17 / 34
仮面の下の息遣い
しおりを挟む
昼下がりの部屋。
窓から差し込む光が、机の上を照らしていた。
私は紙に文字を書いていた。
昨日習った「国」「民」「法」「鎖」。
何度も何度も。指が覚えるまで。
前世でも、こうして文字を覚えた。
繰り返し繰り返し、手が覚えるまで。
懐かしい感覚だ。
この五歳の小さな手は、まだ不器用だ。
筆圧が安定しない。
線がふらつく。
でも、昨日よりは上手くなっている。
「鎖」の字を書き終えたとき。
背後で、扉が開いた。
振り返る暇もなかった。
「あら、お嬢様」
マルタさんの声。
甘い響き。いつもの調子。
私は慌てて紙を裏返した。
でも、遅かった。
マルタさんの足音が、近づいてくる。
ゆっくりと。確実に。
「何をなさっていますの?」
私の肩越しに、机を覗き込む。
冷たい指が、裏返した紙に伸びた。
「い、いえ、なんでも」
私の声は震えていた。
演技ではない。本当に怖かった。
マルタさんが、紙をめくった。
私の文字が、露わになる。
下手くそな、でも確かに読める文字。
マルタさんの顔色が変わった。
血の気が引いていく。
唇が、かすかに震えている。
怒り。
そう思った。
私が文字を学んでいることへの怒り。
でも、その目は違った。
怒りというより、何か別のもの。
恐怖に、似ていた。
「いけませんわ、お嬢様」
声が震えている。
「こんなもの、書いては」
マルタさんが紙を掴んだ。
ビリ、と音がした。
「誰かに見られたらどうするんですの!」
その言葉に、私は固まった。
誰かに見られたら。
誰に。何を。
マルタさんの指が、紙を引き裂く。
ビリビリと、容赦なく。
私の練習が、紙片に変わっていく。
暖炉に、紙片が投げ込まれた。
炎が、私の文字を舐めとっていく。
黒い灰になって、消えていく。
マルタさんが、振り返った。
その目は血走っていた。
笑顔は、どこにもなかった。
「二度と書いてはいけません」
マルタさんの指が、私の肩を掴んだ。
冷たい。痛いほど冷たい。
爪が、肩に食い込む。
「いいですわね、お嬢様!」
彼女の目は、私を見ていなかった。
どこか遠くを見ていた。
怯えた獣のような目だ。
私は頷くことしかできなかった。
そのとき。
扉が、勢いよく開いた。
ノックもなしに。
「何をしている」
低い声。
義兄様だった。
金色の瞳が、私たちを捉えていた。
眉間に深い皺。険しい表情。
普段の無関心とは、まるで違う。
義兄様が、部屋に入ってきた。
長い足で、距離を詰める。
マルタさんと私の間に、割って入った。
「その手、どけろ」
短い言葉。
静かだが、有無を言わせない響き。
マルタさんの指が、ゆるんだ。
私の肩から、離れていく。
「ぼ、坊ちゃま」
マルタさんの声が、上ずっていた。
すぐに、いつもの笑顔を取り繕う。
でも、口元が引きつっている。
「お嬢様のお世話をしていただけですわ」
「少し、躾が必要でしたの」
義兄様は、答えなかった。
ただ、冷たい目でマルタさんを見下ろした。
沈黙が、部屋を満たした。
暖炉の炎が、パチリと音を立てた。
マルタさんの笑顔が、崩れていく。
余裕がなくなっていく。
手が、小刻みに震えている。
「失礼いたしますわ」
マルタさんが、頭を下げた。
逃げるように、部屋を出ていく。
扉が閉まる音。遠ざかる足音。
私は、義兄様の背中を見つめていた。
広い背中。
私と、あの人との壁になってくれた背中。
「大丈夫か」
義兄様が、振り返らずに言った。
「は、はい」
声が震えた。
肩が、まだ痛い。
でも、それ以上に、胸が苦しかった。
義兄様が、ようやく振り返った。
金色の瞳が、私を見下ろす。
眉根が寄っている。心配そうな顔だ。
「肩、見せろ」
「え」
「怪我してないか」
義兄様の声は、ぶっきらぼうだった。
でも、その言葉には温度があった。
私は服の襟をずらした。
肩には、赤い痕が残っていた。
マルタさんの爪の跡だ。
義兄様の眉間の皺が、深くなった。
「あの女」
低い声で、呟いた。
怒りを堪えているような声だった。
「い、いいの」
「大丈夫、です」
私は慌てて言った。
これ以上、事を大きくしたくなかった。
義兄様は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「チビ」
