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第1章 第8話「嫉妬の論理と、ホテルでのチェックメイト」
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車内の沈黙は、重かった。
窓の外を流れる夜景を眺めながら、私は隣に座る男の横顔を盗み見た。
慧は前を向いたまま、微動だにしない。
その顎のラインが、いつもより強張っている。
「……ねえ」
私は沈黙を破った。
「なんで止めたの。名刺はもらえたけど、もっと情報を抜けたはずよ」
慧は答えなかった。
五秒、十秒。
「……リスク管理です」
ようやく開いた口から出たのは、相変わらずの合理主義。
「リスク?」
「あの男の瞳孔反応と呼気量から計算しました」
慧は窓の外を見たまま、淡々と続ける。
「3分以内に強引な接触に出る確率が88%。君の安全確保が最優先だった」
私は呆れた。
瞳孔反応? 呼気量?
この男、モニター越しにそこまで分析していたのか。
「へえ」
私は口角を上げた。
「私の身を案じてくれたんだ?」
「当然です。君は僕の契約上のパートナーだ」
「ふうん」
私は身を乗り出した。
慧の横顔を、至近距離から覗き込む。
「ヤキモチ焼きの悪魔さん?」
慧の肩が、かすかに跳ねた。
「……何を言っているのですか」
「だって、あの男が私に触るたびに声が硬くなってたわよ」
「気のせいです」
「距離が近すぎる、離れろ、とか。あれ、仕事の指示じゃないでしょ」
慧は黙った。
その喉仏が、小さく上下する。
「……あれは純粋なリスク評価に基づく発言です」
「三回目」
「何がですか」
「合理的な言い訳。今夜だけで三回目」
私はニヤリと笑った。
「あんた、分かりやすすぎ」
慧は答えなかった。
ただ、窓の外を見る目が、わずかに揺れた気がした。
車が静かにタワーマンションの地下駐車場に滑り込む。
私はそれ以上追及しなかった。
追い詰めすぎると、この男は殻に閉じこもる。
それに。
私自身、この胸の奥のざわつきが何なのか、まだ分からなかったから。
-----
一週間後。
金曜日の午後。
私はダイニングテーブルで、黒崎の名刺を指で弾いた。
「今夜、仕掛けるわ」
慧がコーヒーカップを置いた。
「今夜?」
「昨日、黒崎に連絡したの。バーじゃなくて、ホテルで会いたいって」
私はスマホを取り出した。
「『人目があると落ち着かなくて』って甘えたら、二つ返事だったわ」
慧の目が、鋭く光った。
「……密室は危険です」
「だからこそよ」
私は立ち上がった。
「バーみたいに人目がある場所じゃ、あの男は本性を出さない」
「本性?」
「あんたを失脚させようとした証拠。それを引き出すには、一対一の密室が必要なの」
慧は眉をひそめた。
その目が、私を射抜くように見つめる。
「暴行のリスクがある」
「護身術は得意よ。別れさせ屋の必須スキル」
「それでも」
「私が指揮官でしょ?」
私は腕を組んだ。
「あんたは私の判断を信じるって言った。それとも、撤回する?」
沈黙が落ちた。
慧の目が、複雑な色を帯びる。
やがて、彼は深く息を吐いた。
「……条件があります」
「言って」
「隣の部屋に待機する。合図があれば、即座に突入する」
私は頷いた。
「いいわ。でも、突入のタイミングは私が決める」
「5分」
「は?」
「合図がなくても、5分で突入します」
慧の声が、低い。
その目には、譲れないという意志が宿っている。
「……分かった」
私は肩をすくめた。
「5分あれば十分よ」
「それと」
慧が立ち上がった。
「部屋には小型カメラを設置します。暴行があれば、証拠として録画する」
「用意周到ね」
「法廷の悪魔ですから」
その口元が、かすかに歪んだ。
狩りを前にした、獣のような笑み。
-----
夜十時。
銀座のシティホテル、スイートルーム。
私はワインを片手に、ソファに座っていた。
黒崎は先ほどからシャワールームにいる。
テーブルの上には、黒崎のスマホ。
私はそれを手に取り、素早く操作した。
ロックは指紋認証。
だが、黒崎がワインを飲んでいる隙に、グラスから指紋を採取済みだ。
シリコンシートに転写した指紋を、センサーに当てる。
画面が開いた。
探偵との連絡履歴。
脅迫状の下書きデータ。
慧を失脚させるための計画メモ。
全てのデータを、USBメモリにコピーする。
シャワーの音が止まった。
私は素知らぬ顔で、ワイングラスを傾けた。
