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第4話「閉ざされた執務室の中で」
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アレクセイの銀色の髪が、僕のシャツ越しに触れている。
彼の呼吸に合わせて、僕の腹部に温かい空気が当たる。
信じられない光景だった。
あの冷酷無比で知られる宰相閣下が、まるで親に甘える子供のように、あるいは傷ついた獣が休息を求めるように、僕に寄りかかっているのだから。
僕はどうしていいか分からず、両手を空中に彷徨わせたまま固まっていた。
「動くな」
くぐもった声が、腹のあたりから響く。
「このまま……少しだけ、じっとしていろ」
命令口調だが、そこには懇願に近い響きが含まれていた。
僕は意を決して、ゆっくりと息を吐き出した。
拒絶しても無駄なら、受け入れるしかない。
それに、不思議と嫌悪感はなかった。
彼の匂い――深く冷たい森のような香り――が、至近距離で僕を包み込む。
昨夜のような恐怖はない。むしろ、その香りは僕のオメガとしての本能を刺激するどころか、不思議と安心させてくれるようだった。
「……閣下は、いつもこうして我慢しておられたのですか」
思わず、口をついて出た言葉。
不敬だったかもしれないと後悔したが、アレクセイは怒らなかった。
「……慣れている」
彼は顔を埋めたまま答えた。
「雑音も、悪意も、すべて切り捨ててきた。だが、最近は……限界が近かったのかもしれん」
彼の言葉の端々に、隠しきれない疲労が滲んでいる。
この国の頂点に立つ男。
誰もが恐れ、敬う存在。
けれど、その実態は、あまりに強すぎる力を持て余し、孤独に耐え続ける一人の人間だった。
僕は無意識のうちに、空中に浮かせていた手を下ろし、そっと彼の頭に触れた。
銀糸のような髪は、見た目通り滑らかで、驚くほど柔らかかった。
アレクセイの身体がピクリと反応する。
怒られるかと思ったが、彼は抵抗しなかった。むしろ、僕の手のひらに押し付けるように、頭を預けてきた。
『まるで、大きな猫みたいだ……』
そんな不謹慎な感想が頭をよぎる。
彼の呼吸が深く、ゆっくりとしたものに変わっていく。
僕もまた、彼のリズムに合わせるように呼吸を整えた。
窓の外から聞こえてくるはずの衛兵の掛け声や、鳥のさえずりも、この部屋の中では遠い世界の出来事のようだ。
ここには、僕と彼だけの時間が流れている。
「……お前の匂いは、静かだ」
しばらくして、アレクセイがつぶやいた。
「薬草の苦味と、その奥にある……甘い花の香り。それが、私の頭の中の嵐を鎮めてくれる」
甘い花、と言われて心臓が跳ねる。
それは僕が隠し続けてきたオメガの香りだ。
本来なら恥ずべきもの、隠すべきものとして生きてきた。
けれど、彼はそれを「静かだ」と言って必要としてくれる。
そのことが、僕の胸の奥にある固く閉ざされた扉を、少しだけ叩いたような気がした。
「……お役に立てて、光栄です」
少し皮肉を込めて言ってみたが、声は震えていたかもしれない。
アレクセイはふっと口元を緩め、ようやく顔を上げた。
その瞳は、先ほどよりもずっと澄んでいて、冷たさの中に柔らかな光を宿していた。
「悪くない」
彼は僕の腰から手を離すと、再び背筋を伸ばし、宰相の顔に戻った。
「今日はもういい。下がれ」
用が済めば即座に解放。
その切り替えの早さに呆れつつも、僕は一礼して扉へと向かった。
「ああ、そうだ」
ドアノブに手をかけた時、背後から声がかかる。
「明日も同じ時間に来い。それと……その薬臭い服は着替えてこい。もう少しマシな服を用意させる」
