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仮面の下の息遣い
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昼下がりの部屋。
窓から差し込む光が、机の上を照らしていた。
私は紙に文字を書いていた。
昨日習った「国」「民」「法」「鎖」。
何度も何度も。指が覚えるまで。
前世でも、こうして文字を覚えた。
繰り返し繰り返し、手が覚えるまで。
懐かしい感覚だ。
この五歳の小さな手は、まだ不器用だ。
筆圧が安定しない。
線がふらつく。
でも、昨日よりは上手くなっている。
「鎖」の字を書き終えたとき。
背後で、扉が開いた。
振り返る暇もなかった。
「あら、お嬢様」
マルタさんの声。
甘い響き。いつもの調子。
私は慌てて紙を裏返した。
でも、遅かった。
マルタさんの足音が、近づいてくる。
ゆっくりと。確実に。
「何をなさっていますの?」
私の肩越しに、机を覗き込む。
冷たい指が、裏返した紙に伸びた。
「い、いえ、なんでも」
私の声は震えていた。
演技ではない。本当に怖かった。
マルタさんが、紙をめくった。
私の文字が、露わになる。
下手くそな、でも確かに読める文字。
マルタさんの顔色が変わった。
血の気が引いていく。
唇が、かすかに震えている。
怒り。
そう思った。
私が文字を学んでいることへの怒り。
でも、その目は違った。
怒りというより、何か別のもの。
恐怖に、似ていた。
「いけませんわ、お嬢様」
声が震えている。
「こんなもの、書いては」
マルタさんが紙を掴んだ。
ビリ、と音がした。
「誰かに見られたらどうするんですの!」
その言葉に、私は固まった。
誰かに見られたら。
誰に。何を。
マルタさんの指が、紙を引き裂く。
ビリビリと、容赦なく。
私の練習が、紙片に変わっていく。
暖炉に、紙片が投げ込まれた。
炎が、私の文字を舐めとっていく。
黒い灰になって、消えていく。
マルタさんが、振り返った。
その目は血走っていた。
笑顔は、どこにもなかった。
「二度と書いてはいけません」
マルタさんの指が、私の肩を掴んだ。
冷たい。痛いほど冷たい。
爪が、肩に食い込む。
「いいですわね、お嬢様!」
彼女の目は、私を見ていなかった。
どこか遠くを見ていた。
怯えた獣のような目だ。
私は頷くことしかできなかった。
そのとき。
扉が、勢いよく開いた。
ノックもなしに。
「何をしている」
低い声。
義兄様だった。
金色の瞳が、私たちを捉えていた。
眉間に深い皺。険しい表情。
普段の無関心とは、まるで違う。
義兄様が、部屋に入ってきた。
長い足で、距離を詰める。
マルタさんと私の間に、割って入った。
「その手、どけろ」
短い言葉。
静かだが、有無を言わせない響き。
マルタさんの指が、ゆるんだ。
私の肩から、離れていく。
「ぼ、坊ちゃま」
マルタさんの声が、上ずっていた。
すぐに、いつもの笑顔を取り繕う。
でも、口元が引きつっている。
「お嬢様のお世話をしていただけですわ」
「少し、躾が必要でしたの」
義兄様は、答えなかった。
ただ、冷たい目でマルタさんを見下ろした。
沈黙が、部屋を満たした。
暖炉の炎が、パチリと音を立てた。
マルタさんの笑顔が、崩れていく。
余裕がなくなっていく。
手が、小刻みに震えている。
「失礼いたしますわ」
マルタさんが、頭を下げた。
逃げるように、部屋を出ていく。
扉が閉まる音。遠ざかる足音。
私は、義兄様の背中を見つめていた。
広い背中。
私と、あの人との壁になってくれた背中。
「大丈夫か」
義兄様が、振り返らずに言った。
「は、はい」
声が震えた。
肩が、まだ痛い。
でも、それ以上に、胸が苦しかった。
義兄様が、ようやく振り返った。
金色の瞳が、私を見下ろす。
眉根が寄っている。心配そうな顔だ。
「肩、見せろ」
