【完結】別れさせ屋の私が、絶対に離婚しない弁護士と「恋愛禁止」の契約結婚をするワケ

チャビューヘ

文字の大きさ
6 / 15

第1章 第6話「再起動した理性と、共犯のオファー」

しおりを挟む
 目が覚めたのは、首の痛みのせいだった。

 ソファの肘掛けに頭を預けたまま、いつの間にか眠ってしまったらしい。
 カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。
 時計を見ると、七時過ぎ。

 私は身体を起こし、凝り固まった首を回した。

 寝室のドアは、開いたままだ。
 昨夜、慧が眠った後も閉める気になれなかった。
 何かあったらすぐ駆けつけられるように。

 ……いや、契約上の義務だ。
 妻役として、当然の行動。
 それ以上の意味はない。

 私は立ち上がり、寝室を覗いた。

 ベッドは空だった。

「え」

 慌てて周囲を見回す。
 保冷剤は枕元に転がり、布団は乱れたまま。

 バスルームから、水音が聞こえた。

 生きてる。
 というか、動けるまで回復したらしい。

 私は胸を撫で下ろし、キッチンへ向かった。
 朝食の準備をしよう。
 昨夜の粥が効いたなら、今朝は少し固形物を増やしてもいいかもしれない。

 冷蔵庫を開けて、卵と野菜を取り出す。
 フライパンを温め、オリーブオイルを垂らした。

 背後で、ドアの開く音。

「おはよう。熱、下がった?」

 振り返らずに声をかける。
 返事がない。

 私は首を傾げて振り返った。

 慧が、リビングの入口で固まっていた。

 髪は濡れたまま、まだ乾かしていない。
 いつものスーツではなく、昨夜着替えさせた黒のスウェット姿。
 そして。

 顔が、赤い。

 熱がぶり返したのか。
 私は慌ててフライパンを火から下ろし、近づいた。

「ちょっと、まだ熱あるんじゃ」

「ない」

 慧が、一歩後退った。

「体温は三十六度四分。平熱です。問題ありません」

 声が硬い。
 いつもの冷静さとは、明らかに違う。

「じゃあ、なんで顔赤いの」

「……室温の問題かと」

「嘘つけ」

 私は腕を組んだ。
 慧の視線が、露骨に泳いでいる。

 この男、何を動揺しているのか。

 そこで、気づいた。

 昨夜のこと。
 「行くな」と私の手首を掴んだこと。
 「ここにいてくれ、これは命令だ」と、弱々しく甘えたこと。

 覚えているのだ。

 私の口角が、勝手に上がった。

「ああ、なるほど」

「何がですか」

「昨夜のこと、覚えてるんだ」

 慧の肩が、ビクリと跳ねた。
 反応が素直すぎる。
 熱が下がっても、まだ調子が戻っていないらしい。

「昨夜の件ですが」

 慧は咳払いをして、声のトーンを整えた。
 いつもの弁護士モードに戻ろうとしている。

「あれは、発熱による一時的な判断力低下が原因です」

「ふーん」

「発熱時は判断能力が著しく低下する。刑事裁判でも、高熱下の自白は証拠能力を否定される場合があります」

「へえ」

「医学的に証明されている現象であり、本来の意思決定能力とは無関係です」

 慧は早口でまくし立てた。
 普段の彼なら、こんなに言葉を重ねない。
 論理武装というより、必死の言い訳だ。

「つまり、あれは脳のバグだと」

「そうです。いわば、判断能力の一時的な瑕疵です」

「じゃあ、『行くな』って言ったのも、神経伝達の異常?」

 慧の口が、開いたまま止まった。
 数秒の沈黙。

「……そうです」

 目を逸らした。

 私は笑いを噛み殺した。
 無敗の離婚弁護士が、こんなに分かりやすく嘘をつくとは。
 法廷で見せる完璧な論理構成は、どこへ行ったのか。

「はいはい。バグね、バグ」

「忘れてください。あれは無効な発言です。契約書にも記載されていない」

「うん、わかった。忘れる」

 私はキッチンに戻り、フライパンを再び火にかけた。

 忘れない。
 絶対に忘れない。
 あの「行くな」は、私の記憶に刻み込まれている。

 でも、それを言ったら、この男は本当に倒れそうだ。
 今は許してやろう。

