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第1章 第3話「完璧な演技と、最初の共犯者」
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こんなのと半年も?
無理かも。
朝。
私は、高塔慧という男の異常性を思い知らされていた。
「バスタオルは三つ折りです」
慧は冷蔵庫の前に立ち、淡々と告げた。
「四つ折りではなく?」
「三つ折りが最も効率的に乾燥する」
私のタオルを手に取り、彼は実演してみせる。
角をぴったり揃え、数学的に正確な折り目をつけていく。
朝の七時。
まだ眠い目をこすりながら、私は呆然と見守るしかない。
「次に朝食のルールです」
「ルール……?」
「月曜から金曜はトーストとゆで卵。土曜は和食。日曜は休息日なので摂取しません」
「朝ごはんにルールがあるの?」
「栄養摂取の最適化です」
慧は冷蔵庫を開けた。
昨夜とは違い、卵やバター、野菜が整然と並んでいる。
「昨夜、食材を手配しました」
「……いつの間に」
「君が寝た後です。同居するなら、食材は必要でしょう」
なるほど。合理的といえば合理的だ。
でも、深夜に宅配を頼む発想はどうなのか。
慧は卵のパックを取り出した。
日付が几帳面に記されている。
「ゆで卵は七分半。これがベストな半熟です」
「……七分じゃダメなの?」
「三十秒の差が、黄身の状態を決定的に変えます」
真顔で言われると、反論する気力も失せる。
キッチンには、タイマーが三つ並んでいた。
ゆで卵用、トースト用、コーヒー抽出用。
息苦しい。
この男の家には、遊びがない。
「あなた、息苦しくないの?」
「なぜ?」
「……なんでもない」
私はため息を飲み込んだ。
半年。たった半年。我慢すればいい。
トーストが焼き上がった。
慧は焼き色を確認し、かすかに眉をひそめる。
「二秒、長すぎた」
「誰も気づかないよ、そんなの」
「僕は気づきます」
几帳面の権化だ。
これが、あの無敗の弁護士の正体らしい。
黙々と朝食を終え、私は食器を片付けた。
慧がスーツに着替えて戻ってくる。
「今日は事務所へ挨拶に行きます」
「挨拶?」
「妻の紹介です。秘書と主要スタッフに顔を見せてください」
早速、演技の出番か。
私は気持ちを切り替える。
「わかった。何分後に出る?」
「十五分後」
正確だ。
この男に「だいたい」という概念は存在しないらしい。
着替えを終え、マンションのエントランスに降りた。
その時だった。
「あら、慧さん」
背後から、甘い声がかかった。
振り返ると、女性が立っていた。
品のいいワンピース。巻き髪。完璧なメイク。
年齢は三十前後だろうか。
慧の表情が、わずかに強張った。
「……宮園さん」
「お久しぶり。お元気でした?」
宮園と呼ばれた女性は、微笑みながら近づいてくる。
でも、その目は笑っていない。
私を値踏みするような視線。
敵意を、笑顔の下に隠している。
「結婚されたんですって? おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
慧の声は、いつもより硬い。
「急なお話だったから、みんな驚いてますよ」
女性の目が、私に向けられた。
「こちらが奥様?」
探るような視線。
私を試している。
直感が告げていた。
この女、偽装結婚を疑っている。
「ええ、妻のミレイです」
慧が淡々と紹介した。
でも、それだけでは足りない。
私は、スイッチを入れた。
「初めまして」
私は満面の笑みを浮かべた。
声のトーンを一段上げる。目を輝かせる。
「慧さんのお知り合いの方ですか? 嬉しいです、お会いできて」
宮園という女性が、一瞬たじろいだ。
私の変貌ぶりに、面食らったのだろう。
「ええ……高塔法律事務所でお世話になっている宮園です」
「そうなんですね! 慧さんったら、何も教えてくれないんです」
