【完結】パパ、私は犯人じゃないよ ~処刑予定の私、冷徹公爵(パパ)に溺愛されるまで~

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沈黙の傷跡と不器用な軟膏

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 翌朝。
 マルタさんが部屋に入ってきた。

 いつもの時間。いつもの足音。
 でも、私の心臓は跳ね上がった。

 昨日の光景が、脳裏に蘇る。
 引き裂かれた紙。燃え上がる炎。
 血走った目。震える声。

 今日は、どんな顔でやってくるのか。

「おはようございます、お嬢様」

 マルタさんは、微笑んでいた。
 いつもの甘い声。いつもの笑顔。
 昨日のことなど、なかったかのように。

 完璧だった。
 あまりにも完璧すぎて、背筋が冷えた。

「着替えのお手伝いをいたしますわ」

 マルタさんが近づいてくる。
 私は、ベッドの上で身を固くした。

 寝間着の襟を整えられる。
 髪を梳かれる。
 その手つきは、昨日と変わらない。

 でも、肩に触れた瞬間だった。

 マルタさんの指が、氷のように冷たい。
 そして、震えていた。
 かすかに、でも確実に。

 私は息を呑んだ。

 マルタさんの顔を見上げる。
 笑顔は崩れていない。
 でも、目だけが違う方向を見ていた。

 爪の痕がある場所。
 そこだけを避けるように、布を当てる。

 怒りではない。
 これは、壊れ物を扱う手つきだ。
 あるいは、爆発物を扱うような。

「今日のお召し物ですわ」

 マルタさんの声は、平坦だった。
 感情が、抜け落ちている。

 なぜだろう。
 なぜ、マルタさんはこんなに怯えている。
 私が文字を学ぶことが、そんなに怖いのか。
 それとも、別の何かか。

 「誰かに見られたら」
 昨日の言葉が、頭の中で繰り返される。

 誰に、見られたくないのか。
 王家だろうか。
 それとも、もっと別の誰か。

 答えは、出なかった。



 朝食を終え、廊下を歩いていた。
 窓から差し込む光が、石畳を照らしている。

 そのとき。
 角を曲がったところで、足が止まった。

 義兄様がいた。
 壁に寄りかかって、木剣を磨いている。
 また、この場所だ。

 偶然だとは思えなかった。
 昨日の「気をつけろ」の続き。
 見回りをしてくれているのかもしれない。

「あ、義兄様」

「……ああ」

 義兄様は、ちらりと私を見た。
 そして、すぐに目をそらした。

 なんだか、そわそわしている。
 木剣を磨く手が、妙に速い。

「その、肩」

 義兄様が、ぼそりと言った。

「は、はい?」

「痛むか」

 ぶっきらぼうな声。
 でも、心配してくれているのがわかる。

「だ、大丈夫です」

「そうか」

 義兄様は、懐に手を入れた。
 何かを取り出す。

 小さな瓶だった。
 蓋がついた、ガラスの小瓶。
 中には、乳白色の軟膏が入っている。

 義兄様が、無言でそれを投げた。
 私は、慌てて両手で受け取る。

 小瓶は、ほんのり温かかった。
 ずっと握りしめていたみたいに。

「バルバロスから奪った」

 義兄様が、ぶっきらぼうに言った。

「効くらしい」

 奪った。
 騎士団長から、奪ったのか。
 私のために。

「あ、ありがとう、ございます」

「礼はいい」

 義兄様は、また懐に手を入れた。
 今度は、布に包まれた何かを取り出す。

「あと、これ」

 投げてよこされたそれを、受け取る。
 布を開くと、焼き菓子が出てきた。

 昨日、私は昼食を残した。
 マルタさんのことで、喉を通らなかった。

 干し肉ではない。
 蜂蜜の香りがする、甘い菓子だ。
 おやつ。義兄様の、おやつだ。

「義兄様の、おやつ……」

「うるせえ」

 義兄様の耳が、赤くなっていた。

「跡に残ると、面倒だろ」

 面倒。
 何が面倒なのだろう。

「嫁に行けなくなるとか、そういうの」
「バルバロスが言ってた。知らねえけど」

 義兄様は、早口で付け加えた。
 視線が、あちこちに泳いでいる。

 胸の奥が、じんわりと温かい。
 軟膏と、焼き菓子。
 不器用な優しさが、両手に収まっている。

「あ、ありがとう、ございます」

「だから、礼はいいって言ってんだろ」

 義兄様は、そっぽを向いた。

「さっさと塗っとけ」
「チビ」

 そう言い残して、足早に去っていく。
 でも、その背中は、どこか嬉しそうだった。

 私は、小瓶を見つめた。
 温かい。
 義兄様の手のぬくもりが、まだ残っている。

 この人は、私の味方だ。
 それが、また少し確かになった。



 夕方。
 お父様の書斎。
 文字の授業、九日目。

 お父様は私を膝の上に乗せた。
 いつもの温もり。いつもの安心。
 でも、今日の授業は、少し違った。

「今日は四つ」

 お父様が本を開いた。
