【完結】別れさせ屋の私が、絶対に離婚しない弁護士と「恋愛禁止」の契約結婚をするワケ

チャビューヘ

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第1章 第4話「法廷の悪魔と、忍び寄る過去」

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 高塔法律事務所。
 その名前は、法曹界で知らない者はいない。

 都心の一等地。
 ガラス張りの高層ビル十八階。
 エレベーターの扉が開いた瞬間、空気が変わった。

「おはようございます、高塔先生」

 受付の女性が、背筋を伸ばして頭を下げる。
 その声には、明らかな緊張が混じっていた。

「おはようございます」

 慧は淡々と返す。
 しかし、その一言で周囲の空気が引き締まるのがわかる。

 私はその後ろを歩きながら、事務所の内部を観察した。

 白を基調とした清潔感のあるオフィス。
 整然と並ぶデスク。
 そこで働くスタッフたちの動きには、一切の無駄がない。

 そして、全員が慧を見る目。
 畏怖。敬意。そして、かすかな恐れ。

「高塔先生、橋本案件の書類を準備しました」

 若い男性スタッフが駆け寄ってきた。
 分厚いファイルを両手で差し出す。

「目を通しておいてください」

「ああ」

 慧はファイルを受け取りながら、歩みを止めない。
 パラパラとページをめくる。その速度が異常だ。

「三ページ目。判例の引用が古い。最新の判決に差し替えて」

「え……あ、はい」

「五ページ目。論理展開に飛躍がある。補強証拠を追加」

「承知しました」

「それと、相手方の準備書面。予測される反論を三パターン用意しておいて」

「さ、三パターンですか」

「五分で読めるものを。僕は十分後に打ち合わせに入る」

 スタッフの顔が青ざめた。
 しかし、反論する者はいない。

 すごい。
 この男、完全に王様だ。

 私は内心で舌を巻いていた。

 家ではコーヒーメーカーの使い方がわからないポンコツ。
 タオルの折り方にうるさい変人。
 朝食のゆで卵に七分半をこだわる偏執狂。

 なのに、ここでは違う。
 彼が歩くだけで、人が道を開ける。
 彼が口を開けば、全員が耳を傾ける。

 別人だ。
 いや、これが本当の高塔慧なのかもしれない。

「先生」

 落ち着いた声が、私たちを呼び止めた。

 振り返ると、四十代くらいの女性が立っていた。
 グレーのスーツ。眼鏡。知的で隙のない佇まい。

「秘書の須藤です」

 彼女は私に軽く会釈した。

「奥様のことは、先生から伺っております」

「よろしくお願いします」

 私も営業スマイルを返す。

 須藤は慧に向き直った。

「先生、本日の予定を確認させてください」

「ああ」

「十時から橋本案件の打ち合わせ。十一時に新規相談。午後は……」

 二人の会話を聞きながら、私は事務所を見回した。

 壁には額縁に入った表彰状。
 法律雑誌の切り抜き。
 どれも慧の名前が記されている。

 そして、ふと耳に入った言葉。

「法廷の悪魔」

 若いスタッフ同士の囁き声だった。

「今日も先生、怖いな」

「当たり前だろ。あの人に勝てる弁護士なんていないんだから」

「法廷の悪魔って、マジであだ名なんだな……」

 法廷の悪魔。
 そう呼ばれているのか、この男は。

 私は慧の背中を見つめた。

 確かに、納得できる。
 あの冷徹さ。あの観察眼。あの論理性。
 敵に回したら、絶対に勝てない。

 私が身をもって体験したことだ。

「ミレイさん」

 慧が振り返った。

「少し待っていてください。打ち合わせが終わったら、紹介を続けます」

「わかった」

 私は応接コーナーのソファに腰を下ろした。

 慧は須藤と共に、奥の会議室へ消えていく。
 その姿は、まるで戦場に向かう将軍のようだった。

 悔しいけど、かっこいい。
 認めざるを得ない。

 ガラス越しに、会議室の様子が見える。

 慧がホワイトボードの前に立った。
 何かを説明している。
 周囲のスタッフたちが、真剣な表情でメモを取っている。

 時折、慧が鋭い指摘をするのだろう。
 スタッフの誰かが、慌てて資料をめくる。

 それでも、誰も逃げ出さない。
 むしろ、必死についていこうとしている。

 信頼されているのだ、この男は。
 恐れられると同時に。

「奥様」

 須藤が戻ってきた。
 手にコーヒーカップを持っている。

「こちら、お口に合えばよいのですが」

「ありがとうございます」

 私はカップを受け取った。

