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白き影は音もなく
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雪が、すべての音を呑み込んでいた。
窓の外を見る。
昨夜から降り続いた雪が、中庭を白く塗り潰している。
足跡ひとつない、完璧な白。
まるで、世界から私たち以外の存在が消えてしまったかのように。
私は「待」の文字が書かれた紙を、そっと箱にしまった。
お父様からの指示。
焦るな。動くな。今は、ただ待て。
けれど。
待つというのは、こんなにも難しいものだったのか。
朝食を終えて、廊下に出た時だった。
視界の端に、何かが動いた。
振り向く。
柱の影に、誰かがいる。
マルタさんだった。
壁に背をつけて、こちらを見ている。
いや、見ているというより、睨んでいる。
あるいは、縋っている。
その目には、何の感情も読み取れない。
空っぽの器のような目。
「マルタ、さん?」
声をかけると、彼女の肩がびくりと震えた。
でも、返事はない。
ただ、唇が何かを形作ろうとして、失敗する。
私は一歩、彼女に近づいた。
瞬間、マルタさんが後ずさった。
壁に背中がぶつかる。
それでもまだ、逃げようとする。
まるで、私が何か恐ろしいものであるかのように。
「喉が」
マルタさんの声は、枯れ枝を折るような音だった。
「喉が、焼けるようなのです。指先が、痺れて」
彼女の手が、自分の喉を掴んだ。
爪が、白い肌に食い込む。
「何を、入れたのですか」
その声には、もう敬語の体裁すら保てていない。
ただの、恐怖に支配された獣の声。
飴には、何も入っていなかった。
彼女の身体には、何の毒も回っていない。
それは、私が一番よく知っている。
けれど。
マルタさんの目は、確かに「毒」を見ている。
存在しないはずの毒を。
彼女自身の恐怖が作り出した、幻の毒を。
「な、何も……入れてないよ」
私は、できるだけ優しい声で言った。
無邪気な子供の声で。
「飴は……ただの、飴だよ」
マルタさんの目が、大きく見開かれた。
「嘘、です」
その声は、もはや悲鳴に近かった。
「嘘ですわ。だって、だって私の身体が」
彼女の手が、自分の腕を掻き始めた。
がり、がり、と。
爪が肌を引っ掻く音。
赤い筋が、白い肌に浮かび上がる。
「皮膚の下を、何かが這っているのです。それが、それが」
私は、その姿を見つめた。
胸の奥が、冷たくなっていく。
これは、私がやったことだ。
飴を渡したのは、私だ。
彼女を、ここまで追い詰めたのは。
でも。
立ち止まることは、できない。
「マルタ、さん」
私は、一歩踏み出した。
マルタさんの目が、何かを見た。
私の背後。
窓の外の、白い世界。
その瞬間、マルタさんの目に、別の何かが浮かんだ。
恐怖とは違う。
もっと、複雑な何か。
「逃げ、なさい」
声が、漏れた。
ほとんど吐息のような声。
私に向けられた言葉なのか、彼女自身に向けた言葉なのか、わからない。
「王都から……もう、間に合わない」
マルタさんが、悲鳴を上げた。
言葉にならない、ただの叫び。
そして、よろめきながら廊下の向こうへ逃げていく。
白い壁に手をつきながら。
何度も振り返りながら。
まるで、私が追いかけてくると思っているかのように。
その背中が、廊下の角に消えた。
私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
震える手を、握りしめる。
逃げなさい。
マルタさんは、確かにそう言った。
王都から、と。
それは、警告だったのだろうか。
私への。
ふと、思い出した。
マルタさんが私から本を取り上げた時のこと。
嫌味な言葉で、私の読書を邪魔した時のこと。
あれは、ただの意地悪だと思っていた。
でも、もしも。
もしも、それが。
いや、考えすぎだ。
彼女は私を陥れようとしていた。
お茶と飴で、私を毒殺犯に仕立て上げようとしていた。
