【完結】パパ、私は犯人じゃないよ ~処刑予定の私、冷徹公爵(パパ)に溺愛されるまで~

チャビューヘ

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観察眼、あるいは道具の磨き方

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 四個目のキャンディが枕元にあった。
 赤い包み紙。毎朝、同じ場所に。

 誰かが、私を見ている。
 毒の運び屋に仕立てようとしている誰かが。

 私はキャンディを引き出しの奥に押し込み、部屋を出た。

 まず、練兵場へ向かう。
 バルバロスとの約束だ。熊を怒らせるわけにはいかない。

 練兵場に着くと、熊はすでに木剣を振っていた。
 私を見つけると、懐から干し肉を取り出す。

「食え」

 私は黙って受け取った。
 熊の目が、一瞬だけ細くなった。
 息を止めているのが分かる。興奮を抑えているのだ。
 この巨体が、干し肉一つ渡すだけでこれだ。

 熊は満足そうに頷き、稽古に戻っていった。

 それだけだった。
 毎朝これを繰り返すのだろう。餌付けの儀式のように。

 干し肉を齧りながら、私は書斎へ向かった。
 お父様の傍にいる。それが私のもう一つの仕事だ。

 書斎の長椅子は、座り心地がいい。
 革の匂い。暖炉の火。微かなインクの香り。
 ここにいると、殺されない気がする。

 お父様は机に向かい、羽ペンを走らせていた。
 私は静かに本を開く。読めない文字を眺めるふりだ。

 扉が叩かれた。

「入れ」

 お父様の声は、いつもより低い。
 入ってきたのは、あの熊だった。

 バルバロスが一礼する。
 彼の視線が、一瞬だけ私を捉えた。

「大公様。若様の稽古の件で」

 お父様の羽ペンが止まった。
 義兄様の話題だ。
 お父様は興味がないふりをしている。でも、眉間の皺が深くなった。

「言え」

「右足の踏み込み。軸がぶれている」

 沈黙が落ちた。
 お父様は椅子を軋ませて振り返った。

「今まで気づかなかったのか」

「……気づけなかった」

 バルバロスの声が、さらに低くなる。
 巨体が縮こまって見えた。

「指摘したのは、俺ではない」

 私の心臓が跳ねた。
 やめて。私の名前を出さないで。

「誰だ」

 バルバロスの視線が、長椅子に向けられた。
 私は慌てて本で顔を隠した。

 お父様の気配が近づいてくる。
 床板が軋む音。足音。止まった。

「起きろ」

 逃げ場はない。
 私は観念して、ゆっくりと本を下ろした。

「お、おはようございます」

 お父様の灰色の瞳が、私を見下ろしていた。
 無表情。何を考えているか分からない。

「見たのか」

「な、何をですか」

「あいつの剣を」

 嘘をついても無駄だろう。
 バルバロスが全部話してしまった。

「い、一瞬だけ」

「一瞬」

 お父様が、かすかに眉を動かした。

「それで分かったのか」

 責められているのか、褒められているのか、分からない。
 私は首を縮めた。

「す、すみません。出過ぎたことを」

「なぜ焦りだと分かった」

 声が、少しだけ柔らかくなった。
 気のせいかもしれない。
 でも、怒っている感じはしない。

「み、見てほしそうだったから」

「誰に」

 私は口をつぐんだ。
 言っていいのか分からない。

「お前に聞いている」

「だ、誰かに」

 あなたにですよ、鈍感パパ。
 あの子は、あなたに見てほしくて必死なんですよ。
 上司が部下の頑張りに気づかないのは、前世でも今世でも同じらしい。
 でも、そんなこと言えるわけがない。

 お父様は黙ったまま、私を見つめていた。
 長い沈黙。
 背中に汗が滲む。

 やがて、お父様は踵を返した。
 机の引き出しを開ける。
 何かを取り出した。

「来い」

 私は恐る恐る近づいた。
 お父様の手には、革張りの本があった。
 分厚い。重そうだ。

「読め」

「よ、読めません」

「だろうな」

 お父様の声に、かすかな響きが混じった。
 笑っているのか、呆れているのか。

「なら、覚えろ。文字を」

 本が私の腕に押し付けられた。
 重い。両手で抱えないと落としそうだ。

「お前の目は、悪くない」

 お父様の手が、私の頭の上で止まった。
 撫でられる? 叩かれる?
 身構えた瞬間、ポンと軽く置かれただけだった。

「もっと見ろ。もっと考えろ」

 声は低かったけれど、冷たくはなかった。

 私は本を抱えたまま、固まっていた。
 何が起きた?
 怒られると思ったのに。

 バルバロスが、背後で小さく息を吐いた。
 満足そうな気配。

「戻る」

 熊が去っていく。
 最後に私を見て、かすかに顎を引いた。

 書斎に、二人だけが残された。

 お父様は机に戻り、また羽ペンを取った。
 私は長椅子に座り直す。

 腕の中の本は、ずっしりと重かった。
 表紙には、読めない文字が並んでいる。

 これは、何だろう。
 ご褒美? いや、違う。

 私は「静けさの道具」だ。
 道具は、手入れをしないと使い物にならない。
 お父様は、私の価値を高めようとしているのだ。

 観察眼があるなら、もっと磨け。
 知識があるなら、もっと詰め込め。
 そうすれば、もっと役に立てる。

 納得した。
 愛情ではない。手間をかける価値があると判断されただけ。
 分かりやすくて、ありがたい。

 暖炉の火が、パチリと爆ぜた。
 お父様の羽ペンが、紙の上を走る音。
 私は本を膝に乗せ、最初のページを開いた。

 読めない。
 でも、覚えろと言われた。

 生きるために、覚えよう。
 この城で生き延びるために、使える道具になろう。

 そして、真犯人を見つけよう。
 毎朝、キャンディを送り続ける誰かを。

 それが、今の私にできることだ。

     ◇     ◇     ◇

 その日の夕方。
 バルバロスは約束通り、義兄様の稽古で「右足」を指摘した。

 私は見ていない。
 でも、夕食の席で義兄様の様子がおかしかった。

 いつもより、静かだった。
 私を睨むことすらしない。

 俯いたまま、スープを啜っている。
 その横顔が、少しだけ明るく見えた。
 いつもの険しさが、薄れている。

「誰かが見ている、と言われた」

 小さな声だった。
 独り言のような呟き。
 でも、その声には棘がなかった。

 お父様は反応しなかった。
 いつものように、黙々と食事を続けている。

 私も聞こえないふりをした。
 義兄様の言葉に反応するのは危険だ。

 ふと、視線を感じた。
 顔を上げると、義兄様がこちらを見ていた。
 睨んでいるわけではない。かといって、笑っているわけでもない。
 何か言いたげな、不思議な目だった。

 すぐに視線を逸らされた。

 でも、心の中で思った。

 あの熊は、ちゃんと伝えてくれたのだ。
 「誰かが見ている」と。
 それが、義兄様には必要な言葉だったのだろう。

 私の観察が、間接的に義兄様を救った?
 いや、違う。
 私は、お父様の道具として役目を果たしただけだ。

 偶然だ。
 たまたま、そうなっただけ。

 義兄様が救われたとしても、私には関係ない。

 私は、自分のことだけを考える。
 生き延びることだけを、考える。

 そう言い聞かせながら、私は温かいパンを口に運んだ。
 柔らかい。美味しい。
 生きていると、こういうものが食べられる。

 だから、生きる。
 何があっても、生きる。

 それだけだ。
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