31 / 34
泥の盾と白の処刑台
しおりを挟む
扉が開いた。
振り向いた瞬間、鼻を突く異臭が広がった。
土と草と、何か発酵したような。
生々しい「生命」の匂い。
「おやおや」
のそりと現れたのは、ガロット先生だった。
両手に抱えているのは、どろどろと濁った液体が入った大きな壺。
湯気が立ち昇っている。
煮詰めた薬草と、もっと得体の知れないものの匂い。
「私の大事な培養土に、何をしておられますかねえ」
ガロット先生の目が、執事さんへ向けられる。
執事さんは、今も目を擦っている。
消毒液を顔に吹きかけられたせいだ。咳き込む音が痛々しい。
「検体の汚染源を排除しています」
ヴェラムの声は、相変わらず帳簿を読み上げるように平坦だった。
「汚染源、ですかあ」
ガロット先生が首を傾げる。
その動きは、昆虫が触角を動かすのに似ていた。
「この屋敷に足を踏み入れてから、七十を超える菌の気配を感じましてねえ」
先生はにやりと笑った。
その笑みは、獲物を見つけた蛇のようだった。
「私の、大切な、お友達を」
一歩。
「殺そうとしておられる」
ガロット先生が、壺を傾けた。
どろりとした液体が、床に広がる。
悪臭が部屋中に充満した。
甘ったるい腐敗臭。発酵した果実のような、腐った野菜のような。
「なっ」
ヴェラムが、ほんの一瞬、後ずさった。
あの感情のない声に、初めて動揺が混じる。
「これは、何です」
「特製の薬湯でございますよ」
先生は壺をゆっくり回転させる。
液体がじわじわと広がり、結界のように部屋を二分していく。
「百種を超える菌を培養しましてねえ。互いに殺し合わないよう、絶妙な均衡を保たせてあるんでさあ」
先生の目が、三日月のように細くなった。
「私はこれを『生命の海』と呼んでおりましてねえ。人間には無害ですが、まあ、匂いは少々きついですなあ」
ヴェラムが噴霧器を構えた。
しゅっ、しゅっ、と連続で噴霧する。
しかし液体は広がり続け、悪臭は薄まるどころか増していく。
「無駄ですよ」
先生が楽しそうに言った。
「このお友達たちは、そんじょそこらの消毒剤では死にましてねえ。しぶといんでさあ、彼らは」
私は義兄様の手を握りしめたまま、息を詰めていた。
二人の医師が対峙している。
片方は、すべてを殺す「清潔」。
片方は、すべてを生かす「不潔」。
水と油。いや、火と水よりも相容れない存在。
「環境汚染が甚だしい」
ヴェラムが吐き捨てるように言った。
「検体への接近を、一時中断します」
赤い目が、私を射抜いた。
「ただし、検体番号二。あなたには、まだ確認すべき事項がある」
一歩、踏み出す。
悪臭の結界を越えようとしている。
「この程度の汚染で、私の任務は止まりません」
ガロット先生が、また壺を傾けた。
今度はヴェラムの足元めがけて。
「止まらない、とおっしゃいますかねえ」
先生の声が、低くなった。
「では、この老いぼれの体で、壁になりましょうかねえ」
その時だった。
廊下の奥から、ばたばたと足音が聞こえた。
転がるように現れたのは。
「マ、マルタさん」
私は思わず声を上げた。
マルタさんの姿は、凄惨だった。
髪は乱れ、両手の包帯は汚れ、頬は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。
胸元にあったはずのブローチは、もうない。
そして、その目は。
虚ろだったはずの目が、今は何かに焦点を結んでいた。
「この子は」
マルタさんが、掠れた声で言った。
「この子は、何も知りません」
ヴェラムが、首だけで振り向いた。
「侍女頭、マルタ。あなたは関係者ではない。退去を」
「知りません」
マルタさんが、私の前に立った。
両腕を広げて、壁のように。
「文字も読めない、ただの愚かな子供です」
その声は、途切れ途切れだった。
でも、後ずさりはしなかった。
「だから、検査など、必要ありません」
私は、その背中を見つめていた。