それは、事実だ。
前世で。
私を追い詰めた上司たちは、こんな気持ちだったのだろうか。
それとも、何も感じていなかったのだろうか。
わからない。
わからないけれど。
私は、マルタさんを理解する気になれなかった。
それが、今は一番正しいことのように思えた。
義兄様の部屋の前に立った時、中から声が聞こえた。
「だから、いらねぇっつってんだろ」
義兄様の声だった。
昨日より、ずっとはっきりしている。
怒っているような、照れているような、妙な声。
「おや、若様。食べないと治るものも治りませんでしてねえ」
ガロットの、ねっとりとした声。
「気持ち悪ぃんだよ、その声」
「ひどいですなあ。これでも私、けっこう歌がうまいんでさあ」
「歌うな。絶対歌うな」
私は、小さく笑った。
義兄様の声には、もう死の影がない。
生きている人間の、生きている声がする。
扉を叩いた。
「入っていいですよお」
ガロットの声が返ってきた。
部屋に入ると、義兄様が寝台の上で身を起こしていた。
昨日よりも、顔色がいい。
頬にも、わずかに赤みが戻っている。
私を見た瞬間、義兄様の表情が変わった。
眉間に皺を寄せて、視線を逸らす。
「なんだよ、チビ。また来たのか」
「う、うん」
私は、寝台のそばに近づいた。
「顔色……よく、なったね」
「うるせぇ」
義兄様の声は、ぶっきらぼうだった。
でも、その頬がわずかに赤くなっている。
熱のせいではない。
別の何かのせいで。
「若様、お嬢様がせっかく来てくださったんですから、もう少し愛想よくしたらどうでさあ」
ガロットが、にやにや笑いながら言った。
「うるせぇ、汚ぇ医者。黙ってろ」
「おやおや、ひどい言われようですなあ」
ガロットは全く傷ついた様子もなく、懐から小さな瓶を取り出した。
暗い色の液体が、揺れている。
「お嬢様、私はちょいと準備がありましてねえ。若様のお相手、お願いできますかい」
ガロットの目が、一瞬だけ鋭くなった。
何かを、準備している。
お父様の指示で、何かを。
「う、うん……わかった」
私が頷くと、ガロットは満足そうに笑って部屋を出ていった。
二人きりになった。
義兄様は、相変わらず視線を逸らしている。
窓の外の雪を見ているふりをして。
「義兄様」
「なんだよ」
「あの……手、握っても、いい?」
義兄様の肩が、びくりと震えた。
「は、はあ? なんでそんな」
「き、昨日……握ってくれた、から」
義兄様の顔が、真っ赤になった。
耳まで赤い。
熱が上がったわけではないことは、見ればわかる。
「あ、あれは、お前が勝手に」
「う、うん……私が、勝手に握ったの。でも……離さなかった、よね」
義兄様が、口をぱくぱくさせた。
言葉を探しているけれど、見つからない。
その様子が、なんだかとても可愛らしく見えた。
私は、義兄様の手に自分の手を重ねた。
昨日より、温かい。
生きている温度。
義兄様の視線が、ふと遠くなった。
何かを思い出すような目。
窓の外の雪を見つめながら、ぽつりと言った。
「俺、変な夢を見てた」
その声は、いつもより小さかった。
照れているのか、それとも別の何かなのか。
「お前が、その」
義兄様の声が、途切れた。
視線が泳ぐ。
「泣いてる夢」
私の心臓が、跳ねた。
「俺は動けなくて、お前は俺の手を握って、ずっと」
義兄様が、言葉を切った。
窓の外に視線を逃がす。
耳まで真っ赤になっている。
「ずっと、泣いてて」
義兄様の手が、私の手をきゅっと握った。
無意識のように。
「だから、その」
また、言葉が途切れる。
義兄様の喉が、小さく動いた。
何かを飲み込むように。
「別に、心配したとかじゃねぇからな。勘違いすんな」
私は、笑った。
今度は、心の底から。
「う、うん……勘違い、しない」
義兄様が、何かを言おうとした。
その時だった。
遠くで、何か音がした。
馬の嘶き。
人の叫び声。
雪に吸い込まれて、くぐもった音。
義兄様の手が、私の手を握り返した。
今度は、しっかりと。
「何の音だ」
義兄様の声に、緊張が混じっている。