「え」
「怪我してないか」
義兄様の声は、ぶっきらぼうだった。
でも、その言葉には温度があった。
私は服の襟をずらした。
肩には、赤い痕が残っていた。
マルタさんの爪の跡だ。
義兄様の眉間の皺が、深くなった。
「あの女」
低い声で、呟いた。
怒りを堪えているような声だった。
「い、いいの」
「大丈夫、です」
私は慌てて言った。
これ以上、事を大きくしたくなかった。
義兄様は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「チビ」
「は、はい」
「俺の前で、無理するな」
その言葉に、私は息を呑んだ。
無理するな。
義兄様が、そんなことを言うなんて。
「あ、ありがとう、ございます」
義兄様の耳が、わずかに赤くなった。
すぐに顔をそむけた。
「礼なんか言うな」
「気持ち悪い」
ぶっきらぼうに言って、部屋を出ていく。
でも、その足取りは軽かった。
以前のような、重苦しさがなかった。
私は、閉じた扉を見つめた。
義兄様は、なぜここに来たのだろう。
用があったのか。
それとも、私の部屋を見回っていたのか。
「気をつけろ」と言った、あの言葉の続きとして。
義兄様は、私を守ってくれた。
あの「妹なんて認めない」と言っていた人が。
私の味方になってくれている。
肩の痛みが、少し和らいだ気がした。
夕方。
お父様の書斎。
文字の授業、八日目。
お父様は私を膝の上に乗せた。
温かい腕の中。
今日は、いつもより安心した。
「今日は四つ」
お父様が本を開いた。
「時」
お父様の指が、文字をなぞった。
「とき」
私は繰り返した。
時。流れるもの。戻らないもの。
あの物語の私は、時間切れで死んだ。
もう、同じ轍は踏まない。
「待」
「まつ」
待つ。耐えること。時を味方につけること。
焦ってはいけない。
お父様も、昨日そう言った。
「仮面」
お父様の指が、二つの文字を示した。
「かめん」
私は静かに繰り返した。
仮面。被るもの。素顔を隠すもの。
マルタさんの顔を思い出した。
いつもの笑顔。今日の恐怖。
どちらが、本当の顔なのか。
「裏」
「うら」
裏。表の反対。見えない側。
この屋敷には、裏がある。
マルタさんの裏。王家の裏。
そして多分、お父様の裏も。
お父様が、しばらく黙っていた。
私を見下ろして。
「今日、何かあったか」
短い言葉。
でも、すべてを見透かすような響き。
私は迷った。
言うべきか、言わないべきか。
マルタさんのこと。義兄様のこと。
「仮面、って」
私は小さく言った。
「息が、苦しくないですか」
お父様の目が、わずかに見開かれた。
すぐに元に戻った。
「苦しい」
お父様が、短く答えた。
「だが、必要だ」
必要。
生き延びるために、仮面は必要。
私も、そうだ。
毎日、笑顔の仮面を被っている。
「穴を開けておけ」
お父様が言った。
「息ができる程度に」
穴。
仮面に穴を開ける。
息ができるように。
完璧に演じなくていい。
少しだけ、本当の顔を見せていい。
「でも」
「外す時は、選べ」
お父様の手が、私の頭を撫でた。
大きな手。温かい手。
「いつか、外す日が来る」
その言葉を、私は静かに受け止めた。
いつか。
見えない鎖を断ち切る日。
仮面を外せる日。
その日まで、耐える。
でも、完全に息を止める必要はない。
「復習しろ」
お父様が言った。
「は、はい」
私は机に向かった。
紙に文字を書く。
時。待。仮面。裏。
マルタさんに破られた紙のことを思い出した。
でも、また書けばいい。
何度破られても、また書けばいい。
知識は、奪えない。
頭の中にあるものは、燃やせない。
「終わったか」
「は、はい」
私は紙を差し出した。
お父様は無言でそれを見た。
「いい」
短い言葉。いつもの褒め言葉。
お父様が私を見下ろした。
「肩」
一言。
私は、びくりとした。
お父様は、知っている。
