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第3話「誓いの本能」
風が止んだような静けさが、二人を包んでいた。
地面に膝をつき、エリアルの手を両手で包み込んでいるジークフリート。その姿は、忠誠を誓う騎士そのものだったが、彼から発せられる熱気は尋常ではなかった。
エリアルは混乱していた。
助けてくれたことは感謝すべきだが、この状況はどう理解すればいいのか。
目の前のアルファは、明らかに自分のフェロモンに反応している。瞳孔は開き気味で、呼吸も荒い。普通なら、理性など吹き飛んで襲いかかってきてもおかしくない状態だ。
それなのに、彼は跪いている。襲う代わりに、ただその手を握りしめているだけだ。
その手は小刻みに震えていた。
エリアルは気づいた。彼は、必死に戦っているのだ。自分の中の獣と。
(どうして、そこまで……)
これほど強力に理性を保てるアルファを、エリアルは見たことがなかった。
「あの、騎士、様……?」
エリアルがおそるおそる声をかけると、ジークフリートはハッとしたように瞬きをした。
わずかに焦点が合い、紫色の瞳に理性の光が戻る。
彼は、自分が何をしているのかを自覚したようだった。けれど、手を離そうとはしなかった。むしろ、すがりつくように握る力を強めた。
「……すまない。驚かせた」
ジークフリートの声は、しわがれていた。
彼はゆっくりと立ち上がったが、その視線はエリアルから片時も離れなかった。
「俺の名はジークフリート。王国の騎士団長を務めている」
「ジークフリート……様」
その名を聞いて、エリアルは息を飲んだ。世間に疎い彼でも、その名は知っていた。王国最強の剣士であり、英雄と呼ばれる男。
そんな人が、なぜこんな場所に。
「怪我はないか?」
ジークフリートが問いかけた。
「は、はい。おかげさまで……。私はエリアルといいます。この森で、薬草を……」
「エリアル」
ジークフリートが名前を復唱する。その響きは、甘く、熱っぽかった。
「良い名だ」
その一言だけで、エリアルの心臓が変な音を立てた。
褒められただけなのに、まるで愛を囁かれたような錯覚に陥る。
「エリアル殿。単刀直入に言おう。我々は、王都で流行している奇病を治す手がかりを求めてここへ来た」
ジークフリートは表情を引き締め、ビジネスライクに振る舞おうとした。だが、額の汗と、時折揺らぐ視線が彼の限界を物語っている。
「この森に、万病を癒やす聖なる力を持つ者がいると聞いてな」
エリアルは身を固くした。
それは、間違いなく自分のことだ。だが、自分が「聖なる者」などではないことは、誰よりも知っている。
自分はただの、抑制剤の効かない欠陥品のオメガだ。フェロモンに癒やしの効果があるというだけで、その本質は淫らな香りを撒き散らす厄介者でしかない。
「……それは、誤解です」
エリアルは視線を逸らして言った。
「私は、ただの薬師です。聖なる力なんて……」
「嘘をつくのが下手だな」
ジークフリートが一歩踏み出した。
「貴方のその香り。これこそが、癒やしの力そのものではないのか?」
見抜かれていた。
隠しようがなかった。今この瞬間も、彼の香りはジークフリートを包み込み、先ほどの戦いで生じた微細な筋肉の断裂や疲労を癒やしているのだから。
「……っ、近づかないでください!」
エリアルは後ずさった。
「これは、そんな綺麗なものじゃありません! ただの……アルファを狂わせるだけの、汚いフェロモンです!」
叫ぶように言った言葉は、自分自身への軽蔑に満ちていた。
「これが原因で、さっきの魔獣も……。貴方だって、辛いでしょう? お願いです、離れてください。私は……」
「汚くなどない」
ジークフリートの言葉が、エリアルの自己否定を断ち切った。
強い否定ではなかった。ただ、当然の事実を述べるような、静かで確信に満ちた声だった。
「狂いそうになるのは事実だ。今も、貴方を押し倒してしまいたい衝動で、頭がおかしくなりそうだ」
あまりに率直な告白に、エリアルは言葉を失った。
「だが、それ以上に……貴方を守りたいと思う」
ジークフリートは胸に手を当てた。
「この香りを嗅いだ瞬間、俺の本能は二つに引き裂かれた。『奪いたい』という獣の欲求と、『守り抜きたい』という騎士の誓いだ」
彼は真っすぐにエリアルを見つめた。