私は、窓の外を見た。
中庭を横切る、いくつかの人影。
そして。
白い。
すべてが、白い。
雪よりも白い何かが、屋敷に向かって歩いてくる。
義兄様の部屋に、執事さんが駆け込んできた。
その声は、いつもよりわずかに早口だった。
「お嬢様、大変でございます」
呼吸を整えながら、執事さんが言った。
「王都の侍医が、到着いたしました」
私の心臓が、凍りついた。
あと二日。
まだ、二日あるはずだった。
お父様は、その二日で何かを準備するはずだった。
「ど、どうして」
声が、かすれた。
「馬を三頭潰して、最短で来られたとのことです」
執事さんの声は、苦々しかった。
「旦那様は、急な知らせで領境へ出立されたまま、まだ戻られておりません」
「何だと」
義兄様が、寝台の上で身を起こそうとした。
でも、まだ力が入らない。
その顔が、苦しげに歪む。
「くそ、動け」
義兄様の腕が、震えていた。
自分の身体が言うことを聞かない苛立ちが、その声に滲んでいる。
お父様が、いない。
この屋敷に、お父様がいない。
私の手が、震え始めた。
義兄様の手を握ったまま。
「待」の文字が、今は何の力も持たないように思えた。
王都から、もう間に合わない。
マルタさんの言葉が、頭の中で響いた。
あれは、警告だったのだ。
彼女なりの。
廊下から、足音が聞こえた。
規則正しい、冷たい足音。
そして、かすかな匂い。
薬草を煮詰めたような匂い。
酢と何かが混じったような、鼻を突く刺激臭。
「北部大公閣下は不在と聞きましたが」
声が、聞こえた。
感情のない、平坦な声。
まるで、帳簿を読み上げているような声。
「問題ありません。対象の検体は、この屋敷内にいるのですから」
執事さんが、一歩前に出た。
私たちと、廊下の間に立つように。
「お待ちください。まずは旦那様のお許しを」
私は、扉の隙間から廊下を覗いた。
白い人影が、立っていた。
髪が、白い。
肌が、白い。
睫毛さえも、色素が抜けたように白い。
全身を覆う白い衣装は、継ぎ目のない一枚布のようで、露出しているのは目だけ。
その目が、執事さんを見た。
いや、見ていない。
まるで、そこに誰もいないかのように。
白い人影が、一歩踏み出した。
その手に、何かが握られている。
小さな瓶のようなもの。
振るたびに、白い霧が吹き出す。
白い人影が、執事さんの前で足を止めた。
そして、何の躊躇もなく、その霧を執事さんの顔に吹きかけた。
「な、何を」
執事さんが咳き込む。
それでも、その場を動かない。
壁のように、私たちの前に立ち続けている。
「消毒です。この屋敷は汚染されている」
その声には、何の感情もなかった。
「入口から既に、七十を超える穢れを数えました」
まるで、汚れを拭き取るかのように。
人を、物として扱う声。
白い人影の目が、執事さんの肩越しに、こちらを向いた。
赤い目。
色素を持たぬ者特有の、血の色が透けて見える目。
「検体番号一、若君レオンハルト。衰弱症状の原因特定が第一目標」
「検体番号二、庶子ヴィオレッタ。感染症疑いの確認が第二目標」
私の名前が、呼ばれた。
いや、名前ではない。
番号と、属性。
まるで、物を数えるように。
「私はヴェラム。王家の侍医として、この屋敷の汚染を除去するために参りました」
白い人影が、執事さんの横をすり抜けようとした。
執事さんが、また一歩、その前に立ちはだかる。
「恐れながら、若様は療養中でございます。せめて、医師の許可を」
「不要です」
ヴェラムの声は、平坦だった。
「私が、医師です」
白い人影が、こちらに向かって歩いてくる。
「ご協力いただけますね」
それは、質問ではなかった。
命令だった。
私の背筋を、冷たいものが這い上がった。
ガロットとは、違う。
ガロットは、不潔だけれど温かさがあった。
生き物を見るような目をしていた。
この人の目には、何もない。
私は、人間ではない。
ただの、検体。
調べて、洗浄して、必要なら廃棄する対象。
「待」の文字を、心の中で握りしめる。
でも、お父様はいない。