マルタさんに掴まれたこと。
義兄様が助けてくれたこと。
全部、知っている。
「い、いたくない、です」
私は首を振った。
嘘ではない。もう痛くない。
お父様は、しばらく私を見つめていた。
灰色の瞳。深い、深い色。
「そうか」
それだけ言って、お父様は本を閉じた。
「また明日」
「は、はい」
「ありがとう、ございました」
私は書斎を出た。
部屋に戻る廊下。
窓の外を見た。
夕日が、空を染めている。
今日、たくさんのことがあった。
マルタさんの恐怖。
義兄様の庇護。
お父様の仮面の話。
マルタさんは、なぜあんなに怯えていたのか。
私が文字を学んでいることが、そんなに怖いのか。
「誰かに見られたら」と言った。
誰に、見られたくないのか。
王家だろうか。
報告書に、何か書けなくなるのだろうか。
「お嬢様は文字も読めない愚か者です」と。
わからない。
マルタさんの裏が、見えない。
でも、一つだけわかったことがある。
マルタさんは、ただの悪意ではない。
あの恐怖は、本物だった。
何かに怯えている。
誰かを恐れている。
部屋に戻った。
引き出しを開ける。
革張りの本が、そこにある。
まだ大丈夫。
まだ見つかっていない。
マルタさんは、ここまでは知らない。
多分。
ベッドに潜り込んだ。
毛布が温かい。
今日学んだ文字が、瞼の裏に浮かぶ。
時。待。仮面。裏。
仮面に、穴を開けておけ。
お父様はそう言った。
私の仮面は、もうボロボロかもしれない。
義兄様には、穴だらけだ。
お父様には、最初から見透かされている。
でも、マルタさんの前では。
王家の手先の前では。
まだ、被り続けなければならない。
私は目を閉じた。
明日も、仮面を被る。
でも、息はできる。
穴が、開いているから。
義兄様の背中を思い出した。
「俺の前で、無理するな」
その言葉が、胸の中で温かく灯っていた。
一人じゃない。
仮面を外せる場所が、少しずつ増えている。
私は静かに眠りについた。
仮面の裏で、小さく息をしながら。
窓から差し込む光が、机の上を照らしていた。
私は紙に文字を書いていた。
昨日習った「国」「民」「法」「鎖」。
何度も何度も。指が覚えるまで。
前世でも、こうして文字を覚えた。
繰り返し繰り返し、手が覚えるまで。
懐かしい感覚だ。
この五歳の小さな手は、まだ不器用だ。
筆圧が安定しない。
線がふらつく。
でも、昨日よりは上手くなっている。
「鎖」の字を書き終えたとき。
背後で、扉が開いた。
振り返る暇もなかった。
「あら、お嬢様」
マルタさんの声。
甘い響き。いつもの調子。
私は慌てて紙を裏返した。
でも、遅かった。
マルタさんの足音が、近づいてくる。
ゆっくりと。確実に。
「何をなさっていますの?」
私の肩越しに、机を覗き込む。
冷たい指が、裏返した紙に伸びた。
「い、いえ、なんでも」
私の声は震えていた。
演技ではない。本当に怖かった。
マルタさんが、紙をめくった。
私の文字が、露わになる。
下手くそな、でも確かに読める文字。
マルタさんの顔色が変わった。
血の気が引いていく。
唇が、かすかに震えている。
怒り。
そう思った。
私が文字を学んでいることへの怒り。
でも、その目は違った。
怒りというより、何か別のもの。
恐怖に、似ていた。
「いけませんわ、お嬢様」
声が震えている。
「こんなもの、書いては」
マルタさんが紙を掴んだ。
ビリ、と音がした。
「誰かに見られたらどうするんですの!」
その言葉に、私は固まった。
誰かに見られたら。
誰に。何を。
マルタさんの指が、紙を引き裂く。
ビリビリと、容赦なく。
私の練習が、紙片に変わっていく。
暖炉に、紙片が投げ込まれた。
炎が、私の文字を舐めとっていく。
黒い灰になって、消えていく。
マルタさんが、振り返った。
その目は血走っていた。
笑顔は、どこにもなかった。
「二度と書いてはいけません」
マルタさんの指が、私の肩を掴んだ。
