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9章・それぞれの戦い。皆の戦い。
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執務室の前に兵達が詰めかけると、そこへちょうど良くラジートが姿を現した。
彼は憮然とした顔のまま、左手に提げる何かを兵達へ見せる。
それは、ローマットの首であった。
絶望とも苦悶とも取れないローマットの顔を見た兵達は、恐れおののいてラジートとシュエンから離れる。
私兵はローマットから給料を貰って仕事をしているので、ローマットが死んだ今、金も貰えないのに命を掛けて侵入者へ攻撃する変人は居なかった。
ラジートはローマットの首を提げたまま四階から降りていき、ローマットが死んだから抵抗するだけ無駄だと呼ばわる。
これに私兵も武装メイドもやる気を無くして、武器をしまい出した。
だが、ラジートが一階のエントランスに到着した時、一人だけ駈け寄ってくる者が居た。
それはあの老婆のメイドである。
彼女はラジートからローマットの首を引ったくると、坊ちゃん。坊ちゃんと泣きじゃくって、頭を抱きかかえたまま崩れ落ちたのだ。
その姿を見たシュエンは、何とも可愛そうな気持ちが湧いた。
あんな男でも、誰かに愛されていたのだと思うと、申し訳ない気持ちの一つくらい湧くのが人情というものだ。
「同情するだけ無駄だ」
サムランガの声がした。
声のした方を見れば、地下への階段に続く扉から、サーニアとサムランガが姿を表していた。
二人は地下に居たようだ。
そして、二人は地下にある、とあるおぞましいものを目撃したのである。
それは、ローマットが殺してしまった少女の死に様を写した絵画だ。
ガラスのケースに入れられた少女の絵が、テーブル、椅子、棚等になっていたのである。
自分が殺した少女の姿でも見ながら、優雅なティータイムに洒落込んでいたのであろう。
ローマットの異常な愛情。
吐き気を催す光景だ。
しかし、老婆はおいおいと泣きながら、「ええ、そうです。ええ、そうですとも!」と声を挙げた。
「坊ちゃんは昔から純粋だったのです。純粋に人の体だけを愛していて、心を愛せない子だったのです。
人の心は醜いと信じて疑わなかったのですとも!
坊ちゃんはそう言う人だったのです。人の肉から魂が消える瞬間だけが坊ちゃんにとっての幸せだったのです」
身勝手な幸せもあるものだ。
全くふざけている。
シュエンが不愉快な顔で老婆を見ていた。
誰だって異常の一つや二つはある。
シュエンの知り合いにだって、屍にしか興奮できない人間は居た。
しかし、平和の時には、それぞれ皆、異常な自分をコントロールして生きているのだ。
「何が貴族だ。情けねえ野郎」
シュエンは吐き捨てた。
貴族は凡人と違って、自分を律せられる高貴な存在などと民衆を見下す者は多いが、ローマットは少なくとも自分を律せられない愚か者であった。
そして、その愚かな行動の対価を支払わせられる事となってしまったのだ。
しかし、彼が対価を払った所で、ラジートを始め四人の胸に残った吐き気は取れない。
一刻も早く新鮮な空気を吸いたいかのように、四人は自然と屋敷を出た。
爽やかな空気が肺を満たす。
あの屋敷は何とも言えない邪悪に淀んだ空気が漂っていた。
サムランガは深呼吸をしてその空気を存分に堪能した後、サーニアへもう良いかどうかを聞く。
つまり、サーニアを襲った件を水に流してくれるかという話である。
「ま、お前も頑張ってくれたから許してやる」
と、するも「サーニアとして許してやるけど、もう一人の立場への償いはまた今度な?」と言うので、サムランガは本当に嫌そうな顔をした。
女というのは本当に口が上手いもので。
このままだと身ぐるみの全部を償いだと取られてしまいそうなので、サムランガは何も言わずに塀を跳躍して帰っていった。
彼との別れを皮切りに、シュエンとサーニアもラジートと別れて城へ向かっていく。
サーニアは別れ際に、この件の事は全てサーニアがルカオットとカイエンに報告しておく事を伝えた。
なので、ラジートは安心して、ヘデンにもう心配が要らない事を説明するために孤児院へ向かう。
ラジートは孤児院へ到着するやいなや、ヘデンに会った。
ヘデンはちょうど、台所で職員達と共に晩御飯の支度をしていると職員から聞いたラジートは、いの一番に台所へと駆けだしたのである。
孤児院の台所まで五十メートルも無い距離。
少し軋む木の床を走り、肉体とは何て不便なのだろうかとラジートは思うものだ。
心はとっくの昔にヘデンの元へと向かっているというのに、体は全く遅い。
「ヘデン!」
ラジートは台所に立って、職員と料理の味付けを話しているヘデンを見つけた。
ヘデンはラジートに気付くと、気まずそうな、ばつの悪そうな顔をした。
そして、すぐにラジートが着ている胸甲が血まみれなのに気が付き、顔を青ざめさせるのだ。
「ラジート。どこか怪我をしているの?」
「ヘデン! 聞いて欲しい事があるんだ」
「その血、ラジートの? 大丈夫?」
「もう何も心配しなくて大丈夫になったんだよ!」
若い二人は、自分の気持ちが先行するばかりで互いの話を全く聞いていなかった。
ただ、ラジートが「もうローマットの元へ嫁に行かなくて良いんだ」と喜々として語った時、ようやっとヘデンはハッとした顔をしたのである。
つまり?
