【完結】パパ、私は犯人じゃないよ ~処刑予定の私、冷徹公爵(パパ)に溺愛されるまで~

チャビューヘ

文字の大きさ
19 / 34

夜中の騎士と愚者の仮面

しおりを挟む
 真夜中。
 また、足音が聞こえた。

 重く、慎重な足音。
 私の部屋の前を、ゆっくり通り過ぎていく。
 昨夜と同じだ。

 心臓が、小さく跳ねた。
 マルタさんではない。
 あの人の足音は、もっと軽い。

 じゃあ、誰だろう。

 毛布の中で、息を殺した。
 足音は止まらない。
 行ったり来たり。
 まるで、見回りをしているみたいに。

 怖い。
 でも、知りたい。
 知らないままでいるほうが、もっと怖い。

 私はそっとベッドから降りた。
 冷たい床が、素足に刺さる。
 心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
 扉まで、忍び足で近づく。

 隙間から、廊下を覗いた。

 月明かりが、石畳を照らしている。
 廊下の突き当たり。
 壁際に、人影があった。

 義兄様だ。

 木剣を抱えて、座り込んでいる。
 膝を抱え、背中を壁に預けている。
 その姿勢は、見張りのそれだった。

 不寝番。
 私のために、夜通し見張ってくれている。

 カクン。
 義兄様の頭が、揺れた。
 眠気に負けて、首が傾ぐ。

 ハッとして目を開ける。
 あたりを見回す。
 異常がないことを確認して、また瞼が落ちる。

 その繰り返し。
 必死に眠気と戦っている。

 胸の奥が、締め付けられた。

 十歳の少年が、真夜中に。
 冷たい石の廊下で、膝を抱えて。
 たった一人で、私を守ろうとしている。

 その姿は、頼もしい騎士というより。
 迷子の子犬みたいだった。
 でも、どんな騎士より心強い。

 声をかけたい。
 「もう寝て」と言いたい。

 でも、言えなかった。
 言ったら、義兄様は怒るだろう。
 「誰がお前のためなんか」と、照れ隠しで。

 だから、黙っている。
 この不器用な優しさを、静かに受け取る。

 義兄様。
 ありがとう。

 声に出さずに呟いて、私はそっと扉を閉じた。
 ベッドに戻る。
 毛布に包まれると、さっきより温かく感じた。

 味方がいる。
 夜通し見守ってくれる人がいる。
 その事実が、私を眠りに誘った。



 翌朝。
 いつもより早く、扉を叩く音がした。

「お嬢様、起きていらっしゃいますか」

 マルタさんの声だ。
 いつもより、少し甲高い。

「は、はい」

 扉が開く。
 マルタさんが入ってきた。

 笑顔だった。
 いつもの、甘い笑顔。
 でも、目だけが忙しなく動いている。

 部屋の隅々を、見回している。
 棚の上。机の下。窓際。
 何かを探しているみたいに。

「少しお掃除をいたしますわ」

 マルタさんは、ほうきを手に取った。
 朝食の前に、掃除。
 いつもと違う。

「散らかっていますもの」

 散らかってなんかいない。
 昨日も掃除したばかりだ。

 でも、マルタさんは止まらない。
 床を掃き、棚を拭き、引き出しを整理する。
 その手が、震えている。

 窓の外を、ちらりと見た。
 何かを待つ目だった。
 いや、違う。
 何かの到着を、恐れている目だ。

「間に合わせなくては」

 ぽつり、と呟いた。

「あの方がいらっしゃる前に」

 あの方。
 誰だろう。
 王家の、誰かだろうか。

「マルタさん、あの方って」

「なんでもありませんわ」

 遮るように、マルタさんは言った。
 笑顔は崩れていない。
 でも、声が硬い。

「お嬢様は、何もなさらなくて結構ですの」
「ただ、座っていてくださいまし」

 私は、ベッドの上で身を固くした。

「余計なことは、なにも」

 マルタさんの手が、ぴたりと止まった。
 窓の外を、じっと見る。
