伯爵令嬢の前途多難な婚活──王太子殿下を突き飛ばしたら、なぜか仲良くなりました

森島菫

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第四章 窮地と平穏

第十七話 救世主

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「その手を離してもらえるかな、ディルク・ロールズ侯爵子息」

 彼の声を聞いただけで、シャーロットの心は歓喜に震えた。

 王太子は、すっと目を細める。視線の先は、シャーロットの肩を掴む男の手だ。

「ロールズ侯爵子息」

 口元に弧を描いているものの、その声音は穏やかではない。単なる呼び掛けというよりも、催促するような言い方である。

 人々の前では穏健な王太子として振る舞っている彼だが、一転、今では有無を言わさぬ迫力が感じられた。

 その言葉を向けられた張本人の緊張は相当なようで、子息はみるみるうちに顔色を悪くしていく。しかし、依然としてシャーロットを離そうとはしない。

「殿下。恐れながら申し上げますが、これは私と彼女の問題なのです。これからきちんと話し合いをしますので、お気になさらず」

 言外に、あなたの介入の余地はないと主張する子息。王太子はそんな彼を眺めつつ、にこやかに続けた。

「私はその手を離せと言っている」

 瞬間、さらに緊迫した空気が走る。依然として目を細めている王太子。しかしその口から発せられた言葉は、シャーロットがこれまで聞いたことのない、鋭い声色を含んでいた。

 今回はさすがに堪えたのか、子息はごくりと息を飲む。

 そして、シャーロットは解放された。ひんやりとした夜気が肌を撫でる。うっすらと赤くなった手首は、掴まれていた力の強さを如実に物語っていた。

「シャーロット嬢、こちらへ」
「は、はい」

 公共の場では彼女を家名で呼んでいる王太子。それは面倒事を避けたいという彼女の願いを汲んでのことだった。
 二人の時のみという条件付きで、王太子は彼女を名前で呼ぶ。それを、彼はこれまで反故にしたことがなかった。

 一応の取り決めを守らなかった王太子だが、シャーロットはそんなことを気に留めるまでもなく、彼の側に落ち着いた。先程の恐怖から解放されたという安心感が、何より彼女の心を塗り替えたのだ。

「なぜ、君と彼女の問題だと?」

 シャーロットの無事を確認した後、王太子は口を開いた。

「……先程、彼女に婚約を申し込んだからです」
「そうか」

 王太子はそれ以上何も言わなかった。ただ穏やかな表情で子息を眺めるばかりである。

 続きを促されていると見て取った子息は、王太子に自分の話を聞く姿勢があることに、少し気を良くした。

「まだ返事は受け取っていないのですが、先程、ここで再会しまして」
「ほう」
「少し彼女の方で誤解があったようでして、それを説明していたところだったのです」
「なるほど」

 子息は雄弁に語った。にこやかに、頷きながら話を聞いてくれる王太子は、一応自分の味方なのだと判断したためである。

 しかしその笑みは、王太子の次の一言で崩れ去った。

「誤解というのは、三人の王宮メイドに手を出していたことか?」
「はい……?」
「それとも、宮廷庭師に金銭を渡して肉体関係を結ばせようとしたことか?」
「何、を」
「ああ、市井の女性を酒場に連れ込み娼館に引き渡したことか」
「……っ!」

 王太子の口から飛び出す驚愕の言葉に、シャーロットは目を見開く。子息に至っては、半開きにした口から吐息が不規則に漏れ、僅かに肩を震わせていた。

 無理もない。己の振る舞いが王太子に知れていることはすなわち、周辺を洗いざらい調査されていることを意味する。

 そんな子息に、王太子はにっこりと告げた。

「そうそう、国王陛下が君とロールズ侯爵をお呼びだよ」
「!!」

 子息は息を飲んだ。まさに、衝撃という言葉がピッタリな様相である。足の力が全て抜け落ちたかのようによろめいた彼は、顔面蒼白で唇を震わせた。見ているこちらが哀れになるくらいである。

 そして、どこからともなく数人の警護の者が現れた。よろよろと歩く彼を取り囲むようにして、回廊の奥へと進んでいく。

 彼の行く先は、決して明るくないだろう。犯罪に加担しているのが本当ならば、尚更だ。そんな彼の餌食になっていたかもしれないと思うと、今更ながら全身に震えが走った。

「彼女を応接室へ連れていく。ハリス、準備を頼む」

 事態がひとまず収束し、王太子は控えていた侍従に声をかけた。

 侍従のハリスとはこれまで何度か顔を合わせてきたシャーロットであるが、彼女が彼を目にするのは大抵、王太子が呼び寄せた時だ。

 どこにいたのかと疑問に思うほど、彼は静かに現れる。今回も、全く彼の存在に気付かなかった。

 一連の騒動に気を取られて気付かなかったのか、彼が気配を消す能力に長けているのか。前者も一因ではあるのだろうが、大部分は後者によるところが大きいのだろう。

「はい」

 寡黙な侍従は、主人の一声で音も立てず王宮の内部へと消えていった。

 静寂が二人を包む。王太子は隣に立つシャーロットを見て、静かに口を開いた。

「ひとまず中に入ろう」

 彼は、大丈夫かとは聞かなかった。彼女の指先が小さく震えていることに気付いていたからである。
 シャーロットは頷き、彼と共にゆっくりと歩み始めた。



「これで冷やしておこう」

 王太子は冷水に浸した布の水気を切り、折りたたんでシャーロットの手首にそっと当てた。

「ありがとうございます。ハリスさんも、色々と準備をしていただいてありがとうございます」

 寡黙な侍従は、さっと頭を下げた。

 シャーロットは今、応接室の椅子に腰をおろしている。ハリスが手配した部屋である。

 王太子の仕事部屋には何度も足を踏み入れていたが、応接室に来るのは始めてだ。アンティーク調の茶色い椅子や丸テーブル、薄ベージュの壁面は、全体的に落ち着いた雰囲気を作っていた。

 彼女はテーブルに用意された紅茶のカップを手に取る。この紅茶は、先程王太子が自ら淹れてくれたものだ。

 急な騒動だったことやシャーロットの様子を考慮したことから使用人は呼び寄せていないとはいえ、一国の王族に紅茶を出してもらうという状況は普通無い。

 この三か月で彼が、少なくとも自身に対して私的な場で身分をあまり気にしない人だということは知ったものの、やはり恐れ多い。

 しかし、彼はそういう人なのだ。もちろん然るべきところでの身の振る舞い方は王太子のそれだが、身分に笠を着ず、相手を思いやる人なのである。

 一口飲んだ紅茶はシャーロットの喉を通り、その温かさが体の奥へと染み渡っていった。

「……助けていただいて、本当にありがとうございました」
「うん。何とか無事で良かった」

 聞けば、彼はナタリーにシャーロットの居場所を聞いて、あの場所に向かったらしい。

「来ていただいただけで、嬉しかったです」

 彼女の言葉に、彼は穏やかに目を細めた。

 彼といると、その優しさに甘えてしまう。もちろん光栄なことであり、有難いことである。
 しかし、その優しさは決して当たり前だと思ってはいけない。王太子として、彼には彼の、果たすべき責務があるのだ。

「私は大丈夫なので、殿下はパーティーに戻ってください」

 王家主催のパーティーは、国の重鎮たちも多く参加する。そのような重要な場で王太子が席を外すのは、あまりよろしくないことであるはずだ。

 すでにかなり時間が経っている。参加者たちに不審がられるかもしれない。
 それだけならまだ良い。王太子は社交を疎んでいると思われてしまえば、彼の名誉に関わる。

「……でもまだ」

 心配そうにこちらを見つめる彼に、シャーロットは静かに首を横に振る。聡明な王太子は、彼女の言わんとしていることを汲み取った。

「……分かった。何かあったら、侍女のフローラに伝えて」

 呼び寄せたと見える一人の侍女を部屋に入れ、彼はそう告げる。

「分かりました」

 シャーロットが頷くと、王太子は扉の前でちらりとこちらを振り返ったものの、ハリスと共にダンスホールへと戻っていった。

 扉が完全に閉まると、シャーロットは侍女の方へと体を向けた。

「シャーロット・フォードです」
「侍女のフローラと申します」

 彼女は微笑んで一礼した。濃茶の髪を後ろでまとめており、落ち着いた印象を抱く女性である。柔和な顔立ちで、声音からもこちらを思ってくれていることが伝わってきた。

「ありがとうございます、フローラさん。早速なんですが……何か羽織るものをお願いしても良いですか?」
「畏まりました。用意いたしますね」

 今日着ているドレスは、デコルテ部分と両腕を見せるデザインである。一年を通して比較的温暖だと言われるこの国でも、夜は寒い。

 フローラはそれからすぐに羽織を持って戻ってきた。後ろから羽織をかけられ、柔らかく温かな感触に包まれる。

「ありがとうございます。とても温かいです」
「それは良かったです」

 見上げると、フローラは目を細めた。

 それからはお茶を飲んで体を温めつつ、フローラと他愛のない話をして過ごした。

 彼女は今年二十歳を迎えたらしい。四年前から王宮勤めを始め、今は主に給仕や女性用衣装の管理などを行っているという。趣味は編み物や裁縫をすることだとか。

 そんな風に話している間は、先刻の騒動を一時的に忘れることができた。フローラとは年が比較的近いため、シャーロットは彼女に親近感を抱いていた。

 しかし、あの恐怖が全て無くなったわけではない。フローラは、シャーロットと話している間にも彼女の手が僅かに震えていることを確認した。

 王太子から簡単に説明を受けたが、目の前で震える彼女は、過去に男性に対して恐怖を抱くような出来事を経験しているらしい。
 元々男性に対して拒否反応が出てしまうのに、気の触れた子息に詰め寄られたとなれば、その心中は一侍女の自分には計り知れない。

「シャーロット様は、何かご趣味はございますか?」

 今出来ることは、楽しく会話をして彼女の恐怖心を溶かすことだ。

 フローラはなるべく笑顔で、穏やかに話しかけることを心掛けた。心地よく過ごしていただけるようにすること。それが、侍女としての彼女のモットーである。

「私も、休みの日は友人と編み物や刺繍をしています」

 やや強張った表情の中に、シャーロットの明るい笑顔が見えてきた気がする。やはり手は時折震えているものの、今は自分に出来る精一杯のことをやるのみだ。

 フローラは、シャーロットの話に笑顔で頷いた。
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