「は、はい」
「俺の前で、無理するな」
その言葉に、私は息を呑んだ。
無理するな。
義兄様が、そんなことを言うなんて。
「あ、ありがとう、ございます」
義兄様の耳が、わずかに赤くなった。
すぐに顔をそむけた。
「礼なんか言うな」
「気持ち悪い」
ぶっきらぼうに言って、部屋を出ていく。
でも、その足取りは軽かった。
以前のような、重苦しさがなかった。
私は、閉じた扉を見つめた。
義兄様は、なぜここに来たのだろう。
用があったのか。
それとも、私の部屋を見回っていたのか。
「気をつけろ」と言った、あの言葉の続きとして。
義兄様は、私を守ってくれた。
あの「妹なんて認めない」と言っていた人が。
私の味方になってくれている。
肩の痛みが、少し和らいだ気がした。
夕方。
お父様の書斎。
文字の授業、八日目。
お父様は私を膝の上に乗せた。
温かい腕の中。
今日は、いつもより安心した。
「今日は四つ」
お父様が本を開いた。
「時」
お父様の指が、文字をなぞった。
「とき」
私は繰り返した。
時。流れるもの。戻らないもの。
あの物語の私は、時間切れで死んだ。
もう、同じ轍は踏まない。
「待」
「まつ」
待つ。耐えること。時を味方につけること。
焦ってはいけない。
お父様も、昨日そう言った。
「仮面」
お父様の指が、二つの文字を示した。
「かめん」
私は静かに繰り返した。
仮面。被るもの。素顔を隠すもの。
マルタさんの顔を思い出した。
いつもの笑顔。今日の恐怖。
どちらが、本当の顔なのか。
「裏」
「うら」
裏。表の反対。見えない側。
この屋敷には、裏がある。
マルタさんの裏。王家の裏。
そして多分、お父様の裏も。
お父様が、しばらく黙っていた。
私を見下ろして。
「今日、何かあったか」
短い言葉。
でも、すべてを見透かすような響き。
私は迷った。
言うべきか、言わないべきか。
マルタさんのこと。義兄様のこと。
「仮面、って」
私は小さく言った。
「息が、苦しくないですか」
お父様の目が、わずかに見開かれた。
すぐに元に戻った。
「苦しい」
お父様が、短く答えた。
「だが、必要だ」
必要。
生き延びるために、仮面は必要。
私も、そうだ。
毎日、笑顔の仮面を被っている。
「穴を開けておけ」
お父様が言った。
「息ができる程度に」
穴。
仮面に穴を開ける。
息ができるように。
完璧に演じなくていい。
少しだけ、本当の顔を見せていい。
「でも」
「外す時は、選べ」
お父様の手が、私の頭を撫でた。
大きな手。温かい手。
「いつか、外す日が来る」
その言葉を、私は静かに受け止めた。
いつか。
見えない鎖を断ち切る日。
仮面を外せる日。
その日まで、耐える。
でも、完全に息を止める必要はない。
「復習しろ」
お父様が言った。
「は、はい」
私は机に向かった。
紙に文字を書く。
時。待。仮面。裏。
マルタさんに破られた紙のことを思い出した。
でも、また書けばいい。
何度破られても、また書けばいい。
知識は、奪えない。
頭の中にあるものは、燃やせない。
「終わったか」
「は、はい」
私は紙を差し出した。
お父様は無言でそれを見た。
「いい」
短い言葉。いつもの褒め言葉。
お父様が私を見下ろした。
「肩」
一言。
私は、びくりとした。
お父様は、知っている。
マルタさんに掴まれたこと。
義兄様が助けてくれたこと。
全部、知っている。
「い、いたくない、です」
私は首を振った。
嘘ではない。もう痛くない。
お父様は、しばらく私を見つめていた。
灰色の瞳。深い、深い色。
「そうか」
それだけ言って、お父様は本を閉じた。
「また明日」
「は、はい」
「ありがとう、ございました」
私は書斎を出た。
部屋に戻る廊下。
窓の外を見た。
夕日が、空を染めている。
今日、たくさんのことがあった。
マルタさんの恐怖。
義兄様の庇護。
お父様の仮面の話。
マルタさんは、なぜあんなに怯えていたのか。
私が文字を学んでいることが、そんなに怖いのか。
「誰かに見られたら」と言った。
誰に、見られたくないのか。
王家だろうか。
報告書に、何か書けなくなるのだろうか。
「お嬢様は文字も読めない愚か者です」と。