「朝食、食べられる?」

「……はい」

 慧がダイニングテーブルに座る気配がした。
 私は卵を割りながら、肩越しに声をかけた。

「今日は仕事、休んだら?」

「休めません。今日中に片付けなければならない案件があります」

 その声には、いつもの鋭さが戻りつつあった。

「脅迫状の件ですか、と聞きたいところでしょう」

 私は手を止めた。

 振り返ると、慧の目が真剣な光を帯びていた。
 さっきまでの動揺は、どこにもない。
 冷徹な離婚弁護士の顔だ。

「犯人は、特定できました」

 心臓が、一拍跳ねた。

「……誰」

「君の過去のターゲットではない」

 慧は椅子に深く座り直した。
 その目が、まっすぐに私を見つめる。

「僕の敵だ」

 予想外の言葉に、私は眉をひそめた。

「あんたの?」

「正確には、僕を失脚させたい人間です」

 慧は淡々と続けた。

「写真を送ったのは、二年前に僕が離婚訴訟で叩き潰した弁護士が雇った探偵でした」

「探偵」

「君の過去を調べ上げ、僕との関係を探っていた。おそらく、偽装結婚の証拠を掴むつもりだったのでしょう」

 私は火を止めて、慧の正面に立った。

「待って。じゃあ、私の過去の写真は」

「道具に過ぎない」

 慧の声は、氷のように冷たかった。

「本当の標的は僕です。君は巻き込まれた。申し訳ない」

 謝罪の言葉なのに、その口調には一切の感情がない。
 怒りを、限界まで押し殺しているのだと気づいた。

「写真はシュレッダーにかけましたが、データは残っているはずです」

「法的に潰せないの?」

「潰せます。時間をかければ」

 慧の目が、冷ややかに光った。

「しかし、それでは遅い。データが拡散される前に、元を断つ必要がある」

 私は腕を組んだ。

「元って?」

「探偵の背後にいる弁護士です。法廷で争えば、僕が勝つ。しかし、それでは尻尾を掴めない」

 慧は立ち上がり、窓際へ歩いた。
 朝日に照らされた横顔は、まるで刃のように鋭い。

「相手は僕の手口を知っている。法廷では証拠を隠し通すでしょう」

「じゃあ、どうするの」

 慧が振り返った。

 その目が、まっすぐに私を射抜く。

「君に、依頼があります」

 心臓が、跳ねた。

「僕は法廷で戦う。しかし、法廷に立てない敵もいる」

 慧は私の前まで歩み寄り、立ち止まった。
 至近距離で、その目を見つめる。

「君の技術が必要だ」

「……技術」

「演技力、人心掌握、嘘を見抜く目」

 慧の声が、低く響いた。

「別れさせ屋としての、すべての技術が」

 息が、止まった。

 この男は今、私の仕事を否定していない。
 汚い仕事だと、後ろ暗い過去だと、軽蔑していない。

 むしろ、頼りにしている。

「……私の仕事を、認めるってこと?」

「認めるも何も」

 慧は、わずかに口角を上げた。
 不敵な、しかしどこか温かみのある笑み。

「僕は最初から知っていた。そして、だからこそ君を選んだ」

 胸の奥が、熱くなった。

 誰も認めてくれなかった。
 嘘をつく仕事、人の関係を壊す仕事。
 必要悪だと自分に言い聞かせながら、どこかで後ろめたさを抱えていた。

 それを、この男は。

「力を貸してくれますか」

 慧の声は、命令ではなかった。
 依頼だった。
 対等な相手への、正式な依頼。

 私は、深呼吸をした。

「いいよ」

 声が、思ったより落ち着いていた。

「ただし、条件がある」

「条件?」

「今度は私が指揮を執る」

 慧の目が、わずかに見開かれた。

「あんたは法廷の専門家でしょ。でも、法廷の外は私の領域だ」

 私は一歩踏み込み、慧を見上げた。

「作戦は私が立てる。あんたは、私の言うことを聞いて」

 数秒の沈黙。

 慧の口元が、ゆっくりと歪んだ。
 笑っている。
 しかも、心から面白そうに。

「……いいでしょう」

「あ、そう。意外と素直じゃん」

「合理的な判断です。適材適所という言葉を知っていますか」

「知ってるよ。じゃあ、契約書に追加条項ね」

 私は指を立てた。

「作戦遂行中、高塔慧は佐倉ミレイの指示に従うこと」