「えっ、いえ、これは仕事着ですので……」
「命令だ」
有無を言わせぬ一言。
僕はため息をつきつつ、「はい」と短く返事をした。
部屋を出ると、廊下の冷たい空気が火照った頬を撫でる。
心臓がまだドキドキとうるさかった。
恐怖からくる動悸なのか、それとも別の何かなのか。
自分の腹部に、彼の額の熱が残っているような気がして、僕はそこをそっと手で押さえた。
奇妙な共犯関係。
弱みを握られたオメガと、感覚過敏のアルファ。
この歪な関係が、いつか取り返しのつかない事態を引き起こす予感がして、僕は小さく身震いをした。
けれど、その予感の中には、甘い毒のような期待も混じっていたことを、僕はまだ認められずにいた。
***
その日の夜、僕は再び自分の部屋で薬の調合をしていた。
アレクセイのそばにいることで、僕自身のホルモンバランスも影響を受けている。
抑制薬の量を調整しなければならない。
慎重に天秤を操作していると、ふと、昼間の彼の言葉が蘇った。
『お前の匂いは、静かだ』
今まで、オメガであることは呪いだと思っていた。
誰かに迷惑をかけ、欲望の対象にされるだけの、忌むべき性。
でも、もし僕の存在が、誰かの苦痛を和らげることができるなら。
それが、あの最強の宰相であるなら。
「……馬鹿だな、僕も」
自嘲気味につぶやき、僕は完成した紫色の液体を小瓶に詰めた。
彼に心を許してはいけない。
彼は取引相手であり、僕の生殺与奪の権を握る支配者なのだから。
そう自分に言い聞かせても、指先に残る銀髪の感触は、なかなか消えてはくれなかった。
窓の外では、不穏な風が吹き始めていた。
宮廷の闇は深く、僕たちの小さな秘密を飲み込もうと、静かに口を開けて待っている。
翌日から、宮廷内で奇妙な噂が流れ始めることを、僕はまだ知らなかった。
「氷の宰相が、地味な薬師を寵愛している」
そんな、ありもしない、けれど核心を突いた噂が。
彼の呼吸に合わせて、僕の腹部に温かい空気が当たる。
信じられない光景だった。
あの冷酷無比で知られる宰相閣下が、まるで親に甘える子供のように、あるいは傷ついた獣が休息を求めるように、僕に寄りかかっているのだから。
僕はどうしていいか分からず、両手を空中に彷徨わせたまま固まっていた。
「動くな」
くぐもった声が、腹のあたりから響く。
「このまま……少しだけ、じっとしていろ」
命令口調だが、そこには懇願に近い響きが含まれていた。
僕は意を決して、ゆっくりと息を吐き出した。
拒絶しても無駄なら、受け入れるしかない。
それに、不思議と嫌悪感はなかった。
彼の匂い――深く冷たい森のような香り――が、至近距離で僕を包み込む。
昨夜のような恐怖はない。むしろ、その香りは僕のオメガとしての本能を刺激するどころか、不思議と安心させてくれるようだった。
「……閣下は、いつもこうして我慢しておられたのですか」
思わず、口をついて出た言葉。
不敬だったかもしれないと後悔したが、アレクセイは怒らなかった。
「……慣れている」
彼は顔を埋めたまま答えた。
「雑音も、悪意も、すべて切り捨ててきた。だが、最近は……限界が近かったのかもしれん」
彼の言葉の端々に、隠しきれない疲労が滲んでいる。
この国の頂点に立つ男。
誰もが恐れ、敬う存在。
けれど、その実態は、あまりに強すぎる力を持て余し、孤独に耐え続ける一人の人間だった。
僕は無意識のうちに、空中に浮かせていた手を下ろし、そっと彼の頭に触れた。
銀糸のような髪は、見た目通り滑らかで、驚くほど柔らかかった。
アレクセイの身体がピクリと反応する。
怒られるかと思ったが、彼は抵抗しなかった。むしろ、僕の手のひらに押し付けるように、頭を預けてきた。