「そして俺は、騎士であることを選ぶ」
その言葉には、鋼鉄のような意志が込められていた。
欲求がないわけではない。むしろ、誰よりも強く感じている。それでもなお、理性を保ち、相手を尊重するという宣言。
エリアルは呆気にとられた。
そんなアルファが存在するなんて、信じられなかった。
「国を救うため、貴方の力が必要だ。だが、それ以前に……」
ジークフリートは再び、ゆっくりと膝をついた。今度は衝動に突き動かされたものではなく、明確な意思を持って。
「貴方を、これ以上一人で怯えさせたくない。この森で、魔獣の影に脅えながら暮らすような真似はさせない」
彼はエリアルの目を見上げて言った。
「俺と共に来てほしい。俺が、貴方の剣となり盾となる。どんな敵からも、たとえそれが俺自身の欲求であろうとも、必ず貴方を守り抜く」
「……どう、して」
エリアルの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「どうして、そんなに……。会ったばかりなのに」
「わからん。だが、これが俺の本能だ」
ジークフリートは苦笑した。その笑顔は、どこかあどけなく、そして酷く色っぽかった。
「貴方を守ることが、俺の生きる意味になった。そう魂が告げている」
理屈ではなかった。
オメガとアルファの引力だけでは説明がつかない、もっと深い場所での共鳴。
エリアルは涙を拭った。
この手を取っていいのだろうか。この危険な香りを放つ身で、彼を苦しめることになるとわかっていて。
けれど、彼の言葉はあまりにも温かく、エリアルの凍えた心を溶かしていくようだった。
「……本当に、守ってくれますか?」
「ああ、必ず」
「私が、貴方を困らせてしまっても?」
「その時は、俺が全力で耐えてみせる」
ジークフリートは真剣な顔で言った。
エリアルは小さく笑った。涙混じりの、頼りない笑顔だったが、それは花が綻ぶように美しかった。
「……信じます。ジークフリート様」
エリアルがおずおずと差し出した手を、ジークフリートは両手で包み込んだ。
その瞬間、契約は結ばれた。
言葉による誓いと、本能による絶対の服従。
二人の旅が、ここから始まる。それは、世界を救う旅であり、同時に二人が互いの存在という救済を見つけるための旅路でもあった。
地面に膝をつき、エリアルの手を両手で包み込んでいるジークフリート。その姿は、忠誠を誓う騎士そのものだったが、彼から発せられる熱気は尋常ではなかった。
エリアルは混乱していた。
助けてくれたことは感謝すべきだが、この状況はどう理解すればいいのか。
目の前のアルファは、明らかに自分のフェロモンに反応している。瞳孔は開き気味で、呼吸も荒い。普通なら、理性など吹き飛んで襲いかかってきてもおかしくない状態だ。
それなのに、彼は跪いている。襲う代わりに、ただその手を握りしめているだけだ。
その手は小刻みに震えていた。
エリアルは気づいた。彼は、必死に戦っているのだ。自分の中の獣と。
(どうして、そこまで……)
これほど強力に理性を保てるアルファを、エリアルは見たことがなかった。
「あの、騎士、様……?」
エリアルがおそるおそる声をかけると、ジークフリートはハッとしたように瞬きをした。
わずかに焦点が合い、紫色の瞳に理性の光が戻る。
彼は、自分が何をしているのかを自覚したようだった。けれど、手を離そうとはしなかった。むしろ、すがりつくように握る力を強めた。
「……すまない。驚かせた」
ジークフリートの声は、しわがれていた。
彼はゆっくりと立ち上がったが、その視線はエリアルから片時も離れなかった。
「俺の名はジークフリート。王国の騎士団長を務めている」
「ジークフリート……様」
その名を聞いて、エリアルは息を飲んだ。世間に疎い彼でも、その名は知っていた。王国最強の剣士であり、英雄と呼ばれる男。
そんな人が、なぜこんな場所に。
「怪我はないか?」
ジークフリートが問いかけた。
「は、はい。おかげさまで……。私はエリアルといいます。この森で、薬草を……」
「エリアル」
ジークフリートが名前を復唱する。その響きは、甘く、熱っぽかった。
「良い名だ」
その一言だけで、エリアルの心臓が変な音を立てた。
褒められただけなのに、まるで愛を囁かれたような錯覚に陥る。
