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第1章 第6話「再起動した理性と、共犯のオファー」
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目が覚めたのは、首の痛みのせいだった。
ソファの肘掛けに頭を預けたまま、いつの間にか眠ってしまったらしい。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。
時計を見ると、七時過ぎ。
私は身体を起こし、凝り固まった首を回した。
寝室のドアは、開いたままだ。
昨夜、慧が眠った後も閉める気になれなかった。
何かあったらすぐ駆けつけられるように。
……いや、契約上の義務だ。
妻役として、当然の行動。
それ以上の意味はない。
私は立ち上がり、寝室を覗いた。
ベッドは空だった。
「え」
慌てて周囲を見回す。
保冷剤は枕元に転がり、布団は乱れたまま。
バスルームから、水音が聞こえた。
生きてる。
というか、動けるまで回復したらしい。
私は胸を撫で下ろし、キッチンへ向かった。
朝食の準備をしよう。
昨夜の粥が効いたなら、今朝は少し固形物を増やしてもいいかもしれない。
冷蔵庫を開けて、卵と野菜を取り出す。
フライパンを温め、オリーブオイルを垂らした。
背後で、ドアの開く音。
「おはよう。熱、下がった?」
振り返らずに声をかける。
返事がない。
私は首を傾げて振り返った。
慧が、リビングの入口で固まっていた。
髪は濡れたまま、まだ乾かしていない。
いつものスーツではなく、昨夜着替えさせた黒のスウェット姿。
そして。
顔が、赤い。
熱がぶり返したのか。
私は慌ててフライパンを火から下ろし、近づいた。
「ちょっと、まだ熱あるんじゃ」
「ない」
慧が、一歩後退った。
「体温は三十六度四分。平熱です。問題ありません」
声が硬い。
いつもの冷静さとは、明らかに違う。
「じゃあ、なんで顔赤いの」
「……室温の問題かと」
「嘘つけ」
私は腕を組んだ。
慧の視線が、露骨に泳いでいる。
この男、何を動揺しているのか。
そこで、気づいた。
昨夜のこと。
「行くな」と私の手首を掴んだこと。
「ここにいてくれ、これは命令だ」と、弱々しく甘えたこと。
覚えているのだ。
私の口角が、勝手に上がった。
「ああ、なるほど」
「何がですか」
「昨夜のこと、覚えてるんだ」
慧の肩が、ビクリと跳ねた。
反応が素直すぎる。
熱が下がっても、まだ調子が戻っていないらしい。
「昨夜の件ですが」
慧は咳払いをして、声のトーンを整えた。
いつもの弁護士モードに戻ろうとしている。
「あれは、発熱による一時的な判断力低下が原因です」
「ふーん」
「発熱時は判断能力が著しく低下する。刑事裁判でも、高熱下の自白は証拠能力を否定される場合があります」
「へえ」
「医学的に証明されている現象であり、本来の意思決定能力とは無関係です」
慧は早口でまくし立てた。
普段の彼なら、こんなに言葉を重ねない。
論理武装というより、必死の言い訳だ。
「つまり、あれは脳のバグだと」
「そうです。いわば、判断能力の一時的な瑕疵です」
「じゃあ、『行くな』って言ったのも、神経伝達の異常?」
慧の口が、開いたまま止まった。
数秒の沈黙。
「……そうです」
目を逸らした。
私は笑いを噛み殺した。
無敗の離婚弁護士が、こんなに分かりやすく嘘をつくとは。
法廷で見せる完璧な論理構成は、どこへ行ったのか。
「はいはい。バグね、バグ」
「忘れてください。あれは無効な発言です。契約書にも記載されていない」
「うん、わかった。忘れる」
私はキッチンに戻り、フライパンを再び火にかけた。
忘れない。
絶対に忘れない。
あの「行くな」は、私の記憶に刻み込まれている。
でも、それを言ったら、この男は本当に倒れそうだ。
今は許してやろう。
「朝食、食べられる?」
「……はい」
慧がダイニングテーブルに座る気配がした。
私は卵を割りながら、肩越しに声をかけた。
「今日は仕事、休んだら?」
「休めません。今日中に片付けなければならない案件があります」
