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第4話「影の距離」
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旅立ちの準備は、あっという間に整った。
壊された小屋から、必要な薬道具や着替え、そして数少ない食料を持ち出し、ジークフリートの馬に積む。
エリアルの持ち物は少なかった。長年この森で暮らしていた証が、小さな袋二つ分に収まってしまうことに、少しの寂しさを覚えた。
「行くぞ」
ジークフリートが馬の手綱を引く。彼はエリアルを馬に乗せ、自分はその横を歩くつもりだったようだが、エリアルが固辞した。
「騎士様を歩かせるわけにはいきません。それに、私は慣れていますから」
結局、二人で並んで歩くことになった。馬には荷物だけが揺られている。
森を抜けるまでの道のりは、奇妙なほど静かだった。
魔獣の気配は全くない。それもそのはず、最強のアルファであるジークフリートが放つ威圧感が、周囲の生き物を遠ざけているのだ。
だが、その威圧感は、隣を歩くエリアルには向けられていない。
エリアルは、一歩後ろを歩くジークフリートの気配を背中に感じていた。
視線を合わせずともわかる。彼が、常に周囲を警戒し、そして同時に、エリアルの一挙手一投足を見守っていることが。
(……辛くないのかな)
エリアルは心配だった。
自分の香りは、抑制剤がないため常に漏れ出ている。屋外だから少しは拡散するとはいえ、隣にいる彼にはダイレクトに届いているはずだ。
時折、ジークフリートの呼吸が乱れるのがわかる。
「っ……」
衣擦れの音と共に、ジークフリートが拳を握りしめる音が聞こえる。
彼は耐えているのだ。エリアルを押し倒したいという衝動を、必死に理性で抑え込んでいる。
「あの、ジークフリート様。少し離れて歩いた方が……」
エリアルが遠慮がちに提案すると、ジークフリートは首を横に振った。
「いや、この距離が必要だ」
彼は真っすぐに前を見据えたまま言った。
「離れすぎれば、何かあった時に守れない。それに……」
言葉を濁す。
(それに、貴方の香りから離れるのが怖い)
ジークフリートは心の中でつぶやいた。
それは矛盾した感情だった。エリアルの香りは彼を苦しめる毒だが、同時に、離れがたい甘美な鎖でもあった。
一秒でも長くこの香りを嗅いでいたい。肺の奥まで満たしたい。そんな独占欲が、騎士としての理性のすぐ裏側に張り付いている。
森を抜け、街道に出る頃には、日はすっかり西に傾いていた。
空が茜色に染まり、長い影が地面に伸びる。
「今日はここで野営をしよう」
街道から少し外れた、開けた場所でジークフリートが足を止めた。
手際よく火を起こし、簡単な食事の準備を始める。彼の手つきは慣れたもので、貴族的な見た目に反して野外生活の経験が豊富なことをうかがわせた。
焚き火のパチパチという音が、沈黙を埋める。
エリアルはスープの入ったカップを受け取り、小さく礼を言った。
温かいスープの湯気と、薪の燃える匂い。それらが、エリアルの甘い香りと混ざり合う。
「美味しいです」
エリアルが微笑むと、ジークフリートは一瞬だけ、苦しそうな、けれど愛おしそうな顔をした。
「そうか。それは良かった」
短い会話。
だが、その間にある空気の密度は、濃密すぎるほどだった。
ジークフリートは、焚き火の明かりに照らされたエリアルの横顔を見つめていた。
白い肌に、長い睫毛の落とす影。スープを口に運ぶ淡い色の唇。
その全てが、彼の捕食本能を刺激する。
(食べたい)
その思考が、脳裏を支配しようとする。
性的な意味だけではない。彼の存在そのものを飲み込み、自分の一部にしてしまいたいという、原初的な飢餓感。
ジークフリートは自分の太ももを爪が食い込むほど強く掴んだ。痛みで意識を現実に繋ぎ止める。
(俺は獣ではない。騎士だ。彼を守る盾だ)
何度目かの誓いを心の中で繰り返す。
ふと、エリアルが視線に気づいて振り返った。
「……ジークフリート様? 顔色が悪いですが」
「……なんでもない。少し、煙が目に入っただけだ」
嘘だった。
エリアルは心配そうに眉を寄せた。彼は立ち上がり、ジークフリートの元へ歩み寄ろうとした。
「待て、来るな」
ジークフリートが鋭い声で制止した。
エリアルがびくりと肩を震わせて足を止める。
「すまない……。今は、近づかないでくれ」
ジークフリートは顔を伏せた。
「今、貴方に触れられたら……俺は、自分を抑えられる自信がない」
絞り出すような声。
その言葉の裏にある、ギリギリの切迫感。
エリアルは息を飲んだ。
拒絶された悲しみよりも、そこまで自分を思って耐えてくれている彼への申し訳なさと、胸が締め付けられるような切なさが勝った。
「……わかりました」
エリアルはその場に座り直した。
二人の間には、焚き火一つ分の距離がある。
わずか数メートル。だが、そこには決して越えてはならない、見えない境界線が引かれていた。
炎の揺らめきが、二人の影を地面に長く映し出す。
影だけは、重なり合っていた。
夜の帳が下りる中、二人はそれぞれの孤独と、言葉にできない熱を抱えながら、じっと炎を見つめ続けていた。