「エリアル殿。単刀直入に言おう。我々は、王都で流行している奇病を治す手がかりを求めてここへ来た」
ジークフリートは表情を引き締め、ビジネスライクに振る舞おうとした。だが、額の汗と、時折揺らぐ視線が彼の限界を物語っている。
「この森に、万病を癒やす聖なる力を持つ者がいると聞いてな」
エリアルは身を固くした。
それは、間違いなく自分のことだ。だが、自分が「聖なる者」などではないことは、誰よりも知っている。
自分はただの、抑制剤の効かない欠陥品のオメガだ。フェロモンに癒やしの効果があるというだけで、その本質は淫らな香りを撒き散らす厄介者でしかない。
「……それは、誤解です」
エリアルは視線を逸らして言った。
「私は、ただの薬師です。聖なる力なんて……」
「嘘をつくのが下手だな」
ジークフリートが一歩踏み出した。
「貴方のその香り。これこそが、癒やしの力そのものではないのか?」
見抜かれていた。
隠しようがなかった。今この瞬間も、彼の香りはジークフリートを包み込み、先ほどの戦いで生じた微細な筋肉の断裂や疲労を癒やしているのだから。
「……っ、近づかないでください!」
エリアルは後ずさった。
「これは、そんな綺麗なものじゃありません! ただの……アルファを狂わせるだけの、汚いフェロモンです!」
叫ぶように言った言葉は、自分自身への軽蔑に満ちていた。
「これが原因で、さっきの魔獣も……。貴方だって、辛いでしょう? お願いです、離れてください。私は……」
「汚くなどない」
ジークフリートの言葉が、エリアルの自己否定を断ち切った。
強い否定ではなかった。ただ、当然の事実を述べるような、静かで確信に満ちた声だった。
「狂いそうになるのは事実だ。今も、貴方を押し倒してしまいたい衝動で、頭がおかしくなりそうだ」
あまりに率直な告白に、エリアルは言葉を失った。
「だが、それ以上に……貴方を守りたいと思う」
ジークフリートは胸に手を当てた。
「この香りを嗅いだ瞬間、俺の本能は二つに引き裂かれた。『奪いたい』という獣の欲求と、『守り抜きたい』という騎士の誓いだ」
彼は真っすぐにエリアルを見つめた。
「そして俺は、騎士であることを選ぶ」
その言葉には、鋼鉄のような意志が込められていた。
欲求がないわけではない。むしろ、誰よりも強く感じている。それでもなお、理性を保ち、相手を尊重するという宣言。
エリアルは呆気にとられた。
そんなアルファが存在するなんて、信じられなかった。
「国を救うため、貴方の力が必要だ。だが、それ以前に……」
ジークフリートは再び、ゆっくりと膝をついた。今度は衝動に突き動かされたものではなく、明確な意思を持って。
「貴方を、これ以上一人で怯えさせたくない。この森で、魔獣の影に脅えながら暮らすような真似はさせない」
彼はエリアルの目を見上げて言った。
「俺と共に来てほしい。俺が、貴方の剣となり盾となる。どんな敵からも、たとえそれが俺自身の欲求であろうとも、必ず貴方を守り抜く」
「……どう、して」
エリアルの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「どうして、そんなに……。会ったばかりなのに」
「わからん。だが、これが俺の本能だ」
ジークフリートは苦笑した。その笑顔は、どこかあどけなく、そして酷く色っぽかった。
「貴方を守ることが、俺の生きる意味になった。そう魂が告げている」
理屈ではなかった。
オメガとアルファの引力だけでは説明がつかない、もっと深い場所での共鳴。
エリアルは涙を拭った。
この手を取っていいのだろうか。この危険な香りを放つ身で、彼を苦しめることになるとわかっていて。
けれど、彼の言葉はあまりにも温かく、エリアルの凍えた心を溶かしていくようだった。
「……本当に、守ってくれますか?」
「ああ、必ず」
「私が、貴方を困らせてしまっても?」
「その時は、俺が全力で耐えてみせる」
ジークフリートは真剣な顔で言った。
エリアルは小さく笑った。涙混じりの、頼りない笑顔だったが、それは花が綻ぶように美しかった。
「……信じます。ジークフリート様」
エリアルがおずおずと差し出した手を、ジークフリートは両手で包み込んだ。
その瞬間、契約は結ばれた。
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