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告の夜
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悪臭が、まだ部屋に残っていた。
ガロット先生の「生命の海」。
床に染みついた匂いは、どれだけ窓を開けても消えなかった。
だけど、不思議と嫌ではなかった。
あの匂いが、私を守ってくれたのだから。
「レオンハルト様のお部屋は、本日中に清掃が完了いたします」
執事さんが言った。
目はまだ少し赤い。
でも、いつもの毅然とした声に戻っていた。
「それまでは、西棟の客間をお使いください」
お父様が頷く。
私を抱いたまま、立ち上がった。
「移す」
その一言で、胸の奥が緩んだ。
私たちは、義兄様ごと客間に移動した。
義兄様は担架で運ばれた。
抵抗しようとしたけれど、起き上がることすらできなかった。
悔しそうに歯を食いしばる姿が、少しだけ可愛いと思ってしまった。
客間は、義兄様の部屋より広かった。
大きな暖炉に火が入り、部屋全体が炎の色に包まれている。
ベッドが二つ。
一つには義兄様が寝かされ、もう一つには私が座らされた。
「お父様も、座って」
私は言った。
お父様は、少しだけ驚いた顔をした。
それから、椅子を引き寄せて腰を下ろした。
誰も、口を開かなかった。
暖炉の薪が、ぱちぱちと爆ぜる。
窓の外では、まだ雪が降り続けている。
白い、冷たい雪。
でも、この部屋の中だけは、温かい。
「マルタ」
お父様が言った。
「話せ」
マルタさんは、部屋の隅に立っていた。
火傷だらけの両手を、胸の前で握りしめている。
頬には、まだ涙の跡が残っていた。
でも、もう震えてはいなかった。
小さく頷いて、マルタさんは話し始めた。
「私は、王家の命で、この屋敷に入り込みましたの」
声は、途切れ途切れだった。
それでも、止まらなかった。
「北部大公家の内情を探れ、と」
お父様は、何も言わなかった。
ただ、じっとマルタさんを見つめていた。
「最初は、それだけでしたわ」
マルタさんの目が、遠くを見た。
「でも、半年前に変わりました。ハインツ様が……いえ、あの方が来てから」
その名前を口にした瞬間、マルタさんの肩が震えた。
「命令が、変わったのですわ」
「どう変わった」
お父様の声は、低く短かった。
でも、責めるような響きはなかった。
マルタさんの声が、掠れた。
「お嬢様と、若様を」
息を吸い込む音が、部屋に響いた。
「殺せと」
誰も、息をしなかった。
暖炉の火が、一瞬だけ揺れた気がした。
風が吹いたわけではない。
でも、確かに揺れた。
「ふざけんな」
義兄様の声が、低く響いた。
「なんで、お前らが」
身体を起こそうとして、また腕が震える。
でも、目だけはしっかりとマルタさんを睨んでいた。
「俺たちを、殺す理由が、どこにある」
「私にも、わかりませんでしたわ」
マルタさんは、静かに答えた。
「ただ、言われたのですわ。『北部大公の子供は、生かしておけない』と」
私は、小さく息を呑んだ。
知っていた。
前世の記憶で、知っていた。
私が処刑される未来を。
義兄様が毒殺される未来を。
でも、「なぜ」なのかは、知らなかった。
前世で読んだ物語には、そこまで書かれていなかった。
「続けろ」
お父様が言った。
「でも、私にはできませんでしたの」
マルタさんの声が、震えた。
「お嬢様は、まだ五歳です。何も知らない、ただの子供ですわ」
涙が、また頬を伝った。
「だから、愚かに見せようとしました。本を取り上げ、刺繍をさせ、何も知らない子供のふりをさせようと」
私は、マルタさんを見つめた。
ずっと、敵だと思っていた。
冷たい人だと思っていた。
でも、違った。
「でも、ハインツ様は」
マルタさんの声が、震えた。
「しびれを切らしたのですわ」
「若様への毒は、ハインツ様が仕組みましたの」
マルタさんは、続けた。
「私は、菓子を運ばされただけですわ。中身が毒だとは、知りませんでしたの」
