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1章
1-5
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屋敷の中を歩いていても俺の頭はうまく整理されていなかった。目の前にはやるべきことがたくさんある。だから考えても無駄なことをぐるぐると繰り返していても意味がないのに。
きっと、ヤコフ爺さんやレオ、フルーレ司祭の言葉を聞いたからだ。考えることが多いのに自分にできることがあまりにも少ない。そしてノア様に頼ることもできない。きっとまだ自室で昼寝をしているはずだ。もうすぐ日も暮れるというのに。そのくせ夜は夜で早い時間に寝てしまうし、朝も遅くまで寝ている。よくもまあここまで眠れるものだ。
「ノア様、ただいま戻りました」
とりあえず形だけでもノックをする。昼寝をしているだろうから返事はないだろうし、今更俺が勝手に入ったところで怒られもしない。よく言えば信頼されており、悪く言えば仕事を押し付けられている。
そう思ってドアノブに手をかけると、中から小さく「ジョシュア?」と声が聞こえてきた。まさか反応があるとは思わず、驚いて手を止めてしまう。
いや、いやいやいや、そりゃ起きていてもおかしくない時間だけど。でも、今までノックをして返事なんて一度もなかった。返事もせず、ただ鷹揚と自室のベッドでくつろいている姿しか俺の記憶にはない。
それが、返事をするなんて。
一体どういうことなんだ。
「鍵は開いているから、入っていいよ」
「し、失礼します」
やけに穏やかな声に促され、そっとドアを開ける。
大きな窓から夕陽が差し込み、部屋は橙色の海みたいに美しく染め上げられていた。
「おかえり、ジョシュア」
「ただいま戻りました……ノア様」
「うん」
大きな机に向かい、ノア様は何かを真剣に書き込んでいた。こんな姿は初めて見た。執務室に置かれた机は、今までまともに使われていた記憶がない。大抵はノア様が物置にしているか、俺が代わりにここで書類の仕分けをしていた。
それなのに、今のノア様は正しく机を使っている。
滅多に使われたことのない万年筆で、真剣な様子で、何かを書いている。
一体彼に何が起きたんだろう。
「もう少し待っていてね。これを書き終えたら見回りの報告を聞くから」
「え、あ、いや……はい」
報告を聞く、だなんて。そんなことも今までなかった。俺が作成して、伯爵様に伝えていたのだ。なのに自分の耳で聞き、理解しようとしている。
こんなのまるで、まるで。
生まれ変わったかのようだ。
「ノア様」
「ん?」
静かに万年筆を滑らせるノア様に声をかけるが、返事をするだけで顔を上げようとしない。癖のあるハニーブロンドの髪がふわふわと揺れるだけ。なんとも居心地が悪くてソワソワしてしまう。
見た目は本当に変わらない。なのに中身はグッと成長したかのような。
不思議な感覚に落ちていた。
それを見透かしたかのように、ノア様は小さく笑った。
「どうしたの、ジョシュア。さっきから落ち着かないね」
「いや、その……私がいない間、何かありましたか?」
「あった、と言えばあったけど。そこまで大きなことはなかったよ」
どうせなら大きなことがあって欲しかった。人格が変わるほどの何かが起きてくれていれば、俺もまだ納得ができたというのに。ノア様にとっては大したことではないのか。ますます頭が混乱してしまう。
果たして自分はどうすればいいのか。ぐるぐる空回りする思考を必死に追いかけていると、ノア様がふと顔をあげた。目の色は、変わらない。宝石をそのまま嵌め込んだように美しく輝くエメラルドグリーンだ。少し垂れた目尻も、左目の下にある黒子も、美しくカールしたまつ毛も。何も変わらない。
変わらないはずなのに、何かが違う。
じっと見つめられたまま、足が動かなくなっていた。
「そう言えばさ、ジョシュア」
「は、はい」
ゆったりと立ち上がったノア様がこちらに近づいてくる。身につけている服も俺が最後に見たものと同じだ。白いシャツにフルオーダーのジャケット、綺麗に折り目のついたスラックス。ああ、いや。タイは結んでいなかったな。起きてから自分で結んだのか。普段はあんなにも嫌がっていたのに。
よく見るとシャツのボタンもしっかりと上まで留められている。こんなにもきちんと着込んでいる姿を久しぶりに見た。
目の前で立ち止まったノア様は、じっと俺を見つめていた。エメラルドグリーンの瞳に俺が映る。長いネイビーブルーの髪を一つに結び、菫色の目を不思議そうに細めている、いつもの俺。