「了解しました」

 慧は手を差し出した。
 握手を求めている。

「共犯契約の成立ですね」

 私はその手を握った。
 大きくて、昨夜よりずっと冷たい。
 熱は完全に下がったらしい。

「オーケー、悪魔さん」

 私は不敵に笑った。

「地獄を見せてあげましょう」

 慧の目が、獰猛な光を帯びた。

「ええ。法廷の外にも、地獄はある。彼らに教育してあげましょう」

 朝日が、二人の影を床に落としていた。

 共犯者として。
 対等なパートナーとして。

 私たちの反撃が、今、始まろうとしていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

働かないつもりでしたのに、気づけば全部うまくいっていました ――自由に生きる貴族夫人と溺愛旦那様』

鷹 綾
恋愛
前世では、仕事に追われるだけの人生を送り、恋も自由も知らないまま終わった私。 だからこそ転生後に誓った―― 「今度こそ、働かずに優雅に生きる!」 と。 気づけば貴族夫人、しかも結婚相手は冷静沈着な名門貴族リチャード様。 「君は何もしなくていい。自由に過ごしてくれ」 ――理想的すぎる条件に、これは勝ち確人生だと思ったのに。 なぜか気づけば、 ・屋敷の管理を改善して使用人の待遇が激変 ・夫の仕事を手伝ったら経理改革が大成功 ・興味本位で教えた簿記と珠算が商業界に革命を起こす ・商人ギルドの顧問にまで祭り上げられる始末 「あれ? 私、働かない予定でしたよね???」 自分から出世街道を爆走するつもりはなかったはずなのに、 “やりたいことをやっていただけ”で、世界のほうが勝手に変わっていく。 一方、そんな彼女を静かに見守り続けていた夫・リチャードは、 実は昔から彼女を想い続けていた溺愛系旦那様で――。 「君が選ぶなら、私はずっとそばにいる」 働かないつもりだった貴族夫人が、 自由・仕事・愛情のすべてを“自分で選ぶ”人生に辿り着く物語。 これは、 何もしないはずだったのに、幸せだけは全部手に入れてしまった女性の物語。

氷の騎士と陽だまりの薬師令嬢 ~呪われた最強騎士様を、没落貴族の私がこっそり全力で癒します!~

放浪人
恋愛
薬師として細々と暮らす没落貴族の令嬢リリア。ある夜、彼女は森で深手を負い倒れていた騎士団副団長アレクシスを偶然助ける。彼は「氷の騎士」と噂されるほど冷徹で近寄りがたい男だったが、リリアの作る薬とささやかな治癒魔法だけが、彼を蝕む古傷の痛みを和らげることができた。 「……お前の薬だけが、頼りだ」 秘密の治療を続けるうち、リリアはアレクシスの不器用な優しさや孤独に触れ、次第に惹かれていく。しかし、彼の立場を狙う政敵や、リリアの才能を妬む者の妨害が二人を襲う。身分違いの恋、迫りくる危機。リリアは愛する人を守るため、薬師としての知識と勇気を武器に立ち向かうことを決意する。

溺愛王子の甘すぎる花嫁~悪役令嬢を追放したら、毎日が新婚初夜になりました~

紅葉山参
恋愛
侯爵令嬢リーシャは、婚約者である第一王子ビヨンド様との結婚を心から待ち望んでいた。けれど、その幸福な未来を妬む者もいた。それが、リーシャの控えめな立場を馬鹿にし、王子を我が物にしようと画策した悪役令嬢ユーリーだった。 ある夜会で、ユーリーはビヨンド様の気を引こうと、リーシャを罠にかける。しかし、あなたの王子は、そんなつまらない小細工に騙されるほど愚かではなかった。愛するリーシャを信じ、王子はユーリーを即座に糾弾し、国外追放という厳しい処分を下す。 邪魔者が消え去った後、リーシャとビヨンド様の甘美な新婚生活が始まる。彼は、人前では厳格な王子として振る舞うけれど、私と二人きりになると、とろけるような甘さでリーシャを愛し尽くしてくれるの。 「私の可愛い妻よ、きみなしの人生なんて考えられない」 そう囁くビヨンド様に、私リーシャもまた、心も身体も預けてしまう。これは、障害が取り除かれたことで、むしろ加速度的に深まる、世界一甘くて幸せな夫婦の溺愛物語。新婚の王子妃として、私は彼の、そして王国の「最愛」として、毎日を幸福に満たされて生きていきます。

