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第1章 第2話「完璧な弁護士の、意外すぎる弱点」
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高塔慧が呼んだのは、黒塗りのハイヤーだった。
革張りの後部座席に沈み込みながら、私は息を殺している。
車内には、微かなウッド系の香り。
高級車特有の、嫌味のない静寂。
横を盗み見る。
隣に座る彼の表情は、相変わらず読めない。
「緊張していますか」
突然、声をかけられた。
心臓が跳ねる。
「……いえ」
「嘘ですね。さっきから三回、スカートの裾を直している」
図星だった。
無意識の癖を、また見抜かれている。
「僕は警察ではありませんよ」
慧は窓の外を見たまま、淡々と言った。
「取引が成立すれば、今夜の件は忘れます。成立しなくても、通報はしません」
「……なぜ?」
「面倒だからです」
なんて合理的な理由だろう。
この男は、本当に感情で動かない。
十五分後。
車は、都心の超高層タワーマンションの地下駐車場に滑り込んだ。
エレベーターで最上階へ。
扉が開くと、そこはもう彼の部屋だった。
「……ペントハウス」
思わず声が漏れた。
白を基調とした、広大なリビング。
一面のガラス窓からは、東京の夜景が宝石のように瞬いている。
家具は最小限。
ソファ、テーブル、本棚。
生活感が、どこにもない。
まるでモデルルームだ。
いや、モデルルームより無機質かもしれない。
「どうぞ、座ってください」
慧はジャケットを脱ぎながら言った。
「コーヒーを淹れます」
私はソファに腰を下ろした。
柔らかな革の感触。座り心地は最高だ。
でも、どこか落ち着かない。
キッチンからは、かすかな物音が聞こえる。
機械のボタンを押す音。
そして、沈黙。
また、ボタンを押す音。
また、沈黙。
何をしている?
私は立ち上がり、キッチンを覗いた。
そこには、信じられない光景があった。
高塔慧が。
あの、無敗の離婚弁護士が。
最新式のコーヒーメーカーの前で、完全に固まっていた。
「……」
彼は無言で、機械を睨みつけている。
手元には、分厚い取扱説明書。
画面には「エラー」の文字。
「あの」
私が声をかけると、慧がゆっくりと振り返った。
その表情は、いつもの無表情。
でも、耳の先がわずかに赤い。
「……この機械、欠陥品のようです」
「は?」
「同じ操作を三度試みましたが、同じエラーが出る」
「それ、豆入れました?」
沈黙。
「……豆?」
「コーヒー豆です。ここに入れるんですよ」
私は彼の横に立ち、タンクを指差した。
中は空っぽだった。
「……ああ」
慧は、かすかに目を逸らした。
「そうですか」
私は思わず笑いそうになった。
堪えたけれど、口元が緩むのを止められない。
「笑いましたね」
「笑ってません」
「口角が上がっている。僕の目は誤魔化せませんよ」
「……じゃあ、淹れましょうか。私が」
私は彼を押しのけて、コーヒーメーカーの前に立った。
豆を入れ、水を確認し、ボタンを押す。
数秒後、香ばしい香りが立ち上り始めた。
「……ずいぶん手慣れていますね」
慧が背後から言った。
「普通ですよ、これくらい」
「僕は普段、事務所で秘書が淹れてくれるので」
なるほど。
仕事は完璧でも、生活能力は壊滅的。
ギャップにも程がある。
冷蔵庫を開けてみた。
中には、ミネラルウォーターが三本。
それだけだった。
「あなた、普段何を食べてるんですか」
「外食か、出前です」
「自炊は?」
「非効率なので」
この男、本当に大丈夫だろうか。
コーヒーを二人分のカップに注ぎ、リビングに戻った。
慧は、テーブルを挟んで向かいに座った。
カップを一口啜り、小さく頷く。
「悪くない」
褒めているのか、それとも評価なのか。
よくわからない。
「では、本題に入りましょう」
慧の目が、すっと鋭くなった。
さっきまでの「ポンコツ」は、もうどこにもいない。
「僕が契約結婚を必要としている理由は、シンプルです」
彼はテーブルの上に、一枚の名刺を置いた。
「鳳凰グループ総会長、鳳凰時康」
私は息を呑んだ。
日本有数の財閥トップ。
政財界に絶大な影響力を持つ超大物だ。
「会長は、僕を顧問弁護士として迎え入れることを検討しています」
「それは……すごい話ですね」