私は慧の腕に自然に手を添えた。
寄り添うように、距離を詰める。
「急な結婚で、驚かれましたよね。ごめんなさい」
宮園の目が、私たちの距離を観察している。
隙を探している。
「いえ……でも、本当に急でしたから。馴れ初めをお聞きしてもいいですか?」
来た。
ここが勝負どころだ。
「もちろんです」
私は頬を染めてみせた。
恥ずかしそうに視線を落とす。
「実は……私、最初は慧さんのこと、苦手だったんです」
「苦手?」
「だって、冷たそうじゃないですか。感情がないみたいで」
宮園が、かすかに頷いた。
同意したのだろう。きっと彼女も、そう感じていた。
「でも、知れば知るほど……違ったんです」
私は慧を見上げた。
演技で。でも、妙に言葉が滑らかに出てくる。
「仕事では完璧なのに、家ではコーヒーも淹れられなくて」
「……ミレイ」
慧が低く呼んだ。
止めろ、という意味だろう。でも、私は続けた。
「冷蔵庫にはミネラルウォーターしか入ってなくて。この人、私がいないとダメなんだって思ったら……」
私は言葉を切った。
照れたように、唇を噛む。
「気づいたら、好きになってました」
沈黙。
宮園の顔が、わずかに歪んだ。
作り話だと思いたいのだろう。
でも、私の演技に綻びはない。
「……そうですか」
「すみません、惚気ちゃって」
私は笑った。
幸せそうに。完璧に。
「慧さんも、同じ気持ちですよね?」
私は慧を見上げた。
さあ、あなたの番だ。
慧は一瞬、目を細めた。
何かを考えている。
そして、彼は口を開いた。
「……ええ」
慧は、ゆっくりと私の手を取った。
指を絡める。体温が、じんわりと伝わってくる。
「僕は、この人がいないと困るんです」
耳が、熱くなった。
演技だ。わかっている。
でも、彼の手は思ったより温かくて。
「お邪魔でしたね」
宮園が、引き攣った笑顔を見せた。
「事務所で、また」
そう言い残して、彼女は去っていった。
ヒールの音が、エントランスに響く。
彼女の背中が見えなくなるまで、私たちは動かなかった。
そして。
「……行ったね」
私は慧の手を離した。
演技終了。スイッチオフ。
「ふう」
息を吐く。
久しぶりに本気の演技をした。
「見事でした」
慧が言った。
いつもの無表情。でも、声に感心の色がある。
「君の演技力は、僕の計算以上だ」
「仕事ですから」
私は肩をすくめた。
「それより、あの人は誰?」
「宮園梨花。僕の事務所の顧問先の令嬢です」
「……あなたを狙ってた?」
「おそらく」
慧は淡々と答えた。
「以前から、食事に誘われていました。断り続けていたので、面白くなかったのでしょう」
「なるほど」
だから、私たちの結婚を疑った。
偽装だと証明して、慧を手に入れたかったのだ。
「今後も、ああいう人が来るかもしれません」
「わかってる。対処するわ」
私は髪をかき上げた。
これが、私の仕事だ。
慧が、じっと私を見ていた。
「なに?」
「……いえ」
彼は視線を逸らした。
珍しく、歯切れが悪い。
「君は、優秀なパートナーだと思っただけです」
パートナー。
恋人でも、妻でもない。共犯者。
「あなたもね」
私は皮肉っぽく笑った。
「『僕は、この人がいないと困る』だっけ? うまかったじゃない」
「事実を述べただけです」
「事実?」
「君がいなければ、朝食が作れない」
私は脱力した。
「……そういう意味かい」
「他にどういう意味が?」
本気で言っている。
この男には、詩情というものがない。
「行きましょう」
慧は歩き出した。
私はその背中を追う。
悪くないパートナー。
少しだけ、そう思った。
「ただし」
慧が振り返った。
その目が、鋭く光る。
「油断はしないでください」
「……え?」
「宮園さんは、まだ偵察に過ぎない。本当の敵は、これからです」
背筋が、すっと冷えた。
この男は、見えている。
私には見えないものが。
「……了解」
私は頷いた。