ガロットは、どこに行った。
義兄様は、まだ起き上がることもできない。
私には、何ができる。
五歳の身体で。
前世の記憶だけを武器に。
白い影が、一歩、また一歩と近づいてくる。
私は、一歩前に出ようとした。
何ができるかわからない。
でも、ここで怯えているだけでは。
その時。
背後で、扉が開く音がした。
窓の外を見る。
昨夜から降り続いた雪が、中庭を白く塗り潰している。
足跡ひとつない、完璧な白。
まるで、世界から私たち以外の存在が消えてしまったかのように。
私は「待」の文字が書かれた紙を、そっと箱にしまった。
お父様からの指示。
焦るな。動くな。今は、ただ待て。
けれど。
待つというのは、こんなにも難しいものだったのか。
朝食を終えて、廊下に出た時だった。
視界の端に、何かが動いた。
振り向く。
柱の影に、誰かがいる。
マルタさんだった。
壁に背をつけて、こちらを見ている。
いや、見ているというより、睨んでいる。
あるいは、縋っている。
その目には、何の感情も読み取れない。
空っぽの器のような目。
「マルタ、さん?」
声をかけると、彼女の肩がびくりと震えた。
でも、返事はない。
ただ、唇が何かを形作ろうとして、失敗する。
私は一歩、彼女に近づいた。
瞬間、マルタさんが後ずさった。
壁に背中がぶつかる。
それでもまだ、逃げようとする。
まるで、私が何か恐ろしいものであるかのように。
「喉が」
マルタさんの声は、枯れ枝を折るような音だった。
「喉が、焼けるようなのです。指先が、痺れて」
彼女の手が、自分の喉を掴んだ。
爪が、白い肌に食い込む。
「何を、入れたのですか」
その声には、もう敬語の体裁すら保てていない。
ただの、恐怖に支配された獣の声。
飴には、何も入っていなかった。
彼女の身体には、何の毒も回っていない。
それは、私が一番よく知っている。
けれど。
マルタさんの目は、確かに「毒」を見ている。
存在しないはずの毒を。
彼女自身の恐怖が作り出した、幻の毒を。
「な、何も……入れてないよ」
私は、できるだけ優しい声で言った。
無邪気な子供の声で。
「飴は……ただの、飴だよ」
マルタさんの目が、大きく見開かれた。
「嘘、です」
その声は、もはや悲鳴に近かった。
「嘘ですわ。だって、だって私の身体が」
彼女の手が、自分の腕を掻き始めた。
がり、がり、と。
爪が肌を引っ掻く音。
赤い筋が、白い肌に浮かび上がる。
「皮膚の下を、何かが這っているのです。それが、それが」
私は、その姿を見つめた。
胸の奥が、冷たくなっていく。
これは、私がやったことだ。
飴を渡したのは、私だ。
彼女を、ここまで追い詰めたのは。
でも。
立ち止まることは、できない。
「マルタ、さん」
私は、一歩踏み出した。
マルタさんの目が、何かを見た。
私の背後。
窓の外の、白い世界。
その瞬間、マルタさんの目に、別の何かが浮かんだ。
恐怖とは違う。
もっと、複雑な何か。
「逃げ、なさい」
声が、漏れた。
ほとんど吐息のような声。
私に向けられた言葉なのか、彼女自身に向けた言葉なのか、わからない。
「王都から……もう、間に合わない」
マルタさんが、悲鳴を上げた。
言葉にならない、ただの叫び。
そして、よろめきながら廊下の向こうへ逃げていく。
白い壁に手をつきながら。
何度も振り返りながら。
まるで、私が追いかけてくると思っているかのように。
その背中が、廊下の角に消えた。
私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
震える手を、握りしめる。
逃げなさい。
マルタさんは、確かにそう言った。
王都から、と。
それは、警告だったのだろうか。
私への。
ふと、思い出した。
マルタさんが私から本を取り上げた時のこと。
嫌味な言葉で、私の読書を邪魔した時のこと。
あれは、ただの意地悪だと思っていた。
でも、もしも。
もしも、それが。
いや、考えすぎだ。
彼女は私を陥れようとしていた。