身代わり令嬢、恋した公爵に真実を伝えて去ろうとしたら、絡めとられる(ごめんなさぁぁぁぁい!あなたの本当の婚約者は、私の姉です)

柳葉うら
恋愛
(ごめんなさぁぁぁぁい!) 辺境伯令嬢のウィルマは心の中で土下座した。 結婚が嫌で家出した姉の身代わりをして、誰もが羨むような素敵な公爵様の婚約者として会ったのだが、公爵あまりにも良い人すぎて、申し訳なくて仕方がないのだ。 正直者で面食いな身代わり令嬢と、そんな令嬢のことが実は昔から好きだった策士なヒーローがドタバタとするお話です。 さくっと読んでいただけるかと思います。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

婚約破棄歴八年、すっかり飲んだくれになった私をシスコン義弟が宰相に成り上がって迎えにきた

鳥羽ミワ
恋愛
ロゼ=ローラン、二十四歳。十六歳の頃に最初の婚約が破棄されて以来、数えるのも馬鹿馬鹿しいくらいの婚約破棄を経験している。 幸い両親であるローラン伯爵夫妻はありあまる愛情でロゼを受け入れてくれているし、お酒はおいしいけれど、このままではかわいい義弟のエドガーの婚姻に支障が出てしまうかもしれない。彼はもう二十を過ぎているのに、いまだ縁談のひとつも来ていないのだ。 焦ったロゼはどこでもいいから嫁ごうとするものの、行く先々にエドガーが現れる。 このままでは義弟が姉離れできないと強い危機感を覚えるロゼに、男として迫るエドガー。気づかないロゼ。構わず迫るエドガー。 エドガーはありとあらゆるギリギリ世間の許容範囲(の外)の方法で外堀を埋めていく。 「パーティーのパートナーは俺だけだよ。俺以外の男の手を取るなんて許さない」 「お茶会に行くんだったら、ロゼはこのドレスを着てね。古いのは全部処分しておいたから」 「アクセサリー選びは任せて。俺の瞳の色だけで綺麗に飾ってあげるし、もちろん俺のネクタイもロゼの瞳の色だよ」 ちょっと抜けてる真面目酒カス令嬢が、シスコン義弟に溺愛される話。 ※この話はカクヨム様、アルファポリス様、エブリスタ様にも掲載されています。 ※レーティングをつけるほどではないと判断しましたが、作中性的ないやがらせ、暴行の描写、ないしはそれらを想起させる描写があります。

離婚寸前で人生をやり直したら、冷徹だったはずの夫が私を溺愛し始めています

腐ったバナナ
恋愛
侯爵夫人セシルは、冷徹な夫アークライトとの愛のない契約結婚に疲れ果て、離婚を決意した矢先に孤独な死を迎えた。 「もしやり直せるなら、二度と愛のない人生は選ばない」 そう願って目覚めると、そこは結婚直前の18歳の自分だった! 今世こそ平穏な人生を歩もうとするセシルだったが、なぜか夫の「感情の色」が見えるようになった。 冷徹だと思っていた夫の無表情の下に、深い孤独と不器用で一途な愛が隠されていたことを知る。 彼の愛をすべて誤解していたと気づいたセシルは、今度こそ彼の愛を掴むと決意。積極的に寄り添い、感情をぶつけると――

捨てられた地味な王宮修復師(実は有能)、強面辺境伯の栄養管理で溺愛され、辺境を改革する ~王都の貴重な物が失われても知りませんよ?~

水上
恋愛
「カビ臭い地味女」と王太子に婚約破棄された王宮修復師のリディア。 彼女の芸術に関する知識と修復師としての技術は、誰からも必要性を理解されていなかった。 失意の中、嫁がされたのは皆から恐れられる強面辺境伯ジェラルドだった! しかし恐ろしい噂とは裏腹に、彼はリディアの不健康を見逃せない超・過保護で!? 絶品手料理と徹底的な体調管理で、リディアは心身ともに美しく再生していく。 一方、彼女を追放した王都では、貴重な物が失われたり、贋作騒動が起きたりとパニックになり始めて……。

処理中です...