この人は、私を嫌っていたはずだ。
本を取り上げた。刺繍を強要した。冷たい視線を送り続けた。
私は、この人をずっと「敵」だと思っていた。
でも。
「勉強などしなくていい」
あの言葉が、脳裏によみがえる。
「お人形のようにしていればいい」
私はずっと、嫌味だと思っていた。
無能でいろ、という圧力だと。
違った。
賢いことがバレたら、消される
マルタさんは、知っていたのだ。
王家が、何を狙っているのか。
私が「できる子」だと判明したら、どうなるのか。
だから、本を取り上げた。
だから、刺繍をやらせようとした。
だから、「何も知らない愚かな子供」のままでいさせようとした。
守るために。
「マルタ、さん」
私の声は、かすれていた。
彼女が振り向いた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「お嬢様」
声が、詰まっていた。
「逃げて、くださいませ」
「夾雑物ですね」
ヴェラムの声が、会話を断ち切った。
「観察結果に、不純物が混入しました」
一歩、近づく。
「排除します」
白い手が、マルタさんに向かって伸びた。
その瞬間。
私は義兄様の手を離し、ベッドから飛び降りた。
マルタさんの手を掴む。
小さな手で、火傷だらけの手を。
「だ、だめ」
私は叫んだ。
「こ、この人を、傷つけないで」
ヴェラムの赤い目が、私を見下ろした。
「検体番号二。あなたは感染症の疑いがある。接触は推奨できません」
「か、感染症なんかじゃない」
私は、マルタさんの手を握りしめた。
震えている。彼女の手も、私の手も。
「わ、私は、健康です。義兄様も、もう大丈夫です」
ヴェラムの首が、ゆっくりと傾いた。
「根拠は」
「ガ、ガロット先生が言いました。義兄様は良くなる、って」
「あの不潔な老人の診断を、信じるのですか」
「し、信じます」
私は、まっすぐにヴェラムを見上げた。
「こ、この人たちを、信じます」
マルタさんの手が、私の手を握り返した。
弱々しく、でも確かに。
「お嬢様」
彼女の声は、もう震えていなかった。
「私は、あなたを守れませんでした」
「ま、守ってくれてた」
私は、小さく笑った。
「ず、ずっと、守ってくれてた。私が、気づかなかっただけ」
マルタさんの目から、涙がこぼれた。
「でも、私は、あの方に」
「し、知ってる」
私は頷いた。
「こ、怖かったんでしょう? 逆らえなかったんでしょう?」
彼女の肩が、びくりと跳ねた。
「わ、私もね、ずっと怖かったの」
私は、マルタさんの手を両手で包んだ。
「だ、だから、わかるよ」
沈黙が、落ちた。
ガロット先生は、壺を抱えたまま動かない。
執事さんは、まだ咳き込んでいる。
ヴェラムは、私とマルタさんを見下ろしている。
そして、義兄様は。
「チビ」
かすれた声が、背後から聞こえた。
「何、やってんだ」
振り向くと、義兄様が上半身を起こそうとしていた。
腕が震えている。顔色は蒼白。
でも、その目は、はっきりと私を見ていた。
「お、義兄様、寝てて」
「うるせえ」
義兄様が、歯を食いしばった。
「俺の前で、勝手に、死にそうな顔、すんな」
その時。
廊下の奥から、別の足音が聞こえた。
重い。確かな。地面を踏みしめる足音。
そして、声。
「何の、騒ぎだ」
低く、短い。
たった六文字で、空気が変わった。
お父様が、立っていた。
銀髪が、雪で濡れている。
外套には泥が跳ねている。
息が、白い。走ってきたのだ。
灰色の瞳が、部屋の中を一瞥した。
ヴェラムが、ゆっくりと振り向いた。
「北部大公閣下。ご不在と伺っていましたが」
「戻った」
お父様は、一歩、部屋に入った。
「説明しろ」
ヴェラムは、一瞬だけ沈黙した。
そして、平坦な声で答えた。
「王家の命により、検体の調査を」
「検体」
お父様の声が、低くなった。
「俺の子供を、そう呼んだか」
殺気が、部屋を満たした。
ヴェラムの赤い目が、初めて揺れた。