契約結婚の同居生活。
その初日に、私たちは最初の「共犯」を果たした。
これが始まりだった。
無理かも。
朝。
私は、高塔慧という男の異常性を思い知らされていた。
「バスタオルは三つ折りです」
慧は冷蔵庫の前に立ち、淡々と告げた。
「四つ折りではなく?」
「三つ折りが最も効率的に乾燥する」
私のタオルを手に取り、彼は実演してみせる。
角をぴったり揃え、数学的に正確な折り目をつけていく。
朝の七時。
まだ眠い目をこすりながら、私は呆然と見守るしかない。
「次に朝食のルールです」
「ルール……?」
「月曜から金曜はトーストとゆで卵。土曜は和食。日曜は休息日なので摂取しません」
「朝ごはんにルールがあるの?」
「栄養摂取の最適化です」
慧は冷蔵庫を開けた。
昨夜とは違い、卵やバター、野菜が整然と並んでいる。
「昨夜、食材を手配しました」
「……いつの間に」
「君が寝た後です。同居するなら、食材は必要でしょう」
なるほど。合理的といえば合理的だ。
でも、深夜に宅配を頼む発想はどうなのか。
慧は卵のパックを取り出した。
日付が几帳面に記されている。
「ゆで卵は七分半。これがベストな半熟です」
「……七分じゃダメなの?」
「三十秒の差が、黄身の状態を決定的に変えます」
真顔で言われると、反論する気力も失せる。
キッチンには、タイマーが三つ並んでいた。
ゆで卵用、トースト用、コーヒー抽出用。
息苦しい。
この男の家には、遊びがない。
「あなた、息苦しくないの?」
「なぜ?」
「……なんでもない」
私はため息を飲み込んだ。
半年。たった半年。我慢すればいい。
トーストが焼き上がった。
慧は焼き色を確認し、かすかに眉をひそめる。
「二秒、長すぎた」
「誰も気づかないよ、そんなの」
「僕は気づきます」
几帳面の権化だ。
これが、あの無敗の弁護士の正体らしい。
黙々と朝食を終え、私は食器を片付けた。
慧がスーツに着替えて戻ってくる。
「今日は事務所へ挨拶に行きます」
「挨拶?」
「妻の紹介です。秘書と主要スタッフに顔を見せてください」
早速、演技の出番か。
私は気持ちを切り替える。
「わかった。何分後に出る?」
「十五分後」
正確だ。
この男に「だいたい」という概念は存在しないらしい。
着替えを終え、マンションのエントランスに降りた。
その時だった。
「あら、慧さん」
背後から、甘い声がかかった。
振り返ると、女性が立っていた。
品のいいワンピース。巻き髪。完璧なメイク。
年齢は三十前後だろうか。
慧の表情が、わずかに強張った。
「……宮園さん」
「お久しぶり。お元気でした?」
宮園と呼ばれた女性は、微笑みながら近づいてくる。
でも、その目は笑っていない。
私を値踏みするような視線。
敵意を、笑顔の下に隠している。
「結婚されたんですって? おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
慧の声は、いつもより硬い。
「急なお話だったから、みんな驚いてますよ」
女性の目が、私に向けられた。
「こちらが奥様?」
探るような視線。
私を試している。
直感が告げていた。
この女、偽装結婚を疑っている。
「ええ、妻のミレイです」
慧が淡々と紹介した。
でも、それだけでは足りない。
私は、スイッチを入れた。
「初めまして」
私は満面の笑みを浮かべた。
声のトーンを一段上げる。目を輝かせる。
「慧さんのお知り合いの方ですか? 嬉しいです、お会いできて」
宮園という女性が、一瞬たじろいだ。
私の変貌ぶりに、面食らったのだろう。
「ええ……高塔法律事務所でお世話になっている宮園です」
「そうなんですね! 慧さんったら、何も教えてくれないんです」
私は慧の腕に自然に手を添えた。
寄り添うように、距離を詰める。
「急な結婚で、驚かれましたよね。ごめんなさい」
宮園の目が、私たちの距離を観察している。
隙を探している。