わからない。
マルタさんの裏が、見えない。
でも、一つだけわかったことがある。
マルタさんは、ただの悪意ではない。
あの恐怖は、本物だった。
何かに怯えている。
誰かを恐れている。
部屋に戻った。
引き出しを開ける。
革張りの本が、そこにある。
まだ大丈夫。
まだ見つかっていない。
マルタさんは、ここまでは知らない。
多分。
ベッドに潜り込んだ。
毛布が温かい。
今日学んだ文字が、瞼の裏に浮かぶ。
時。待。仮面。裏。
仮面に、穴を開けておけ。
お父様はそう言った。
私の仮面は、もうボロボロかもしれない。
義兄様には、穴だらけだ。
お父様には、最初から見透かされている。
でも、マルタさんの前では。
王家の手先の前では。
まだ、被り続けなければならない。
私は目を閉じた。
明日も、仮面を被る。
でも、息はできる。
穴が、開いているから。
義兄様の背中を思い出した。
「俺の前で、無理するな」
その言葉が、胸の中で温かく灯っていた。
一人じゃない。
仮面を外せる場所が、少しずつ増えている。
私は静かに眠りについた。
仮面の裏で、小さく息をしながら。
窓から差し込む光が、机の上を照らしていた。
私は紙に文字を書いていた。
昨日習った「国」「民」「法」「鎖」。
何度も何度も。指が覚えるまで。
前世でも、こうして文字を覚えた。
繰り返し繰り返し、手が覚えるまで。
懐かしい感覚だ。
この五歳の小さな手は、まだ不器用だ。
筆圧が安定しない。
線がふらつく。
でも、昨日よりは上手くなっている。
「鎖」の字を書き終えたとき。
背後で、扉が開いた。
振り返る暇もなかった。
「あら、お嬢様」
マルタさんの声。
甘い響き。いつもの調子。
私は慌てて紙を裏返した。
でも、遅かった。
マルタさんの足音が、近づいてくる。
ゆっくりと。確実に。
「何をなさっていますの?」
私の肩越しに、机を覗き込む。
冷たい指が、裏返した紙に伸びた。
「い、いえ、なんでも」
私の声は震えていた。
演技ではない。本当に怖かった。
マルタさんが、紙をめくった。
私の文字が、露わになる。
下手くそな、でも確かに読める文字。
マルタさんの顔色が変わった。
血の気が引いていく。
唇が、かすかに震えている。
怒り。
そう思った。
私が文字を学んでいることへの怒り。
でも、その目は違った。
怒りというより、何か別のもの。
恐怖に、似ていた。
「いけませんわ、お嬢様」
声が震えている。
「こんなもの、書いては」
マルタさんが紙を掴んだ。
ビリ、と音がした。
「誰かに見られたらどうするんですの!」
その言葉に、私は固まった。
誰かに見られたら。
誰に。何を。
マルタさんの指が、紙を引き裂く。
ビリビリと、容赦なく。
私の練習が、紙片に変わっていく。
暖炉に、紙片が投げ込まれた。
炎が、私の文字を舐めとっていく。
黒い灰になって、消えていく。
マルタさんが、振り返った。
その目は血走っていた。
笑顔は、どこにもなかった。
「二度と書いてはいけません」
マルタさんの指が、私の肩を掴んだ。
冷たい。痛いほど冷たい。
爪が、肩に食い込む。
「いいですわね、お嬢様!」
彼女の目は、私を見ていなかった。
どこか遠くを見ていた。
怯えた獣のような目だ。
私は頷くことしかできなかった。
そのとき。
扉が、勢いよく開いた。
ノックもなしに。
「何をしている」
低い声。
義兄様だった。
金色の瞳が、私たちを捉えていた。
眉間に深い皺。険しい表情。
普段の無関心とは、まるで違う。
義兄様が、部屋に入ってきた。
長い足で、距離を詰める。
マルタさんと私の間に、割って入った。
「その手、どけろ」
短い言葉。
静かだが、有無を言わせない響き。
マルタさんの指が、ゆるんだ。
私の肩から、離れていく。
「ぼ、坊ちゃま」
マルタさんの声が、上ずっていた。
すぐに、いつもの笑顔を取り繕う。
でも、口元が引きつっている。
「お嬢様のお世話をしていただけですわ」
「少し、躾が必要でしたの」
義兄様は、答えなかった。
ただ、冷たい目でマルタさんを見下ろした。
沈黙が、部屋を満たした。
暖炉の炎が、パチリと音を立てた。
マルタさんの笑顔が、崩れていく。
余裕がなくなっていく。