冷たい。痛いほど冷たい。
爪が、肩に食い込む。
「いいですわね、お嬢様!」
彼女の目は、私を見ていなかった。
どこか遠くを見ていた。
怯えた獣のような目だ。
私は頷くことしかできなかった。
そのとき。
扉が、勢いよく開いた。
ノックもなしに。
「何をしている」
低い声。
義兄様だった。
金色の瞳が、私たちを捉えていた。
眉間に深い皺。険しい表情。
普段の無関心とは、まるで違う。
義兄様が、部屋に入ってきた。
長い足で、距離を詰める。
マルタさんと私の間に、割って入った。
「その手、どけろ」
短い言葉。
静かだが、有無を言わせない響き。
マルタさんの指が、ゆるんだ。
私の肩から、離れていく。
「ぼ、坊ちゃま」
マルタさんの声が、上ずっていた。
すぐに、いつもの笑顔を取り繕う。
でも、口元が引きつっている。
「お嬢様のお世話をしていただけですわ」
「少し、躾が必要でしたの」
義兄様は、答えなかった。
ただ、冷たい目でマルタさんを見下ろした。
沈黙が、部屋を満たした。
暖炉の炎が、パチリと音を立てた。
マルタさんの笑顔が、崩れていく。
余裕がなくなっていく。
手が、小刻みに震えている。
「失礼いたしますわ」
マルタさんが、頭を下げた。
逃げるように、部屋を出ていく。
扉が閉まる音。遠ざかる足音。
私は、義兄様の背中を見つめていた。
広い背中。
私と、あの人との壁になってくれた背中。
「大丈夫か」
義兄様が、振り返らずに言った。
「は、はい」
声が震えた。
肩が、まだ痛い。
でも、それ以上に、胸が苦しかった。
義兄様が、ようやく振り返った。
金色の瞳が、私を見下ろす。
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「肩、見せろ」
「え」
「怪我してないか」
義兄様の声は、ぶっきらぼうだった。
でも、その言葉には温度があった。
私は服の襟をずらした。
肩には、赤い痕が残っていた。
マルタさんの爪の跡だ。
義兄様の眉間の皺が、深くなった。
「あの女」
低い声で、呟いた。
怒りを堪えているような声だった。
「い、いいの」
「大丈夫、です」
私は慌てて言った。
これ以上、事を大きくしたくなかった。
義兄様は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「チビ」
「は、はい」
「俺の前で、無理するな」
その言葉に、私は息を呑んだ。
無理するな。
義兄様が、そんなことを言うなんて。
「あ、ありがとう、ございます」
義兄様の耳が、わずかに赤くなった。
すぐに顔をそむけた。
「礼なんか言うな」
「気持ち悪い」
ぶっきらぼうに言って、部屋を出ていく。
でも、その足取りは軽かった。
以前のような、重苦しさがなかった。
私は、閉じた扉を見つめた。
義兄様は、なぜここに来たのだろう。
用があったのか。
それとも、私の部屋を見回っていたのか。
「気をつけろ」と言った、あの言葉の続きとして。
義兄様は、私を守ってくれた。
あの「妹なんて認めない」と言っていた人が。
私の味方になってくれている。
肩の痛みが、少し和らいだ気がした。
夕方。
お父様の書斎。
文字の授業、八日目。
お父様は私を膝の上に乗せた。
温かい腕の中。
今日は、いつもより安心した。
「今日は四つ」
お父様が本を開いた。
「時」
お父様の指が、文字をなぞった。
「とき」
私は繰り返した。
時。流れるもの。戻らないもの。
あの物語の私は、時間切れで死んだ。
もう、同じ轍は踏まない。
「待」
「まつ」
待つ。耐えること。時を味方につけること。
焦ってはいけない。
お父様も、昨日そう言った。
「仮面」
お父様の指が、二つの文字を示した。
「かめん」
私は静かに繰り返した。
仮面。被るもの。素顔を隠すもの。
マルタさんの顔を思い出した。
いつもの笑顔。今日の恐怖。
どちらが、本当の顔なのか。