どういう事であろうかヘデンはイマイチ理解に苦しみ、自分の耳が何か聞き間違えたのでは無いかと思うのだ。
――ローマットへ嫁に行かなくても良いって!?――
甚だ呆然とするヘデンの肩を乱暴に掴んで、ラジートは満面の笑みで「結婚しよう!」と言う。
しかし、なぜ突然ローマットと結婚しなくて済むようになったのだろう。
ヘデンは理解が追いつかず、何とか脳細胞の一つ一つをつなぎ合わせて「ローマットさんに何があったの?」と呟くのが精一杯だった。
ラジートは言う。
ローマットは死んだと。
俺が殺したと。
ヘデンは、ラジートの胸甲にべったりとくっついた血が、返り血なのだと気付き、ぞわっとした感覚と共に彼の胸を押し離してしまった。
「ヘデン……?」
突然の拒絶をラジートは全く想像していなくて、驚きと混乱が混じる。
「なんで、殺したの?」
「君を守るために」
「だからって……殺さなくても良かったのに」
怯えたヘデンの視線がラジートの心に突き刺さる。
浮かれて、喜び勇んでヘデンの元へとやって来たのに、なぜこんな眼をされなくてはならないのだと困惑した。
気付けば、ラジートは二歩、三歩と後退り、そして、自分自身の意思に反して孤児院を出て行ってしまう。
思考が追いつかなかったので、なぜ自分がヘデンから離れていくのか自分でも分からない。
きっと俺は、これ以上ヘデンに拒絶されて傷付くのが恐いのだなぁ。なんて、他人事のように見ていた。
そのままラジートは孤児院を出る。
「あ、ラジートじゃないか」
ちょうど陶器工房から帰ってきたカーシュと鉢合わせた。
彼はなんでラジートが大急ぎで孤児院から出て来たのか眉をひそめる。
「何かあったのか?」
「ああ。いや、ちょっとヘデンにフラれてね。それじゃ」
ラジートは早口でそう言い、再び走り出す。
カーシュが後ろから、ちょっと待てよと呼ぶ声は聞こえたが、ラジートは振り返らなかった。
そのまま、どう帰ったか覚えの無いまま、気付くと屋敷の自分の部屋に居た。
ザインは居ない。
ついさっきまで彼はラジートの後ろにあるベッドに腰掛けて、何かを話し掛けていた気はするが、少なくとも今は居なかった。
ラジートはつい数分前の事を思い出そうとしたが、完全にボウッとしていたので分からない。
ザインがずっとラジートを心配していたような気はするが、生返事を返していただろうという予想はつく。
少し、悲しい。
ザインはラジートにとって、血肉と魂を分けた双子であり、こんな時に隣に居てくれると、自分が完全で究極で、無敵な存在に思えるものだ。
しかし、今は居ない。
今の自分は五十パーセントの不完全な人間に思えた。
「そうだ。俺はなんて不完全なのだ」
思えば、ヘデンは何も知らないのだ。
ローマットがその性的嗜好から少女を殺した事を。
挙げ句に、殺した少女を絵にして飾っていた異常な事実を。
事情の知らない彼女からしたら、ラジートの方こそ恐ろしい殺人狂であろう。
拒絶された衝撃で、彼女へ事情を説明する事を忘れていた。
しかし、今さらそんな説明を彼女は聞くだろうか。
恐らくはラジートに顔すら合わせないだろう。
彼女の中では、ラジートは凶悪な殺人鬼なのだ。
一体どうすれば良いのかラジートには分からず、頭を抱え込んで机へ突っ伏した。
目の前に揺れる蝋燭の火を眺める。
いつの間にか日はドップリと沈んで、夜のようだ。
ゆらゆらと左右に不規則な踊りを見せる炎を眺めていたら、扉の蝶番が軋んだ。
きっとザインが入ってきたのだろう。
ラジートは炎を見つめたまま、ヘデンに何も伝えられなかった自分の愚かさをザインへ愚痴る。
しかし、ザインは返事をしない。
そして、ラジートの背へふわりと上着を一枚羽織らせたのである。