 その横顔は、怯えていた。

 何かが、近づいている。
 マルタさんを追い詰めている「何か」が。

 あの方。
 王家の紋章。
 「誰かに見られたら」

 点と点が、線になろうとしている。
 でも、まだ見えない。
 何が起きようとしているのか。

「お掃除、終わりましたわ」

 マルタさんは、箒を置いた。
 笑顔を貼り付けて、私を見る。

「朝食のお時間ですわ。参りましょう」

 その声は、平坦だった。
 感情が、すっぽり抜け落ちている。

 私は頷いて、マルタさんについて行った。
 背中を見つめながら、考える。

 この人は、何を恐れているのか。
 「あの方」とは、誰なのか。
 そして、なぜ私に「余計なことをするな」と言うのか。

 答えは、まだ見つからなかった。



 朝食の席で、義兄様を見た。
 目の下に、濃い隈ができている。
 眠そうに、スープをすすっている。

 昨夜の不寝番のせいだ。

 ふと、視線を感じた。
 お父様が、義兄様を見ていた。
 ほんの一瞬だけ。
 灰色の瞳が、何かを見定めるように。

 すぐに、お父様は視線を戻した。
 何も言わなかった。

 義兄様と目が合った。
 ほんの一瞬。
 すぐに視線をそらされた。

 何も言わなかった。
 私も、何も言わなかった。
 ただ、小さく頷いた。

 義兄様の耳が、かすかに赤くなった。
 それだけで、十分だった。



 昼過ぎ。
 またマルタさんが来た。

 今度は、窓枠を拭いている。
 すでにきれいな窓を、何度も何度も。
 その目は、私ではなく窓の外を見ていた。

 門の方向を。
 誰かが来るのを、待っているみたいに。

 マルタさんの動きが、止まった。
 私を、じっと見つめる。

「お嬢様」

「は、はい」

「最近、文字のお勉強をなさっていますわね」

 心臓が、跳ねた。
 知っているのだ。
 やはり、知っている。

「お父様から、教わっています」

 正直に答えた。
 嘘をついても、仕方がない。

「そう、ですの」

 マルタさんは、笑った。
 いつもの甘い笑顔。
 でも、目が笑っていない。

「賢いお嬢様ですこと」

 その言葉に、どこか皮肉が混じっていた。

「でも、お嬢様」

 マルタさんは、私の前に膝をついた。
 目線を合わせる。
 声は、相変わらず平坦だった。

「賢すぎる子は、長生きできませんわ」

 心臓が、凍りついた。
 長生きできない。
 それは、脅しなのか。
 それとも、警告なのか。

 言葉だけが、空洞に響く。
 でも、私の肩に置かれた手だけが震えていた。
 かすかに。でも確実に。

「わ、わかりました」

 私は、頷いた。
 頷くしか、なかった。

 マルタさんは立ち上がった。
 笑顔を貼り付けたまま、部屋を出ていく。

 扉が閉まった後、私は深く息を吐いた。

 賢すぎる子は、長生きできない。
 その言葉が、頭の中で繰り返される。

 マルタさんは、何を言いたかったのだろう。
 文字を学ぶな、ということか。
 それとも、賢いふりをするな、ということか。

 わからない。
 でも、一つだけわかることがある。

 マルタさんは、追い詰められている。
 「あの方」という存在に。
 その恐怖が、彼女を蝕んでいる。



 夕方。
 お父様の書斎。
 文字の授業、十日目。

 お父様は私を膝の上に乗せた。
 いつもの重み。いつもの安心。

「今日は四つ」

 お父様が本を開いた。
 指が、最初の文字をなぞる。

「賢」

 かしこい。
 頭がよいこと。知恵があること。
 マルタさんの言葉が、頭をよぎった。

「かしこい」

 私は小さく繰り返した。

「愚」

 おろか。
 馬鹿なこと。考えが足りないこと。
 賢の反対。

「おろか」

「演」

 えん。えんじる。
 芝居をすること。本当ではないことを装うこと。