「裏」
「うら」
裏。表の反対。見えない側。
この屋敷には、裏がある。
マルタさんの裏。王家の裏。
そして多分、お父様の裏も。
お父様が、しばらく黙っていた。
私を見下ろして。
「今日、何かあったか」
短い言葉。
でも、すべてを見透かすような響き。
私は迷った。
言うべきか、言わないべきか。
マルタさんのこと。義兄様のこと。
「仮面、って」
私は小さく言った。
「息が、苦しくないですか」
お父様の目が、わずかに見開かれた。
すぐに元に戻った。
「苦しい」
お父様が、短く答えた。
「だが、必要だ」
必要。
生き延びるために、仮面は必要。
私も、そうだ。
毎日、笑顔の仮面を被っている。
「穴を開けておけ」
お父様が言った。
「息ができる程度に」
穴。
仮面に穴を開ける。
息ができるように。
完璧に演じなくていい。
少しだけ、本当の顔を見せていい。
「でも」
「外す時は、選べ」
お父様の手が、私の頭を撫でた。
大きな手。温かい手。
「いつか、外す日が来る」
その言葉を、私は静かに受け止めた。
いつか。
見えない鎖を断ち切る日。
仮面を外せる日。
その日まで、耐える。
でも、完全に息を止める必要はない。
「復習しろ」
お父様が言った。
「は、はい」
私は机に向かった。
紙に文字を書く。
時。待。仮面。裏。
マルタさんに破られた紙のことを思い出した。
でも、また書けばいい。
何度破られても、また書けばいい。
知識は、奪えない。
頭の中にあるものは、燃やせない。
「終わったか」
「は、はい」
私は紙を差し出した。
お父様は無言でそれを見た。
「いい」
短い言葉。いつもの褒め言葉。
お父様が私を見下ろした。
「肩」
一言。
私は、びくりとした。
お父様は、知っている。
マルタさんに掴まれたこと。
義兄様が助けてくれたこと。
全部、知っている。
「い、いたくない、です」
私は首を振った。
嘘ではない。もう痛くない。
お父様は、しばらく私を見つめていた。
灰色の瞳。深い、深い色。
「そうか」
それだけ言って、お父様は本を閉じた。
「また明日」
「は、はい」
「ありがとう、ございました」
私は書斎を出た。
部屋に戻る廊下。
窓の外を見た。
夕日が、空を染めている。
今日、たくさんのことがあった。
マルタさんの恐怖。
義兄様の庇護。
お父様の仮面の話。
マルタさんは、なぜあんなに怯えていたのか。
私が文字を学んでいることが、そんなに怖いのか。
「誰かに見られたら」と言った。
誰に、見られたくないのか。
王家だろうか。
報告書に、何か書けなくなるのだろうか。
「お嬢様は文字も読めない愚か者です」と。
わからない。
マルタさんの裏が、見えない。
でも、一つだけわかったことがある。
マルタさんは、ただの悪意ではない。
あの恐怖は、本物だった。
何かに怯えている。
誰かを恐れている。
部屋に戻った。
引き出しを開ける。
革張りの本が、そこにある。
まだ大丈夫。
まだ見つかっていない。
マルタさんは、ここまでは知らない。
多分。
ベッドに潜り込んだ。
毛布が温かい。
今日学んだ文字が、瞼の裏に浮かぶ。
時。待。仮面。裏。
仮面に、穴を開けておけ。
お父様はそう言った。
私の仮面は、もうボロボロかもしれない。
義兄様には、穴だらけだ。
お父様には、最初から見透かされている。
でも、マルタさんの前では。
王家の手先の前では。
まだ、被り続けなければならない。
私は目を閉じた。
明日も、仮面を被る。
でも、息はできる。
穴が、開いているから。
義兄様の背中を思い出した。
「俺の前で、無理するな」
その言葉が、胸の中で温かく灯っていた。
一人じゃない。
仮面を外せる場所が、少しずつ増えている。
私は静かに眠りについた。
仮面の裏で、小さく息をしながら。
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