「ええ。ただし、条件がある」
慧は淡々と続けた。
「会長は、古い価値観の持ち主です」
「古い価値観?」
「『家庭を持たない男は信用できない』」
私は眉をひそめた。
「そんな理由で?」
「合理的ではないでしょう。でも、それが条件なんです」
慧は肩をすくめた。
その仕草すら、無駄がない。
「僕には、恋愛をしている時間がない。見合いに付き合う気もない。だから、ビジネスライクに済ませたい」
「つまり、私は……」
「完璧な『妻』を演じてくれればいい」
慧の目が、私を捉えた。
「愛は不要です。必要なのは、戸籍上のステータス。そして、社交場での完璧な振る舞い」
彼は、懐から書類を取り出した。
「契約書です。条件を説明します」
私は書類を受け取った。
綺麗に印刷された文字が、整然と並んでいる。
「契約期間は、半年。報酬は八百万円」
五百万を超えた。
借金を返して、まだ余る額だ。
「生活費、被服費は別途支給。同居が条件ですが、個室は用意します」
「……至れり尽くせりですね」
「当然です。それだけの『演技』を求めるのですから」
慧は書類の一点を指差した。
「ただし、禁止事項があります」
私は該当箇所を読んだ。
そして、目を疑った。
「……『契約期間中、互いに恋愛感情を抱くことを禁ずる。違反した場合は即時契約解除、かつ違約金として三百万円を支払う』」
「問題がありますか?」
慧は真顔で聞いてきた。
「いや、問題というか……」
私は思わず笑ってしまった。
「自信満々ですね。私があなたに惚れる前提で」
「可能性の排除です。僕は合理的に行動したいだけだ」
「私から言わせれば、あなたに惚れる可能性は限りなくゼロですよ」
「それは結構。ならば問題ないでしょう」
淡々と返された。
本当に、可愛げのない男だ。
「他の条件に異論は?」
「……ないです」
私は深呼吸した。
ペンを手に取る。
借金のため。
逮捕を免れるため。
それが、この契約を結ぶ理由。
感情は、要らない。
私もそう思っている。
「恋は脳のバグ。男は三日で飽きる」
それが私の持論だ。
この男に惚れる未来なんて、想像すらできない。
私は、契約書にサインした。
「契約成立ですね」
慧は書類を受け取り、満足げに頷いた。
「では、明日から同居を開始しましょう。荷物は後日で構いません」
「え、明日?」
「善は急げ、と言うでしょう」
相変わらず、強引な男だ。
私は窓の外を見た。
東京の夜景が、煌々と輝いている。
半年。
この男と、偽りの夫婦を演じる。
それだけのこと。
それ以上には、絶対にならない。
そう、自分に言い聞かせた。
「ところで」
慧が唐突に口を開いた。
「明日の朝食は、君が作ってくれるのですか?」
「……は?」
「冷蔵庫が空なので」
私は盛大にため息をついた。
この男、ポンコツすぎる。
革張りの後部座席に沈み込みながら、私は息を殺している。
車内には、微かなウッド系の香り。
高級車特有の、嫌味のない静寂。
横を盗み見る。
隣に座る彼の表情は、相変わらず読めない。
「緊張していますか」
突然、声をかけられた。
心臓が跳ねる。
「……いえ」
「嘘ですね。さっきから三回、スカートの裾を直している」
図星だった。
無意識の癖を、また見抜かれている。
「僕は警察ではありませんよ」
慧は窓の外を見たまま、淡々と言った。
「取引が成立すれば、今夜の件は忘れます。成立しなくても、通報はしません」
「……なぜ?」
「面倒だからです」
なんて合理的な理由だろう。
この男は、本当に感情で動かない。
十五分後。
車は、都心の超高層タワーマンションの地下駐車場に滑り込んだ。
エレベーターで最上階へ。
扉が開くと、そこはもう彼の部屋だった。
「……ペントハウス」
思わず声が漏れた。
白を基調とした、広大なリビング。
一面のガラス窓からは、東京の夜景が宝石のように瞬いている。
家具は最小限。
ソファ、テーブル、本棚。
生活感が、どこにもない。
まるでモデルルームだ。
いや、モデルルームより無機質かもしれない。
「どうぞ、座ってください」
慧はジャケットを脱ぎながら言った。
「コーヒーを淹れます」
私はソファに腰を下ろした。
柔らかな革の感触。座り心地は最高だ。
でも、どこか落ち着かない。
キッチンからは、かすかな物音が聞こえる。
機械のボタンを押す音。
そして、沈黙。
また、ボタンを押す音。
また、沈黙。
何をしている?