こんなにも近くで見つめ合ったことは今まで一度もない。一体なんだと思っっていると、ノア様は右手をそっと俺の左首に伸ばした。剣もペンも握らないノア様の手は白くて傷ひとつない。白くて細長い指で、ゆるりと鎖骨を撫でられる。
「な、にを」
「ねえ。痣は今、何色?」
「痣……百合の痣、ですか?」
「そう。どんな色をしているの?」
俺が十歳の時、女神シエラから与えられた痣のことだろう。痣と同時に俺は光魔法を与えられ、信心深い両親は涙を流すほど喜んでいた。
その痣は光魔法を使うたびに少しずつ色が濃くなっている。ノア様は王族の血を引き継いでいるため、生まれつき光魔法を使うことができる。だから俺と同じ痣は存在しない。
痣ができてから十年経っているし、濃さなんて気にしたことなかった。だからいつもはそこまで気に留めていないが、色は確か。
「灰色だと思います」
「灰色……そうか、まだその程度なら間に合うか」
「間に合う? 何がですか」
「いや、なんでもない。ところで領民の様子はどうだった?」
「それが」
聞かれるまま、俺は領民の言っていたことをノア様に伝えた。増税が厳しくなっていること、子供が誘拐されるかのように修道院に連れて行かれていること。
ただ伯爵様のおかげでベルリアンにそこまで影響は及んでいないが、南のポルテベラや東のリベルマはかなり苦しんでいるということ。
それを静かに聞いていたノア様は、途中から何かを考え込むかのように俯き、左手で唇をしきりに触れていた。今までこんな仕草は一度も見たことがない。やはり何かが変だ。そう思い、報告を終えてもなお俺はノア様から目が離せないでいた。
「まだ何かある?」
「いいえ。その……急にご様子が変わられたと思いまして。本当に何もなかったんですか?」
「うん。いつも通り、滞りなくまた同じところからスタートだ」
「同じところ……? 何を言って」
「僕はね、ジョシュア」
口元に左手を寄せたまま、ノア様は静かに笑った。そして、まるで何事もないかのように、ごく自然な様子で。
「僕はこの物語を何度も繰り返しているんだ」
とんでもないことを言い始めた。
「は、あ?」
「タイムリープっていうのかな。いつもこの日のこの時間に戻ってくるんだ。だから今回も、特に問題なく再スタートって感じ」
「何、何を、言って」
タイムリープって、なんだ。物語? 繰り返す? 小説でもそんなの読んだことがない。
きっと、ヤコフ爺さんやレオ、フルーレ司祭の言葉を聞いたからだ。考えることが多いのに自分にできることがあまりにも少ない。そしてノア様に頼ることもできない。きっとまだ自室で昼寝をしているはずだ。もうすぐ日も暮れるというのに。そのくせ夜は夜で早い時間に寝てしまうし、朝も遅くまで寝ている。よくもまあここまで眠れるものだ。
「ノア様、ただいま戻りました」
とりあえず形だけでもノックをする。昼寝をしているだろうから返事はないだろうし、今更俺が勝手に入ったところで怒られもしない。よく言えば信頼されており、悪く言えば仕事を押し付けられている。
そう思ってドアノブに手をかけると、中から小さく「ジョシュア?」と声が聞こえてきた。まさか反応があるとは思わず、驚いて手を止めてしまう。
いや、いやいやいや、そりゃ起きていてもおかしくない時間だけど。でも、今までノックをして返事なんて一度もなかった。返事もせず、ただ鷹揚と自室のベッドでくつろいている姿しか俺の記憶にはない。
それが、返事をするなんて。
一体どういうことなんだ。
「鍵は開いているから、入っていいよ」
「し、失礼します」
やけに穏やかな声に促され、そっとドアを開ける。
大きな窓から夕陽が差し込み、部屋は橙色の海みたいに美しく染め上げられていた。
「おかえり、ジョシュア」
「ただいま戻りました……ノア様」
「うん」
大きな机に向かい、ノア様は何かを真剣に書き込んでいた。こんな姿は初めて見た。執務室に置かれた机は、今までまともに使われていた記憶がない。大抵はノア様が物置にしているか、俺が代わりにここで書類の仕分けをしていた。
それなのに、今のノア様は正しく机を使っている。
滅多に使われたことのない万年筆で、真剣な様子で、何かを書いている。
一体彼に何が起きたんだろう。
「もう少し待っていてね。これを書き終えたら見回りの報告を聞くから」
「え、あ、いや……はい」
報告を聞く、だなんて。そんなことも今までなかった。俺が作成して、伯爵様に伝えていたのだ。なのに自分の耳で聞き、理解しようとしている。