手が、小刻みに震えている。
「失礼いたしますわ」
マルタさんが、頭を下げた。
逃げるように、部屋を出ていく。
扉が閉まる音。遠ざかる足音。
私は、義兄様の背中を見つめていた。
広い背中。
私と、あの人との壁になってくれた背中。
「大丈夫か」
義兄様が、振り返らずに言った。
「は、はい」
声が震えた。
肩が、まだ痛い。
でも、それ以上に、胸が苦しかった。
義兄様が、ようやく振り返った。
金色の瞳が、私を見下ろす。
眉根が寄っている。心配そうな顔だ。
「肩、見せろ」
「え」
「怪我してないか」
義兄様の声は、ぶっきらぼうだった。
でも、その言葉には温度があった。
私は服の襟をずらした。
肩には、赤い痕が残っていた。
マルタさんの爪の跡だ。
義兄様の眉間の皺が、深くなった。
「あの女」
低い声で、呟いた。
怒りを堪えているような声だった。
「い、いいの」
「大丈夫、です」
私は慌てて言った。
これ以上、事を大きくしたくなかった。
義兄様は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「チビ」
「は、はい」
「俺の前で、無理するな」
その言葉に、私は息を呑んだ。
無理するな。
義兄様が、そんなことを言うなんて。
「あ、ありがとう、ございます」
義兄様の耳が、わずかに赤くなった。
すぐに顔をそむけた。
「礼なんか言うな」
「気持ち悪い」
ぶっきらぼうに言って、部屋を出ていく。
でも、その足取りは軽かった。
以前のような、重苦しさがなかった。
私は、閉じた扉を見つめた。
義兄様は、なぜここに来たのだろう。
用があったのか。
それとも、私の部屋を見回っていたのか。
「気をつけろ」と言った、あの言葉の続きとして。
義兄様は、私を守ってくれた。
あの「妹なんて認めない」と言っていた人が。
私の味方になってくれている。
肩の痛みが、少し和らいだ気がした。
夕方。
お父様の書斎。
文字の授業、八日目。
お父様は私を膝の上に乗せた。
温かい腕の中。
今日は、いつもより安心した。
「今日は四つ」
お父様が本を開いた。
「時」
お父様の指が、文字をなぞった。
「とき」
私は繰り返した。
時。流れるもの。戻らないもの。
あの物語の私は、時間切れで死んだ。
もう、同じ轍は踏まない。
「待」
「まつ」
待つ。耐えること。時を味方につけること。
焦ってはいけない。
お父様も、昨日そう言った。
「仮面」
お父様の指が、二つの文字を示した。
「かめん」
私は静かに繰り返した。
仮面。被るもの。素顔を隠すもの。
マルタさんの顔を思い出した。
いつもの笑顔。今日の恐怖。
どちらが、本当の顔なのか。
「裏」
「うら」
裏。表の反対。見えない側。
この屋敷には、裏がある。
マルタさんの裏。王家の裏。
そして多分、お父様の裏も。
お父様が、しばらく黙っていた。
私を見下ろして。
「今日、何かあったか」
短い言葉。
でも、すべてを見透かすような響き。
私は迷った。
言うべきか、言わないべきか。
マルタさんのこと。義兄様のこと。
「仮面、って」
私は小さく言った。
「息が、苦しくないですか」
お父様の目が、わずかに見開かれた。
すぐに元に戻った。
「苦しい」
お父様が、短く答えた。
「だが、必要だ」
必要。
生き延びるために、仮面は必要。
私も、そうだ。
毎日、笑顔の仮面を被っている。
「穴を開けておけ」
お父様が言った。
「息ができる程度に」
穴。
仮面に穴を開ける。
息ができるように。
完璧に演じなくていい。
少しだけ、本当の顔を見せていい。
「でも」
「外す時は、選べ」
お父様の手が、私の頭を撫でた。
大きな手。温かい手。
「いつか、外す日が来る」
その言葉を、私は静かに受け止めた。
いつか。
見えない鎖を断ち切る日。
仮面を外せる日。
その日まで、耐える。
でも、完全に息を止める必要はない。
「復習しろ」
お父様が言った。
「は、はい」
私は机に向かった。
紙に文字を書く。
時。待。仮面。裏。
マルタさんに破られた紙のことを思い出した。
でも、また書けばいい。
何度破られても、また書けばいい。
知識は、奪えない。
頭の中にあるものは、燃やせない。
「終わったか」
「は、はい」