私は立ち上がり、キッチンを覗いた。
そこには、信じられない光景があった。
高塔慧が。
あの、無敗の離婚弁護士が。
最新式のコーヒーメーカーの前で、完全に固まっていた。
「……」
彼は無言で、機械を睨みつけている。
手元には、分厚い取扱説明書。
画面には「エラー」の文字。
「あの」
私が声をかけると、慧がゆっくりと振り返った。
その表情は、いつもの無表情。
でも、耳の先がわずかに赤い。
「……この機械、欠陥品のようです」
「は?」
「同じ操作を三度試みましたが、同じエラーが出る」
「それ、豆入れました?」
沈黙。
「……豆?」
「コーヒー豆です。ここに入れるんですよ」
私は彼の横に立ち、タンクを指差した。
中は空っぽだった。
「……ああ」
慧は、かすかに目を逸らした。
「そうですか」
私は思わず笑いそうになった。
堪えたけれど、口元が緩むのを止められない。
「笑いましたね」
「笑ってません」
「口角が上がっている。僕の目は誤魔化せませんよ」
「……じゃあ、淹れましょうか。私が」
私は彼を押しのけて、コーヒーメーカーの前に立った。
豆を入れ、水を確認し、ボタンを押す。
数秒後、香ばしい香りが立ち上り始めた。
「……ずいぶん手慣れていますね」
慧が背後から言った。
「普通ですよ、これくらい」
「僕は普段、事務所で秘書が淹れてくれるので」
なるほど。
仕事は完璧でも、生活能力は壊滅的。
ギャップにも程がある。
冷蔵庫を開けてみた。
中には、ミネラルウォーターが三本。
それだけだった。
「あなた、普段何を食べてるんですか」
「外食か、出前です」
「自炊は?」
「非効率なので」
この男、本当に大丈夫だろうか。
コーヒーを二人分のカップに注ぎ、リビングに戻った。
慧は、テーブルを挟んで向かいに座った。
カップを一口啜り、小さく頷く。
「悪くない」
褒めているのか、それとも評価なのか。
よくわからない。
「では、本題に入りましょう」
慧の目が、すっと鋭くなった。
さっきまでの「ポンコツ」は、もうどこにもいない。
「僕が契約結婚を必要としている理由は、シンプルです」
彼はテーブルの上に、一枚の名刺を置いた。
「鳳凰グループ総会長、鳳凰時康」
私は息を呑んだ。
日本有数の財閥トップ。
政財界に絶大な影響力を持つ超大物だ。
「会長は、僕を顧問弁護士として迎え入れることを検討しています」
「それは……すごい話ですね」
「ええ。ただし、条件がある」
慧は淡々と続けた。
「会長は、古い価値観の持ち主です」
「古い価値観?」
「『家庭を持たない男は信用できない』」
私は眉をひそめた。
「そんな理由で?」
「合理的ではないでしょう。でも、それが条件なんです」
慧は肩をすくめた。
その仕草すら、無駄がない。
「僕には、恋愛をしている時間がない。見合いに付き合う気もない。だから、ビジネスライクに済ませたい」
「つまり、私は……」
「完璧な『妻』を演じてくれればいい」
慧の目が、私を捉えた。
「愛は不要です。必要なのは、戸籍上のステータス。そして、社交場での完璧な振る舞い」
彼は、懐から書類を取り出した。
「契約書です。条件を説明します」
私は書類を受け取った。
綺麗に印刷された文字が、整然と並んでいる。
「契約期間は、半年。報酬は八百万円」
五百万を超えた。
借金を返して、まだ余る額だ。
「生活費、被服費は別途支給。同居が条件ですが、個室は用意します」
「……至れり尽くせりですね」
「当然です。それだけの『演技』を求めるのですから」
慧は書類の一点を指差した。
「ただし、禁止事項があります」
私は該当箇所を読んだ。
そして、目を疑った。
「……『契約期間中、互いに恋愛感情を抱くことを禁ずる。違反した場合は即時契約解除、かつ違約金として三百万円を支払う』」
「問題がありますか?」
慧は真顔で聞いてきた。
「いや、問題というか……」
私は思わず笑ってしまった。
「自信満々ですね。私があなたに惚れる前提で」
「可能性の排除です。僕は合理的に行動したいだけだ」
「私から言わせれば、あなたに惚れる可能性は限りなくゼロですよ」
「それは結構。ならば問題ないでしょう」
淡々と返された。
本当に、可愛げのない男だ。
「他の条件に異論は?」
「……ないです」
私は深呼吸した。
ペンを手に取る。
借金のため。
逮捕を免れるため。
それが、この契約を結ぶ理由。
感情は、要らない。
私もそう思っている。
「恋は脳のバグ。男は三日で飽きる」
それが私の持論だ。
この男に惚れる未来なんて、想像すらできない。
私は、契約書にサインした。
「契約成立ですね」
慧は書類を受け取り、満足げに頷いた。
「では、明日から同居を開始しましょう。荷物は後日で構いません」
「え、明日?」
「善は急げ、と言うでしょう」
相変わらず、強引な男だ。
私は窓の外を見た。
東京の夜景が、煌々と輝いている。
半年。
この男と、偽りの夫婦を演じる。
それだけのこと。
それ以上には、絶対にならない。
そう、自分に言い聞かせた。
「ところで」
慧が唐突に口を開いた。
「明日の朝食は、君が作ってくれるのですか?」
「……は?」
「冷蔵庫が空なので」
私は盛大にため息をついた。
この男、ポンコツすぎる。
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