どうにもザインらしくないので、ラジートは不思議に思って蝋燭から目を離した。
ラジートの隣に立っていたのはキネットである。
彼女は優しげな口調で、悩みがあるなら幾らでも聞きますと言った。
彼女はザインにラジートが落ち込んでいるから慰めてやって欲しいと言われてやって来たのだ。
キネットはこの屋敷でラジートと最も親しいので、悩みを聞くには適任だった。
なので、ラジートも気兼ねなく、彼女へ自身の出来事を話したのである。
キネットは普段の騎士然とした態度では無く、女性らしい母性に溢れた態度で、ラジートへ相槌を打って話を聞いた。
「俺はどうしたら良いんだ」
ラジートは頭を抱え、キネットはそんな彼を優しく抱きしめる。
キネットは剣で生きてきた女性だ。
気の利いた言葉を掛けられない。
だが、その行動は安っぽい慰めの言葉より、よっぽどラジートの落ち込んだ心を慰めてくれた。
優しい匂いがした。
あの厳しいキネットが、今だけは優しいのが嬉しい。
「しばらく……こうしてて欲しい」
ラジートはそう言って、まどろむ。
夢か現か。
瞼が段々と重くなってくるほど、先ほどまでの激しい後悔の気持ちが少しずつ治まってくる。
そんな彼を現実に引き戻したのは、屋敷の前から聞こえてきた争うような声だ。
「貴様、何をしているのだ!」という声。
どうやら、衛兵と誰かが言い争いをしているのか。
すぐ屋敷の前なので、泥棒か何かであろうかと思ったラジートはキネットから離れて、窓から外を見た。
やはり、衛兵が誰かを詰問している。
貧民の身なりをした男が、怪しい者じゃ無いと言い、衛兵は「いいや、怪しい!」と言うのだ。
衛兵のカンテラに照らされる貧民の身なりをした男にラジートは見覚えがある。
「カーシュ!」
窓を開けてラジートは叫んだ。
これにカーシュは嬉しそうな顔で手を振った。
「ヘデンの事でお前に会いに来たんだよ。ヘデンは凄い後悔しているんだ。何も事情を知らなかったのにって!」
カーシュの口から告げられた事を、ラジートは信じられない気持ちで聞いた。
ああ、このような都合の良いことが舞い込んでくる事だろうか?
しかし、ヘデンはラジートの事を信頼していたから、ラジートの積み立てて来た信頼のお陰で、ヘデンがラジートの話を聞かなかった事を後悔したのだ。
「なあ、もう一度ヘデンと話をしてくれないか? それと、出来れば俺をこの人から助けてくれるかな」
「衛兵。その人は俺の友人だ。怪しむには及ばない」
ラジートは衛兵へそう伝えて、カーシュへ会いに向かおうと窓から顔を引っ込める。
部屋を出るとき、一体全体何がなんだか分からないままのキネットへラジートは「ありがとうキネット。おかげで楽になったよ」と手の甲にキスをして屋敷を出た。
彼は憮然とした顔のまま、左手に提げる何かを兵達へ見せる。
それは、ローマットの首であった。
絶望とも苦悶とも取れないローマットの顔を見た兵達は、恐れおののいてラジートとシュエンから離れる。
私兵はローマットから給料を貰って仕事をしているので、ローマットが死んだ今、金も貰えないのに命を掛けて侵入者へ攻撃する変人は居なかった。
ラジートはローマットの首を提げたまま四階から降りていき、ローマットが死んだから抵抗するだけ無駄だと呼ばわる。
これに私兵も武装メイドもやる気を無くして、武器をしまい出した。
だが、ラジートが一階のエントランスに到着した時、一人だけ駈け寄ってくる者が居た。
それはあの老婆のメイドである。
彼女はラジートからローマットの首を引ったくると、坊ちゃん。坊ちゃんと泣きじゃくって、頭を抱きかかえたまま崩れ落ちたのだ。
その姿を見たシュエンは、何とも可愛そうな気持ちが湧いた。
あんな男でも、誰かに愛されていたのだと思うと、申し訳ない気持ちの一つくらい湧くのが人情というものだ。
