偽りベータの宮廷薬師は、氷の宰相に匂いを嗅がれ溺愛される

水凪しおん

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第2話「ヒートの予兆と冷たい手」

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 その夜、僕は自室のベッドの上で小さく丸まっていた。

 古い薬師寮の一室は狭く、窓から差し込む月明かりだけが頼りない光源となっている。

 身体が熱い。

 まるで血管の中を熱湯が流れているような、不快な感覚。

 いつもなら、夕食後に服用する抑制薬で落ち着くはずの発情期の予兆が、今夜に限って引かないのだ。

『やっぱり、あの人のせいだ……』

 脳裏に浮かぶのは、昼間遭遇したアレクセイ宰相の姿。

 あの一瞬の接触で浴びた彼のフェロモンが、僕の体内のバランスを乱暴にかき回してしまったらしい。

 優れたアルファの影響力は、弱いオメガにとって毒にも薬にもなるというが、これほど劇的だとは思わなかった。

 喉が渇く。

 水差しに手を伸ばそうとして、指先がひどく震えていることに気づく。

 カチャリ、と音を立ててコップが揺れた。

 今の薬だけでは足りないのかもしれない。調合比率を変えて、もっと強い薬を作らなければ。

 僕はフラつく足取りでベッドから降りると、部屋の隅にある個人用の小さな実験机に向かった。

 宮廷薬師の特権として、自室での多少の研究は認められている。

 棚から乾燥したマンドラゴラの根と、月の雫草の抽出液を取り出す。

 手早くすり潰し、混ぜ合わせる。

 いつもなら無心で行える作業が、今はひどくもどかしい。視界が滲み、指先の感覚が鈍い。

 焦りが募る。

 もし、このまま本格的なヒートに入ってしまったら、この寮中に甘い匂いが充満してしまう。

 そうなれば、僕は終わりだ。

 薬師の資格を剥奪され、どこかの施設へ送られる未来しか待っていない。

「……落ち着け、ルカ。大丈夫だ」

 幼い頃の愛称を自分でつぶやき、震えを止めようとする。

 その時だった。

 コン、コン。

 控えめだが、明確な意思を感じさせるノックの音が響いた。

 心臓が止まるかと思った。

 こんな深夜に誰だ?

 隣室の同僚だろうか。それとも、見回りの衛兵か。

 僕は息を潜め、居留守を決め込むことにした。

 しかし、扉の向こうの人物は諦めない。

「起きているのは分かっている。ルチアーノ・フィオーレ」

 低い声。

 聞き間違えるはずもない、あのアレクセイ宰相の声だった。

 なぜ、彼がここに?

 思考が真っ白になる。

「入るぞ」

 許可を待たずに、鍵のかかっているはずのドアノブが回る。ガチャリという金属音がして、扉が無防備に開かれた。

 合鍵を持っているのか。

 廊下の光を背負って立つ影が、ゆっくりと部屋の中に侵入してくる。

 僕は実験机に背を押し付け、後ずさった。

「さ……宰相閣下。こ、こんな夜更けに、何用でしょうか……」

 声が裏返る。

 アレクセイは無言で部屋の扉を閉め、鍵をかけた。

 密室。

 狭い部屋の中に、彼特有の冷たく鋭い気配が満ちていく。

 それが僕の熱をさらに煽り、息苦しさを加速させる。

「昼間のことが気になってな。少し調べさせてもらった」

 彼はゆっくりと僕に近づいてくる。その手には、一枚の羊皮紙が握られていた。

「ルチアーノ・フィオーレ。経歴上はベータ。成績優秀だが、なぜか昇進を拒み続けている。そして……薬材の消費記録に、妙な偏りがある」

 彼は羊皮紙を机の上に放り投げた。

 そこには、僕がこっそりと横領……いや、使用していた薬草のリストが記されていた。抑制薬の原料となるものばかりだ。

「月の雫草に、竜の髭の根。これらを組み合わせれば何ができるか、宮廷薬師なら誰でも知っているわけではないが……私は知っている」

 彼は僕の目の前まで来ると、実験机の上にある作りかけの薬を見下ろした。

「強い鎮静作用。あるいは……発情の抑制」

「ち、違います! それは……ただの、頭痛薬で……」

 苦しい言い逃れだとは分かっていた。

 アレクセイは冷ややかな目を僕に向け、突然、僕の腕を掴んだ。

「ひっ……!」

 素肌に触れた彼の手は、驚くほど冷たかった。

 そして次の瞬間、彼は僕の首筋に顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。

 鼻先が肌をかすめる。

 全身の毛穴が泡立つような恐怖と、それとは裏腹な甘い痺れが背骨を駆け抜ける。

「……やはりな」

 彼は低い声でささやいた。

「薬の匂いに隠れているが、甘い蜜の匂いがする。昼間よりもずっと濃くなっている」

 彼は顔を上げ、至近距離で僕を見据えた。

 その瞳には、獲物を追い詰めた狩人のような光が宿っていた。

「お前はベータではない。オメガだな?」

 断定的な問いかけ。

 隠し通してきた秘密が、あっけなく暴かれる。

 否定しなければ。嘘をつかなければ。

 けれど、彼に腕を掴まれている部分から熱が流れ込んできて、頭がうまく働かない。

 膝から力が抜け、崩れ落ちそうになる僕を、彼は無造作に支えた。

「身分を偽って宮廷に入り込むことは重罪だ。本来なら、即刻投獄されても文句は言えんぞ」

「……う……ぁ……」

 言葉にならない呻き声が漏れる。

 絶望で視界が暗くなる。すべてが終わったと思った。

 しかし、アレクセイの次の言葉は、予想外のものだった。

「だが、取引をするなら見逃してやってもいい」

「……と、りひき……?」

 僕は霞む目で彼を見上げた。

 アレクセイは、どこか苦しげに眉をひそめながら、僕の首筋に再び視線を落とす。

「そうだ。お前のその……薬臭くて、それでいて妙に落ち着く匂いを、私に提供しろ」

 彼の言葉の意味が理解できず、僕はただ呆然と、冷酷な宰相の顔を見つめ返すことしかできなかった。
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