「先生は、いつもあんな感じなんですか?」

「ええ」

 須藤は微かに笑った。

「厳しい方ですが、誰よりも仕事に真摯です。依頼人のために、妥協を許さない」

「……そうみたいですね」

「私も十年仕えておりますが、先生ほど依頼人の未来を考える弁護士を知りません」

 思わず、須藤の顔を見直した。
 冷徹で合理的なだけの男かと思っていた。

 でも、そうじゃない。
 彼には、彼なりの熱さがあるのかもしれない。

 三十分後。

 打ち合わせを終えた慧が戻ってきた。
 その表情は、相変わらず無機質だ。

「待たせました」

「大丈夫。見てたから、退屈しなかった」

「……見てた?」

「あなたの仕事ぶり。すごいね、法廷の悪魔」

 慧の眉が、わずかに動いた。

「その名前は好きではありません」

「でも、似合ってる」

「……行きましょう。部屋を案内します」

 慧は歩き出した。
 私はその後を追う。

 廊下の奥。
 重厚なドアの前で、慧は足を止めた。

「ここが僕の執務室です」

 ドアを開ける。

 中は、タワマンの部屋と同じだった。
 白基調。最小限の家具。生活感の欠片もない。
 窓からは、都心のビル群が一望できる。

「ここで打ち合わせをすることもあります。覚えておいてください」

「わかった」

 私は室内を見回した。

 その時、デスクの上に目が留まった。

 一通の封書。
 白い封筒に、宛名はない。

「それは?」

 私が聞くと、慧も気づいたようだった。

「……知りません。須藤に確認を」

 慧は封書を手に取った。
 裏返す。差出人の記載もない。

「開けていいですか」

 私は聞いた。
 なぜだろう。嫌な予感がした。

「僕が開けます」

 慧は封を切った。

 中から出てきたのは、一枚の写真。

 そして、メモ用紙。

 慧はまず写真を見た。
 その表情が、わずかに強張る。

 私は覗き込んだ。
 そして、血の気が引いた。

 写真に写っているのは、私だった。

 髪型も服装も違う。
 でも、間違いない。
 二年前、私が「別れさせ工作」をしていた時のものだ。

 相手の男性と、レストランで向かい合っている。
 盗撮されていた。あの時、誰かに見られていた。

「……っ」

 声が出ない。

 慧はメモ用紙に目を移した。
 声に出して読む。

「『お前の妻の正体を知っている。法廷の悪魔も、足元をすくわれることがあるようだ』」

 沈黙。

 心臓が、早鐘のように打っていた。

 終わった。
 私の過去が、バレた。
 慧に迷惑をかける。契約は破棄される。全てが終わる。

「慧……これ、私……」

「知っています」

 慧の声は、恐ろしいほど平静だった。

「君が別れさせ屋だったことは、最初から知っていた」

「え……」

「だから契約したんです。君の過去も含めて」

 慧は写真を見つめている。
 その目に、動揺の色はない。

「この程度の脅し、想定内です」

「で、でも……」

「面白い」

 慧が、不敵に笑った。

 初めて見る表情だった。
 冷徹でも無機質でもない。
 獲物を見つけた捕食者の目。

「僕に喧嘩を売るとは。いい度胸だ」

 背筋が、ぞくりとした。

 慧はデスクの脇にあるシュレッダーに歩み寄った。
 写真を、躊躇なく投入する。

 ガリガリという音と共に、私の過去が細切れになっていく。

「な、何して……」

「証拠隠滅です」

「でも、相手は他にもコピーを……」

「そんなことは承知しています」

 慧は振り返った。

「僕が言いたいのは、こういうことです」

 一歩、近づいてくる。

「君の過去がどうであれ、今の君は僕の妻だ。契約上の」

「……」

「僕の妻を脅迫するということは、僕に喧嘩を売るということ」

 慧の目が、冷たく光った。

「法廷の悪魔を敵に回すとどうなるか、教えてあげましょう」

 心臓が、締め付けられた。

 怖い。
 この男は、本当に怖い。

 でも、同時に。
 胸の奥が、じんわりと熱くなっていた。

「……ありがとう」

 声が、かすれた。

「礼には及びません。契約の範囲内です」

 慧は淡々と言った。

 そう、契約だ。
 それだけのこと。

 わかっている。
 わかっているのに。

「この男、本当に敵に回したくない」

 私は心の中で呟いた。

 そして、もう一つ。

 この男を、もう少しだけ信じてみてもいいのかもしれない。

 そんなことを、思い始めていた。
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