バスルームのドアが開く。
バスローブ姿の黒崎が、にやにやしながら出てきた。
「待たせたね」
「いいえ」
私は微笑んだ。
だが、その目は笑っていない。
黒崎がテーブルの上を見た。
スマホの位置が変わっていることに、気づいた。
「……おい」
彼の声が、低くなる。
「お前、俺のスマホを」
「ああ、これ?」
私はUSBメモリを掲げた。
「探偵との連絡履歴、脅迫状の下書き、全部いただいたわ」
黒崎の顔色が変わった。
驚愕から、怒りへ。
「てめえ、何者だ」
「残念」
私は立ち上がった。
「私は『隙のある美人』じゃなくて、『隙を見せるプロ』なの」
黒崎の目が、憎悪に燃えた。
「高塔の差し金か。くそっ、ハメられた」
「自業自得でしょ。あんた、やり方が雑すぎるのよ」
黒崎が、私に飛びかかってきた。
遅い。
私は半歩横にずれ、伸びてきた腕を掴んだ。
そのまま体を回転させ、関節を極める。
派手な音を立てて、黒崎が床に転がった。
「ぐあっ」
「別れさせ屋、舐めないで」
私は彼の腕を捻り上げたまま、見下ろした。
「この仕事、危ない橋を渡ることも多いの。護身術くらい身につけてるわ」
その時、ドアが開いた。
慧が、カードキーを手に立っていた。
床に転がる黒崎を見て、わずかに目を細める。
「……5分、待ったのですが」
「合図する前に来ちゃったわね」
「騒ぎが聞こえました」
慧は優雅な足取りで部屋に入ってきた。
その目が、私を一瞥する。
「君は乱暴すぎる。器物破損の請求が来たらどうするんですか」
「あんたが払って」
「契約外です」
私は笑った。
慧も、口元がわずかに緩んでいる。
黒崎が、床から顔を上げた。
「高塔……! お前のせいで、俺は」
「因果応報です」
慧は黒崎を見下ろした。
その目が、冷たく光る。
「二年前、あなたは離婚訴訟で不正を働いた」
慧の声が、淡々と響く。
「依頼人の証拠を改竄し、相手方を脅迫した。全て記録が残っています」
「それは」
「今回の脅迫状も、探偵を雇った証拠も」
慧はスマホを取り出した。
画面には、ホテルの部屋の映像が映っている。
「そして今、あなたはこの女性に暴行を働こうとした。全て録画済みです」
黒崎の顔が、蒼白に変わった。
がくがくと膝が震え、床に這いつくばる。
「待ってくれ、話し合おう。金なら」
「弁護士資格剥奪、刑事告訴、民事訴訟」
慧の声には、一切の感情がない。
「全てが、あなたを待っています」
黒崎は声にならない声を上げた。
その手が、すがるように宙を掻く。
だが、慧は微動だにしなかった。
-----
深夜、ホテルを出た私たちは、夜風の中を歩いていた。
警察への通報は慧が済ませた。
黒崎は連行され、二度と私たちの前に現れることはないだろう。
「いいチームだ」
慧が、ぽつりと言った。
「そうでしょ」
私は笑った。
「最高の共犯者じゃない?」
慧は答えなかった。
だが、その横顔がわずかに緩んでいる。
夜空には、星が瞬いていた。
銀座の灯りに負けない、強い光。
「ねえ」
私は足を止めた。
「ありがとう」
慧が振り返る。
「何がですか」
「信じてくれて」
慧の目が、一瞬だけ揺れた。
その口が開き、何かを言いかけて、閉じる。
そして。
「……君は、信頼に値するパートナーです」
その声が、いつもより柔らかかった。
私は胸の奥がざわつくのを感じた。
契約だから。
仕事だから。
そう自分に言い聞かせながら、私は歩き出した。
「帰りましょ。明日も早いんだから」
「ええ」
慧が隣に並ぶ。
その距離が、いつもより近い気がした。
気のせいかもしれない。
いや、気のせいだ。
私はそう思いながら、夜の銀座を歩いた。
黒崎のことは、これで片付いた。
だけど、契約はまだ続いている。
この先に何があるのか。
私には、まだ分からなかった。
窓の外を流れる夜景を眺めながら、私は隣に座る男の横顔を盗み見た。
慧は前を向いたまま、微動だにしない。
その顎のラインが、いつもより強張っている。
「……ねえ」
私は沈黙を破った。
「なんで止めたの。名刺はもらえたけど、もっと情報を抜けたはずよ」
慧は答えなかった。
五秒、十秒。
「……リスク管理です」
ようやく開いた口から出たのは、相変わらずの合理主義。
「リスク?」
「あの男の瞳孔反応と呼気量から計算しました」
慧は窓の外を見たまま、淡々と続ける。
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私は呆れた。
瞳孔反応? 呼気量?