私は紙を差し出した。
お父様は無言でそれを見た。
「いい」
短い言葉。いつもの褒め言葉。
お父様が私を見下ろした。
「肩」
一言。
私は、びくりとした。
お父様は、知っている。
マルタさんに掴まれたこと。
義兄様が助けてくれたこと。
全部、知っている。
「い、いたくない、です」
私は首を振った。
嘘ではない。もう痛くない。
お父様は、しばらく私を見つめていた。
灰色の瞳。深い、深い色。
「そうか」
それだけ言って、お父様は本を閉じた。
「また明日」
「は、はい」
「ありがとう、ございました」
私は書斎を出た。
部屋に戻る廊下。
窓の外を見た。
夕日が、空を染めている。
今日、たくさんのことがあった。
マルタさんの恐怖。
義兄様の庇護。
お父様の仮面の話。
マルタさんは、なぜあんなに怯えていたのか。
私が文字を学んでいることが、そんなに怖いのか。
「誰かに見られたら」と言った。
誰に、見られたくないのか。
王家だろうか。
報告書に、何か書けなくなるのだろうか。
「お嬢様は文字も読めない愚か者です」と。
わからない。
マルタさんの裏が、見えない。
でも、一つだけわかったことがある。
マルタさんは、ただの悪意ではない。
あの恐怖は、本物だった。
何かに怯えている。
誰かを恐れている。
部屋に戻った。
引き出しを開ける。
革張りの本が、そこにある。
まだ大丈夫。
まだ見つかっていない。
マルタさんは、ここまでは知らない。
多分。
ベッドに潜り込んだ。
毛布が温かい。
今日学んだ文字が、瞼の裏に浮かぶ。
時。待。仮面。裏。
仮面に、穴を開けておけ。
お父様はそう言った。
私の仮面は、もうボロボロかもしれない。
義兄様には、穴だらけだ。
お父様には、最初から見透かされている。
でも、マルタさんの前では。
王家の手先の前では。
まだ、被り続けなければならない。
私は目を閉じた。
明日も、仮面を被る。
でも、息はできる。
穴が、開いているから。
義兄様の背中を思い出した。
「俺の前で、無理するな」
その言葉が、胸の中で温かく灯っていた。
一人じゃない。
仮面を外せる場所が、少しずつ増えている。
私は静かに眠りについた。
仮面の裏で、小さく息をしながら。
278
あなたにおすすめの小説
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
至って普通のネグレクト系脇役お姫様に転生したようなので物語の主人公である姉姫さまから主役の座を奪い取りにいきます
下菊みこと
恋愛
至って普通の女子高生でありながら事故に巻き込まれ(というか自分から首を突っ込み)転生した天宮めぐ。転生した先はよく知った大好きな恋愛小説の世界。でも主人公ではなくほぼ登場しない脇役姫に転生してしまった。姉姫は優しくて朗らかで誰からも愛されて、両親である国王、王妃に愛され貴公子達からもモテモテ。一方自分は妾の子で陰鬱で誰からも愛されておらず王位継承権もあってないに等しいお姫様になる予定。こんな待遇満足できるか!羨ましさこそあれど恨みはない姉姫さまを守りつつ、目指せ隣国の王太子ルート!小説家になろう様でも「主人公気質なわけでもなく恋愛フラグもなければ死亡フラグに満ち溢れているわけでもない至って普通のネグレクト系脇役お姫様に転生したようなので物語の主人公である姉姫さまから主役の座を奪い取りにいきます」というタイトルで掲載しています。
『悪役令嬢は、二度目の人生で無言を貫く。~処刑回避のために黙っていただけなのに、なぜか冷徹宰相様から「君こそ運命の人だ」と溺愛さています~』
放浪人
恋愛
「もう、余計なことは喋りません(処刑されたくないので!)」
王太子の婚約者エリスは、無実の罪を着せられた際、必死に弁解しようと叫び散らした結果「見苦しい」と断罪され、処刑されてしまった。 死に戻った彼女は悟る。「口は災いの元。二度目の人生は、何があっても口を閉ざして生き延びよう」と。
しかし、断罪の場で恐怖のあまり沈黙を貫いた結果、その姿は「弁解せず耐え忍ぶ高潔な令嬢」として称賛されてしまう。 さらに、人間嫌いの冷徹宰相クラウスに「私の静寂を理解する唯一の女性」と盛大な勘違いをされ、求婚されてしまい……!?