お父様の視線を、受け止めきれなかったのだろう。一瞬だけ、目を逸らした。
「環境汚染が、甚だしい」
ヴェラムが、後ずさった。
「本日の検査は、中止とします」
白い衣がひるがえる。
噴霧器を構えながら、ヴェラムは廊下へと下がっていく。
「ただし」
最後に、ヴェラムは言い残した。
「穢れた血は、いずれ浄化されねばなりません」
その言葉を残して、白い影は消えた。
静寂が、戻ってきた。
私は、まだマルタさんの手を握っていた。
彼女は、崩れ落ちるように膝をついた。
肩が震えている。声を殺して泣いている。
お父様が、私たちの前に立った。
「怪我は」
短い言葉。
でも、その声には、確かな温かさがあった。
「な、ない、です」
私は答えた。
「義兄様も、大丈夫」
お父様は、マルタさんを見下ろした。
長い沈黙。
そして。
「よく、守った」
マルタさんの肩の震えが、止まった。
窓の外では、まだ雪が降り続いていた。
白い、白い雪。
すべてを覆い隠すような。
でも、私の手のひらには、マルタさんの手の温もりがあった。
火傷だらけの、泥にまみれた、傷だらけの手。
でも、それは確かに、私を守ろうとした手だった。
「マ、マルタさん」
私は、小さく言った。
「あ、ありがとう」
彼女は、何も答えなかった。
ただ、私の手を、強く握り返した。
それだけで、十分だった。
ガロット先生が、壺を卓に置いた。
「いやはや、興味深い方でしたなあ」
先生はにやにやと笑っていた。
「あの『潔癖症』とは、いつかじっくりお話ししたいものでさあ」
「せ、先生」
私は言った。
「あ、ありがとうございます。壁になってくれて」
「礼には及びませんよ」
先生は、いつもの調子で答えた。
「私は、面白いものが見られれば、それでいいんでしてねえ」
その言葉は、いつも通り不気味だった。
でも、今は、少しだけ温かく聞こえた。
お父様が、私の前にしゃがんだ。
大きな手が、私の頭に触れた。
ぽんぽん、と軽く叩く。
「怖かったか」
「……うん」
私は、素直に頷いた。
「こ、怖かった」
お父様は、何も言わなかった。
ただ、私の頭を撫で続けた。
その手は、とても温かかった。
窓の外の雪は、まだ降り続いている。
白い、冷たい雪。
でも、この部屋の中だけは、不思議と暖かかった。
私は、お父様の胸に顔を埋めた。
泣きたかったわけじゃない。
でも、気がついたら、涙が出ていた。
怖かったから。
助かったから。
守られていたと、知ったから。
「お、お父様」
私は、小さく言った。
「おかえりなさい」
お父様は、答えなかった。
ただ、私を抱き上げて、胸に抱いた。
それで、よかった。
振り向いた瞬間、鼻を突く異臭が広がった。
土と草と、何か発酵したような。
生々しい「生命」の匂い。
「おやおや」
のそりと現れたのは、ガロット先生だった。
両手に抱えているのは、どろどろと濁った液体が入った大きな壺。
湯気が立ち昇っている。
煮詰めた薬草と、もっと得体の知れないものの匂い。
「私の大事な培養土に、何をしておられますかねえ」
ガロット先生の目が、執事さんへ向けられる。
執事さんは、今も目を擦っている。
消毒液を顔に吹きかけられたせいだ。咳き込む音が痛々しい。
「検体の汚染源を排除しています」
ヴェラムの声は、相変わらず帳簿を読み上げるように平坦だった。
「汚染源、ですかあ」
ガロット先生が首を傾げる。
その動きは、昆虫が触角を動かすのに似ていた。
「この屋敷に足を踏み入れてから、七十を超える菌の気配を感じましてねえ」
先生はにやりと笑った。
その笑みは、獲物を見つけた蛇のようだった。
「私の、大切な、お友達を」
一歩。
「殺そうとしておられる」
ガロット先生が、壺を傾けた。
どろりとした液体が、床に広がる。
悪臭が部屋中に充満した。
甘ったるい腐敗臭。発酵した果実のような、腐った野菜のような。
「なっ」
ヴェラムが、ほんの一瞬、後ずさった。