「知らなかった、だと?」
義兄様の声が、鋭くなった。
「俺が死にかけてるのに、知らなかったで済むと」
「いいえ」
マルタさんは、首を振った。
「済みませんわ。済むはずがありません」
膝をついた。
額を床につけた。
「でも、お嬢様だけは。お嬢様だけは、守りたかったのですわ」
その背中が、小さく震えていた。
「私が愚かでしたわ。ハインツ様を止められず、若様を傷つけ、お嬢様を怯えさせた」
声が、嗚咽に変わった。
「殺してくださいませ。それで、気が済むなら」
沈黙が、落ちた。
長い、長い沈黙。
暖炉の火だけが、かすかに揺れていた。
「マルタさん」
私は、ベッドから降りた。
小さな足で、床を歩いた。
マルタさんの前に、膝をついた。
「顔、上げて」
マルタさんが、顔を上げた。
涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃの顔。
でも、その目は、まっすぐに私を見ていた。
「ころさない、よ」
私は言った。
「だって、マルタさん……私を」
小さな手が、言葉の代わりに動いた。
マルタさんの手を取ろうとして、でも届かなくて、もう一度手を伸ばす。
「守って、くれた、でしょう?」
マルタさんの目から、また涙が溢れた。
「あの人の前に、立ってくれた」
私は、ようやくマルタさんの手を取った。
包帯だらけの、火傷だらけの手。
「それだけで、十分だよ」
「お嬢、様」
マルタさんの声が、詰まった。
「私は」
「わかってる」
私は、小さく笑った。
「怖かったんでしょう? 私も、ずっと怖かった」
マルタさんの肩が、びくりと跳ねた。
「だから、もう一人にしない」
私は、マルタさんの手を握りしめた。
「一緒に、いよう?」
お父様が、立ち上がった。
大きな影が、私たちの上に落ちた。
でも、怖くなかった。
「マルタ」
低い声。
「お前は、俺の子を守った」
短い沈黙。
「それで、十分だ」
その言葉に、マルタさんは泣き崩れた。
「ありがとう、ございます」
嗚咽混じりの声が、部屋に響いた。
「ありがとう、ございます」
私は、マルタさんの背中をさすった。
小さな手で、何度も、何度も。
義兄様は、何も言わなかった。
でも、もう睨んではいなかった。
唇を噛んで、シーツを握りしめている。
五歳の妹が、自分より先に手を差し伸べた。
その事実が、彼の胸に刺さっているのが、私にもわかった。
それから、マルタさんは話し続けた。
ハインツの計画。
王家の思惑。
そして、偽りの罪を着せる計画のこと。
私が心の中で「冤罪事件」と呼んでいた、あの出来事。
「私は、昨晩までハインツ様へ報告をしておりましたの」
マルタさんの声は、もう震えていなかった。
「その時に聞いたのですわ。『三日後に使者が来る。その時が、決着だ』と」
「決着、だと」
義兄様が、眉をひそめた。
「チビが、何を」
「若様への毒殺未遂の罪ですわ」
息が、止まった。
やはり。
前世の記憶通りだ。
私が、義兄様を毒殺しようとした。
その罪で、処刑される。
「でたらめだ」
義兄様が、吐き捨てるように言った。
「チビが俺を殺そうとするわけねえだろ」
「証拠は、でっち上げられますわ」
マルタさんが、静かに言った。
「すり替えられた飴、偽造された手紙。すべて、ハインツ様が用意していますの」
「くそっ」
義兄様が、拳を握りしめた。
「俺が、証言すればいい。チビは無実だと」
「若様の証言は、却下されますわ」
マルタさんは、首を振った。
「毒で意識が混濁していた、と。そう言われれば、終わりですわ」
言葉が、途絶えた。
窓の外では、雪が降り続けている。
「お父様」
私は、お父様を見上げた。
「私……どう、したら、いい?」
お父様は、私を見下ろした。
灰色の瞳が、暖炉の炎を映して燃えていた。
眉間に深い皺が刻まれ、口元は真一文字に結ばれている。
「任せろ」
お父様……すごく、怖い顔してる
私の心臓が、きゅっと縮んだ。
怒ってる? 私が余計なことしたから?
「お前は、何もするな」
やっぱり……邪魔だって、思われてる……?
お父様が、私の頭に手を置いた。
大きくて、温かい手。
「守る。必ず」
え。その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れた。
怖かった。
ずっと、怖かった。
前世の記憶が蘇るたびに、死の恐怖に怯えていた。
でも。
「……ありがとう、お父様」
私は、お父様の手に頬を寄せた。
「信じる」
夜が、更けていった。
マルタさんは、別室で休むことになった。
執事さんに連れられて、部屋を出ていく。
振り返った彼女の目は、もう涙で濡れていなかった。
「お嬢様」
小さく頭を下げた。
「必ず、お守りいたしますわ」
私は、小さく頷いた。
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
部屋には、私と義兄様とお父様だけが残った。
「お父様」
義兄様が、声を上げた。
「俺にも、何かさせてくれ」
お父様が、義兄様を見た。
「休め」
「嫌だ」
義兄様が、身体を起こそうとした。
腕が震える。
でも、目だけは燃えていた。
「チビが、殺されるかもしれないんだ」
その言葉に、私の心臓が跳ねた。
「俺は、黙って寝てろって言うのかよ」
お父様は、しばらく義兄様を見つめていた。
それから、短く言った。
「回復を優先しろ」
「だから」
「回復が、お前の仕事だ」
義兄様の言葉を、遮った。
「立てなければ、守れない」
義兄様は、口を噤んだ。
悔しそうに、拳を握りしめた。
でも、反論はしなかった。
「……わかった」
小さく、呟いた。
「絶対、立ってやる。三日で」
お父様が、部屋を出ていった。
「準備がある」と言い残して。
何の準備かは、聞かなかった。
聞かなくても、わかっていた。
私を守るための、準備。
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
部屋には、私と義兄様だけが残った。
炎の揺らめきが、壁に影を落としていた。
窓の外は、もう真っ暗だった。
雪は、まだ降り続けている。
「チビ」
義兄様の声が、静かに響いた。
「こっち来い」
私は、義兄様のベッドに近づいた。
彼は、ベッドの端に寄って、隙間を作った。
「座れ」
私は、そこに腰を下ろした。
義兄様の体温が、隣から伝わってきた。
しばらく、沈黙が続いた。
「俺さ」
義兄様が、ぽつりと言った。
「お前のこと、嫌いだった」
私は、黙って頷いた。
知っていた。
「妾の子のくせに、って。父上の気を引こうとしてる、って」
義兄様の声が、少し震えた。
「でも、違った」
私は、義兄様を見上げた。
「お前は、ただ怯えてただけだった。殺されるかもって、びくびくしながら生きてた」
義兄様の目が、私を捉えた。
「俺は、それに気づかなかった」
「義兄様」
「俺が、お前を守るべきだったんだ」
義兄様の声が、掠れた。
「兄として。でも、俺は」
言葉が、途切れた。
私は、義兄様の手に、自分の手を重ねた。
小さな手と、大きな手。
「義兄様」
私は、静かに言った。
「もう、いいよ」
「よくねえ」
義兄様が、首を振った。
「俺は、間違えた。お前を敵だと思った。馬鹿にした」
その目が、真っ直ぐに私を見た。
「だから」
義兄様の手が、私の頭に伸びた。
大きな手。
まだ熱がある、少し震える手。
でも、その手は、優しく私の頭を撫でた。
「俺は、もう間違えない」
義兄様の声が、静かに響いた。
「お前は……」
