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第1章 第7話「女スパイの変身と、モニター越しの嫉妬」
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作戦会議は、朝食の皿を下げた直後に始まった。
「まず、ターゲットの情報を整理するわ」
私はダイニングテーブルにタブレットを置いた。
画面には、慧が三日で集めた資料が映し出されている。
ターゲットの名前は、黒崎俊哉。
二年前、慧に離婚訴訟で叩き潰された弁護士だ。
五十代後半、顧問先を次々と失い、今は小さな事務所で細々と食いつないでいる。
「この男が、あんたを失脚させるために探偵を雇った」
「ええ。証拠は掴んでいますが、法廷で争うには時間がかかる」
慧がコーヒーカップを置いた。
「その間に、データが拡散されるリスクがある」
「だから、私の出番ってわけね」
私は画面をスクロールした。
黒崎の行動パターン、交友関係、趣味嗜好。
慧の調査は、さすがに徹底している。
「毎週金曜の夜、会員制バー『ノワール』に出入りしている」
「ノワール?」
「銀座の裏通りにある店です。紹介制で、客層は士業や経営者が中心」
私は資料を読み込んだ。
黒崎の女性の好みは、派手すぎず地味すぎず。
隙のある美人を好む傾向がある。
なるほど。
承認欲求が強いタイプだ。
「俺が守ってやる」と言いたがる男。
「ここに潜入して、黒崎から情報を引き出す」
「どんな情報を?」
慧の目が、鋭く光った。
「探偵との繋がりを証明する物的証拠。できれば、やり取りの記録」
「スマホの中身、ってこと?」
「理想的には」
私は腕を組んだ。
初対面の男からスマホを覗くのは、さすがにハードルが高い。
だが、方法はある。
「任せて。まずは信頼関係を築くところから」
「一晩で?」
「一晩あれば十分よ」
私は立ち上がった。
「黒崎のタイプは分析できた。隙のある美人、でも媚びすぎない」
指を立てて、続ける。
「弱みを見せて、相手の保護欲を刺激する。古典的だけど、効果は高いわ」
慧が、わずかに眉をひそめた。
「具体的には?」
「店で偶然を装って接触。軽く酔ったフリをして、悩みを打ち明ける」
私は肩をすくめた。
「男って単純なの。自分だけが知っている秘密を共有すると、勝手に親近感を持つ」
慧は黙って私を見つめていた。
その目が、どこか複雑な色を帯びている。
「……君は、何人の男にそれを試した?」
「仕事だから。数えてない」
私は素っ気なく答えた。
慧の表情が、一瞬だけ硬くなった気がした。
「では、僕は何をすれば?」
「店の近くで待機。隠しマイクで状況をモニタリングして」
「了解しました」
慧は素直に頷いた。
いつもは指示する側なのに、今日は完全に部下モードだ。
「あと、これ」
私はメモを渡した。
「会員情報と、黒崎の過去の離婚訴訟の記録。裏から取れる?」
「……法的にグレーですが、方法はあります」
「さすが法廷の悪魔」
私は笑った。
「じゃあ、あとは私の領域ね」
-----
夕方。
私は寝室で、変装の仕上げをしていた。
黒のボディコンドレス。
背中が大きく開いたデザインで、太ももの半ばまでスリットが入っている。
メイクは濃いめ。
アイラインを跳ね上げ、唇は深紅のルージュ。
香水は、甘すぎないムスク系を選んだ。
鏡の中の私は、今朝とは別人だった。
清楚系でも、サバサバ系でもない。
男を狂わせる、魔性の女。
リビングに出ると、慧がソファで資料を読んでいた。
「準備できたわ」