その声には、いつもの鋭さが戻りつつあった。
「脅迫状の件ですか、と聞きたいところでしょう」
私は手を止めた。
振り返ると、慧の目が真剣な光を帯びていた。
さっきまでの動揺は、どこにもない。
冷徹な離婚弁護士の顔だ。
「犯人は、特定できました」
心臓が、一拍跳ねた。
「……誰」
「君の過去のターゲットではない」
慧は椅子に深く座り直した。
その目が、まっすぐに私を見つめる。
「僕の敵だ」
予想外の言葉に、私は眉をひそめた。
「あんたの?」
「正確には、僕を失脚させたい人間です」
慧は淡々と続けた。
「写真を送ったのは、二年前に僕が離婚訴訟で叩き潰した弁護士が雇った探偵でした」
「探偵」
「君の過去を調べ上げ、僕との関係を探っていた。おそらく、偽装結婚の証拠を掴むつもりだったのでしょう」
私は火を止めて、慧の正面に立った。
「待って。じゃあ、私の過去の写真は」
「道具に過ぎない」
慧の声は、氷のように冷たかった。
「本当の標的は僕です。君は巻き込まれた。申し訳ない」
謝罪の言葉なのに、その口調には一切の感情がない。
怒りを、限界まで押し殺しているのだと気づいた。
「写真はシュレッダーにかけましたが、データは残っているはずです」
「法的に潰せないの?」
「潰せます。時間をかければ」
慧の目が、冷ややかに光った。
「しかし、それでは遅い。データが拡散される前に、元を断つ必要がある」
私は腕を組んだ。
「元って?」
「探偵の背後にいる弁護士です。法廷で争えば、僕が勝つ。しかし、それでは尻尾を掴めない」
慧は立ち上がり、窓際へ歩いた。
朝日に照らされた横顔は、まるで刃のように鋭い。
「相手は僕の手口を知っている。法廷では証拠を隠し通すでしょう」
「じゃあ、どうするの」
慧が振り返った。
その目が、まっすぐに私を射抜く。
「君に、依頼があります」
心臓が、跳ねた。
「僕は法廷で戦う。しかし、法廷に立てない敵もいる」
慧は私の前まで歩み寄り、立ち止まった。
至近距離で、その目を見つめる。
「君の技術が必要だ」
「……技術」
「演技力、人心掌握、嘘を見抜く目」
慧の声が、低く響いた。
「別れさせ屋としての、すべての技術が」
息が、止まった。
この男は今、私の仕事を否定していない。
汚い仕事だと、後ろ暗い過去だと、軽蔑していない。
むしろ、頼りにしている。
「……私の仕事を、認めるってこと?」
「認めるも何も」
慧は、わずかに口角を上げた。
不敵な、しかしどこか温かみのある笑み。
「僕は最初から知っていた。そして、だからこそ君を選んだ」
胸の奥が、熱くなった。
誰も認めてくれなかった。
嘘をつく仕事、人の関係を壊す仕事。
必要悪だと自分に言い聞かせながら、どこかで後ろめたさを抱えていた。
それを、この男は。
「力を貸してくれますか」
慧の声は、命令ではなかった。
依頼だった。
対等な相手への、正式な依頼。
私は、深呼吸をした。
「いいよ」
声が、思ったより落ち着いていた。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「今度は私が指揮を執る」
慧の目が、わずかに見開かれた。
「あんたは法廷の専門家でしょ。でも、法廷の外は私の領域だ」
私は一歩踏み込み、慧を見上げた。
「作戦は私が立てる。あんたは、私の言うことを聞いて」
数秒の沈黙。
慧の口元が、ゆっくりと歪んだ。
笑っている。
しかも、心から面白そうに。
「……いいでしょう」
「あ、そう。意外と素直じゃん」
「合理的な判断です。適材適所という言葉を知っていますか」
「知ってるよ。じゃあ、契約書に追加条項ね」
私は指を立てた。
「作戦遂行中、高塔慧は佐倉ミレイの指示に従うこと」
「了解しました」
慧は手を差し出した。
握手を求めている。
「共犯契約の成立ですね」
私はその手を握った。
大きくて、昨夜よりずっと冷たい。
熱は完全に下がったらしい。
「オーケー、悪魔さん」
私は不敵に笑った。
「地獄を見せてあげましょう」
慧の目が、獰猛な光を帯びた。
「ええ。法廷の外にも、地獄はある。彼らに教育してあげましょう」
朝日が、二人の影を床に落としていた。
共犯者として。
対等なパートナーとして。
私たちの反撃が、今、始まろうとしていた。
ソファの肘掛けに頭を預けたまま、いつの間にか眠ってしまったらしい。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。
時計を見ると、七時過ぎ。
私は身体を起こし、凝り固まった首を回した。
寝室のドアは、開いたままだ。
昨夜、慧が眠った後も閉める気になれなかった。
何かあったらすぐ駆けつけられるように。
……いや、契約上の義務だ。
妻役として、当然の行動。
それ以上の意味はない。
私は立ち上がり、寝室を覗いた。
ベッドは空だった。
「え」
慌てて周囲を見回す。
保冷剤は枕元に転がり、布団は乱れたまま。
バスルームから、水音が聞こえた。
生きてる。
というか、動けるまで回復したらしい。
私は胸を撫で下ろし、キッチンへ向かった。
朝食の準備をしよう。
昨夜の粥が効いたなら、今朝は少し固形物を増やしてもいいかもしれない。
冷蔵庫を開けて、卵と野菜を取り出す。
フライパンを温め、オリーブオイルを垂らした。
背後で、ドアの開く音。
「おはよう。熱、下がった?」
振り返らずに声をかける。
返事がない。
私は首を傾げて振り返った。
慧が、リビングの入口で固まっていた。
髪は濡れたまま、まだ乾かしていない。
いつものスーツではなく、昨夜着替えさせた黒のスウェット姿。
そして。
顔が、赤い。
熱がぶり返したのか。
私は慌ててフライパンを火から下ろし、近づいた。
「ちょっと、まだ熱あるんじゃ」
「ない」
慧が、一歩後退った。
「体温は三十六度四分。平熱です。問題ありません」
声が硬い。
いつもの冷静さとは、明らかに違う。
「じゃあ、なんで顔赤いの」
「……室温の問題かと」
「嘘つけ」
私は腕を組んだ。
慧の視線が、露骨に泳いでいる。
この男、何を動揺しているのか。
そこで、気づいた。
昨夜のこと。
「行くな」と私の手首を掴んだこと。
「ここにいてくれ、これは命令だ」と、弱々しく甘えたこと。
覚えているのだ。
私の口角が、勝手に上がった。
「ああ、なるほど」
「何がですか」
「昨夜のこと、覚えてるんだ」
慧の肩が、ビクリと跳ねた。
反応が素直すぎる。
熱が下がっても、まだ調子が戻っていないらしい。
「昨夜の件ですが」
慧は咳払いをして、声のトーンを整えた。
いつもの弁護士モードに戻ろうとしている。
「あれは、発熱による一時的な判断力低下が原因です」
「ふーん」
「発熱時は判断能力が著しく低下する。刑事裁判でも、高熱下の自白は証拠能力を否定される場合があります」
「へえ」
「医学的に証明されている現象であり、本来の意思決定能力とは無関係です」
慧は早口でまくし立てた。
普段の彼なら、こんなに言葉を重ねない。
論理武装というより、必死の言い訳だ。
「つまり、あれは脳のバグだと」
「そうです。いわば、判断能力の一時的な瑕疵です」
「じゃあ、『行くな』って言ったのも、神経伝達の異常?」
慧の口が、開いたまま止まった。
数秒の沈黙。
「……そうです」
目を逸らした。
私は笑いを噛み殺した。
無敗の離婚弁護士が、こんなに分かりやすく嘘をつくとは。
法廷で見せる完璧な論理構成は、どこへ行ったのか。
「はいはい。バグね、バグ」
「忘れてください。あれは無効な発言です。契約書にも記載されていない」
「うん、わかった。忘れる」
私はキッチンに戻り、フライパンを再び火にかけた。
忘れない。
絶対に忘れない。
あの「行くな」は、私の記憶に刻み込まれている。
でも、それを言ったら、この男は本当に倒れそうだ。
今は許してやろう。
「朝食、食べられる?」
「……はい」
慧がダイニングテーブルに座る気配がした。
私は卵を割りながら、肩越しに声をかけた。
「今日は仕事、休んだら?」
「休めません。今日中に片付けなければならない案件があります」
その声には、いつもの鋭さが戻りつつあった。
「脅迫状の件ですか、と聞きたいところでしょう」
私は手を止めた。
振り返ると、慧の目が真剣な光を帯びていた。
さっきまでの動揺は、どこにもない。