言葉が、途切れた。
照れくさそうに視線を逸らす。
頬が、わずかに赤い。
「……俺の、チビだ」
涙が、溢れた。
止められなかった。
止めようとも、思わなかった。
「義兄、様」
私は、義兄様の胸に顔を埋めた。
「ありがとう」
義兄様の手が、私の背中をさすった。
不器用に、ぎこちなく。
でも、確かに、温かく。
「泣くな」
義兄様の声の端が、わずかに上擦った。
「俺が、悪者みたいじゃねえか」
「だって」
私は、顔を上げた。
涙で、視界がぼやけていた。
「嬉しいんだもん」
義兄様の頬が、さらに赤くなった。
「……うるせえ」
その言葉は、いつもより、ずっと優しかった。
窓の外では、雪が降り続いていた。
白い、冷たい雪。
でも、この部屋の中だけは、温かかった。
私は、義兄様の隣で目を閉じた。
怖い。
まだ、怖い。
三日後、何が起こるかわからない。
でも。
一人じゃない。
お父様がいる。
義兄様がいる。
マルタさんがいる。
ガロット先生がいる。
執事さんがいる。
みんなが、私を守ってくれる。
だから、大丈夫。
「おやすみ、義兄様」
小さく、呟いた。
「……おやすみ」
義兄様の声が、静かに返ってきた。
私は、そのまま眠りに落ちた。
嵐の前の、静かな夜。
でも、その静けさは、冷たくなかった。
家族の温もりに包まれた、穏やかな夜だった。
その頃。
屋敷の外、雪に覆われた街道を、一台の馬車が走っていた。
窓から覗く景色は、真っ白な闇。
風が、馬車を揺らしていた。
中に座っているのは、二人の男。
「撤退、とは」
一人が、低く呟いた。
白い髪、白い肌、赤い目。
ヴェラムだった。
「環境汚染が甚だしく、検体への接近が困難でした」
淡々とした声。
相変わらず、感情のない声。
「言い訳は聞いていない」
もう一人の男が、冷たく言った。
闇の中で、その顔は見えなかった。
ただ、指に嵌められた紋章入りの指輪だけが、わずかな光を反射していた。
「あの子供を、生かしておくわけにはいかん」
「承知しています」
ヴェラムが、首だけで頷いた。
「穢れた血は、いずれ浄化されねばなりません」
「穢れた、ではない」
男の声が、低くなった。
「あれは、王家にとって最大の脅威だ」
会話が、途切れた。
馬車が、揺れた。
風が、窓を叩いた。
「興味深いですね」
ヴェラムが、ぽつりと言った。
「何がだ」
「検体番号二。あの子供には、何か特別なものがある」
赤い目が、闇の中で光った。
「あの屋敷で、私は静寂を感じました」
「静寂?」
「はい。北部大公閣下の周囲には、常に騒音が満ちている。しかし、あの子供の傍だけは」
ヴェラムの声が、わずかに揺れた。
「静かでした」
男は、しばらく黙っていた。
それから、低く笑った。
「やはり、か」
その声には、嘲りと、何か別のものが混じっていた。
「あの子供は、まさに『あれ』の器だ」
「詳細を」
「知る必要はない」
男が、言葉を遮った。
「お前は、命令に従えばいい」
ヴェラムは、何も答えなかった。
ただ、赤い目を細めただけだった。
「三日後、使者として北部大公の屋敷に入る」
男の声が、暗闇の中に響いた。
「その時が、終わりだ」
馬車は、雪の中を走り続けた。
白い闇、白い雪、白い嵐。
嵐は、もうすぐそこまで来ていた。
-----
今日の話を読み終えたところ、失礼します。
タイトル
【死に戻り令嬢は復讐鬼になることを選んだ。今度は私が殺す側に回る】
新作のお知らせです。ぜひ興味持たれた方はこの作品も完結目前のため次の1冊にしてくれると嬉しいです!
ガロット先生の「生命の海」。
床に染みついた匂いは、どれだけ窓を開けても消えなかった。
だけど、不思議と嫌ではなかった。
あの匂いが、私を守ってくれたのだから。
「レオンハルト様のお部屋は、本日中に清掃が完了いたします」
執事さんが言った。
目はまだ少し赤い。
でも、いつもの毅然とした声に戻っていた。
「それまでは、西棟の客間をお使いください」
お父様が頷く。
私を抱いたまま、立ち上がった。
「移す」
その一言で、胸の奥が緩んだ。
私たちは、義兄様ごと客間に移動した。
義兄様は担架で運ばれた。
抵抗しようとしたけれど、起き上がることすらできなかった。
悔しそうに歯を食いしばる姿が、少しだけ可愛いと思ってしまった。
客間は、義兄様の部屋より広かった。
大きな暖炉に火が入り、部屋全体が炎の色に包まれている。
ベッドが二つ。
一つには義兄様が寝かされ、もう一つには私が座らされた。
「お父様も、座って」
私は言った。
お父様は、少しだけ驚いた顔をした。
それから、椅子を引き寄せて腰を下ろした。
誰も、口を開かなかった。
暖炉の薪が、ぱちぱちと爆ぜる。
窓の外では、まだ雪が降り続けている。
白い、冷たい雪。
でも、この部屋の中だけは、温かい。
「マルタ」
お父様が言った。
「話せ」
マルタさんは、部屋の隅に立っていた。
火傷だらけの両手を、胸の前で握りしめている。
頬には、まだ涙の跡が残っていた。
でも、もう震えてはいなかった。
小さく頷いて、マルタさんは話し始めた。
「私は、王家の命で、この屋敷に入り込みましたの」
声は、途切れ途切れだった。
それでも、止まらなかった。
「北部大公家の内情を探れ、と」
お父様は、何も言わなかった。
ただ、じっとマルタさんを見つめていた。
「最初は、それだけでしたわ」
マルタさんの目が、遠くを見た。
「でも、半年前に変わりました。ハインツ様が……いえ、あの方が来てから」
その名前を口にした瞬間、マルタさんの肩が震えた。
「命令が、変わったのですわ」
「どう変わった」
お父様の声は、低く短かった。
でも、責めるような響きはなかった。
マルタさんの声が、掠れた。
「お嬢様と、若様を」
息を吸い込む音が、部屋に響いた。
「殺せと」
誰も、息をしなかった。
暖炉の火が、一瞬だけ揺れた気がした。
風が吹いたわけではない。
でも、確かに揺れた。
「ふざけんな」
義兄様の声が、低く響いた。
「なんで、お前らが」
身体を起こそうとして、また腕が震える。
でも、目だけはしっかりとマルタさんを睨んでいた。
「俺たちを、殺す理由が、どこにある」
「私にも、わかりませんでしたわ」
マルタさんは、静かに答えた。
「ただ、言われたのですわ。『北部大公の子供は、生かしておけない』と」
私は、小さく息を呑んだ。
知っていた。
前世の記憶で、知っていた。
私が処刑される未来を。
義兄様が毒殺される未来を。
でも、「なぜ」なのかは、知らなかった。
前世で読んだ物語には、そこまで書かれていなかった。
「続けろ」
お父様が言った。
「でも、私にはできませんでしたの」
マルタさんの声が、震えた。
「お嬢様は、まだ五歳です。何も知らない、ただの子供ですわ」
涙が、また頬を伝った。
「だから、愚かに見せようとしました。本を取り上げ、刺繍をさせ、何も知らない子供のふりをさせようと」
私は、マルタさんを見つめた。
ずっと、敵だと思っていた。
冷たい人だと思っていた。
でも、違った。
「でも、ハインツ様は」
マルタさんの声が、震えた。
「しびれを切らしたのですわ」
「若様への毒は、ハインツ様が仕組みましたの」
マルタさんは、続けた。
「私は、菓子を運ばされただけですわ。中身が毒だとは、知りませんでしたの」
「知らなかった、だと?」
義兄様の声が、鋭くなった。
「俺が死にかけてるのに、知らなかったで済むと」
「いいえ」
マルタさんは、首を振った。
「済みませんわ。済むはずがありません」
膝をついた。
額を床につけた。
「でも、お嬢様だけは。お嬢様だけは、守りたかったのですわ」
その背中が、小さく震えていた。
「私が愚かでしたわ。ハインツ様を止められず、若様を傷つけ、お嬢様を怯えさせた」
声が、嗚咽に変わった。
「殺してくださいませ。それで、気が済むなら」
沈黙が、落ちた。
長い、長い沈黙。
暖炉の火だけが、かすかに揺れていた。
「マルタさん」
私は、ベッドから降りた。
小さな足で、床を歩いた。
マルタさんの前に、膝をついた。
「顔、上げて」
マルタさんが、顔を上げた。
涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃの顔。
でも、その目は、まっすぐに私を見ていた。
「ころさない、よ」
私は言った。
「だって、マルタさん……私を」
小さな手が、言葉の代わりに動いた。
マルタさんの手を取ろうとして、でも届かなくて、もう一度手を伸ばす。
「守って、くれた、でしょう?」
マルタさんの目から、また涙が溢れた。
「あの人の前に、立ってくれた」
私は、ようやくマルタさんの手を取った。
包帯だらけの、火傷だらけの手。
「それだけで、十分だよ」
「お嬢、様」
マルタさんの声が、詰まった。
「私は」
「わかってる」
私は、小さく笑った。
「怖かったんでしょう? 私も、ずっと怖かった」
マルタさんの肩が、びくりと跳ねた。
「だから、もう一人にしない」
私は、マルタさんの手を握りしめた。
「一緒に、いよう?」
お父様が、立ち上がった。
大きな影が、私たちの上に落ちた。
でも、怖くなかった。
「マルタ」
低い声。
「お前は、俺の子を守った」
短い沈黙。
「それで、十分だ」
その言葉に、マルタさんは泣き崩れた。
「ありがとう、ございます」
嗚咽混じりの声が、部屋に響いた。
「ありがとう、ございます」
私は、マルタさんの背中をさすった。
小さな手で、何度も、何度も。
義兄様は、何も言わなかった。
でも、もう睨んではいなかった。
唇を噛んで、シーツを握りしめている。
五歳の妹が、自分より先に手を差し伸べた。
その事実が、彼の胸に刺さっているのが、私にもわかった。
それから、マルタさんは話し続けた。
ハインツの計画。
王家の思惑。
そして、偽りの罪を着せる計画のこと。
私が心の中で「冤罪事件」と呼んでいた、あの出来事。
「私は、昨晩までハインツ様へ報告をしておりましたの」
マルタさんの声は、もう震えていなかった。
「その時に聞いたのですわ。『三日後に使者が来る。その時が、決着だ』と」
「決着、だと」
義兄様が、眉をひそめた。
「チビが、何を」
「若様への毒殺未遂の罪ですわ」
息が、止まった。
やはり。
前世の記憶通りだ。
私が、義兄様を毒殺しようとした。
その罪で、処刑される。
「でたらめだ」
義兄様が、吐き捨てるように言った。
「チビが俺を殺そうとするわけねえだろ」
「証拠は、でっち上げられますわ」
マルタさんが、静かに言った。
「すり替えられた飴、偽造された手紙。すべて、ハインツ様が用意していますの」
「くそっ」
義兄様が、拳を握りしめた。
「俺が、証言すればいい。チビは無実だと」
「若様の証言は、却下されますわ」
マルタさんは、首を振った。
「毒で意識が混濁していた、と。そう言われれば、終わりですわ」
言葉が、途絶えた。
窓の外では、雪が降り続けている。
「お父様」
私は、お父様を見上げた。
「私……どう、したら、いい?」
お父様は、私を見下ろした。
灰色の瞳が、暖炉の炎を映して燃えていた。
眉間に深い皺が刻まれ、口元は真一文字に結ばれている。
「任せろ」
お父様……すごく、怖い顔してる
私の心臓が、きゅっと縮んだ。
怒ってる? 私が余計なことしたから?
「お前は、何もするな」
やっぱり……邪魔だって、思われてる……?
お父様が、私の頭に手を置いた。
大きくて、温かい手。
「守る。必ず」
え。その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れた。
怖かった。
ずっと、怖かった。
前世の記憶が蘇るたびに、死の恐怖に怯えていた。
でも。
「……ありがとう、お父様」
私は、お父様の手に頬を寄せた。
「信じる」
夜が、更けていった。
マルタさんは、別室で休むことになった。
執事さんに連れられて、部屋を出ていく。
振り返った彼女の目は、もう涙で濡れていなかった。
「お嬢様」
小さく頭を下げた。
「必ず、お守りいたしますわ」
私は、小さく頷いた。
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
部屋には、私と義兄様とお父様だけが残った。
「お父様」
義兄様が、声を上げた。
「俺にも、何かさせてくれ」
お父様が、義兄様を見た。
「休め」
「嫌だ」
義兄様が、身体を起こそうとした。
腕が震える。
でも、目だけは燃えていた。
「チビが、殺されるかもしれないんだ」
その言葉に、私の心臓が跳ねた。
「俺は、黙って寝てろって言うのかよ」
お父様は、しばらく義兄様を見つめていた。
それから、短く言った。
「回復を優先しろ」
「だから」
「回復が、お前の仕事だ」
義兄様の言葉を、遮った。
「立てなければ、守れない」
義兄様は、口を噤んだ。
悔しそうに、拳を握りしめた。
でも、反論はしなかった。
「……わかった」
小さく、呟いた。
「絶対、立ってやる。三日で」
お父様が、部屋を出ていった。
「準備がある」と言い残して。
何の準備かは、聞かなかった。
聞かなくても、わかっていた。
私を守るための、準備。
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
部屋には、私と義兄様だけが残った。
炎の揺らめきが、壁に影を落としていた。
窓の外は、もう真っ暗だった。
雪は、まだ降り続けている。
「チビ」
義兄様の声が、静かに響いた。
「こっち来い」
私は、義兄様のベッドに近づいた。
彼は、ベッドの端に寄って、隙間を作った。
「座れ」
私は、そこに腰を下ろした。
義兄様の体温が、隣から伝わってきた。
しばらく、沈黙が続いた。
「俺さ」
義兄様が、ぽつりと言った。
「お前のこと、嫌いだった」
私は、黙って頷いた。
知っていた。
「妾の子のくせに、って。父上の気を引こうとしてる、って」
義兄様の声が、少し震えた。
「でも、違った」
私は、義兄様を見上げた。
「お前は、ただ怯えてただけだった。殺されるかもって、びくびくしながら生きてた」
義兄様の目が、私を捉えた。
「俺は、それに気づかなかった」
「義兄様」
「俺が、お前を守るべきだったんだ」
義兄様の声が、掠れた。
「兄として。でも、俺は」
言葉が、途切れた。
私は、義兄様の手に、自分の手を重ねた。
小さな手と、大きな手。
「義兄様」
私は、静かに言った。
「もう、いいよ」
「よくねえ」
義兄様が、首を振った。
「俺は、間違えた。お前を敵だと思った。馬鹿にした」
その目が、真っ直ぐに私を見た。
「だから」
義兄様の手が、私の頭に伸びた。
大きな手。
まだ熱がある、少し震える手。
でも、その手は、優しく私の頭を撫でた。
「俺は、もう間違えない」
義兄様の声が、静かに響いた。
「お前は……」
言葉が、途切れた。
照れくさそうに視線を逸らす。
頬が、わずかに赤い。
「……俺の、チビだ」
涙が、溢れた。
止められなかった。
止めようとも、思わなかった。
「義兄、様」
私は、義兄様の胸に顔を埋めた。
「ありがとう」
義兄様の手が、私の背中をさすった。
不器用に、ぎこちなく。
でも、確かに、温かく。
「泣くな」
義兄様の声の端が、わずかに上擦った。
「俺が、悪者みたいじゃねえか」
「だって」
私は、顔を上げた。
涙で、視界がぼやけていた。
「嬉しいんだもん」
義兄様の頬が、さらに赤くなった。
「……うるせえ」
その言葉は、いつもより、ずっと優しかった。
窓の外では、雪が降り続いていた。
白い、冷たい雪。
でも、この部屋の中だけは、温かかった。
私は、義兄様の隣で目を閉じた。
怖い。
まだ、怖い。
三日後、何が起こるかわからない。
でも。
一人じゃない。
お父様がいる。
義兄様がいる。
マルタさんがいる。
ガロット先生がいる。
執事さんがいる。
みんなが、私を守ってくれる。
だから、大丈夫。
「おやすみ、義兄様」
小さく、呟いた。
「……おやすみ」
義兄様の声が、静かに返ってきた。
私は、そのまま眠りに落ちた。
嵐の前の、静かな夜。
でも、その静けさは、冷たくなかった。
家族の温もりに包まれた、穏やかな夜だった。
その頃。
屋敷の外、雪に覆われた街道を、一台の馬車が走っていた。
窓から覗く景色は、真っ白な闇。
風が、馬車を揺らしていた。
中に座っているのは、二人の男。
「撤退、とは」
一人が、低く呟いた。
白い髪、白い肌、赤い目。
ヴェラムだった。
「環境汚染が甚だしく、検体への接近が困難でした」
淡々とした声。
相変わらず、感情のない声。
「言い訳は聞いていない」
もう一人の男が、冷たく言った。
闇の中で、その顔は見えなかった。
ただ、指に嵌められた紋章入りの指輪だけが、わずかな光を反射していた。
「あの子供を、生かしておくわけにはいかん」
「承知しています」
ヴェラムが、首だけで頷いた。
「穢れた血は、いずれ浄化されねばなりません」
「穢れた、ではない」
男の声が、低くなった。
「あれは、王家にとって最大の脅威だ」
会話が、途切れた。
馬車が、揺れた。
風が、窓を叩いた。
「興味深いですね」
ヴェラムが、ぽつりと言った。
「何がだ」
「検体番号二。あの子供には、何か特別なものがある」
赤い目が、闇の中で光った。
「あの屋敷で、私は静寂を感じました」
「静寂?」
「はい。北部大公閣下の周囲には、常に騒音が満ちている。しかし、あの子供の傍だけは」
ヴェラムの声が、わずかに揺れた。
「静かでした」
男は、しばらく黙っていた。
それから、低く笑った。
「やはり、か」
その声には、嘲りと、何か別のものが混じっていた。
「あの子供は、まさに『あれ』の器だ」
「詳細を」
「知る必要はない」
男が、言葉を遮った。
「お前は、命令に従えばいい」
ヴェラムは、何も答えなかった。
ただ、赤い目を細めただけだった。
「三日後、使者として北部大公の屋敷に入る」
男の声が、暗闇の中に響いた。
「その時が、終わりだ」
馬車は、雪の中を走り続けた。
白い闇、白い雪、白い嵐。
嵐は、もうすぐそこまで来ていた。
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今日の話を読み終えたところ、失礼します。
タイトル
【死に戻り令嬢は復讐鬼になることを選んだ。今度は私が殺す側に回る】
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