慧が顔を上げた。
そして、固まった。
数秒の沈黙。
「……誰ですか、君は」
「褒め言葉として受け取っておく」
私はくるりと回ってみせた。
ドレスの裾が、ふわりと広がる。
慧の視線が、私の身体を上から下まで辿った。
そして、眉間にしわが寄った。
「……やりすぎでは?」
「これくらい普通よ。銀座のバーなら」
「露出が多すぎる」
「ターゲットの好みに合わせてるの」
私は肩をすくめた。
「隙のある美人、でしょ? これくらいじゃないと食いつかないわ」
慧は立ち上がった。
長い足で、私の前まで歩いてくる。
「背中が、開きすぎている」
「だから何?」
「変えられないのですか」
その声が、低い。
いつもの冷静さとは、微妙に違う。
私は首を傾げた。
「作戦上、必要でしょ。なんで文句言うの」
「文句ではありません。合理的な懸念です」
「どこが合理的なの」
慧は口を閉じた。
その目が、わずかに泳いでいる。
この男、何を動揺しているのか。
「……安全面を考慮すると、露出は最小限にすべきです」
「私、これでも別れさせ屋のプロよ? 安全管理は得意」
「分かっています。ただ」
慧が言葉を切った。
喉仏が、小さく動く。
「……ターゲットが、変な気を起こす可能性がある」
私は笑いをこらえた。
変な気を起こすのが目的なのに、何を言っているのか。
「心配してくれてるの?」
「合理的な懸念です」
二回目だ。
同じフレーズを繰り返すのは、動揺の証拠。
「はいはい。気をつけるわ」
私は慧の横を通り過ぎた。
すれ違いざま、その腕が動いた気がした。
掴もうとして、やめたような。
気のせいかもしれない。
-----
夜九時。
会員制バー『ノワール』は、銀座の裏通りにひっそりと佇んでいた。
重厚な木のドア。
看板はなく、知る人ぞ知る店という雰囲気だ。
私は深呼吸をして、ドアを押した。
店内は薄暗く、ジャズが静かに流れていた。
カウンターには数人の客。
その奥に、黒崎俊哉の姿があった。
五十代後半、痩せ型。
高そうなスーツを着ているが、どこか落ちぶれた雰囲気が漂う。
私はカウンターの端に座った。
バーテンダーにシャンパンを頼み、グラスを傾ける。
耳には、小型のイヤホン。
慧は店の外、車の中で待機している。
『聞こえますか』
低い声が、鼓膜を震わせた。
「ええ」
私は唇だけで答えた。
『ターゲットは、カウンターの奥。背中を向けている』
「分かってる」
私はグラスを置き、立ち上がった。
ふらりと、よろめくフリをする。
ヒールが滑り、身体が傾く。
「きゃっ」
計算された転倒。
隣の椅子にぶつかり、派手な音を立てた。
店内の視線が、一斉に私に集まる。
黒崎も振り返った。
「大丈夫ですか」
バーテンダーが駆け寄る。
私は恥ずかしそうに笑って、首を振った。
「すみません、ちょっと飲みすぎたみたいで」
「お怪我は?」
「ええ、平気です」
私は椅子に座り直した。
その時、黒崎と目が合った。
彼の目が、私の身体を舐めるように見た。
背中の開いたドレス。
太ももを覗かせるスリット。
食いついた。
「一人で飲んでいるのですか」
黒崎が、隣の椅子に移動してきた。
「ええ、まあ」
「こんな綺麗な方が、一人とは。もったいない」
私は曖昧に微笑んだ。
警戒しているフリ。
でも、嫌ではないというニュアンス。
「友人の紹介で来たんですけど、その友人がドタキャンしちゃって」
「それは災難でしたね。よければ、僕が相手をしましょうか」
私は少し迷うフリをして、頷いた。
「……お言葉に甘えます」
黒崎の目が、勝ち誇ったように光った。
『順調ですね』
