偽りベータの宮廷薬師は、氷の宰相に匂いを嗅がれ溺愛される

水凪しおん

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第3話「奇妙な契約と宰相の苦悩」

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 心臓の音が、耳の奥でうるさいほど響いていた。

 薄暗い部屋の中で、アレクセイ宰相の氷のような瞳が僕を射抜いている。

 腕を掴む彼の手は強く、振りほどくことなど到底できそうにない。

 オメガであることがバレた。

 その事実は、僕にとって死刑宣告に等しい。

 この国において、身分を偽って公職に就くことは重罪だ。ましてや、管理されるべきオメガが抑制薬を使ってベータになりすましていたとなれば、その罪はさらに重くなる。

「……取引、とは……どういうことですか」

 僕は震える唇で、やっとのことで問い返した。

 アレクセイは僕の腕を離すと、部屋の中を見回し、唯一の椅子に腰を下ろした。

 まるで最初からそこが自分の席であったかのように、自然で優雅な所作だった。

 彼は長い足を組み、顎をしゃくって僕を見た。

「簡単なことだ。お前は私のそばにいろ。その代わり、お前の正体については黙っていてやる」

「そばに……いる?」

 意味が分からなかった。

 オメガをそばに置く理由など、一つしか思いつかない。

 身体か。

 僕は思わず自分の身体を抱きしめるようにして後ずさった。

「そ、そんな……僕は、そういうつもりで……」

 僕の怯えた様子を見て、アレクセイは鼻を鳴らした。

「勘違いするな。私はお前の貧相な身体になど興味はない」

 冷ややかな言葉に、少しだけ安堵すると同時に、惨めな気持ちになる。

「では、なぜ……」

「匂いだ」

 彼は短く答えた。

「お前からする匂いが、私にとって都合がいい」

 アレクセイはこめかみを押さえ、苦痛に耐えるような表情を見せた。

 その時初めて、僕は彼の仮面の下にある疲労の色に気づいた。

 完璧に見える宰相の顔には、隠しきれない隈があり、常に張り詰めた糸のような緊張感が漂っている。

「私は……過敏すぎるのだ」

 彼は独り言のように話し始めた。

「アルファとしての能力が高すぎるせいで、他人の感情やフェロモン、些細な音や光までもが、すべて暴力的な刺激となって襲ってくる。宮廷にいる間中、私は常に騒音の中にいるようなものだ」

 感覚過敏。

 優れたアルファの中には、稀に五感が鋭すぎるあまり、日常生活に支障をきたす者がいると医学書で読んだことがある。

 彼ほどの高い地位にいれば、周囲には常に多くの人間が群がり、欲望や野心といった強い感情をぶつけてくるだろう。

 それは彼にとって、終わりのない拷問のようなものなのかもしれない。

「だが、お前の匂いは違う」

 アレクセイは再び僕を見た。その瞳には、渇望にも似た色が宿っている。

「お前が使っているその特殊な抑制薬と、お前自身のオメガの匂いが混ざり合った香りは……私の昂った神経を鎮める。他のどんな薬よりも強くな」

 僕は呆然とした。

 僕が必死に隠そうとしていた匂いが、彼にとっては救いになるというのか。

「私の執務室に来い。毎日、私が指定する時間にだ。そこでただ座って、その匂いを漂わせていればいい。それだけでいい」

 彼は立ち上がり、僕の目の前まで歩み寄った。

「拒否権はないぞ。断れば、お前の正体を公にするだけだ」

 卑怯な脅しだ。

 けれど、僕に選択肢などなかった。

 この生活を、薬師としての仕事を続けるためには、彼の提案に乗るしかない。

「……分かりました。お受けします」

 僕は小さく頷いた。

 アレクセイは満足げに口の端を歪めると、ポケットから小さな鍵を取り出して机の上に置いた。

「裏口の合鍵だ。人目につかぬよう、ここから出入りしろ。明日の午後三時、待っている」

 それだけ言い残すと、彼は風のように部屋を出て行った。

 残されたのは、僕と、彼が置いていった鍵、そして微かに漂う冷たい森の残り香だけ。

 僕はベッドに倒れ込み、天井を見上げた。

 心臓の鼓動はまだ早いままだった。

 恐怖のせいか、それとも、彼に必要とされたという事実に、心のどこかで奇妙な高揚感を覚えてしまったせいか。

 僕はそれを認めたくなくて、枕に顔を埋めた。

 ***

 翌日。

 僕は約束の時間通りに、宮廷の奥にある宰相の執務室へと向かった。

 普段、僕のような下級薬師が足を踏み入れることのない区画だ。

 廊下を行き交う人々は皆、高価な衣装を身にまとった貴族や高官ばかり。

 僕は目立たないよう、壁際を歩きながら、昨日渡された鍵を握りしめた。

 指定された扉の前には、屈強な衛兵が二人立っていたが、僕が通行証を見せると無言で道を開けた。

 重厚な木の扉を押し開ける。

 中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 壁一面の本棚、積み上げられた書類の山、そして部屋の中央にある巨大な執務机。

 そこでアレクセイは、一心不乱にペンを走らせていた。

「……失礼します。ルチアーノです」

 恐る恐る声をかけると、彼は顔も上げずにペンを止めた。

「来たか。鍵をかけろ」

 短い命令に従い、僕は内側から鍵をかけた。

 カチャリ、という音が部屋に響く。

 それが、僕が逃げられない檻の中に閉じ込められた音のように聞こえた。

 アレクセイはペンを置き、ゆっくりと顔を上げた。

 昨夜と同じ、冷徹な仮面を被った顔。

 けれど、僕が部屋に入った瞬間、彼の肩の力がわずかに抜けたような気がした。

「そこへ座れ」

 彼が顎で示したのは、執務机のすぐそばに置かれた豪勢な革張りのソファだった。

 僕は言われるがままに腰を下ろす。

 ふかふかの座り心地に、身体が沈み込む。

 何をすればいいのだろう。

 本当に、ただここにいるだけでいいのか。

 僕は手持ち無沙汰で、膝の上で手を組んだ。

 アレクセイは再び書類に向き合い始めた。

 部屋に響くのは、ペンの走る音と、古時計が時を刻む音だけ。

 緊張感で胃が痛くなりそうだ。

 しかし、不思議なことに、時間が経つにつれて、その沈黙が心地よく感じられてきた。

 彼から放たれるピリピリとした威圧感が、徐々に薄れていくのが分かる。

 まるで、ささくれ立った神経が、穏やかな水に浸されていくように。

 僕は彼を盗み見た。

 銀色の髪が、窓から差し込む光を受けて輝いている。

 美しい人だ、と改めて思う。

 性格は最悪で、やり方は強引だけれど、その横顔には人を惹きつける何かがある。

 ふと、アレクセイが手を止めた。

 彼は深く息を吐き、椅子にもたれかかった。

 そして、疲れたように目を閉じる。

「……こっちへ来い」

 低い声が、静寂を破った。

 僕はびくりと肩を震わせたが、逆らうことはできない。

 立ち上がり、彼のそばへと歩み寄る。

 机を挟んで向かい合うと、彼は目を開けずに手招きした。

「もっと近くへ。私の横に立て」

 言われるがままに、彼の椅子のすぐ横に立つ。

 すると、彼は唐突に僕の腰に手を回し、自分のほうへと引き寄せた。

「っ!?」

 声を上げる間もなく、僕の身体は彼の椅子と身体の間に挟まれる形になった。

 アレクセイはそのまま、僕の腹部に額を押し付けた。

 温かい。

 氷の宰相とは思えないほど、彼の体温は熱かった。
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