お茶と飴で、私を毒殺犯に仕立て上げようとしていた。
それは、事実だ。
前世で。
私を追い詰めた上司たちは、こんな気持ちだったのだろうか。
それとも、何も感じていなかったのだろうか。
わからない。
わからないけれど。
私は、マルタさんを理解する気になれなかった。
それが、今は一番正しいことのように思えた。
義兄様の部屋の前に立った時、中から声が聞こえた。
「だから、いらねぇっつってんだろ」
義兄様の声だった。
昨日より、ずっとはっきりしている。
怒っているような、照れているような、妙な声。
「おや、若様。食べないと治るものも治りませんでしてねえ」
ガロットの、ねっとりとした声。
「気持ち悪ぃんだよ、その声」
「ひどいですなあ。これでも私、けっこう歌がうまいんでさあ」
「歌うな。絶対歌うな」
私は、小さく笑った。
義兄様の声には、もう死の影がない。
生きている人間の、生きている声がする。
扉を叩いた。
「入っていいですよお」
ガロットの声が返ってきた。
部屋に入ると、義兄様が寝台の上で身を起こしていた。
昨日よりも、顔色がいい。
頬にも、わずかに赤みが戻っている。
私を見た瞬間、義兄様の表情が変わった。
眉間に皺を寄せて、視線を逸らす。
「なんだよ、チビ。また来たのか」
「う、うん」
私は、寝台のそばに近づいた。
「顔色……よく、なったね」
「うるせぇ」
義兄様の声は、ぶっきらぼうだった。
でも、その頬がわずかに赤くなっている。
熱のせいではない。
別の何かのせいで。
「若様、お嬢様がせっかく来てくださったんですから、もう少し愛想よくしたらどうでさあ」
ガロットが、にやにや笑いながら言った。
「うるせぇ、汚ぇ医者。黙ってろ」
「おやおや、ひどい言われようですなあ」
ガロットは全く傷ついた様子もなく、懐から小さな瓶を取り出した。
暗い色の液体が、揺れている。
「お嬢様、私はちょいと準備がありましてねえ。若様のお相手、お願いできますかい」
ガロットの目が、一瞬だけ鋭くなった。
何かを、準備している。
お父様の指示で、何かを。
「う、うん……わかった」
私が頷くと、ガロットは満足そうに笑って部屋を出ていった。
二人きりになった。
義兄様は、相変わらず視線を逸らしている。
窓の外の雪を見ているふりをして。
「義兄様」
「なんだよ」
「あの……手、握っても、いい?」
義兄様の肩が、びくりと震えた。
「は、はあ? なんでそんな」
「き、昨日……握ってくれた、から」
義兄様の顔が、真っ赤になった。
耳まで赤い。
熱が上がったわけではないことは、見ればわかる。
「あ、あれは、お前が勝手に」
「う、うん……私が、勝手に握ったの。でも……離さなかった、よね」
義兄様が、口をぱくぱくさせた。
言葉を探しているけれど、見つからない。
その様子が、なんだかとても可愛らしく見えた。
私は、義兄様の手に自分の手を重ねた。
昨日より、温かい。
生きている温度。
義兄様の視線が、ふと遠くなった。
何かを思い出すような目。
窓の外の雪を見つめながら、ぽつりと言った。
「俺、変な夢を見てた」
その声は、いつもより小さかった。
照れているのか、それとも別の何かなのか。
「お前が、その」
義兄様の声が、途切れた。
視線が泳ぐ。
「泣いてる夢」
私の心臓が、跳ねた。
「俺は動けなくて、お前は俺の手を握って、ずっと」
義兄様が、言葉を切った。
窓の外に視線を逃がす。
耳まで真っ赤になっている。
「ずっと、泣いてて」
義兄様の手が、私の手をきゅっと握った。
無意識のように。
「だから、その」
また、言葉が途切れる。
義兄様の喉が、小さく動いた。
何かを飲み込むように。
「別に、心配したとかじゃねぇからな。勘違いすんな」
私は、笑った。
今度は、心の底から。
「う、うん……勘違い、しない」
義兄様が、何かを言おうとした。
その時だった。
遠くで、何か音がした。
馬の嘶き。
人の叫び声。
雪に吸い込まれて、くぐもった音。
義兄様の手が、私の手を握り返した。
今度は、しっかりと。