慧の声が、耳元で囁く。
冷静な、いつもの声だ。
私は黒崎と会話を続けた。
仕事の愚痴、上司への不満。
ありふれた話題を、丁寧に聞いてやる。
男は、自分の話を聞いてくれる女に弱い。
特に、承認欲求が強いタイプは。
「大変だったんですね」
私は同情的な目で黒崎を見上げた。
「ええ、まあ。でも、今日は忘れましょう」
黒崎がグラスを掲げる。
私も合わせて、軽く乾杯した。
その時、黒崎の手が伸びた。
私の腰に、そっと触れる。
『……ミレイ』
慧の声が、低くなった。
『距離が近すぎる。離れろ』
私は無視した。
「もう一杯、いかがですか」
黒崎が耳元で囁く。
生暖かい息が、首筋にかかった。
『ミレイ。聞いているのか』
「もっと近づかないと、ボロが出ないわ」
私は小声で答えた。
黒崎には聞こえていない。
『……』
イヤホンの向こうで、何かが軋む音がした。
ハンドルか、肘掛けか。
私は黒崎に微笑みかけた。
「素敵なお店ですね。ここ、よく来られるんですか?」
「ええ、毎週金曜は」
「お仕事、大変そう」
「まあね。色々とあってね」
黒崎の目が、一瞬だけ暗くなった。
過去の敗北を思い出したのかもしれない。
今だ。
「私でよければ、聞きますよ」
私は彼の手に、自分の手を重ねた。
「誰にも言いません。約束します」
黒崎の目が、揺らいだ。
警戒と、打ち明けたい欲求が、せめぎ合っている。
『やめろ』
慧の声が、鋭く響いた。
『今すぐ、その男から離れろ』
私は眉をひそめた。
作戦の邪魔だ。
「ちょっと、お手洗いに」
私は立ち上がり、店の奥へ向かった。
化粧室の前で、小声で囁く。
「何、急に」
『……何でもない』
「何でもないなら、黙ってて」
『作戦に支障が出る前に、撤退すべきだ』
「まだ何も始まってないでしょ」
私は苛立った。
この男、何を焦っているのか。
「もう少しで、本音を引き出せそうなの。邪魔しないで」
『……分かった』
慧の声が、硬い。
怒っているような、押し殺しているような。
私は化粧室を出て、カウンターに戻った。
黒崎は、私を待っていた。
その目が、獲物を見る目に変わっている。
順調だ。
あと少しで、核心に触れられる。
黒崎が、私の肩に手を回した。
「二軒目、行きませんか」
囁く声が、耳元をくすぐる。
核心に近づいている。
もう少しで、この男の本音を引き出せる。
『……ミレイ』
イヤホンから、慧の声が響いた。
低く、硬い。
いつもの冷静さが、どこかへ消えている。
『今日は、ここまでだ』
「え?」
私は思わず声を上げた。
黒崎が怪訝そうな顔をする。
「あ、ごめんなさい。ちょっと、友人から連絡が」
私はスマホを取り出すフリをした。
『撤退しろ。これは命令だ』
命令?
作戦の指揮権は私にあるはずだ。
だが、慧の声には有無を言わせない響きがあった。
怒っているのか。
それとも、別の何かか。
「すみません、急用が入っちゃって」
私は黒崎に微笑みかけた。
「また、お会いできますか?」
「もちろん。来週の金曜も、ここにいますよ」
黒崎が名刺を差し出した。
私はそれを受け取り、立ち上がった。
「じゃあ、また」
店を出ると、夜風が頬を撫でた。
路地の奥に、黒い車が停まっている。
私は早足でそこへ向かった。
後部座席のドアを開ける。
慧が、モニターを睨んでいた。
その横顔は、いつになく険しい。
「なんで止めたの。あと少しだったのに」
「……今日は、深追いしすぎた」
「深追い? まだ序の口よ」
慧は答えなかった。
ただ、モニターの電源を落とした。
その手が、わずかに震えている。
怒り?
それとも。
「帰りましょう」
慧は前を向いたまま、運転手に告げた。
車が静かに発進する。
私は慧の横顔を盗み見た。
何かが、おかしい。
いつもの合理的な判断とは、違う何か。
でも、今は聞けなかった。
聞いたら、何かが変わってしまいそうで。
車内に、沈黙だけが流れていた。
「まず、ターゲットの情報を整理するわ」
私はダイニングテーブルにタブレットを置いた。
画面には、慧が三日で集めた資料が映し出されている。
ターゲットの名前は、黒崎俊哉。
二年前、慧に離婚訴訟で叩き潰された弁護士だ。
五十代後半、顧問先を次々と失い、今は小さな事務所で細々と食いつないでいる。
「この男が、あんたを失脚させるために探偵を雇った」
「ええ。証拠は掴んでいますが、法廷で争うには時間がかかる」
慧がコーヒーカップを置いた。
「その間に、データが拡散されるリスクがある」
「だから、私の出番ってわけね」
私は画面をスクロールした。
黒崎の行動パターン、交友関係、趣味嗜好。
慧の調査は、さすがに徹底している。
「毎週金曜の夜、会員制バー『ノワール』に出入りしている」
「ノワール?」
「銀座の裏通りにある店です。紹介制で、客層は士業や経営者が中心」
私は資料を読み込んだ。
黒崎の女性の好みは、派手すぎず地味すぎず。
隙のある美人を好む傾向がある。
なるほど。
承認欲求が強いタイプだ。
「俺が守ってやる」と言いたがる男。
「ここに潜入して、黒崎から情報を引き出す」
「どんな情報を?」
慧の目が、鋭く光った。
「探偵との繋がりを証明する物的証拠。できれば、やり取りの記録」
「スマホの中身、ってこと?」
「理想的には」
私は腕を組んだ。
初対面の男からスマホを覗くのは、さすがにハードルが高い。
だが、方法はある。
「任せて。まずは信頼関係を築くところから」
「一晩で?」
「一晩あれば十分よ」
私は立ち上がった。
「黒崎のタイプは分析できた。隙のある美人、でも媚びすぎない」
指を立てて、続ける。
「弱みを見せて、相手の保護欲を刺激する。古典的だけど、効果は高いわ」
慧が、わずかに眉をひそめた。
「具体的には?」
「店で偶然を装って接触。軽く酔ったフリをして、悩みを打ち明ける」
私は肩をすくめた。
「男って単純なの。自分だけが知っている秘密を共有すると、勝手に親近感を持つ」
慧は黙って私を見つめていた。
その目が、どこか複雑な色を帯びている。
「……君は、何人の男にそれを試した?」
「仕事だから。数えてない」
私は素っ気なく答えた。
慧の表情が、一瞬だけ硬くなった気がした。
「では、僕は何をすれば?」
「店の近くで待機。隠しマイクで状況をモニタリングして」
「了解しました」
慧は素直に頷いた。
いつもは指示する側なのに、今日は完全に部下モードだ。
「あと、これ」
私はメモを渡した。
「会員情報と、黒崎の過去の離婚訴訟の記録。裏から取れる?」
「……法的にグレーですが、方法はあります」
「さすが法廷の悪魔」
私は笑った。
「じゃあ、あとは私の領域ね」
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夕方。
私は寝室で、変装の仕上げをしていた。
黒のボディコンドレス。
背中が大きく開いたデザインで、太ももの半ばまでスリットが入っている。
メイクは濃いめ。
アイラインを跳ね上げ、唇は深紅のルージュ。
香水は、甘すぎないムスク系を選んだ。
鏡の中の私は、今朝とは別人だった。
清楚系でも、サバサバ系でもない。
男を狂わせる、魔性の女。
リビングに出ると、慧がソファで資料を読んでいた。
「準備できたわ」
慧が顔を上げた。
そして、固まった。
数秒の沈黙。
「……誰ですか、君は」
「褒め言葉として受け取っておく」
私はくるりと回ってみせた。
ドレスの裾が、ふわりと広がる。
慧の視線が、私の身体を上から下まで辿った。
そして、眉間にしわが寄った。
「……やりすぎでは?」
「これくらい普通よ。銀座のバーなら」
「露出が多すぎる」
「ターゲットの好みに合わせてるの」
私は肩をすくめた。
「隙のある美人、でしょ? これくらいじゃないと食いつかないわ」
慧は立ち上がった。
長い足で、私の前まで歩いてくる。
「背中が、開きすぎている」
「だから何?」
「変えられないのですか」
その声が、低い。
いつもの冷静さとは、微妙に違う。
私は首を傾げた。
「作戦上、必要でしょ。なんで文句言うの」
「文句ではありません。合理的な懸念です」
「どこが合理的なの」
慧は口を閉じた。
その目が、わずかに泳いでいる。
この男、何を動揺しているのか。
「……安全面を考慮すると、露出は最小限にすべきです」
「私、これでも別れさせ屋のプロよ? 安全管理は得意」
「分かっています。ただ」
慧が言葉を切った。
喉仏が、小さく動く。
「……ターゲットが、変な気を起こす可能性がある」
私は笑いをこらえた。
変な気を起こすのが目的なのに、何を言っているのか。
「心配してくれてるの?」
「合理的な懸念です」
二回目だ。
同じフレーズを繰り返すのは、動揺の証拠。
「はいはい。気をつけるわ」
私は慧の横を通り過ぎた。
すれ違いざま、その腕が動いた気がした。
掴もうとして、やめたような。
気のせいかもしれない。
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夜九時。
会員制バー『ノワール』は、銀座の裏通りにひっそりと佇んでいた。
重厚な木のドア。
看板はなく、知る人ぞ知る店という雰囲気だ。
私は深呼吸をして、ドアを押した。
店内は薄暗く、ジャズが静かに流れていた。
カウンターには数人の客。
その奥に、黒崎俊哉の姿があった。
五十代後半、痩せ型。
高そうなスーツを着ているが、どこか落ちぶれた雰囲気が漂う。
私はカウンターの端に座った。
バーテンダーにシャンパンを頼み、グラスを傾ける。
耳には、小型のイヤホン。
慧は店の外、車の中で待機している。
『聞こえますか』
低い声が、鼓膜を震わせた。
「ええ」
私は唇だけで答えた。
『ターゲットは、カウンターの奥。背中を向けている』
「分かってる」
私はグラスを置き、立ち上がった。
ふらりと、よろめくフリをする。
ヒールが滑り、身体が傾く。
「きゃっ」
計算された転倒。
隣の椅子にぶつかり、派手な音を立てた。
店内の視線が、一斉に私に集まる。
黒崎も振り返った。
「大丈夫ですか」
バーテンダーが駆け寄る。
私は恥ずかしそうに笑って、首を振った。
「すみません、ちょっと飲みすぎたみたいで」
「お怪我は?」
「ええ、平気です」
私は椅子に座り直した。
その時、黒崎と目が合った。
彼の目が、私の身体を舐めるように見た。
背中の開いたドレス。
太ももを覗かせるスリット。
食いついた。
「一人で飲んでいるのですか」
黒崎が、隣の椅子に移動してきた。
「ええ、まあ」
「こんな綺麗な方が、一人とは。もったいない」
私は曖昧に微笑んだ。
警戒しているフリ。
でも、嫌ではないというニュアンス。
「友人の紹介で来たんですけど、その友人がドタキャンしちゃって」
「それは災難でしたね。よければ、僕が相手をしましょうか」
私は少し迷うフリをして、頷いた。
「……お言葉に甘えます」
黒崎の目が、勝ち誇ったように光った。
『順調ですね』
慧の声が、耳元で囁く。
冷静な、いつもの声だ。
私は黒崎と会話を続けた。
仕事の愚痴、上司への不満。
ありふれた話題を、丁寧に聞いてやる。
男は、自分の話を聞いてくれる女に弱い。
特に、承認欲求が強いタイプは。
「大変だったんですね」
私は同情的な目で黒崎を見上げた。
「ええ、まあ。でも、今日は忘れましょう」
黒崎がグラスを掲げる。
私も合わせて、軽く乾杯した。
その時、黒崎の手が伸びた。
私の腰に、そっと触れる。
『……ミレイ』
慧の声が、低くなった。
『距離が近すぎる。離れろ』
私は無視した。
「もう一杯、いかがですか」
黒崎が耳元で囁く。
生暖かい息が、首筋にかかった。
『ミレイ。聞いているのか』
「もっと近づかないと、ボロが出ないわ」
私は小声で答えた。
黒崎には聞こえていない。
『……』
イヤホンの向こうで、何かが軋む音がした。
ハンドルか、肘掛けか。
私は黒崎に微笑みかけた。
「素敵なお店ですね。ここ、よく来られるんですか?」
「ええ、毎週金曜は」
「お仕事、大変そう」
「まあね。色々とあってね」
黒崎の目が、一瞬だけ暗くなった。
過去の敗北を思い出したのかもしれない。
今だ。
「私でよければ、聞きますよ」
私は彼の手に、自分の手を重ねた。
「誰にも言いません。約束します」
黒崎の目が、揺らいだ。
警戒と、打ち明けたい欲求が、せめぎ合っている。
『やめろ』
慧の声が、鋭く響いた。
『今すぐ、その男から離れろ』
私は眉をひそめた。
作戦の邪魔だ。
「ちょっと、お手洗いに」
私は立ち上がり、店の奥へ向かった。
化粧室の前で、小声で囁く。
「何、急に」
『……何でもない』
「何でもないなら、黙ってて」
『作戦に支障が出る前に、撤退すべきだ』
「まだ何も始まってないでしょ」
私は苛立った。
この男、何を焦っているのか。
「もう少しで、本音を引き出せそうなの。邪魔しないで」
『……分かった』
慧の声が、硬い。
怒っているような、押し殺しているような。
私は化粧室を出て、カウンターに戻った。
黒崎は、私を待っていた。
その目が、獲物を見る目に変わっている。
順調だ。
あと少しで、核心に触れられる。
黒崎が、私の肩に手を回した。
「二軒目、行きませんか」
囁く声が、耳元をくすぐる。
核心に近づいている。
もう少しで、この男の本音を引き出せる。
『……ミレイ』
イヤホンから、慧の声が響いた。
低く、硬い。
いつもの冷静さが、どこかへ消えている。
『今日は、ここまでだ』
「え?」
私は思わず声を上げた。
黒崎が怪訝そうな顔をする。
「あ、ごめんなさい。ちょっと、友人から連絡が」
私はスマホを取り出すフリをした。
『撤退しろ。これは命令だ』
命令?
作戦の指揮権は私にあるはずだ。
だが、慧の声には有無を言わせない響きがあった。
怒っているのか。
それとも、別の何かか。
「すみません、急用が入っちゃって」
私は黒崎に微笑みかけた。
「また、お会いできますか?」
「もちろん。来週の金曜も、ここにいますよ」
黒崎が名刺を差し出した。
私はそれを受け取り、立ち上がった。
「じゃあ、また」
店を出ると、夜風が頬を撫でた。
路地の奥に、黒い車が停まっている。
私は早足でそこへ向かった。
後部座席のドアを開ける。
慧が、モニターを睨んでいた。
その横顔は、いつになく険しい。
「なんで止めたの。あと少しだったのに」
「……今日は、深追いしすぎた」
「深追い? まだ序の口よ」
慧は答えなかった。
ただ、モニターの電源を落とした。
その手が、わずかに震えている。
怒り?
それとも。
「帰りましょう」
慧は前を向いたまま、運転手に告げた。
車が静かに発進する。
私は慧の横顔を盗み見た。
何かが、おかしい。
いつもの合理的な判断とは、違う何か。
でも、今は聞けなかった。
聞いたら、何かが変わってしまいそうで。
車内に、沈黙だけが流れていた。
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エドガーはありとあらゆるギリギリ世間の許容範囲(の外)の方法で外堀を埋めていく。
「パーティーのパートナーは俺だけだよ。俺以外の男の手を取るなんて許さない」
「お茶会に行くんだったら、ロゼはこのドレスを着てね。古いのは全部処分しておいたから」
「アクセサリー選びは任せて。俺の瞳の色だけで綺麗に飾ってあげるし、もちろん俺のネクタイもロゼの瞳の色だよ」
ちょっと抜けてる真面目酒カス令嬢が、シスコン義弟に溺愛される話。
※この話はカクヨム様、アルファポリス様、エブリスタ様にも掲載されています。
※レーティングをつけるほどではないと判断しましたが、作中性的ないやがらせ、暴行の描写、ないしはそれらを想起させる描写があります。
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