この男、モニター越しにそこまで分析していたのか。
「へえ」
私は口角を上げた。
「私の身を案じてくれたんだ?」
「当然です。君は僕の契約上のパートナーだ」
「ふうん」
私は身を乗り出した。
慧の横顔を、至近距離から覗き込む。
「ヤキモチ焼きの悪魔さん?」
慧の肩が、かすかに跳ねた。
「……何を言っているのですか」
「だって、あの男が私に触るたびに声が硬くなってたわよ」
「気のせいです」
「距離が近すぎる、離れろ、とか。あれ、仕事の指示じゃないでしょ」
慧は黙った。
その喉仏が、小さく上下する。
「……あれは純粋なリスク評価に基づく発言です」
「三回目」
「何がですか」
「合理的な言い訳。今夜だけで三回目」
私はニヤリと笑った。
「あんた、分かりやすすぎ」
慧は答えなかった。
ただ、窓の外を見る目が、わずかに揺れた気がした。
車が静かにタワーマンションの地下駐車場に滑り込む。
私はそれ以上追及しなかった。
追い詰めすぎると、この男は殻に閉じこもる。
それに。
私自身、この胸の奥のざわつきが何なのか、まだ分からなかったから。
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一週間後。
金曜日の午後。
私はダイニングテーブルで、黒崎の名刺を指で弾いた。
「今夜、仕掛けるわ」
慧がコーヒーカップを置いた。
「今夜?」
「昨日、黒崎に連絡したの。バーじゃなくて、ホテルで会いたいって」
私はスマホを取り出した。
「『人目があると落ち着かなくて』って甘えたら、二つ返事だったわ」
慧の目が、鋭く光った。
「……密室は危険です」
「だからこそよ」
私は立ち上がった。
「バーみたいに人目がある場所じゃ、あの男は本性を出さない」
「本性?」
「あんたを失脚させようとした証拠。それを引き出すには、一対一の密室が必要なの」
慧は眉をひそめた。
その目が、私を射抜くように見つめる。
「暴行のリスクがある」
「護身術は得意よ。別れさせ屋の必須スキル」
「それでも」
「私が指揮官でしょ?」
私は腕を組んだ。
「あんたは私の判断を信じるって言った。それとも、撤回する?」
沈黙が落ちた。
慧の目が、複雑な色を帯びる。
やがて、彼は深く息を吐いた。
「……条件があります」
「言って」
「隣の部屋に待機する。合図があれば、即座に突入する」
私は頷いた。
「いいわ。でも、突入のタイミングは私が決める」
「5分」
「は?」
「合図がなくても、5分で突入します」
慧の声が、低い。
その目には、譲れないという意志が宿っている。
「……分かった」
私は肩をすくめた。
「5分あれば十分よ」
「それと」
慧が立ち上がった。
「部屋には小型カメラを設置します。暴行があれば、証拠として録画する」
「用意周到ね」
「法廷の悪魔ですから」
その口元が、かすかに歪んだ。
狩りを前にした、獣のような笑み。
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夜十時。
銀座のシティホテル、スイートルーム。
私はワインを片手に、ソファに座っていた。
黒崎は先ほどからシャワールームにいる。
テーブルの上には、黒崎のスマホ。
私はそれを手に取り、素早く操作した。
ロックは指紋認証。
だが、黒崎がワインを飲んでいる隙に、グラスから指紋を採取済みだ。
シリコンシートに転写した指紋を、センサーに当てる。
画面が開いた。
探偵との連絡履歴。
脅迫状の下書きデータ。
慧を失脚させるための計画メモ。
全てのデータを、USBメモリにコピーする。
シャワーの音が止まった。
私は素知らぬ顔で、ワイングラスを傾けた。
バスルームのドアが開く。
バスローブ姿の黒崎が、にやにやしながら出てきた。
「待たせたね」
「いいえ」
私は微笑んだ。
だが、その目は笑っていない。
黒崎がテーブルの上を見た。
スマホの位置が変わっていることに、気づいた。
「……おい」
彼の声が、低くなる。
「お前、俺のスマホを」
「ああ、これ?」
私はUSBメモリを掲げた。
「探偵との連絡履歴、脅迫状の下書き、全部いただいたわ」
黒崎の顔色が変わった。
驚愕から、怒りへ。
「てめえ、何者だ」
「残念」
私は立ち上がった。
「私は『隙のある美人』じゃなくて、『隙を見せるプロ』なの」
黒崎の目が、憎悪に燃えた。
「高塔の差し金か。くそっ、ハメられた」
「自業自得でしょ。あんた、やり方が雑すぎるのよ」
黒崎が、私に飛びかかってきた。
遅い。
私は半歩横にずれ、伸びてきた腕を掴んだ。
そのまま体を回転させ、関節を極める。
派手な音を立てて、黒崎が床に転がった。
「ぐあっ」
「別れさせ屋、舐めないで」
私は彼の腕を捻り上げたまま、見下ろした。
「この仕事、危ない橋を渡ることも多いの。護身術くらい身につけてるわ」
その時、ドアが開いた。
慧が、カードキーを手に立っていた。
床に転がる黒崎を見て、わずかに目を細める。
「……5分、待ったのですが」
「合図する前に来ちゃったわね」
「騒ぎが聞こえました」
慧は優雅な足取りで部屋に入ってきた。
その目が、私を一瞥する。
「君は乱暴すぎる。器物破損の請求が来たらどうするんですか」
「あんたが払って」
「契約外です」
私は笑った。
慧も、口元がわずかに緩んでいる。
黒崎が、床から顔を上げた。
「高塔……! お前のせいで、俺は」
「因果応報です」
慧は黒崎を見下ろした。
その目が、冷たく光る。
「二年前、あなたは離婚訴訟で不正を働いた」
慧の声が、淡々と響く。
「依頼人の証拠を改竄し、相手方を脅迫した。全て記録が残っています」
「それは」
「今回の脅迫状も、探偵を雇った証拠も」
慧はスマホを取り出した。
画面には、ホテルの部屋の映像が映っている。
「そして今、あなたはこの女性に暴行を働こうとした。全て録画済みです」
黒崎の顔が、蒼白に変わった。
がくがくと膝が震え、床に這いつくばる。
「待ってくれ、話し合おう。金なら」
「弁護士資格剥奪、刑事告訴、民事訴訟」
慧の声には、一切の感情がない。
「全てが、あなたを待っています」
黒崎は声にならない声を上げた。
その手が、すがるように宙を掻く。
だが、慧は微動だにしなかった。
-----
深夜、ホテルを出た私たちは、夜風の中を歩いていた。
警察への通報は慧が済ませた。
黒崎は連行され、二度と私たちの前に現れることはないだろう。
「いいチームだ」
慧が、ぽつりと言った。
「そうでしょ」
私は笑った。
「最高の共犯者じゃない?」
慧は答えなかった。
だが、その横顔がわずかに緩んでいる。
夜空には、星が瞬いていた。
銀座の灯りに負けない、強い光。
「ねえ」
私は足を止めた。
「ありがとう」
慧が振り返る。
「何がですか」
「信じてくれて」
慧の目が、一瞬だけ揺れた。
その口が開き、何かを言いかけて、閉じる。
そして。
「……君は、信頼に値するパートナーです」
その声が、いつもより柔らかかった。
私は胸の奥がざわつくのを感じた。
契約だから。
仕事だから。
そう自分に言い聞かせながら、私は歩き出した。
「帰りましょ。明日も早いんだから」
「ええ」
慧が隣に並ぶ。
その距離が、いつもより近い気がした。
気のせいかもしれない。
いや、気のせいだ。
私はそう思いながら、夜の銀座を歩いた。
黒崎のことは、これで片付いた。
だけど、契約はまだ続いている。
この先に何があるのか。
私には、まだ分からなかった。
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