「いえ……でも、本当に急でしたから。馴れ初めをお聞きしてもいいですか?」
来た。
ここが勝負どころだ。
「もちろんです」
私は頬を染めてみせた。
恥ずかしそうに視線を落とす。
「実は……私、最初は慧さんのこと、苦手だったんです」
「苦手?」
「だって、冷たそうじゃないですか。感情がないみたいで」
宮園が、かすかに頷いた。
同意したのだろう。きっと彼女も、そう感じていた。
「でも、知れば知るほど……違ったんです」
私は慧を見上げた。
演技で。でも、妙に言葉が滑らかに出てくる。
「仕事では完璧なのに、家ではコーヒーも淹れられなくて」
「……ミレイ」
慧が低く呼んだ。
止めろ、という意味だろう。でも、私は続けた。
「冷蔵庫にはミネラルウォーターしか入ってなくて。この人、私がいないとダメなんだって思ったら……」
私は言葉を切った。
照れたように、唇を噛む。
「気づいたら、好きになってました」
沈黙。
宮園の顔が、わずかに歪んだ。
作り話だと思いたいのだろう。
でも、私の演技に綻びはない。
「……そうですか」
「すみません、惚気ちゃって」
私は笑った。
幸せそうに。完璧に。
「慧さんも、同じ気持ちですよね?」
私は慧を見上げた。
さあ、あなたの番だ。
慧は一瞬、目を細めた。
何かを考えている。
そして、彼は口を開いた。
「……ええ」
慧は、ゆっくりと私の手を取った。
指を絡める。体温が、じんわりと伝わってくる。
「僕は、この人がいないと困るんです」
耳が、熱くなった。
演技だ。わかっている。
でも、彼の手は思ったより温かくて。
「お邪魔でしたね」
宮園が、引き攣った笑顔を見せた。
「事務所で、また」
そう言い残して、彼女は去っていった。
ヒールの音が、エントランスに響く。
彼女の背中が見えなくなるまで、私たちは動かなかった。
そして。
「……行ったね」
私は慧の手を離した。
演技終了。スイッチオフ。
「ふう」
息を吐く。
久しぶりに本気の演技をした。
「見事でした」
慧が言った。
いつもの無表情。でも、声に感心の色がある。
「君の演技力は、僕の計算以上だ」
「仕事ですから」
私は肩をすくめた。
「それより、あの人は誰?」
「宮園梨花。僕の事務所の顧問先の令嬢です」
「……あなたを狙ってた?」
「おそらく」
慧は淡々と答えた。
「以前から、食事に誘われていました。断り続けていたので、面白くなかったのでしょう」
「なるほど」
だから、私たちの結婚を疑った。
偽装だと証明して、慧を手に入れたかったのだ。
「今後も、ああいう人が来るかもしれません」
「わかってる。対処するわ」
私は髪をかき上げた。
これが、私の仕事だ。
慧が、じっと私を見ていた。
「なに?」
「……いえ」
彼は視線を逸らした。
珍しく、歯切れが悪い。
「君は、優秀なパートナーだと思っただけです」
パートナー。
恋人でも、妻でもない。共犯者。
「あなたもね」
私は皮肉っぽく笑った。
「『僕は、この人がいないと困る』だっけ? うまかったじゃない」
「事実を述べただけです」
「事実?」
「君がいなければ、朝食が作れない」
私は脱力した。
「……そういう意味かい」
「他にどういう意味が?」
本気で言っている。
この男には、詩情というものがない。
「行きましょう」
慧は歩き出した。
私はその背中を追う。
悪くないパートナー。
少しだけ、そう思った。
「ただし」
慧が振り返った。
その目が、鋭く光る。
「油断はしないでください」
「……え?」
「宮園さんは、まだ偵察に過ぎない。本当の敵は、これからです」
背筋が、すっと冷えた。
この男は、見えている。
私には見えないものが。
「……了解」
私は頷いた。
契約結婚の同居生活。
その初日に、私たちは最初の「共犯」を果たした。
これが始まりだった。
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