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第1章 第1話「最悪の出会いは、計算外の失敗から」
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「……ばれた」
そう直感した瞬間、私の指先から血の気が引いた。
目の前の男は、静かに笑っていた。
都内某所。紹介制の高級ラウンジバー『ル・シエル』
琥珀色の照明が店内を柔らかく包んでいる。
私、佐倉ミレイは、カウンターの端で息を潜めていた。
今夜のターゲットは、高塔慧。三十一歳。
離婚裁判で無敗を誇る敏腕弁護士。
彼を「スキャンダルに巻き込め」というのが依頼内容だった。
報酬は五百万。
成功すれば、実家の借金を一気に返せる額だ。
三十分前のこと。
「あの、すみません……隣、よろしいですか?」
私は精一杯の「儚げな笑顔」を浮かべて声をかけた。
白いブラウスに紺のタイトスカート。
髪はゆるく巻いて、メイクは控えめ。
清楚で、どこか寂しげな雰囲気を纏う。それが今夜の「私」だ。
高塔慧は、グラスを傾ける手を止めた。
切れ長の目がこちらを捉える。
「……どうぞ」
低く、抑揚のない声。
表情からは何も読み取れない。
噂通り、氷のような男だ。
私はそっと隣に腰を下ろした。
「一人でいらっしゃるんですか?」
「ええ。あなたは?」
「私も、一人で……」
視線を伏せ、グラスの縁をなぞる。
指先を少しだけ震わせるのがコツだ。
「実は今日、彼氏に振られてしまって」
声を微かに震わせる。
目尻には、涙が滲んでいるように見えるはずだ。
「……そうですか」
高塔は相槌を打った。
しかし、その目は私を観察している。
品定めするような、冷たい視線だった。
構わない。
このタイプは、弱っている女に弱い。
「可哀想な女」を演じ切れば、必ず食いつく。
「よかったら、少しだけお話を聞いてもらえませんか」
私は潤んだ目で彼を見上げた。
沈黙が流れる。
一秒、二秒、三秒。
「面白い」
高塔が、突然そう言った。
「……え?」
「いえ、失礼。つい感心してしまって」
彼はグラスを置き、こちらに向き直った。
その口元には、薄い笑みが浮かんでいる。
「演技がお上手ですね」
心臓が、跳ねた。
「な、何のことですか……?」
「とぼけなくていいですよ」
高塔の目が、すっと細くなる。
「まず、香水。あなたが纏っているのはシャネルのN°5だ」
私は息を呑んだ。
「これは『成功した女性』が好むブランド。自信に満ちた香りだ。しかし、あなたの設定は『彼氏に振られた傷心の女』でしょう? 矛盾していませんか」
言葉が出ない。
「次に、仕草」
高塔は淡々と続けた。
「あなたは『緊張している』演技をしていた。しかし、グラスを持つ手は全くブレていない。指先の震えは意図的なもの。本当に緊張している人間は、もっと不規則な動きをする」
背筋に冷たいものが走る。
「そして、視線」
彼の目が、私を射抜いた。
「あなたは私を『観察』していた。獲物を見定める目だ。傷心の女が、初対面の男にそんな目を向けますか?」
私は動けなかった。
完璧だと思っていた。
百戦錬磨の「別れさせ屋」として、今まで一度も失敗したことはなかった。
なのに、この男は。
たった三十分で、全てを見抜いた。
「あなたが誰に雇われたかは知りませんが」
高塔は静かに言った。
「僕を落とすには、もう少し準備が必要だったようですね」
終わった。
そう思った。
警察に突き出される。
詐欺未遂で逮捕される。
借金どころか、人生が終わる。
「……すみませんでした」
私は椅子から立ち上がろうとした。
せめて、逃げなければ。
「待ってください」
高塔の声に、足が止まる。
「……何ですか」
振り返ると、彼は相変わらず笑みを浮かべていた。
しかし、その目は笑っていない。
獲物を前にした、獣のような目だった。
「一つ、提案があります」
「提案……?」
「ええ」
高塔はゆっくりと立ち上がった。
私との距離が、一歩分縮まる。
「あなたの演技力、なかなかのものだ。見破れたのは、僕が職業柄『嘘』に敏感なだけ。普通の人間なら、簡単に騙されていたでしょう」
何を言っている?