『まるで、大きな猫みたいだ……』
そんな不謹慎な感想が頭をよぎる。
彼の呼吸が深く、ゆっくりとしたものに変わっていく。
僕もまた、彼のリズムに合わせるように呼吸を整えた。
窓の外から聞こえてくるはずの衛兵の掛け声や、鳥のさえずりも、この部屋の中では遠い世界の出来事のようだ。
ここには、僕と彼だけの時間が流れている。
「……お前の匂いは、静かだ」
しばらくして、アレクセイがつぶやいた。
「薬草の苦味と、その奥にある……甘い花の香り。それが、私の頭の中の嵐を鎮めてくれる」
甘い花、と言われて心臓が跳ねる。
それは僕が隠し続けてきたオメガの香りだ。
本来なら恥ずべきもの、隠すべきものとして生きてきた。
けれど、彼はそれを「静かだ」と言って必要としてくれる。
そのことが、僕の胸の奥にある固く閉ざされた扉を、少しだけ叩いたような気がした。
「……お役に立てて、光栄です」
少し皮肉を込めて言ってみたが、声は震えていたかもしれない。
アレクセイはふっと口元を緩め、ようやく顔を上げた。
その瞳は、先ほどよりもずっと澄んでいて、冷たさの中に柔らかな光を宿していた。
「悪くない」
彼は僕の腰から手を離すと、再び背筋を伸ばし、宰相の顔に戻った。
「今日はもういい。下がれ」
用が済めば即座に解放。
その切り替えの早さに呆れつつも、僕は一礼して扉へと向かった。
「ああ、そうだ」
ドアノブに手をかけた時、背後から声がかかる。
「明日も同じ時間に来い。それと……その薬臭い服は着替えてこい。もう少しマシな服を用意させる」
「えっ、いえ、これは仕事着ですので……」
「命令だ」
有無を言わせぬ一言。
僕はため息をつきつつ、「はい」と短く返事をした。
部屋を出ると、廊下の冷たい空気が火照った頬を撫でる。
心臓がまだドキドキとうるさかった。
恐怖からくる動悸なのか、それとも別の何かなのか。
自分の腹部に、彼の額の熱が残っているような気がして、僕はそこをそっと手で押さえた。
奇妙な共犯関係。
弱みを握られたオメガと、感覚過敏のアルファ。
この歪な関係が、いつか取り返しのつかない事態を引き起こす予感がして、僕は小さく身震いをした。
けれど、その予感の中には、甘い毒のような期待も混じっていたことを、僕はまだ認められずにいた。
***
その日の夜、僕は再び自分の部屋で薬の調合をしていた。
アレクセイのそばにいることで、僕自身のホルモンバランスも影響を受けている。
抑制薬の量を調整しなければならない。
慎重に天秤を操作していると、ふと、昼間の彼の言葉が蘇った。
『お前の匂いは、静かだ』
今まで、オメガであることは呪いだと思っていた。
誰かに迷惑をかけ、欲望の対象にされるだけの、忌むべき性。
でも、もし僕の存在が、誰かの苦痛を和らげることができるなら。
それが、あの最強の宰相であるなら。
「……馬鹿だな、僕も」
自嘲気味につぶやき、僕は完成した紫色の液体を小瓶に詰めた。
彼に心を許してはいけない。
彼は取引相手であり、僕の生殺与奪の権を握る支配者なのだから。
そう自分に言い聞かせても、指先に残る銀髪の感触は、なかなか消えてはくれなかった。
窓の外では、不穏な風が吹き始めていた。
宮廷の闇は深く、僕たちの小さな秘密を飲み込もうと、静かに口を開けて待っている。
翌日から、宮廷内で奇妙な噂が流れ始めることを、僕はまだ知らなかった。
「氷の宰相が、地味な薬師を寵愛している」
そんな、ありもしない、けれど核心を突いた噂が。
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