こんなのまるで、まるで。
生まれ変わったかのようだ。
「ノア様」
「ん?」
静かに万年筆を滑らせるノア様に声をかけるが、返事をするだけで顔を上げようとしない。癖のあるハニーブロンドの髪がふわふわと揺れるだけ。なんとも居心地が悪くてソワソワしてしまう。
見た目は本当に変わらない。なのに中身はグッと成長したかのような。
不思議な感覚に落ちていた。
それを見透かしたかのように、ノア様は小さく笑った。
「どうしたの、ジョシュア。さっきから落ち着かないね」
「いや、その……私がいない間、何かありましたか?」
「あった、と言えばあったけど。そこまで大きなことはなかったよ」
どうせなら大きなことがあって欲しかった。人格が変わるほどの何かが起きてくれていれば、俺もまだ納得ができたというのに。ノア様にとっては大したことではないのか。ますます頭が混乱してしまう。
果たして自分はどうすればいいのか。ぐるぐる空回りする思考を必死に追いかけていると、ノア様がふと顔をあげた。目の色は、変わらない。宝石をそのまま嵌め込んだように美しく輝くエメラルドグリーンだ。少し垂れた目尻も、左目の下にある黒子も、美しくカールしたまつ毛も。何も変わらない。
変わらないはずなのに、何かが違う。
じっと見つめられたまま、足が動かなくなっていた。
「そう言えばさ、ジョシュア」
「は、はい」
ゆったりと立ち上がったノア様がこちらに近づいてくる。身につけている服も俺が最後に見たものと同じだ。白いシャツにフルオーダーのジャケット、綺麗に折り目のついたスラックス。ああ、いや。タイは結んでいなかったな。起きてから自分で結んだのか。普段はあんなにも嫌がっていたのに。
よく見るとシャツのボタンもしっかりと上まで留められている。こんなにもきちんと着込んでいる姿を久しぶりに見た。
目の前で立ち止まったノア様は、じっと俺を見つめていた。エメラルドグリーンの瞳に俺が映る。長いネイビーブルーの髪を一つに結び、菫色の目を不思議そうに細めている、いつもの俺。
こんなにも近くで見つめ合ったことは今まで一度もない。一体なんだと思っっていると、ノア様は右手をそっと俺の左首に伸ばした。剣もペンも握らないノア様の手は白くて傷ひとつない。白くて細長い指で、ゆるりと鎖骨を撫でられる。
「な、にを」
「ねえ。痣は今、何色?」
「痣……百合の痣、ですか?」
「そう。どんな色をしているの?」
俺が十歳の時、女神シエラから与えられた痣のことだろう。痣と同時に俺は光魔法を与えられ、信心深い両親は涙を流すほど喜んでいた。
その痣は光魔法を使うたびに少しずつ色が濃くなっている。ノア様は王族の血を引き継いでいるため、生まれつき光魔法を使うことができる。だから俺と同じ痣は存在しない。
痣ができてから十年経っているし、濃さなんて気にしたことなかった。だからいつもはそこまで気に留めていないが、色は確か。
「灰色だと思います」
「灰色……そうか、まだその程度なら間に合うか」
「間に合う? 何がですか」
「いや、なんでもない。ところで領民の様子はどうだった?」
「それが」
聞かれるまま、俺は領民の言っていたことをノア様に伝えた。増税が厳しくなっていること、子供が誘拐されるかのように修道院に連れて行かれていること。
ただ伯爵様のおかげでベルリアンにそこまで影響は及んでいないが、南のポルテベラや東のリベルマはかなり苦しんでいるということ。
それを静かに聞いていたノア様は、途中から何かを考え込むかのように俯き、左手で唇をしきりに触れていた。今までこんな仕草は一度も見たことがない。やはり何かが変だ。そう思い、報告を終えてもなお俺はノア様から目が離せないでいた。
「まだ何かある?」
「いいえ。その……急にご様子が変わられたと思いまして。本当に何もなかったんですか?」
「うん。いつも通り、滞りなくまた同じところからスタートだ」
「同じところ……? 何を言って」
「僕はね、ジョシュア」
口元に左手を寄せたまま、ノア様は静かに笑った。そして、まるで何事もないかのように、ごく自然な様子で。
「僕はこの物語を何度も繰り返しているんだ」
とんでもないことを言い始めた。
「は、あ?」
「タイムリープっていうのかな。いつもこの日のこの時間に戻ってくるんだ。だから今回も、特に問題なく再スタートって感じ」
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