近くて遠い、もどかしい距離の中で。
壊された小屋から、必要な薬道具や着替え、そして数少ない食料を持ち出し、ジークフリートの馬に積む。
エリアルの持ち物は少なかった。長年この森で暮らしていた証が、小さな袋二つ分に収まってしまうことに、少しの寂しさを覚えた。
「行くぞ」
ジークフリートが馬の手綱を引く。彼はエリアルを馬に乗せ、自分はその横を歩くつもりだったようだが、エリアルが固辞した。
「騎士様を歩かせるわけにはいきません。それに、私は慣れていますから」
結局、二人で並んで歩くことになった。馬には荷物だけが揺られている。
森を抜けるまでの道のりは、奇妙なほど静かだった。
魔獣の気配は全くない。それもそのはず、最強のアルファであるジークフリートが放つ威圧感が、周囲の生き物を遠ざけているのだ。
だが、その威圧感は、隣を歩くエリアルには向けられていない。
エリアルは、一歩後ろを歩くジークフリートの気配を背中に感じていた。
視線を合わせずともわかる。彼が、常に周囲を警戒し、そして同時に、エリアルの一挙手一投足を見守っていることが。
(……辛くないのかな)
エリアルは心配だった。
自分の香りは、抑制剤がないため常に漏れ出ている。屋外だから少しは拡散するとはいえ、隣にいる彼にはダイレクトに届いているはずだ。
時折、ジークフリートの呼吸が乱れるのがわかる。
「っ……」
衣擦れの音と共に、ジークフリートが拳を握りしめる音が聞こえる。
彼は耐えているのだ。エリアルを押し倒したいという衝動を、必死に理性で抑え込んでいる。
「あの、ジークフリート様。少し離れて歩いた方が……」
エリアルが遠慮がちに提案すると、ジークフリートは首を横に振った。
「いや、この距離が必要だ」
彼は真っすぐに前を見据えたまま言った。
「離れすぎれば、何かあった時に守れない。それに……」
言葉を濁す。
(それに、貴方の香りから離れるのが怖い)
ジークフリートは心の中でつぶやいた。
それは矛盾した感情だった。エリアルの香りは彼を苦しめる毒だが、同時に、離れがたい甘美な鎖でもあった。
一秒でも長くこの香りを嗅いでいたい。肺の奥まで満たしたい。そんな独占欲が、騎士としての理性のすぐ裏側に張り付いている。
森を抜け、街道に出る頃には、日はすっかり西に傾いていた。
空が茜色に染まり、長い影が地面に伸びる。
「今日はここで野営をしよう」
街道から少し外れた、開けた場所でジークフリートが足を止めた。
手際よく火を起こし、簡単な食事の準備を始める。彼の手つきは慣れたもので、貴族的な見た目に反して野外生活の経験が豊富なことをうかがわせた。
焚き火のパチパチという音が、沈黙を埋める。
エリアルはスープの入ったカップを受け取り、小さく礼を言った。
温かいスープの湯気と、薪の燃える匂い。それらが、エリアルの甘い香りと混ざり合う。
「美味しいです」
エリアルが微笑むと、ジークフリートは一瞬だけ、苦しそうな、けれど愛おしそうな顔をした。
「そうか。それは良かった」
短い会話。
だが、その間にある空気の密度は、濃密すぎるほどだった。
ジークフリートは、焚き火の明かりに照らされたエリアルの横顔を見つめていた。
白い肌に、長い睫毛の落とす影。スープを口に運ぶ淡い色の唇。
その全てが、彼の捕食本能を刺激する。
(食べたい)
その思考が、脳裏を支配しようとする。
性的な意味だけではない。彼の存在そのものを飲み込み、自分の一部にしてしまいたいという、原初的な飢餓感。
ジークフリートは自分の太ももを爪が食い込むほど強く掴んだ。痛みで意識を現実に繋ぎ止める。
(俺は獣ではない。騎士だ。彼を守る盾だ)
何度目かの誓いを心の中で繰り返す。
ふと、エリアルが視線に気づいて振り返った。
「……ジークフリート様? 顔色が悪いですが」
「……なんでもない。少し、煙が目に入っただけだ」
嘘だった。
エリアルは心配そうに眉を寄せた。彼は立ち上がり、ジークフリートの元へ歩み寄ろうとした。
「待て、来るな」
ジークフリートが鋭い声で制止した。
エリアルがびくりと肩を震わせて足を止める。
「すまない……。今は、近づかないでくれ」
ジークフリートは顔を伏せた。
「今、貴方に触れられたら……俺は、自分を抑えられる自信がない」
絞り出すような声。
その言葉の裏にある、ギリギリの切迫感。
エリアルは息を飲んだ。
拒絶された悲しみよりも、そこまで自分を思って耐えてくれている彼への申し訳なさと、胸が締め付けられるような切なさが勝った。
「……わかりました」
エリアルはその場に座り直した。
二人の間には、焚き火一つ分の距離がある。
わずか数メートル。だが、そこには決して越えてはならない、見えない境界線が引かれていた。
炎の揺らめきが、二人の影を地面に長く映し出す。
影だけは、重なり合っていた。
夜の帳が下りる中、二人はそれぞれの孤独と、言葉にできない熱を抱えながら、じっと炎を見つめ続けていた。
近くて遠い、もどかしい距離の中で。
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