「何の音だ」
義兄様の声に、緊張が混じっている。
私は、窓の外を見た。
中庭を横切る、いくつかの人影。
そして。
白い。
すべてが、白い。
雪よりも白い何かが、屋敷に向かって歩いてくる。
義兄様の部屋に、執事さんが駆け込んできた。
その声は、いつもよりわずかに早口だった。
「お嬢様、大変でございます」
呼吸を整えながら、執事さんが言った。
「王都の侍医が、到着いたしました」
私の心臓が、凍りついた。
あと二日。
まだ、二日あるはずだった。
お父様は、その二日で何かを準備するはずだった。
「ど、どうして」
声が、かすれた。
「馬を三頭潰して、最短で来られたとのことです」
執事さんの声は、苦々しかった。
「旦那様は、急な知らせで領境へ出立されたまま、まだ戻られておりません」
「何だと」
義兄様が、寝台の上で身を起こそうとした。
でも、まだ力が入らない。
その顔が、苦しげに歪む。
「くそ、動け」
義兄様の腕が、震えていた。
自分の身体が言うことを聞かない苛立ちが、その声に滲んでいる。
お父様が、いない。
この屋敷に、お父様がいない。
私の手が、震え始めた。
義兄様の手を握ったまま。
「待」の文字が、今は何の力も持たないように思えた。
王都から、もう間に合わない。
マルタさんの言葉が、頭の中で響いた。
あれは、警告だったのだ。
彼女なりの。
廊下から、足音が聞こえた。
規則正しい、冷たい足音。
そして、かすかな匂い。
薬草を煮詰めたような匂い。
酢と何かが混じったような、鼻を突く刺激臭。
「北部大公閣下は不在と聞きましたが」
声が、聞こえた。
感情のない、平坦な声。
まるで、帳簿を読み上げているような声。
「問題ありません。対象の検体は、この屋敷内にいるのですから」
執事さんが、一歩前に出た。
私たちと、廊下の間に立つように。
「お待ちください。まずは旦那様のお許しを」
私は、扉の隙間から廊下を覗いた。
白い人影が、立っていた。
髪が、白い。
肌が、白い。
睫毛さえも、色素が抜けたように白い。
全身を覆う白い衣装は、継ぎ目のない一枚布のようで、露出しているのは目だけ。
その目が、執事さんを見た。
いや、見ていない。
まるで、そこに誰もいないかのように。
白い人影が、一歩踏み出した。
その手に、何かが握られている。
小さな瓶のようなもの。
振るたびに、白い霧が吹き出す。
白い人影が、執事さんの前で足を止めた。
そして、何の躊躇もなく、その霧を執事さんの顔に吹きかけた。
「な、何を」
執事さんが咳き込む。
それでも、その場を動かない。
壁のように、私たちの前に立ち続けている。
「消毒です。この屋敷は汚染されている」
その声には、何の感情もなかった。
「入口から既に、七十を超える穢れを数えました」
まるで、汚れを拭き取るかのように。
人を、物として扱う声。
白い人影の目が、執事さんの肩越しに、こちらを向いた。
赤い目。
色素を持たぬ者特有の、血の色が透けて見える目。
「検体番号一、若君レオンハルト。衰弱症状の原因特定が第一目標」
「検体番号二、庶子ヴィオレッタ。感染症疑いの確認が第二目標」
私の名前が、呼ばれた。
いや、名前ではない。
番号と、属性。
まるで、物を数えるように。
「私はヴェラム。王家の侍医として、この屋敷の汚染を除去するために参りました」
白い人影が、執事さんの横をすり抜けようとした。
執事さんが、また一歩、その前に立ちはだかる。
「恐れながら、若様は療養中でございます。せめて、医師の許可を」
「不要です」
ヴェラムの声は、平坦だった。
「私が、医師です」
白い人影が、こちらに向かって歩いてくる。
「ご協力いただけますね」
それは、質問ではなかった。
命令だった。
私の背筋を、冷たいものが這い上がった。
ガロットとは、違う。
ガロットは、不潔だけれど温かさがあった。
生き物を見るような目をしていた。
この人の目には、何もない。
私は、人間ではない。
ただの、検体。
調べて、洗浄して、必要なら廃棄する対象。
「待」の文字を、心の中で握りしめる。
でも、お父様はいない。
ガロットは、どこに行った。
義兄様は、まだ起き上がることもできない。
私には、何ができる。
五歳の身体で。
前世の記憶だけを武器に。
白い影が、一歩、また一歩と近づいてくる。
私は、一歩前に出ようとした。
何ができるかわからない。
でも、ここで怯えているだけでは。
その時。
背後で、扉が開く音がした。
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さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
腹違いの妹にすべてを奪われた薄幸の令嬢が、義理の母に殴られた瞬間、前世のインテリヤクザなおっさんがぶちギレた場合。
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十二歳のときに母が病で亡くなった途端、父は後妻と一歳年下の妹を新たな『家族』として迎え入れた。
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タイトル通りのおっさんコメディーです。
婚約破棄された公爵令嬢は冤罪で地下牢へ、前世の記憶を思い出したので、スキル引きこもりを使って王子たちに復讐します!
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王宮大広間は春の祝宴で黄金色に輝き、各地の貴族たちの笑い声と音楽で満ちていた。しかしその中心で、空気を切り裂くように響いたのは、第1王子アルベルトの声だった。
「ローゼ・フォン・エルンスト! おまえとの婚約は、今日をもって破棄する!」
周囲の視線が一斉にローゼに注がれ、彼女は凍りついた。「……は?」唇からもれる言葉は震え、理解できないまま広間のざわめきが広がっていく。幼い頃から王子の隣で育ち、未来の王妃として教育を受けてきたローゼ――その誇り高き公爵令嬢が、今まさに公開の場で突き放されたのだ。
アルベルトは勝ち誇る笑みを浮かべ、隣に立つ淡いピンク髪の少女ミーアを差し置き、「おれはこの天使を選ぶ」と宣言した。ミーアは目を潤ませ、か細い声で応じる。取り巻きの貴族たちも次々にローゼの罪を指摘し、アーサーやマッスルといった証人が証言を加えることで、非難の声は広間を震わせた。
ローゼは必死に抗う。「わたしは何もしていない……」だが、王子の視線と群衆の圧力の前に言葉は届かない。アルベルトは公然と彼女を罪人扱いし、地下牢への収監を命じる。近衛兵に両腕を拘束され、引きずられるローゼ。広間には王子を讃える喝采と、哀れむ視線だけが残った。
その孤立無援の絶望の中で、ローゼの胸にかすかな光がともる。それは前世の記憶――ブラック企業で心身をすり減らし、引きこもりとなった過去の記憶だった。地下牢という絶望的な空間が、彼女の心に小さな希望を芽生えさせる。
そして――スキル《引きこもり》が発動する兆しを見せた。絶望の牢獄は、ローゼにとって新たな力を得る場となる。《マイルーム》が呼び出され、誰にも侵入されない自分だけの聖域が生まれる。泣き崩れる心に、未来への決意が灯る。ここから、ローゼの再起と逆転の物語が始まるのだった。
貴族令嬢、転生十秒で家出します。目指せ、おひとり様スローライフ
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貴族令嬢に転生したリルは、前世の記憶に混乱しつつも今世で恵まれていない環境なことに気が付き、突発で家出してしまう。
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私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
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