「あなた、今夜の報酬はいくらですか」
「……五百万」
「なるほど。それなりの金額だ」
高塔は、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「警察に通報すれば、あなたは詐欺未遂で逮捕される。僕の名前に傷がつくことはない。それが『普通の選択肢』だ」
指が画面を滑る。
通報のアプリを起動しようとしている。
「待って」
私は思わず声を上げた。
「お願い、通報だけは……」
「落ち着いてください」
高塔は画面から目を上げた。
「僕は『普通の選択肢』を取るとは言っていない」
何が言いたい?
「あなたに、取引を持ちかけようとしているんです」
「取引……?」
高塔の目が、妖しく光った。
「報酬は、五百万以上を保証しましょう。期間は半年。内容はシンプルです」
彼は一歩、さらに近づいた。
その声が、耳元で囁くように響く。
「僕と結婚してください」
私は言葉を失った。
「正確には、『僕の妻を演じてほしい』ということですが」
高塔は、不敵な笑みを浮かべた。
「詳しい条件は、場所を変えてお話ししましょう。今夜は時間がありますか……佐倉ミレイさん?」
名前まで、知られていた。
この男は、最初から全てわかっていたのだ。
私が接触してくることも。
私が「別れさせ屋」であることも。
高塔慧は、私を待っていた。
琥珀色の照明の下、私は彼の顔を見上げた。
氷のように冷たい目。
しかしその奥には、何か別の光が潜んでいる。
これは、罠だ。
頭では、そう理解していた。
それでも。
「……話を、聞かせてください」
私の口から、その言葉が零れ落ちていた。
そう直感した瞬間、私の指先から血の気が引いた。
目の前の男は、静かに笑っていた。
都内某所。紹介制の高級ラウンジバー『ル・シエル』
琥珀色の照明が店内を柔らかく包んでいる。
私、佐倉ミレイは、カウンターの端で息を潜めていた。
今夜のターゲットは、高塔慧。三十一歳。
離婚裁判で無敗を誇る敏腕弁護士。
彼を「スキャンダルに巻き込め」というのが依頼内容だった。
報酬は五百万。
成功すれば、実家の借金を一気に返せる額だ。
三十分前のこと。
「あの、すみません……隣、よろしいですか?」
私は精一杯の「儚げな笑顔」を浮かべて声をかけた。
白いブラウスに紺のタイトスカート。
髪はゆるく巻いて、メイクは控えめ。
清楚で、どこか寂しげな雰囲気を纏う。それが今夜の「私」だ。
高塔慧は、グラスを傾ける手を止めた。
切れ長の目がこちらを捉える。
「……どうぞ」
低く、抑揚のない声。
表情からは何も読み取れない。
噂通り、氷のような男だ。
私はそっと隣に腰を下ろした。
「一人でいらっしゃるんですか?」
「ええ。あなたは?」
「私も、一人で……」
視線を伏せ、グラスの縁をなぞる。
指先を少しだけ震わせるのがコツだ。
「実は今日、彼氏に振られてしまって」
声を微かに震わせる。
目尻には、涙が滲んでいるように見えるはずだ。
「……そうですか」
高塔は相槌を打った。
しかし、その目は私を観察している。
品定めするような、冷たい視線だった。
構わない。
このタイプは、弱っている女に弱い。
「可哀想な女」を演じ切れば、必ず食いつく。
「よかったら、少しだけお話を聞いてもらえませんか」
私は潤んだ目で彼を見上げた。
沈黙が流れる。
一秒、二秒、三秒。
「面白い」
高塔が、突然そう言った。
「……え?」
「いえ、失礼。つい感心してしまって」
彼はグラスを置き、こちらに向き直った。
その口元には、薄い笑みが浮かんでいる。
「演技がお上手ですね」
心臓が、跳ねた。
「な、何のことですか……?」
「とぼけなくていいですよ」
高塔の目が、すっと細くなる。
「まず、香水。あなたが纏っているのはシャネルのN°5だ」
私は息を呑んだ。
「これは『成功した女性』が好むブランド。自信に満ちた香りだ。しかし、あなたの設定は『彼氏に振られた傷心の女』でしょう? 矛盾していませんか」
言葉が出ない。
「次に、仕草」
高塔は淡々と続けた。
「あなたは『緊張している』演技をしていた。しかし、グラスを持つ手は全くブレていない。指先の震えは意図的なもの。本当に緊張している人間は、もっと不規則な動きをする」
背筋に冷たいものが走る。
「そして、視線」
彼の目が、私を射抜いた。
「あなたは私を『観察』していた。獲物を見定める目だ。傷心の女が、初対面の男にそんな目を向けますか?」
私は動けなかった。
完璧だと思っていた。
百戦錬磨の「別れさせ屋」として、今まで一度も失敗したことはなかった。
なのに、この男は。
たった三十分で、全てを見抜いた。
「あなたが誰に雇われたかは知りませんが」
高塔は静かに言った。
「僕を落とすには、もう少し準備が必要だったようですね」
終わった。
そう思った。
警察に突き出される。
詐欺未遂で逮捕される。
借金どころか、人生が終わる。
「……すみませんでした」
私は椅子から立ち上がろうとした。
せめて、逃げなければ。
「待ってください」
高塔の声に、足が止まる。
「……何ですか」
振り返ると、彼は相変わらず笑みを浮かべていた。
しかし、その目は笑っていない。
獲物を前にした、獣のような目だった。
「一つ、提案があります」
「提案……?」
「ええ」
高塔はゆっくりと立ち上がった。
私との距離が、一歩分縮まる。
「あなたの演技力、なかなかのものだ。見破れたのは、僕が職業柄『嘘』に敏感なだけ。普通の人間なら、簡単に騙されていたでしょう」
何を言っている?
「あなた、今夜の報酬はいくらですか」
「……五百万」
「なるほど。それなりの金額だ」
高塔は、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「警察に通報すれば、あなたは詐欺未遂で逮捕される。僕の名前に傷がつくことはない。それが『普通の選択肢』だ」
指が画面を滑る。
通報のアプリを起動しようとしている。
「待って」
私は思わず声を上げた。
「お願い、通報だけは……」
「落ち着いてください」
高塔は画面から目を上げた。
「僕は『普通の選択肢』を取るとは言っていない」
何が言いたい?
「あなたに、取引を持ちかけようとしているんです」
「取引……?」
高塔の目が、妖しく光った。
「報酬は、五百万以上を保証しましょう。期間は半年。内容はシンプルです」
彼は一歩、さらに近づいた。
その声が、耳元で囁くように響く。
「僕と結婚してください」
私は言葉を失った。
「正確には、『僕の妻を演じてほしい』ということですが」
高塔は、不敵な笑みを浮かべた。
「詳しい条件は、場所を変えてお話ししましょう。今夜は時間がありますか……佐倉ミレイさん?」
名前まで、知られていた。
この男は、最初から全てわかっていたのだ。
私が接触してくることも。
私が「別れさせ屋」であることも。
高塔慧は、私を待っていた。
琥珀色の照明の下、私は彼の顔を見上げた。
氷のように冷たい目。
しかしその奥には、何か別の光が潜んでいる。
これは、罠だ。
頭では、そう理解していた。
それでも。
「……話を、聞かせてください」
私の口から、その言葉が零れ落ちていた。
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