あの感情のない声に、初めて動揺が混じる。
「これは、何です」
「特製の薬湯でございますよ」
先生は壺をゆっくり回転させる。
液体がじわじわと広がり、結界のように部屋を二分していく。
「百種を超える菌を培養しましてねえ。互いに殺し合わないよう、絶妙な均衡を保たせてあるんでさあ」
先生の目が、三日月のように細くなった。
「私はこれを『生命の海』と呼んでおりましてねえ。人間には無害ですが、まあ、匂いは少々きついですなあ」
ヴェラムが噴霧器を構えた。
しゅっ、しゅっ、と連続で噴霧する。
しかし液体は広がり続け、悪臭は薄まるどころか増していく。
「無駄ですよ」
先生が楽しそうに言った。
「このお友達たちは、そんじょそこらの消毒剤では死にましてねえ。しぶといんでさあ、彼らは」
私は義兄様の手を握りしめたまま、息を詰めていた。
二人の医師が対峙している。
片方は、すべてを殺す「清潔」。
片方は、すべてを生かす「不潔」。
水と油。いや、火と水よりも相容れない存在。
「環境汚染が甚だしい」
ヴェラムが吐き捨てるように言った。
「検体への接近を、一時中断します」
赤い目が、私を射抜いた。
「ただし、検体番号二。あなたには、まだ確認すべき事項がある」
一歩、踏み出す。
悪臭の結界を越えようとしている。
「この程度の汚染で、私の任務は止まりません」
ガロット先生が、また壺を傾けた。
今度はヴェラムの足元めがけて。
「止まらない、とおっしゃいますかねえ」
先生の声が、低くなった。
「では、この老いぼれの体で、壁になりましょうかねえ」
その時だった。
廊下の奥から、ばたばたと足音が聞こえた。
転がるように現れたのは。
「マ、マルタさん」
私は思わず声を上げた。
マルタさんの姿は、凄惨だった。
髪は乱れ、両手の包帯は汚れ、頬は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。
胸元にあったはずのブローチは、もうない。
そして、その目は。
虚ろだったはずの目が、今は何かに焦点を結んでいた。
「この子は」
マルタさんが、掠れた声で言った。
「この子は、何も知りません」
ヴェラムが、首だけで振り向いた。
「侍女頭、マルタ。あなたは関係者ではない。退去を」
「知りません」
マルタさんが、私の前に立った。
両腕を広げて、壁のように。
「文字も読めない、ただの愚かな子供です」
その声は、途切れ途切れだった。
でも、後ずさりはしなかった。
「だから、検査など、必要ありません」
私は、その背中を見つめていた。
この人は、私を嫌っていたはずだ。
本を取り上げた。刺繍を強要した。冷たい視線を送り続けた。
私は、この人をずっと「敵」だと思っていた。
でも。
「勉強などしなくていい」
あの言葉が、脳裏によみがえる。
「お人形のようにしていればいい」
私はずっと、嫌味だと思っていた。
無能でいろ、という圧力だと。
違った。
賢いことがバレたら、消される
マルタさんは、知っていたのだ。
王家が、何を狙っているのか。
私が「できる子」だと判明したら、どうなるのか。
だから、本を取り上げた。
だから、刺繍をやらせようとした。
だから、「何も知らない愚かな子供」のままでいさせようとした。
守るために。
「マルタ、さん」
私の声は、かすれていた。
彼女が振り向いた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「お嬢様」
声が、詰まっていた。
「逃げて、くださいませ」
「夾雑物ですね」
ヴェラムの声が、会話を断ち切った。
「観察結果に、不純物が混入しました」
一歩、近づく。
「排除します」
白い手が、マルタさんに向かって伸びた。
その瞬間。
私は義兄様の手を離し、ベッドから飛び降りた。
マルタさんの手を掴む。
小さな手で、火傷だらけの手を。
「だ、だめ」
私は叫んだ。
「こ、この人を、傷つけないで」