冷徹な離婚弁護士の顔だ。
「犯人は、特定できました」
心臓が、一拍跳ねた。
「……誰」
「君の過去のターゲットではない」
慧は椅子に深く座り直した。
その目が、まっすぐに私を見つめる。
「僕の敵だ」
予想外の言葉に、私は眉をひそめた。
「あんたの?」
「正確には、僕を失脚させたい人間です」
慧は淡々と続けた。
「写真を送ったのは、二年前に僕が離婚訴訟で叩き潰した弁護士が雇った探偵でした」
「探偵」
「君の過去を調べ上げ、僕との関係を探っていた。おそらく、偽装結婚の証拠を掴むつもりだったのでしょう」
私は火を止めて、慧の正面に立った。
「待って。じゃあ、私の過去の写真は」
「道具に過ぎない」
慧の声は、氷のように冷たかった。
「本当の標的は僕です。君は巻き込まれた。申し訳ない」
謝罪の言葉なのに、その口調には一切の感情がない。
怒りを、限界まで押し殺しているのだと気づいた。
「写真はシュレッダーにかけましたが、データは残っているはずです」
「法的に潰せないの?」
「潰せます。時間をかければ」
慧の目が、冷ややかに光った。
「しかし、それでは遅い。データが拡散される前に、元を断つ必要がある」
私は腕を組んだ。
「元って?」
「探偵の背後にいる弁護士です。法廷で争えば、僕が勝つ。しかし、それでは尻尾を掴めない」
慧は立ち上がり、窓際へ歩いた。
朝日に照らされた横顔は、まるで刃のように鋭い。
「相手は僕の手口を知っている。法廷では証拠を隠し通すでしょう」
「じゃあ、どうするの」
慧が振り返った。
その目が、まっすぐに私を射抜く。
「君に、依頼があります」
心臓が、跳ねた。
「僕は法廷で戦う。しかし、法廷に立てない敵もいる」
慧は私の前まで歩み寄り、立ち止まった。
至近距離で、その目を見つめる。
「君の技術が必要だ」
「……技術」
「演技力、人心掌握、嘘を見抜く目」
慧の声が、低く響いた。
「別れさせ屋としての、すべての技術が」
息が、止まった。
この男は今、私の仕事を否定していない。
汚い仕事だと、後ろ暗い過去だと、軽蔑していない。
むしろ、頼りにしている。
「……私の仕事を、認めるってこと?」
「認めるも何も」
慧は、わずかに口角を上げた。
不敵な、しかしどこか温かみのある笑み。
「僕は最初から知っていた。そして、だからこそ君を選んだ」
胸の奥が、熱くなった。
誰も認めてくれなかった。
嘘をつく仕事、人の関係を壊す仕事。
必要悪だと自分に言い聞かせながら、どこかで後ろめたさを抱えていた。
それを、この男は。
「力を貸してくれますか」
慧の声は、命令ではなかった。
依頼だった。
対等な相手への、正式な依頼。
私は、深呼吸をした。
「いいよ」
声が、思ったより落ち着いていた。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「今度は私が指揮を執る」
慧の目が、わずかに見開かれた。
「あんたは法廷の専門家でしょ。でも、法廷の外は私の領域だ」
私は一歩踏み込み、慧を見上げた。
「作戦は私が立てる。あんたは、私の言うことを聞いて」
数秒の沈黙。
慧の口元が、ゆっくりと歪んだ。
笑っている。
しかも、心から面白そうに。
「……いいでしょう」
「あ、そう。意外と素直じゃん」
「合理的な判断です。適材適所という言葉を知っていますか」
「知ってるよ。じゃあ、契約書に追加条項ね」
私は指を立てた。
「作戦遂行中、高塔慧は佐倉ミレイの指示に従うこと」
「了解しました」
慧は手を差し出した。
握手を求めている。
「共犯契約の成立ですね」
私はその手を握った。
大きくて、昨夜よりずっと冷たい。
熱は完全に下がったらしい。
「オーケー、悪魔さん」
私は不敵に笑った。
「地獄を見せてあげましょう」
慧の目が、獰猛な光を帯びた。
「ええ。法廷の外にも、地獄はある。彼らに教育してあげましょう」
朝日が、二人の影を床に落としていた。
共犯者として。
対等なパートナーとして。
私たちの反撃が、今、始まろうとしていた。
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