 指が、最初の文字をなぞる。

「罪」

 ざい。
 おかしたもの。犯した者。
 あの物語の私は、罪を着せられて死んだ。
 犯してもいない罪を。

「つ、つみ」

 私は小さく繰り返した。

「罰」

 ばつ。
 与えられるもの。受けるもの。
 罪には罰が伴う。
 たとえその罪が、嘘でも。

「ばつ」

「正」

 せい。ただしい。
 正しいとは何か。
 正しい者が、報われるとは限らない。

「ただしい」

「誤」

 ご。あやまり。
 間違い。まちがった判断。
 あの物語で、誰が間違っていたのか。

「あやまり」

 お父様が本を閉じた。
 私を見下ろす。灰色の瞳。

「正しい者が、勝つと思うか」

 その問いに、私は息を呑んだ。
 五歳児に聞く質問ではない。
 でも、お父様は真剣だった。

 私は、少し考えた。
 前世の記憶が、頭をよぎる。

 前世での理不尽。
 正しいことを言った人が、追い出された。
 嘘をついた人が、のし上がった。
 あの戦いで、正義は何の盾にもならなかった。

「いいえ」

 私は答えた。

「勝った者が、正しいのです」

 お父様の目が、わずかに見開かれた。
 すぐに、元に戻る。

 深く、頷いた。

「その通りだ」

 お父様の手が、私の頭を撫でた。
 大きな手。温かい手。

「だから、負けるな」

 その言葉に、私は頷いた。
 負けない。
 冤罪で処刑される運命なんかに、負けない。

 お父様は、何かを知っているのだろうか。
 来るべき嵐を、予感しているのだろうか。
 私に「負けるな」と言うのは、そのためなのか。

 わからない。
 でも、お父様の言葉は、私の中に染み込んでいく。

「復習しろ」

「は、はい」

 私は机に向かった。
 紙に文字を書く。
 罪。罰。正。誤。

 昨日、マルタさんに破られた紙を思い出した。
 でも、また書く。
 何度破られても、また書く。

 知識は、奪えない。
 頭の中にあるものは、燃やせない。
 そして、強さは、正しさに勝る。

「終わったか」

「は、はい」

 私は紙を差し出した。
 お父様は無言でそれを見た。

「いい」

 短い言葉。
 でも、それだけで十分だった。

「肩は、どうだ」

 お父様が聞いた。
 やはり、知っている。
 すべてを。

「軟膏を、もらいました」

 私は正直に答えた。

「義兄様から」

 お父様の眉が、かすかに動いた。
 何かを考えているような表情。
 でも、すぐに元に戻った。

「そうか」

 それだけ。
 でも、その声は、少しだけ柔らかかった。

「また明日」

「は、はい」
「ありがとう、ございました」

 私は書斎を出た。



 部屋に戻る廊下。
 窓の外は、もう暗い。

 懐の中の小瓶に触れた。
 まだ、温かい気がする。

 今日、たくさんのことがあった。
 マルタさんの冷たい指。
 義兄様の温かい小瓶。
 お父様の厳しい言葉。

 「正しい者が勝つとは限らない」
 「だから、負けるな」

 これは、綺麗事ではない授業だ。
 五歳児に教えることではない。
 でも、私には必要な言葉だった。

 冤罪で処刑される運命。
 あと十三日。
 その日まで、強くならなければいけない。

 部屋に入った。
 引き出しを開ける。
 革張りの本が、そこにある。

 まだ大丈夫。
 まだ見つかっていない。

 服を脱いで、肩を見た。
 赤い痕が、まだ残っている。
 マルタさんの爪の跡。

 小瓶を開けた。
 乳白色の軟膏を、指に取る。
 傷に塗り込んだ。

 ひんやりとして、でも温かい。
 不思議な感触だった。

 義兄様の顔を思い出した。
 真っ赤になりながら、「嫁に行けなくなる」と言っていた。
 本当に、不器用な人だ。

 でも、その不器用さが、嬉しかった。

 焼き菓子を、一口かじった。
 蜂蜜の甘さが、口の中に広がる。
 義兄様のおやつ。
 私に、分けてくれた。

 ベッドに潜り込んだ。
 毛布が温かい。

 今日学んだ文字が、瞼の裏に浮かぶ。
 罪。罰。正。誤。

 正しさでは、勝てない。
 でも、強さなら。

 私には、味方がいる。
 お父様がいる。義兄様がいる。
 執事さんがいる。バルバロスさんがいる。

 一人じゃない。
 だから、負けない。

 小瓶を枕元に置いた。
 義兄様のぬくもり。
 それを感じながら、私は目を閉じた。

 明日も、生き延びる。
 冤罪の日まで、あと十三日。

 そのとき、廊下の向こうで足音がした。
 マルタさんの足音ではない。
 もっと重い。もっと慎重な。

 心臓が、一瞬跳ねた。
 でも、足音は通り過ぎていく。
 私の部屋の前を、ゆっくりと。

 誰だろう。
 考えようとしたけれど、瞼が重い。
 疲れが、一気に押し寄せてきた。

 意識が、遠くなっていく。
 足音の正体は、明日考えよう。
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