「君の沈黙は、愛の肯定だね?」(違います、怖くて固まっているだけです!) 「この国の危機を、一目で見抜くとは」(ただ臭かったから鼻を押さえただけです!)
怯えて黙っているだけの元悪役令嬢と、彼女の沈黙を「深遠な知性」と解釈して溺愛する最強宰相。 転生ヒロインの妨害も、隣国の陰謀も、全て「無言」で解決(?)していく、すれ違いロマンティック・コメディ! 最後はちゃんと言葉で愛を伝えて、最高のハッピーエンドを迎えます。
『婚約なんて予定にないんですが!? 転生モブの私に公爵様が迫ってくる』
ヤオサカ
恋愛
この物語は完結しました。
現代で過労死した原田あかりは、愛読していた恋愛小説の世界に転生し、主人公の美しい姉を引き立てる“妹モブ”ティナ・ミルフォードとして生まれ変わる。今度こそ静かに暮らそうと決めた彼女だったが、絵の才能が公爵家嫡男ジークハルトの目に留まり、婚約を申し込まれてしまう。のんびり人生を望むティナと、穏やかに心を寄せるジーク――絵と愛が織りなす、やがて幸せな結婚へとつながる転生ラブストーリー。
侯爵家の愛されない娘でしたが、前世の記憶を思い出したらお父様がバリ好みのイケメン過ぎて毎日が楽しくなりました
下菊みこと
ファンタジー
前世の記憶を思い出したらなにもかも上手くいったお話。
ご都合主義のSS。
お父様、キャラチェンジが激しくないですか。
小説家になろう様でも投稿しています。
突然ですが長編化します!ごめんなさい!ぜひ見てください!
【完結】優しいあなたに、さようなら。二人目の婚約者は、私を殺そうとしている冷血公爵様でした
ゆきのひ
恋愛
伯爵令嬢であるディアの婚約者は、整った容姿と優しい性格で評判だった。だが、いつからか彼は、婚約者であるディアを差し置き、最近知り合った男爵令嬢を優先するようになっていく。
彼と男爵令嬢の一線を越えた振る舞いに耐え切れなくなったディアは、婚約破棄を申し出る。
そして婚約破棄が成った後、新たな婚約者として紹介されたのは、魔物を残酷に狩ることで知られる冷血公爵。その名に恐れをなして何人もの令嬢が婚約を断ったと聞いたディアだが、ある理由からその婚約を承諾する。
しかし、公爵にもディアにも秘密があった。
その秘密のせいで、ディアは命の危機を感じることになったのだ……。
※本作は「小説家になろう」さん、カクヨムさんにも投稿しています
※表紙画像はAIで作成したものです
私の存在
戒月冷音
恋愛
私は、一生懸命生きてきた。
何故か相手にされない親は、放置し姉に顎で使われてきた。
しかし15の時、小学生の事故現場に遭遇した結果、私の生が終わった。
しかし、別の世界で目覚め、前世の知識を元に私は生まれ変わる…
『姉に全部奪われた私、今度は自分の幸せを選びます ~姉の栄光を支える嘘を、私は一枚ずつ剥がす~』
六角
恋愛
復讐はしない。——ただ「嘘」を回収する。 礼儀と帳簿で宮廷の偽りを詰ませる“監査官令嬢”の華麗なる逆転劇。
王家献上宝飾の紛失事件で濡れ衣を着せられ、家族にも婚約者にも捨てられて追放された子爵家次女リリア。 数年後、彼女は王妃直属の「臨時監査官」として、再び宮廷の土を踏む。
そこで待っていたのは、「慈愛の聖女」として崇められる姉セシリアと、彼女に心酔する愚かな貴族たち。しかし、姉の栄光の裏には、横領、洗脳、そして国を揺るがす「偽造魔石」の陰謀が隠されていた。
「復讐? いいえ、これは正当な監査です」
リリアは感情に流されず、帳簿と証拠、そして真実を映す「プリズム」を武器に、姉が築き上げた嘘の城を一枚ずつ剥がしていく。 孤立無援の彼女を支えるのは、氷のように冷徹な宰相補佐レオンハルトと、豪快な近衛騎士団長カミュ。 やがてリリアは、国中を巻き込んだ姉の洗脳計画を打ち砕き、自分自身の幸せと、不器用な宰相補佐からの溺愛を手に入れる——。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる