【完結】別れさせ屋の私が、絶対に離婚しない弁護士と「恋愛禁止」の契約結婚をするワケ

チャビューヘ

文字の大きさ
4 / 15

第1章 第4話「法廷の悪魔と、忍び寄る過去」

しおりを挟む
 高塔法律事務所。
 その名前は、法曹界で知らない者はいない。

 都心の一等地。
 ガラス張りの高層ビル十八階。
 エレベーターの扉が開いた瞬間、空気が変わった。

「おはようございます、高塔先生」

 受付の女性が、背筋を伸ばして頭を下げる。
 その声には、明らかな緊張が混じっていた。

「おはようございます」

 慧は淡々と返す。
 しかし、その一言で周囲の空気が引き締まるのがわかる。

 私はその後ろを歩きながら、事務所の内部を観察した。

 白を基調とした清潔感のあるオフィス。
 整然と並ぶデスク。
 そこで働くスタッフたちの動きには、一切の無駄がない。

 そして、全員が慧を見る目。
 畏怖。敬意。そして、かすかな恐れ。

「高塔先生、橋本案件の書類を準備しました」

 若い男性スタッフが駆け寄ってきた。
 分厚いファイルを両手で差し出す。

「目を通しておいてください」

「ああ」

 慧はファイルを受け取りながら、歩みを止めない。
 パラパラとページをめくる。その速度が異常だ。

「三ページ目。判例の引用が古い。最新の判決に差し替えて」

「え……あ、はい」

「五ページ目。論理展開に飛躍がある。補強証拠を追加」

「承知しました」

「それと、相手方の準備書面。予測される反論を三パターン用意しておいて」

「さ、三パターンですか」

「五分で読めるものを。僕は十分後に打ち合わせに入る」

 スタッフの顔が青ざめた。
 しかし、反論する者はいない。

 すごい。
 この男、完全に王様だ。

 私は内心で舌を巻いていた。

 家ではコーヒーメーカーの使い方がわからないポンコツ。
 タオルの折り方にうるさい変人。
 朝食のゆで卵に七分半をこだわる偏執狂。

 なのに、ここでは違う。
 彼が歩くだけで、人が道を開ける。
 彼が口を開けば、全員が耳を傾ける。

 別人だ。
 いや、これが本当の高塔慧なのかもしれない。

「先生」

 落ち着いた声が、私たちを呼び止めた。

 振り返ると、四十代くらいの女性が立っていた。
 グレーのスーツ。眼鏡。知的で隙のない佇まい。

「秘書の須藤です」

 彼女は私に軽く会釈した。

「奥様のことは、先生から伺っております」

「よろしくお願いします」

 私も営業スマイルを返す。

 須藤は慧に向き直った。

「先生、本日の予定を確認させてください」

「ああ」

「十時から橋本案件の打ち合わせ。十一時に新規相談。午後は……」

 二人の会話を聞きながら、私は事務所を見回した。

 壁には額縁に入った表彰状。
 法律雑誌の切り抜き。
 どれも慧の名前が記されている。

 そして、ふと耳に入った言葉。

「法廷の悪魔」

 若いスタッフ同士の囁き声だった。

「今日も先生、怖いな」

「当たり前だろ。あの人に勝てる弁護士なんていないんだから」

「法廷の悪魔って、マジであだ名なんだな……」

 法廷の悪魔。
 そう呼ばれているのか、この男は。

 私は慧の背中を見つめた。

 確かに、納得できる。
 あの冷徹さ。あの観察眼。あの論理性。
 敵に回したら、絶対に勝てない。

 私が身をもって体験したことだ。

「ミレイさん」

 慧が振り返った。

「少し待っていてください。打ち合わせが終わったら、紹介を続けます」

「わかった」

 私は応接コーナーのソファに腰を下ろした。

 慧は須藤と共に、奥の会議室へ消えていく。
 その姿は、まるで戦場に向かう将軍のようだった。

 悔しいけど、かっこいい。
 認めざるを得ない。

 ガラス越しに、会議室の様子が見える。

 慧がホワイトボードの前に立った。
 何かを説明している。
 周囲のスタッフたちが、真剣な表情でメモを取っている。

 時折、慧が鋭い指摘をするのだろう。
 スタッフの誰かが、慌てて資料をめくる。

 それでも、誰も逃げ出さない。
 むしろ、必死についていこうとしている。

 信頼されているのだ、この男は。
 恐れられると同時に。

「奥様」

 須藤が戻ってきた。
 手にコーヒーカップを持っている。

「こちら、お口に合えばよいのですが」

「ありがとうございます」

 私はカップを受け取った。

「先生は、いつもあんな感じなんですか?」

「ええ」

 須藤は微かに笑った。

「厳しい方ですが、誰よりも仕事に真摯です。依頼人のために、妥協を許さない」

「……そうみたいですね」

「私も十年仕えておりますが、先生ほど依頼人の未来を考える弁護士を知りません」

 思わず、須藤の顔を見直した。
 冷徹で合理的なだけの男かと思っていた。

 でも、そうじゃない。
 彼には、彼なりの熱さがあるのかもしれない。

 三十分後。

 打ち合わせを終えた慧が戻ってきた。
 その表情は、相変わらず無機質だ。

「待たせました」

「大丈夫。見てたから、退屈しなかった」

「……見てた?」

「あなたの仕事ぶり。すごいね、法廷の悪魔」

 慧の眉が、わずかに動いた。

「その名前は好きではありません」

「でも、似合ってる」

「……行きましょう。部屋を案内します」

 慧は歩き出した。
 私はその後を追う。

 廊下の奥。
 重厚なドアの前で、慧は足を止めた。

「ここが僕の執務室です」

 ドアを開ける。

 中は、タワマンの部屋と同じだった。
 白基調。最小限の家具。生活感の欠片もない。
 窓からは、都心のビル群が一望できる。

「ここで打ち合わせをすることもあります。覚えておいてください」

「わかった」

 私は室内を見回した。

 その時、デスクの上に目が留まった。

 一通の封書。
 白い封筒に、宛名はない。

「それは?」

 私が聞くと、慧も気づいたようだった。

「……知りません。須藤に確認を」

 慧は封書を手に取った。
 裏返す。差出人の記載もない。

「開けていいですか」

 私は聞いた。
 なぜだろう。嫌な予感がした。

「僕が開けます」

 慧は封を切った。

 中から出てきたのは、一枚の写真。

 そして、メモ用紙。

 慧はまず写真を見た。
 その表情が、わずかに強張る。

 私は覗き込んだ。
 そして、血の気が引いた。

 写真に写っているのは、私だった。

 髪型も服装も違う。
 でも、間違いない。
 二年前、私が「別れさせ工作」をしていた時のものだ。

 相手の男性と、レストランで向かい合っている。
 盗撮されていた。あの時、誰かに見られていた。

「……っ」

 声が出ない。

 慧はメモ用紙に目を移した。
 声に出して読む。

「『お前の妻の正体を知っている。法廷の悪魔も、足元をすくわれることがあるようだ』」

 沈黙。

 心臓が、早鐘のように打っていた。

 終わった。
 私の過去が、バレた。
 慧に迷惑をかける。契約は破棄される。全てが終わる。

「慧……これ、私……」

「知っています」

 慧の声は、恐ろしいほど平静だった。

「君が別れさせ屋だったことは、最初から知っていた」

「え……」

「だから契約したんです。君の過去も含めて」

 慧は写真を見つめている。
 その目に、動揺の色はない。

「この程度の脅し、想定内です」

「で、でも……」

「面白い」

 慧が、不敵に笑った。

 初めて見る表情だった。
 冷徹でも無機質でもない。
 獲物を見つけた捕食者の目。

「僕に喧嘩を売るとは。いい度胸だ」

 背筋が、ぞくりとした。

 慧はデスクの脇にあるシュレッダーに歩み寄った。
 写真を、躊躇なく投入する。

 ガリガリという音と共に、私の過去が細切れになっていく。

「な、何して……」

「証拠隠滅です」

「でも、相手は他にもコピーを……」

「そんなことは承知しています」

 慧は振り返った。

「僕が言いたいのは、こういうことです」

 一歩、近づいてくる。

「君の過去がどうであれ、今の君は僕の妻だ。契約上の」

「……」

「僕の妻を脅迫するということは、僕に喧嘩を売るということ」

 慧の目が、冷たく光った。

「法廷の悪魔を敵に回すとどうなるか、教えてあげましょう」

 心臓が、締め付けられた。

 怖い。
 この男は、本当に怖い。

 でも、同時に。
 胸の奥が、じんわりと熱くなっていた。

「……ありがとう」

 声が、かすれた。

「礼には及びません。契約の範囲内です」

 慧は淡々と言った。

 そう、契約だ。
 それだけのこと。

 わかっている。
 わかっているのに。

「この男、本当に敵に回したくない」

 私は心の中で呟いた。

 そして、もう一つ。

 この男を、もう少しだけ信じてみてもいいのかもしれない。

 そんなことを、思い始めていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

働かないつもりでしたのに、気づけば全部うまくいっていました ――自由に生きる貴族夫人と溺愛旦那様』

鷹 綾
恋愛
前世では、仕事に追われるだけの人生を送り、恋も自由も知らないまま終わった私。 だからこそ転生後に誓った―― 「今度こそ、働かずに優雅に生きる!」 と。 気づけば貴族夫人、しかも結婚相手は冷静沈着な名門貴族リチャード様。 「君は何もしなくていい。自由に過ごしてくれ」 ――理想的すぎる条件に、これは勝ち確人生だと思ったのに。 なぜか気づけば、 ・屋敷の管理を改善して使用人の待遇が激変 ・夫の仕事を手伝ったら経理改革が大成功 ・興味本位で教えた簿記と珠算が商業界に革命を起こす ・商人ギルドの顧問にまで祭り上げられる始末 「あれ? 私、働かない予定でしたよね???」 自分から出世街道を爆走するつもりはなかったはずなのに、 “やりたいことをやっていただけ”で、世界のほうが勝手に変わっていく。 一方、そんな彼女を静かに見守り続けていた夫・リチャードは、 実は昔から彼女を想い続けていた溺愛系旦那様で――。 「君が選ぶなら、私はずっとそばにいる」 働かないつもりだった貴族夫人が、 自由・仕事・愛情のすべてを“自分で選ぶ”人生に辿り着く物語。 これは、 何もしないはずだったのに、幸せだけは全部手に入れてしまった女性の物語。

氷の騎士と陽だまりの薬師令嬢 ~呪われた最強騎士様を、没落貴族の私がこっそり全力で癒します!~

放浪人
恋愛
薬師として細々と暮らす没落貴族の令嬢リリア。ある夜、彼女は森で深手を負い倒れていた騎士団副団長アレクシスを偶然助ける。彼は「氷の騎士」と噂されるほど冷徹で近寄りがたい男だったが、リリアの作る薬とささやかな治癒魔法だけが、彼を蝕む古傷の痛みを和らげることができた。 「……お前の薬だけが、頼りだ」 秘密の治療を続けるうち、リリアはアレクシスの不器用な優しさや孤独に触れ、次第に惹かれていく。しかし、彼の立場を狙う政敵や、リリアの才能を妬む者の妨害が二人を襲う。身分違いの恋、迫りくる危機。リリアは愛する人を守るため、薬師としての知識と勇気を武器に立ち向かうことを決意する。

溺愛王子の甘すぎる花嫁~悪役令嬢を追放したら、毎日が新婚初夜になりました~

紅葉山参
恋愛
侯爵令嬢リーシャは、婚約者である第一王子ビヨンド様との結婚を心から待ち望んでいた。けれど、その幸福な未来を妬む者もいた。それが、リーシャの控えめな立場を馬鹿にし、王子を我が物にしようと画策した悪役令嬢ユーリーだった。 ある夜会で、ユーリーはビヨンド様の気を引こうと、リーシャを罠にかける。しかし、あなたの王子は、そんなつまらない小細工に騙されるほど愚かではなかった。愛するリーシャを信じ、王子はユーリーを即座に糾弾し、国外追放という厳しい処分を下す。 邪魔者が消え去った後、リーシャとビヨンド様の甘美な新婚生活が始まる。彼は、人前では厳格な王子として振る舞うけれど、私と二人きりになると、とろけるような甘さでリーシャを愛し尽くしてくれるの。 「私の可愛い妻よ、きみなしの人生なんて考えられない」 そう囁くビヨンド様に、私リーシャもまた、心も身体も預けてしまう。これは、障害が取り除かれたことで、むしろ加速度的に深まる、世界一甘くて幸せな夫婦の溺愛物語。新婚の王子妃として、私は彼の、そして王国の「最愛」として、毎日を幸福に満たされて生きていきます。

身代わり令嬢、恋した公爵に真実を伝えて去ろうとしたら、絡めとられる(ごめんなさぁぁぁぁい!あなたの本当の婚約者は、私の姉です)

柳葉うら
恋愛
(ごめんなさぁぁぁぁい!) 辺境伯令嬢のウィルマは心の中で土下座した。 結婚が嫌で家出した姉の身代わりをして、誰もが羨むような素敵な公爵様の婚約者として会ったのだが、公爵あまりにも良い人すぎて、申し訳なくて仕方がないのだ。 正直者で面食いな身代わり令嬢と、そんな令嬢のことが実は昔から好きだった策士なヒーローがドタバタとするお話です。 さくっと読んでいただけるかと思います。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

婚約破棄歴八年、すっかり飲んだくれになった私をシスコン義弟が宰相に成り上がって迎えにきた

鳥羽ミワ
恋愛
ロゼ=ローラン、二十四歳。十六歳の頃に最初の婚約が破棄されて以来、数えるのも馬鹿馬鹿しいくらいの婚約破棄を経験している。 幸い両親であるローラン伯爵夫妻はありあまる愛情でロゼを受け入れてくれているし、お酒はおいしいけれど、このままではかわいい義弟のエドガーの婚姻に支障が出てしまうかもしれない。彼はもう二十を過ぎているのに、いまだ縁談のひとつも来ていないのだ。 焦ったロゼはどこでもいいから嫁ごうとするものの、行く先々にエドガーが現れる。 このままでは義弟が姉離れできないと強い危機感を覚えるロゼに、男として迫るエドガー。気づかないロゼ。構わず迫るエドガー。 エドガーはありとあらゆるギリギリ世間の許容範囲(の外)の方法で外堀を埋めていく。 「パーティーのパートナーは俺だけだよ。俺以外の男の手を取るなんて許さない」 「お茶会に行くんだったら、ロゼはこのドレスを着てね。古いのは全部処分しておいたから」 「アクセサリー選びは任せて。俺の瞳の色だけで綺麗に飾ってあげるし、もちろん俺のネクタイもロゼの瞳の色だよ」 ちょっと抜けてる真面目酒カス令嬢が、シスコン義弟に溺愛される話。 ※この話はカクヨム様、アルファポリス様、エブリスタ様にも掲載されています。 ※レーティングをつけるほどではないと判断しましたが、作中性的ないやがらせ、暴行の描写、ないしはそれらを想起させる描写があります。

離婚寸前で人生をやり直したら、冷徹だったはずの夫が私を溺愛し始めています

腐ったバナナ
恋愛
侯爵夫人セシルは、冷徹な夫アークライトとの愛のない契約結婚に疲れ果て、離婚を決意した矢先に孤独な死を迎えた。 「もしやり直せるなら、二度と愛のない人生は選ばない」 そう願って目覚めると、そこは結婚直前の18歳の自分だった! 今世こそ平穏な人生を歩もうとするセシルだったが、なぜか夫の「感情の色」が見えるようになった。 冷徹だと思っていた夫の無表情の下に、深い孤独と不器用で一途な愛が隠されていたことを知る。 彼の愛をすべて誤解していたと気づいたセシルは、今度こそ彼の愛を掴むと決意。積極的に寄り添い、感情をぶつけると――

捨てられた地味な王宮修復師(実は有能)、強面辺境伯の栄養管理で溺愛され、辺境を改革する ~王都の貴重な物が失われても知りませんよ?~

水上
恋愛
「カビ臭い地味女」と王太子に婚約破棄された王宮修復師のリディア。 彼女の芸術に関する知識と修復師としての技術は、誰からも必要性を理解されていなかった。 失意の中、嫁がされたのは皆から恐れられる強面辺境伯ジェラルドだった! しかし恐ろしい噂とは裏腹に、彼はリディアの不健康を見逃せない超・過保護で!? 絶品手料理と徹底的な体調管理で、リディアは心身ともに美しく再生していく。 一方、彼女を追放した王都では、貴重な物が失われたり、贋作騒動が起きたりとパニックになり始めて……。

処理中です...