「えんじる」

「劇」

 げき。
 芝居のこと。演じられる物語のこと。

「げき」

 お父様が本を閉じた。
 私を見下ろす。
 灰色の瞳が、静かに光っている。

「賢い者は、どう振る舞うと思う」

 その問いに、私は息を呑んだ。
 今日も、五歳児には重すぎる質問だ。
 でも、お父様は真剣だった。

 私は、少し考えた。
 前世の記憶が、頭をよぎる。

 本当に賢い人は、賢さをひけらかさない。
 能力を隠す。牙を見せない。
 そして、必要な時だけ力を発揮する。

「愚か者のふりを、します」

 私は答えた。

「牙を隠した、狼のように」

 お父様の目が、わずかに見開かれた。
 一瞬だけ。
 すぐに、元に戻る。

 深く、頷いた。

「その通りだ」

 お父様の手が、私の頭を撫でた。
 大きな手。温かい手。

「来たるべき時まで」

 お父様は、静かに言った。

「演じきれ」

 その言葉に、私は頷いた。
 演じきる。
 愚かな五歳児を。
 何も知らない、無邪気な子供を。

 お父様は、何かを知っているのだろう。
 来るべき嵐を、予感しているのだろう。
 「あの方」のことも、きっと。

「復習しろ」

「は、はい」

 私は机に向かった。
 紙に文字を書く。
 賢。愚。演。劇。

 四つの文字が、並んでいる。
 賢い愚か者を演じる劇。
 それが、私に課せられた役目だ。

「終わったか」

「は、はい」

 私は紙を差し出した。
 お父様は無言でそれを見た。

「いい」

 短い言葉。
 でも、その目には、何か別のものがあった。
 期待。あるいは、信頼。

「また明日」

「は、はい」
「ありがとう、ございました」

 私は書斎を出た。



 部屋に戻る廊下。
 窓の外は、もう暗い。

 今日学んだ文字が、頭の中で回っている。
 賢。愚。演。劇。

 お父様は言った。
 「来たるべき時まで、演じきれ」と。

 来たるべき時。
 それはいつだろう。
 「あの方」が来る時だろうか。
 それとも、冤罪事件の時だろうか。

 わからない。
 でも、一つだけわかることがある。

 私は今、舞台の上にいる。
 愚かな五歳児という役を演じている。
 観客は、マルタさん。
 そして、その背後にいる「あの方」。

 役を降りることは、許されない。
 降りた瞬間、私は殺される。

 部屋に入った。
 引き出しに手をかけて、止まった。

 確認したい。
 革張りの本が、まだそこにあるか。

 でも、毎晩確認するのは危険だ。
 開け閉めの癖がつけば、いつか見つかる。
 今日は、やめておこう。

 ベッドに潜り込んだ。
 毛布が温かい。

 枕元の軟膏に触れた。
 義兄様の、ぬくもり。

 味方がいる。
 夜通し見守ってくれる義兄様がいる。
 文字を教えてくれるお父様がいる。
 執事さんがいる。バルバロスさんがいる。

 一人じゃない。
 だから、演じきれる。

 冤罪の日まで、あと十一日。
 でも、その前に。
 「あの方」が来る。

 目を閉じた。
 遠くで、また足音が聞こえた。
 義兄様の、不寝番。

 その足音に合わせるように、心臓が鳴る。
 とくん、とくん。
 生きている証。

 明日も、演じ続けよう。
 愚かな五歳児を。
 来たるべき時まで。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

腹違いの妹にすべてを奪われた薄幸の令嬢が、義理の母に殴られた瞬間、前世のインテリヤクザなおっさんがぶちギレた場合。

灯乃
ファンタジー
十二歳のときに母が病で亡くなった途端、父は後妻と一歳年下の妹を新たな『家族』として迎え入れた。 彼らの築く『家族』の輪から弾き出されたアニエスは、ある日義母の私室に呼び出され――。 タイトル通りのおっさんコメディーです。

幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。

灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。 曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。 婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。 前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。

できない子に転生しましたが、家族と食卓があれば十分です ―人間不信だった私が、ゆっくり育つ異世界生活―

愛朱ひいろ
ファンタジー
人の顔色ばかり伺い、心を壊した26歳の会社員女性。 彼女は死後、異世界で「できない子」として転生する。 魔法は使えない。 体は不器用で、成長も人より遅い。 前世の記憶のせいで、人と関わることが少し怖い。 けれどこの世界には、 見守り支えてくれる両親と、 あたたかい食卓があった。 泣いて、つまずいて、できないことに落ち込みながら、 彼女は少しずつ「できないままでも、生きていていい」と知っていく。 これは、 最強でもチートでもない主人公が、 家族と食事に支えられながら、ゆっくり育ち直す 生活密着型・異世界転生×成長×グルメファンタジー。 ……の、予定です。 毎日更新できるように執筆がんばります!

なぜ、私に関係あるのかしら?

シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」 彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。 そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。 「…レオンハルト・トレヴァントだ」 非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。 そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。 「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」 この判断によって、どうなるかなども考えずに… ※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。 ※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、 ※ 画像はAIにて作成しております

無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……

タマ マコト
ファンタジー
王宮の祝賀会で、無魔力と蔑まれてきた伯爵令嬢エリーナは、王太子アレクシオンから突然「婚約破棄」を宣告される。侍女上がりの聖女セレスが“新たな妃”として選ばれ、貴族たちの嘲笑がエリーナを包む。絶望に胸が沈んだ瞬間、彼女の奥底で眠っていた“竜との契約”が目を覚まし、空から白銀竜アークヴァンが降臨。彼はエリーナの涙に激怒し、王宮を半壊させるほどの力で彼女を守る。王国は震え、エリーナは自分が竜の真の主であるという運命に巻き込まれていく。

侯爵家の愛されない娘でしたが、前世の記憶を思い出したらお父様がバリ好みのイケメン過ぎて毎日が楽しくなりました

下菊みこと
ファンタジー
前世の記憶を思い出したらなにもかも上手くいったお話。 ご都合主義のSS。 お父様、キャラチェンジが激しくないですか。 小説家になろう様でも投稿しています。 突然ですが長編化します!ごめんなさい!ぜひ見てください!

不倫されて離婚した社畜OLが幼女転生して聖女になりましたが、王国が揉めてて大事にしてもらえないので好きに生きます

天田れおぽん
ファンタジー
 ブラック企業に勤める社畜OL沙羅(サラ)は、結婚したものの不倫されて離婚した。スッキリした気分で明るい未来に期待を馳せるも、公園から飛び出てきた子どもを助けたことで、弱っていた心臓が止まってしまい死亡。同情した女神が、黒髪黒目中肉中背バツイチの沙羅を、銀髪碧眼3歳児の聖女として異世界へと転生させてくれた。  ところが王国内で聖女の処遇で揉めていて、転生先は草原だった。  サラは女神がくれた山盛りてんこ盛りのスキルを使い、異世界で知り合ったモフモフたちと暮らし始める―――― ※第16話 あつまれ聖獣の森 6 が抜けていましたので2025/07/30に追加しました。

王国最強の天才魔導士は、追放された悪役令嬢の息子でした

由香
ファンタジー
追放された悪役令嬢が選んだのは復讐ではなく、母として息子を守ること。 無自覚天才に育った息子は、魔法を遊び感覚で扱い、王国を震撼させてしまう。 再び招かれたのは、かつて母を追放した国。 礼儀正しく圧倒する息子と、静かに完全勝利する母。 これは、親子が選ぶ“最も美しいざまぁ”。

処理中です...