返した信繁は、昌幸が牽いていた自身の乗騎の鐙に足をかけ、軽々と身を躍らせた。
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