ヴェラムの赤い目が、私を見下ろした。
「検体番号二。あなたは感染症の疑いがある。接触は推奨できません」
「か、感染症なんかじゃない」
私は、マルタさんの手を握りしめた。
震えている。彼女の手も、私の手も。
「わ、私は、健康です。義兄様も、もう大丈夫です」
ヴェラムの首が、ゆっくりと傾いた。
「根拠は」
「ガ、ガロット先生が言いました。義兄様は良くなる、って」
「あの不潔な老人の診断を、信じるのですか」
「し、信じます」
私は、まっすぐにヴェラムを見上げた。
「こ、この人たちを、信じます」
マルタさんの手が、私の手を握り返した。
弱々しく、でも確かに。
「お嬢様」
彼女の声は、もう震えていなかった。
「私は、あなたを守れませんでした」
「ま、守ってくれてた」
私は、小さく笑った。
「ず、ずっと、守ってくれてた。私が、気づかなかっただけ」
マルタさんの目から、涙がこぼれた。
「でも、私は、あの方に」
「し、知ってる」
私は頷いた。
「こ、怖かったんでしょう? 逆らえなかったんでしょう?」
彼女の肩が、びくりと跳ねた。
「わ、私もね、ずっと怖かったの」
私は、マルタさんの手を両手で包んだ。
「だ、だから、わかるよ」
沈黙が、落ちた。
ガロット先生は、壺を抱えたまま動かない。
執事さんは、まだ咳き込んでいる。
ヴェラムは、私とマルタさんを見下ろしている。
そして、義兄様は。
「チビ」
かすれた声が、背後から聞こえた。
「何、やってんだ」
振り向くと、義兄様が上半身を起こそうとしていた。
腕が震えている。顔色は蒼白。
でも、その目は、はっきりと私を見ていた。
「お、義兄様、寝てて」
「うるせえ」
義兄様が、歯を食いしばった。
「俺の前で、勝手に、死にそうな顔、すんな」
その時。
廊下の奥から、別の足音が聞こえた。
重い。確かな。地面を踏みしめる足音。
そして、声。
「何の、騒ぎだ」
低く、短い。
たった六文字で、空気が変わった。
お父様が、立っていた。
銀髪が、雪で濡れている。
外套には泥が跳ねている。
息が、白い。走ってきたのだ。
灰色の瞳が、部屋の中を一瞥した。
ヴェラムが、ゆっくりと振り向いた。
「北部大公閣下。ご不在と伺っていましたが」
「戻った」
お父様は、一歩、部屋に入った。
「説明しろ」
ヴェラムは、一瞬だけ沈黙した。
そして、平坦な声で答えた。
「王家の命により、検体の調査を」
「検体」
お父様の声が、低くなった。
「俺の子供を、そう呼んだか」
殺気が、部屋を満たした。
ヴェラムの赤い目が、初めて揺れた。
お父様の視線を、受け止めきれなかったのだろう。一瞬だけ、目を逸らした。
「環境汚染が、甚だしい」
ヴェラムが、後ずさった。
「本日の検査は、中止とします」
白い衣がひるがえる。
噴霧器を構えながら、ヴェラムは廊下へと下がっていく。
「ただし」
最後に、ヴェラムは言い残した。
「穢れた血は、いずれ浄化されねばなりません」
その言葉を残して、白い影は消えた。
静寂が、戻ってきた。
私は、まだマルタさんの手を握っていた。
彼女は、崩れ落ちるように膝をついた。
肩が震えている。声を殺して泣いている。
お父様が、私たちの前に立った。
「怪我は」
短い言葉。
でも、その声には、確かな温かさがあった。
「な、ない、です」
私は答えた。
「義兄様も、大丈夫」
お父様は、マルタさんを見下ろした。
長い沈黙。
そして。
「よく、守った」
マルタさんの肩の震えが、止まった。
窓の外では、まだ雪が降り続いていた。
白い、白い雪。
すべてを覆い隠すような。
でも、私の手のひらには、マルタさんの手の温もりがあった。
火傷だらけの、泥にまみれた、傷だらけの手。
でも、それは確かに、私を守ろうとした手だった。
「マ、マルタさん」
私は、小さく言った。
「あ、ありがとう」
彼女は、何も答えなかった。
ただ、私の手を、強く握り返した。
それだけで、十分だった。
ガロット先生が、壺を卓に置いた。
「いやはや、興味深い方でしたなあ」
先生はにやにやと笑っていた。
「あの『潔癖症』とは、いつかじっくりお話ししたいものでさあ」
「せ、先生」
私は言った。
「あ、ありがとうございます。壁になってくれて」
「礼には及びませんよ」
先生は、いつもの調子で答えた。
「私は、面白いものが見られれば、それでいいんでしてねえ」
その言葉は、いつも通り不気味だった。
でも、今は、少しだけ温かく聞こえた。
お父様が、私の前にしゃがんだ。
大きな手が、私の頭に触れた。
ぽんぽん、と軽く叩く。
「怖かったか」
「……うん」
私は、素直に頷いた。
「こ、怖かった」
お父様は、何も言わなかった。
ただ、私の頭を撫で続けた。
その手は、とても温かかった。
窓の外の雪は、まだ降り続いている。
白い、冷たい雪。
でも、この部屋の中だけは、不思議と暖かかった。
私は、お父様の胸に顔を埋めた。
泣きたかったわけじゃない。
でも、気がついたら、涙が出ていた。
怖かったから。
助かったから。
守られていたと、知ったから。
「お、お父様」
私は、小さく言った。
「おかえりなさい」
お父様は、答えなかった。
ただ、私を抱き上げて、胸に抱いた。
それで、よかった。
316
あなたにおすすめの小説
侯爵家の愛されない娘でしたが、前世の記憶を思い出したらお父様がバリ好みのイケメン過ぎて毎日が楽しくなりました
下菊みこと
ファンタジー
前世の記憶を思い出したらなにもかも上手くいったお話。
ご都合主義のSS。
お父様、キャラチェンジが激しくないですか。
小説家になろう様でも投稿しています。
突然ですが長編化します!ごめんなさい!ぜひ見てください!
【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】
佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。
新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。
「せめて回復魔法とかが良かった……」
戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。
「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」
家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。
「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」
そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。
絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。
これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
【コミカライズ決定】愛されない皇妃~最強の母になります!~
椿蛍
ファンタジー
【コミカライズ決定の情報が解禁されました】
※レーベル名、漫画家様はのちほどお知らせいたします。
※配信後は引き下げとなりますので、ご注意くださいませ。
愛されない皇妃『ユリアナ』
やがて、皇帝に愛される寵妃『クリスティナ』にすべてを奪われる運命にある。
夫も子どもも――そして、皇妃の地位。
最後は嫉妬に狂いクリスティナを殺そうとした罪によって処刑されてしまう。
けれど、そこからが問題だ。
皇帝一家は人々を虐げ、『悪逆皇帝一家』と呼ばれるようになる。
そして、最後は大魔女に悪い皇帝一家が討伐されて終わるのだけど……
皇帝一家を倒した大魔女。
大魔女の私が、皇妃になるなんて、どういうこと!?
※表紙は作成者様からお借りしてます。
※他サイト様に掲載しております。
至って普通のネグレクト系脇役お姫様に転生したようなので物語の主人公である姉姫さまから主役の座を奪い取りにいきます
下菊みこと
恋愛
至って普通の女子高生でありながら事故に巻き込まれ(というか自分から首を突っ込み)転生した天宮めぐ。転生した先はよく知った大好きな恋愛小説の世界。でも主人公ではなくほぼ登場しない脇役姫に転生してしまった。姉姫は優しくて朗らかで誰からも愛されて、両親である国王、王妃に愛され貴公子達からもモテモテ。一方自分は妾の子で陰鬱で誰からも愛されておらず王位継承権もあってないに等しいお姫様になる予定。こんな待遇満足できるか!羨ましさこそあれど恨みはない姉姫さまを守りつつ、目指せ隣国の王太子ルート!小説家になろう様でも「主人公気質なわけでもなく恋愛フラグもなければ死亡フラグに満ち溢れているわけでもない至って普通のネグレクト系脇役お姫様に転生したようなので物語の主人公である姉姫さまから主役の座を奪い取りにいきます」というタイトルで掲載しています。
「無能」と捨てられた少女は、神の愛し子だった――。 凍てつく北の地で始まる、聖獣たちと冷徹公爵による「世界一過保護な」逆転生活。
秦江湖
恋愛
魔法適性「鑑定」がすべてを決める、黄金の国ルミナリス。 名門ベルグラード公爵家の末娘アデリーンは、十五歳の鑑定式で、前代未聞の『鑑定不能(黒の沈黙)』を叩き出してしまう。
「我が家の恥さらしめ。二度とその顔を見せるな」
第一王子からは婚約破棄を突きつけられ、最愛の三人の兄たちからも冷酷な言葉とともに、極寒の地「ノースガル公国」へ追放を言い渡されたアデリーン。
着の身着のままで雪原に放り出された彼女が出会ったのは、一匹の衰弱した仔狼――それは、人間には決して懐かないはずの『伝説の聖獣』だった。
「鑑定不能」の正体は、魔力ゼロなどではなく、聖獣と心を通わせる唯一の力『調律師』の証。
行き倒れたアデリーンを救ったのは、誰もが恐れる氷の公爵ゼノスで……。
「こんなに尊い存在を捨てるとは、黄金の国の連中は正気か?」
「聖獣も、私も……お前を離すつもりはない」
氷の公爵に拾われ、聖獣たちに囲まれ、これまでの不遇が嘘のような「極上溺愛」を享受するアデリーン。
一方で、彼女を捨てた黄金の国は、聖獣の加護を失い崩壊の危機に直面していた。
慌ててアデリーンを連れ戻そうとする身勝手な王族たち。
しかし、彼らの前には「復讐」の準備を終えたアデリーンの兄たちが立ちはだかる。
「遅いよ。僕らのかわいい妹を泣かせた罪、一生かけて償ってもらうからね」
これは、すべてを失った少女が、真の居場所と愛を見つけるまでの物語。
昭和生まれお局様は、異世界転生いたしましたとさ
蒼あかり
ファンタジー
局田舞子(つぼたまいこ)43歳、独身。
とある事故をきっかけに、彼女は異世界へと転生することになった。
どうしてこんなことになったのか、訳もわからぬままに彼女は異世界に一人放り込まれ、辛い日々を過ごしながら苦悩する毎日......。
など送ることもなく、なんとなく順応しながら、それなりの日々を送って行くのでありました。
そんな彼女の異世界生活と、ほんの少しのラブロマンスっぽい何かを織り交ぜながらすすむ、そんな彼女の生活を覗いてみませんか?
毎日投稿はできないと思います。気長に更新をお待ちください。
【完結】奇跡のおくすり~追放された薬師、実は王家の隠し子でした~
いっぺいちゃん
ファンタジー
薬草と静かな生活をこよなく愛する少女、レイナ=リーフィア。
地味で目立たぬ薬師だった彼女は、ある日貴族の陰謀で“冤罪”を着せられ、王都の冒険者ギルドを追放されてしまう。
「――もう、草とだけ暮らせればいい」
絶望の果てにたどり着いた辺境の村で、レイナはひっそりと薬を作り始める。だが、彼女の薬はどんな難病さえ癒す“奇跡の薬”だった。
やがて重病の王子を治したことで、彼女の正体が王家の“隠し子”だと判明し、王都からの使者が訪れる――
「あなたの薬に、国を救ってほしい」
導かれるように再び王都へと向かうレイナ。
医療改革を志し、“薬師局”を創設して仲間たちと共に奔走する日々が始まる。
薬草にしか心を開けなかった少女が、やがて王国の未来を変える――
これは、一人の“草オタク”薬師が紡ぐ、やさしくてまっすぐな奇跡の物語。
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる