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剣を研ぐ者たち
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夜が明けても、雪は止まなかった。
客間の窓から見える景色は、白一色。
分厚い雲が陽を遮り、朝なのか夕なのかも判然としない。
ただ、寒い。
肌を刺すような冷気が、窓硝子越しに伝わってくる。
「チビ。起きてるか」
義兄様の声に、私は振り返った。
驚いた。
義兄様がベッドに腰掛けている。
自力で身体を起こして、壁に背を預けていた。
「義兄様、大丈夫なの?」
「問題ねぇ」
義兄様の声には、まだ掠れが残っていた。
頬は青白く、額には汗が滲んでいる。
明らかに無理をしている。
でも、その目だけは燃えていた。
「今日は何日だ」
「えっと、お父様が言ってた使者の到着まで、あと二日」
「二日か」
義兄様が、拳を握りしめた。
「足りねぇな。でも、やるしかねぇ」
朝食が運ばれてきた。
執事さんが扉を開けた瞬間、私は目を見張った。
いつもの執事さんとは、何かが違う。
背筋の伸び方。視線の鋭さ。そして、腰に吊るされた剣。
「おはようございます、お嬢様、若様」
声はいつもと同じ、穏やかな響き。
でも、その奥に硬いものが潜んでいた。
「執事さん、剣なんか持ってたの?」
「ええ。昔は、少々」
執事さんは、にこりと笑った。
けれど、その笑顔には刃物のような鋭さがあった。
「本日より、屋敷は臨戦態勢に入ります」
私の心臓が、きゅっと縮んだ。
臨戦態勢。
その言葉の重さが、空気を凍りつかせる。
「旦那様より、お嬢様と若様にお伝えするよう仰せつかりました」
執事さんが、一礼した。
「本日、使者を迎える準備を始めます。お二人は、この部屋からお出にならぬよう」
「軟禁か」
義兄様が、低く呟いた。
「保護でございます」
執事さんの返答は、穏やかだった。
けれど、有無を言わせぬ響きがあった。
執事さんが去った後、私はベッドの端に座り込んだ。
怖い。
やっぱり、怖い。
前世の記憶が、頭の中を駆け巡る。
処刑される未来。断頭台に上る自分の姿。
群衆の罵声。冷たい刃。
落ち着け、落ち着け私。
深呼吸をする。
両手を組んで、ぎゅっと握りしめる。
お父様が守るって言った。信じるんだ。
「おい」
義兄様の声が、私の思考を断ち切った。
「手、震えてんぞ」
見ると、確かに震えていた。
小さな指先が、かたかたと揺れている。
「あ。ごめんなさい」
「謝んな」
義兄様が、のろのろとベッドから降りた。
足元がおぼつかない。壁に手をついて、ようやく立っている。
「義兄様、駄目だよ、寝てて」
「うるせぇ」
義兄様が、私の隣に来た。
どすん、と座り込む。肩が触れ合った。
「俺がいるだろ」
ぶっきらぼうな声。
でも、その温もりが、私の震えを止めた。
「二日あれば足りる。俺は立てるようになる。剣も握れる」
義兄様が、自分の右手を見つめた。
まだ細かく震えている手を、それでも何度も握り直す。
「お前を守れるくらいにはな」
昼過ぎ。
部屋の外から、足音が絶え間なく響いていた。
廊下を行き交う人々。
重い物を運ぶ音。剣と剣がぶつかる音。
誰かが低い声で指示を出している。
何が起きてるんだろう。
扉の前に立ち、耳をすませた。
「東門に三人追加」
「承知した。南棟の見回りは?」
「バルバロス殿がご指示の通り、倍に増やしてある」
騎士たちの声だ。
真剣な、緊張した声。
私は、そっと窓に近づいた。
中庭が見える。
息を呑んだ。
中庭には、騎士たちが並んでいた。
十人や二十人ではない。百人近くはいるだろう。
全員が鎧を纏い、剣を腰に佩いている。
その先頭に、お父様が立っていた。
黒い外套を翻し、騎士たちを見渡している。
口元は動いているが、声は聞こえない。
けれど、騎士たちの背筋がさらに伸びるのが見えた。
威圧感。
窓越しでも伝わってくる、絶対的な存在感。
あれが、戦場のお父様なのかな。
恐ろしい。
でも、どこか安心もする。
あの人が味方なのだと思うと、怖さが和らいだ。
夕刻。
マルタさんが、着替えを持ってきてくれた。
「お嬢様、失礼いたしますわ」
扉が開く。
マルタさんの手には、真新しいドレスが掛かっていた。
「明日のためのお召し物ですの」
「明日?」
「使者を迎える際の正装ですわ」
マルタさんの声は、落ち着いていた。
でも、その目の奥には決意の色があった。
「私も、明日は証言いたしますわ」
私の心臓が、跳ねた。
「マルタさん」
「怖くないといえば嘘になりますわ」
マルタさんが、静かに微笑んだ。
その笑顔は、どこか透き通って見えた。
「でも、もう逃げませんの」
マルタさんが、私の前に膝をついた。
包帯が巻かれた手で、私の手を取る。
「お嬢様が、私を許してくださいました」
その手が、かすかに震えていた。
「だから私は、お嬢様のために戦いますわ」
私は、マルタさんの手を握り返した。
「マルタさん」
「はい」
「怖くないよ」
声が、震えた。
嘘だ。本当は怖い。
「だって、私がいるもん」
マルタさんの目が、大きく見開かれた。
そして、ゆっくりと潤んでいった。
「お嬢様」
「一緒に、戦おう?」
マルタさんが、深く頭を下げた。
肩が震えている。泣いているのかもしれない。
「承りましたわ」
その声は、涙で濡れていた。
けれど、力強かった。
夜。
お父様が、部屋に来た。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
冷たく、鋭く、研ぎ澄まされた空気。
「お父様」
私は、ベッドから降りた。
お父様の足元まで駆け寄る。
お父様が、私を見下ろした。
灰色の瞳が、暖炉の炎を映して揺れている。
「怖いか」
私は、少しだけ迷った。
嘘をつくべきか、正直に言うべきか。
「怖い」
正直に言った。
「でも、お父様がいるから大丈夫」
お父様の眉が、かすかに動いた。
驚いているのだろうか。
大きな手が、私の頭に乗せられた。
温かい。ごつごつした、武人の手。
「明日、終わらせる」
短い言葉。
でも、その一言に込められた重みは計り知れない。
「お父様」
「なんだ」
「約束して」
私は、お父様の外套の裾を掴んだ。
「怪我しないで。帰ってきて」
お父様が、私を見つめた。
長い、長い沈黙。
そして。
「約束する」
その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れた。
「ありがとう」
お父様の手が、私の頭を撫でた。
不器用に、ぎこちなく。
でも、それがたまらなく温かかった。
お父様が去った後。
義兄様が、ベッドから声をかけた。
「チビ」
「なに?」
「俺も約束する」
義兄様が、壁に立てかけてあった木剣を手に取った。
ゆっくりと、構えを作る。腕はまだ震えている。
「お前の傍から、離れねぇ」
私は、涙を拭った。
「うん」
「だから、お前も約束しろ」
「なにを?」
義兄様が、木剣を下ろした。
そして、真っ直ぐに私を見た。
「何があっても、俺の後ろにいろ」
その目は、真剣だった。
熱を帯びた、燃えるような眼差し。
「義兄様かっこいい」
「うるせぇ」
義兄様の頬が、かすかに赤くなった。
でも、目は逸らさなかった。
「約束しろ」
「うん。約束する」
その頃。
北部大公領の街道を、一列の馬車が進んでいた。
先頭の馬車には、王家の紋章が掲げられている。
雪を巻き上げながら、ゆっくりと北へ向かう。
馬車の中。
ヴェラムは、窓の外を見つめていた。
「予定より早いな」
向かい側に座る男が、低く呟いた。
闇の中で、その顔は見えない。
ただ、指に嵌められた紋章入りの指輪だけが、かすかに光っていた。
「雪道にしては順調です」
ヴェラムの声には、抑揚がなかった。
「明日の夕刻には、屋敷に到着できるかと」
「良い」
男が、低く笑った。
「あれが目覚める前に、終わらせなければならん」
ヴェラムの赤い目が、わずかに細くなった。
「あれ、とは」
「知る必要はない」
男の声が、冷たく響いた。
「お前は、与えられた役割を果たせばいい」
沈黙が落ちた。
馬車の車輪が雪を踏む音だけが、暗闇に響いていた。
「北部大公は、抵抗するでしょうか」
ヴェラムが、静かに問うた。
「するだろうな」
男の声に、嘲りが混じった。
「だが、無駄だ。王家の勅命に逆らえば、謀反。領地没収、一族郎党処刑」
男の指輪が、闇の中で光った。
「あの男は、娘を選ぶか。領民を選ぶか」
ヴェラムは、何も答えなかった。
ただ、窓の外を見つめていた。
白い雪。
白い道。
白い、白い世界。
その先に、北部大公の屋敷がある。
静寂をもたらす、あの子供がいる。
ヴェラムの口元が、かすかに歪んだ。
それが笑みなのか、別の何かなのかは、わからなかった。
屋敷では、誰も眠っていなかった。
騎士たちは、夜通し剣を研いでいた。
使用人たちは、明日の準備に追われていた。
執事は、書類の山と格闘していた。
そして。
書斎で、ヴェルナーは一人、立っていた。
机の上には、一枚の書状。
王家の紋章が押された、勅命の写し。
ヴェルナーは、それを見下ろした。
灰色の瞳に、炎が揺れていた。
セシリア。
心の中で、その名を呼んだ。
俺は、もう迷わない。
娘を守る。お前との約束を、今度こそ果たす。
たとえ、王家を敵に回しても。
たとえ、領地を失っても。
たとえ、この命が尽きても。
あの子だけは、守り抜く。
ヴェルナーは、書状を手に取った。
そして、静かに破り捨てた。
「集めろ」
扉の外に控えていた執事に、短く告げた。
「夜明け前に、全員だ」
嵐が、近づいていた。
けれど、屋敷の中は不思議と静かだった。
剣を研ぐ者たちの、静かな決意が満ちていた。
明日、すべてが決まる。
-----
今日の話を読み終えたところ、失礼します。
タイトル
【死に戻り令嬢は復讐鬼になることを選んだ。今度は私が殺す側に回る】
新作のお知らせです。ぜひ興味持たれた方はこの作品も完結目前のため次の1冊にしてくれると嬉しいです!
客間の窓から見える景色は、白一色。
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ただ、寒い。
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「チビ。起きてるか」
義兄様の声に、私は振り返った。
驚いた。
義兄様がベッドに腰掛けている。
自力で身体を起こして、壁に背を預けていた。
「義兄様、大丈夫なの?」
「問題ねぇ」
義兄様の声には、まだ掠れが残っていた。
頬は青白く、額には汗が滲んでいる。
明らかに無理をしている。
でも、その目だけは燃えていた。
「今日は何日だ」
「えっと、お父様が言ってた使者の到着まで、あと二日」
「二日か」
義兄様が、拳を握りしめた。
「足りねぇな。でも、やるしかねぇ」
朝食が運ばれてきた。
執事さんが扉を開けた瞬間、私は目を見張った。
いつもの執事さんとは、何かが違う。
背筋の伸び方。視線の鋭さ。そして、腰に吊るされた剣。
「おはようございます、お嬢様、若様」
声はいつもと同じ、穏やかな響き。
でも、その奥に硬いものが潜んでいた。
「執事さん、剣なんか持ってたの?」
「ええ。昔は、少々」
執事さんは、にこりと笑った。
けれど、その笑顔には刃物のような鋭さがあった。
「本日より、屋敷は臨戦態勢に入ります」
私の心臓が、きゅっと縮んだ。
臨戦態勢。
その言葉の重さが、空気を凍りつかせる。
「旦那様より、お嬢様と若様にお伝えするよう仰せつかりました」
執事さんが、一礼した。
「本日、使者を迎える準備を始めます。お二人は、この部屋からお出にならぬよう」
「軟禁か」
義兄様が、低く呟いた。
「保護でございます」
執事さんの返答は、穏やかだった。
けれど、有無を言わせぬ響きがあった。
執事さんが去った後、私はベッドの端に座り込んだ。
怖い。
やっぱり、怖い。
前世の記憶が、頭の中を駆け巡る。
処刑される未来。断頭台に上る自分の姿。
群衆の罵声。冷たい刃。
落ち着け、落ち着け私。
深呼吸をする。
両手を組んで、ぎゅっと握りしめる。
お父様が守るって言った。信じるんだ。
「おい」
義兄様の声が、私の思考を断ち切った。
「手、震えてんぞ」
見ると、確かに震えていた。
小さな指先が、かたかたと揺れている。
「あ。ごめんなさい」
「謝んな」
義兄様が、のろのろとベッドから降りた。
足元がおぼつかない。壁に手をついて、ようやく立っている。
「義兄様、駄目だよ、寝てて」
「うるせぇ」
義兄様が、私の隣に来た。
どすん、と座り込む。肩が触れ合った。
「俺がいるだろ」
ぶっきらぼうな声。
でも、その温もりが、私の震えを止めた。
「二日あれば足りる。俺は立てるようになる。剣も握れる」
義兄様が、自分の右手を見つめた。
まだ細かく震えている手を、それでも何度も握り直す。
「お前を守れるくらいにはな」
昼過ぎ。
部屋の外から、足音が絶え間なく響いていた。
廊下を行き交う人々。
重い物を運ぶ音。剣と剣がぶつかる音。
誰かが低い声で指示を出している。
何が起きてるんだろう。
扉の前に立ち、耳をすませた。
「東門に三人追加」
「承知した。南棟の見回りは?」
「バルバロス殿がご指示の通り、倍に増やしてある」
騎士たちの声だ。
真剣な、緊張した声。
私は、そっと窓に近づいた。
中庭が見える。
息を呑んだ。
中庭には、騎士たちが並んでいた。
十人や二十人ではない。百人近くはいるだろう。
全員が鎧を纏い、剣を腰に佩いている。
その先頭に、お父様が立っていた。
黒い外套を翻し、騎士たちを見渡している。
口元は動いているが、声は聞こえない。
けれど、騎士たちの背筋がさらに伸びるのが見えた。
威圧感。
窓越しでも伝わってくる、絶対的な存在感。
あれが、戦場のお父様なのかな。
恐ろしい。
でも、どこか安心もする。
あの人が味方なのだと思うと、怖さが和らいだ。
夕刻。
マルタさんが、着替えを持ってきてくれた。
「お嬢様、失礼いたしますわ」
扉が開く。
マルタさんの手には、真新しいドレスが掛かっていた。
「明日のためのお召し物ですの」
「明日?」
「使者を迎える際の正装ですわ」
マルタさんの声は、落ち着いていた。
でも、その目の奥には決意の色があった。
「私も、明日は証言いたしますわ」
私の心臓が、跳ねた。
「マルタさん」
「怖くないといえば嘘になりますわ」
マルタさんが、静かに微笑んだ。
その笑顔は、どこか透き通って見えた。
「でも、もう逃げませんの」
マルタさんが、私の前に膝をついた。
包帯が巻かれた手で、私の手を取る。
「お嬢様が、私を許してくださいました」
その手が、かすかに震えていた。
「だから私は、お嬢様のために戦いますわ」
私は、マルタさんの手を握り返した。
「マルタさん」
「はい」
「怖くないよ」
声が、震えた。
嘘だ。本当は怖い。
「だって、私がいるもん」
マルタさんの目が、大きく見開かれた。
そして、ゆっくりと潤んでいった。
「お嬢様」
「一緒に、戦おう?」
マルタさんが、深く頭を下げた。
肩が震えている。泣いているのかもしれない。
「承りましたわ」
その声は、涙で濡れていた。
けれど、力強かった。
夜。
お父様が、部屋に来た。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
冷たく、鋭く、研ぎ澄まされた空気。
「お父様」
私は、ベッドから降りた。
お父様の足元まで駆け寄る。
お父様が、私を見下ろした。
灰色の瞳が、暖炉の炎を映して揺れている。
「怖いか」
私は、少しだけ迷った。
嘘をつくべきか、正直に言うべきか。
「怖い」
正直に言った。
「でも、お父様がいるから大丈夫」
お父様の眉が、かすかに動いた。
驚いているのだろうか。
大きな手が、私の頭に乗せられた。
温かい。ごつごつした、武人の手。
「明日、終わらせる」
短い言葉。
でも、その一言に込められた重みは計り知れない。
「お父様」
「なんだ」
「約束して」
私は、お父様の外套の裾を掴んだ。
「怪我しないで。帰ってきて」
お父様が、私を見つめた。
長い、長い沈黙。
そして。
「約束する」
その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れた。
「ありがとう」
お父様の手が、私の頭を撫でた。
不器用に、ぎこちなく。
でも、それがたまらなく温かかった。
お父様が去った後。
義兄様が、ベッドから声をかけた。
「チビ」
「なに?」
「俺も約束する」
義兄様が、壁に立てかけてあった木剣を手に取った。
ゆっくりと、構えを作る。腕はまだ震えている。
「お前の傍から、離れねぇ」
私は、涙を拭った。
「うん」
「だから、お前も約束しろ」
「なにを?」
義兄様が、木剣を下ろした。
そして、真っ直ぐに私を見た。
「何があっても、俺の後ろにいろ」
その目は、真剣だった。
熱を帯びた、燃えるような眼差し。
「義兄様かっこいい」
「うるせぇ」
義兄様の頬が、かすかに赤くなった。
でも、目は逸らさなかった。
「約束しろ」
「うん。約束する」
その頃。
北部大公領の街道を、一列の馬車が進んでいた。
先頭の馬車には、王家の紋章が掲げられている。
雪を巻き上げながら、ゆっくりと北へ向かう。
馬車の中。
ヴェラムは、窓の外を見つめていた。
「予定より早いな」
向かい側に座る男が、低く呟いた。
闇の中で、その顔は見えない。
ただ、指に嵌められた紋章入りの指輪だけが、かすかに光っていた。
「雪道にしては順調です」
ヴェラムの声には、抑揚がなかった。
「明日の夕刻には、屋敷に到着できるかと」
「良い」
男が、低く笑った。
「あれが目覚める前に、終わらせなければならん」
ヴェラムの赤い目が、わずかに細くなった。
「あれ、とは」
「知る必要はない」
男の声が、冷たく響いた。
「お前は、与えられた役割を果たせばいい」
沈黙が落ちた。
馬車の車輪が雪を踏む音だけが、暗闇に響いていた。
「北部大公は、抵抗するでしょうか」
ヴェラムが、静かに問うた。
「するだろうな」
男の声に、嘲りが混じった。
「だが、無駄だ。王家の勅命に逆らえば、謀反。領地没収、一族郎党処刑」
男の指輪が、闇の中で光った。
「あの男は、娘を選ぶか。領民を選ぶか」
ヴェラムは、何も答えなかった。
ただ、窓の外を見つめていた。
白い雪。
白い道。
白い、白い世界。
その先に、北部大公の屋敷がある。
静寂をもたらす、あの子供がいる。
ヴェラムの口元が、かすかに歪んだ。
それが笑みなのか、別の何かなのかは、わからなかった。
屋敷では、誰も眠っていなかった。
騎士たちは、夜通し剣を研いでいた。
使用人たちは、明日の準備に追われていた。
執事は、書類の山と格闘していた。
そして。
書斎で、ヴェルナーは一人、立っていた。
机の上には、一枚の書状。
王家の紋章が押された、勅命の写し。
ヴェルナーは、それを見下ろした。
灰色の瞳に、炎が揺れていた。
セシリア。
心の中で、その名を呼んだ。
俺は、もう迷わない。
娘を守る。お前との約束を、今度こそ果たす。
たとえ、王家を敵に回しても。
たとえ、領地を失っても。
たとえ、この命が尽きても。
あの子だけは、守り抜く。
ヴェルナーは、書状を手に取った。
そして、静かに破り捨てた。
「集めろ」
扉の外に控えていた執事に、短く告げた。
「夜明け前に、全員だ」
嵐が、近づいていた。
けれど、屋敷の中は不思議と静かだった。
剣を研ぐ者たちの、静かな決意が満ちていた。
明日、すべてが決まる。
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