【完結】別れさせ屋の私が、絶対に離婚しない弁護士と「恋愛禁止」の契約結婚をするワケ

チャビューヘ

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第1章 第5話「鉄の男のフリーズと、真夜中の熱」

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 脅迫状の一件から、三日が過ぎた。

 慧は毎晩、遅くまで帰ってこなかった。
 朝は私より早く出て、夜は日付が変わる頃に戻ってくる。
 顔を合わせるのは、せいぜい朝食の十五分だけ。

 今夜も、時計の針は二十三時を回っていた。

 私はソファで本を読みながら、彼の帰りを待っていた。
 待っている、という自覚はなかった。
 ただ、なんとなく寝室に行く気になれなかっただけだ。

 そう自分に言い聞かせていた。

 カチャリ。

 玄関のロックが解除される音。
 私は本から顔を上げた。

「おかえり」

 返事がない。

 廊下を歩いてくる足音が、妙に重い。
 いつもの慧なら、靴を脱ぐ音さえ無駄がないのに。

 リビングに現れた慧を見て、私は眉をひそめた。

 顔が赤い。
 額には薄く汗が浮かんでいる。
 何より、足元がふらついていた。

「……ただいま」

 声もかすれている。

「ちょっと。あんた、顔色おかしいよ」

「問題ありません」

 慧はネクタイを緩めながら、ソファに向かって歩いてきた。
 その途中で、壁に手をついた。

「君の件でデータを洗い直していました」

「は?」

「睡眠不足による一時的なエラーです。六時間の休息で回復します」

 何を言っているんだ、この男は。

「自分の体を機械みたいに言うな」

「機械の方が効率的です。故障しても部品交換で済む」

 私は本をテーブルに置いて立ち上がった。
 慧の前に回り込む。

「熱、あるでしょ」

「室温設定の問題かと」

「嘘つけ」

 私は強引に、彼の額に手を当てた。

 熱い。
 明らかに、異常な熱さだった。

「……っ」

 慧が、わずかに目を見開いた。
 私の手を、まじまじと見つめている。

「何してるんですか」

「熱測ってんの。黙って」

「検温なら体温計を使うべきです。手のひらでは正確な数値が」

「うるさい」

 私は彼の腕を掴んで、ソファに押し込んだ。

「座って。動くな」

 救急箱から体温計を取り出す。
 慧の脇に差し込んだ。

 三十秒後。
 電子音が鳴った。

 三十八度七分。

「……思考速度が低下しているだけです」

「三十八度超えてるの。それ、風邪じゃなくて高熱」

 慧は体温計の数字を見つめていた。
 その表情に、かすかな困惑が浮かんでいる。

 この男、本当に自分の体調がわからないのか。

「ベッド。今すぐ」

「しかし、明日の準備が」

「知らない。寝ろ」

 私は慧の腕を引いて、寝室へ連れて行った。

 ベッドに押し倒す。
 比喩ではなく、物理的に。

「着替えは?」

「……クローゼットの右側に」

 指示された場所から、シンプルな黒のスウェットを取り出した。
 ワイシャツのボタンに手をかける。

「……自分でできます」

「できないでしょ。手、震えてるじゃん」

 慧は何か言いかけて、口を閉じた。
 大人しく、私に着替えさせられている。

 おかしい。
 あの高塔慧が、反論しない。
 よほど辛いのだろう。

 着替えを終えて、布団をかける。
 冷凍庫から保冷剤を取り出し、タオルで包んで額に乗せた。

「……すみません」

「何が」

「手間をかけて」

「契約の範囲内でしょ」

 私はキッチンに向かった。

 冷蔵庫を開ける。
 卵、白米、だし、梅干し。
 材料は揃っている。

 鍋に水を張り、火にかける。
 ご飯を入れて、弱火でコトコト煮込む。
 溶き卵を回し入れ、塩で味を整えた。

 十五分後。
 湯気の立つ卵粥が完成した。

 トレイに乗せて、寝室に戻る。

「起きれる?」

 慧は目を開けた。
 保冷剤がずれて、髪が乱れている。
 いつもの完璧な弁護士の面影はなかった。

 私はベッドの端に腰かけて、スプーンを差し出した。

「食べて」

「……一人で食べられます」

「いいから」

 慧は、おとなしく口を開けた。
 スプーンを受け入れる。

 ゆっくりと、咀嚼する。
 飲み込む。

 その目が、わずかに見開かれた。

「……味がする」

「当たり前でしょ」

「いつも食べているゼリー飲料とは、違う」

 私は眉をひそめた。

「風邪の時、何食べてたの」

「ゼリー飲料です。栄養素が効率的に摂取できる」

「それだけ?」

「水分も重要です。ミネラルウォーターを」

 私は言葉を失った。

 この男。
 今まで、誰にも看病されたことがないのか。

「……美味しい」

 慧が、ぽつりと呟いた。

「久しぶりに、温かいものを食べた気がします」

 胸の奥が、チクリと痛んだ。

 無敗の離婚弁護士。
 法廷の悪魔。
 誰もが恐れる、冷徹な男。

 その正体は、一人で熱を出して、ゼリー飲料を啜っていたのか。

「もう少し食べる?」

「……お願いします」

 私は黙って、スプーンを運び続けた。

 粥を半分ほど食べたところで、慧の目が閉じ始めた。
 瞼が重そうに下がっていく。

「寝て。片付けてくるから」

 私はトレイを持って立ち上がった。

 その瞬間。

 手首を、掴まれた。

「……っ」

 振り返る。
 慧が、私の手首を握っていた。

 弱々しい力だった。
 いつもの鋭さは、どこにもない。

「行くな」

 掠れた声が、静かな部屋に響いた。

「片付けるだけだから」

「あとでいい」

「でも」

「ここにいてくれ」

 心臓が、跳ねた。

 慧は目を閉じたまま、私の手首を離さない。
 その横顔は、熱のせいで紅潮している。

「……これは、命令だ」

 命令。
 弱々しい声で、何を言っているのか。

「命令って。あんた、患者でしょ」

「契約上、君は僕の妻だ。妻は夫の命令に従う義務がある」

「そんな条項、どこにもなかったけど」

「今、追加した」

 呆れる。
 熱で頭がおかしくなっているとしか思えない。

 でも。

 私は、振り払えなかった。

 慧の手は熱かった。
 三十八度を超える体温が、私の手首に伝わってくる。

 いつも冷静で、合理的で、感情を見せない男。
 その男が、こんなにも弱々しく、私を引き止めている。

「……わかったよ」

 私はベッドの端に腰を下ろした。
 トレイを床に置く。

「寝るまでいてあげる」

 慧は何も言わなかった。
 ただ、私の手首を握ったまま、静かに呼吸を繰り返している。

 数分後。
 その手から、力が抜けた。

 寝息が聞こえる。
 熱のせいか、少し荒い。

 私は、慧の寝顔を見つめていた。

 眉間の皺が消えている。
 いつもの鋭い眼差しもない。
 ただの、疲れた男がそこにいた。

 手首に残る、彼の体温。
 「行くな」という、掠れた声。

 契約だ。
 これは仕事だ。
 私は彼の妻を演じているだけ。

 そう言い聞かせても。

 胸のざわつきは、消えなかった。

 この人を、守ってあげたい。

 そんな感情が、確かに芽生え始めていた。
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