「同情するだけ無駄だ」
サムランガの声がした。
声のした方を見れば、地下への階段に続く扉から、サーニアとサムランガが姿を表していた。
二人は地下に居たようだ。
そして、二人は地下にある、とあるおぞましいものを目撃したのである。
それは、ローマットが殺してしまった少女の死に様を写した絵画だ。
ガラスのケースに入れられた少女の絵が、テーブル、椅子、棚等になっていたのである。
自分が殺した少女の姿でも見ながら、優雅なティータイムに洒落込んでいたのであろう。
ローマットの異常な愛情。
吐き気を催す光景だ。
しかし、老婆はおいおいと泣きながら、「ええ、そうです。ええ、そうですとも!」と声を挙げた。
「坊ちゃんは昔から純粋だったのです。純粋に人の体だけを愛していて、心を愛せない子だったのです。
人の心は醜いと信じて疑わなかったのですとも!
坊ちゃんはそう言う人だったのです。人の肉から魂が消える瞬間だけが坊ちゃんにとっての幸せだったのです」
身勝手な幸せもあるものだ。
全くふざけている。
シュエンが不愉快な顔で老婆を見ていた。
誰だって異常の一つや二つはある。
シュエンの知り合いにだって、屍にしか興奮できない人間は居た。
しかし、平和の時には、それぞれ皆、異常な自分をコントロールして生きているのだ。
「何が貴族だ。情けねえ野郎」
シュエンは吐き捨てた。
貴族は凡人と違って、自分を律せられる高貴な存在などと民衆を見下す者は多いが、ローマットは少なくとも自分を律せられない愚か者であった。
そして、その愚かな行動の対価を支払わせられる事となってしまったのだ。
しかし、彼が対価を払った所で、ラジートを始め四人の胸に残った吐き気は取れない。
一刻も早く新鮮な空気を吸いたいかのように、四人は自然と屋敷を出た。
爽やかな空気が肺を満たす。
あの屋敷は何とも言えない邪悪に淀んだ空気が漂っていた。
サムランガは深呼吸をしてその空気を存分に堪能した後、サーニアへもう良いかどうかを聞く。
つまり、サーニアを襲った件を水に流してくれるかという話である。
「ま、お前も頑張ってくれたから許してやる」
と、するも「サーニアとして許してやるけど、もう一人の立場への償いはまた今度な?」と言うので、サムランガは本当に嫌そうな顔をした。
女というのは本当に口が上手いもので。
このままだと身ぐるみの全部を償いだと取られてしまいそうなので、サムランガは何も言わずに塀を跳躍して帰っていった。
彼との別れを皮切りに、シュエンとサーニアもラジートと別れて城へ向かっていく。
サーニアは別れ際に、この件の事は全てサーニアがルカオットとカイエンに報告しておく事を伝えた。
なので、ラジートは安心して、ヘデンにもう心配が要らない事を説明するために孤児院へ向かう。
ラジートは孤児院へ到着するやいなや、ヘデンに会った。
ヘデンはちょうど、台所で職員達と共に晩御飯の支度をしていると職員から聞いたラジートは、いの一番に台所へと駆けだしたのである。
孤児院の台所まで五十メートルも無い距離。
少し軋む木の床を走り、肉体とは何て不便なのだろうかとラジートは思うものだ。
心はとっくの昔にヘデンの元へと向かっているというのに、体は全く遅い。
「ヘデン!」
ラジートは台所に立って、職員と料理の味付けを話しているヘデンを見つけた。
ヘデンはラジートに気付くと、気まずそうな、ばつの悪そうな顔をした。
そして、すぐにラジートが着ている胸甲が血まみれなのに気が付き、顔を青ざめさせるのだ。
「ラジート。どこか怪我をしているの?」
「ヘデン! 聞いて欲しい事があるんだ」
「その血、ラジートの? 大丈夫?」
「もう何も心配しなくて大丈夫になったんだよ!」
若い二人は、自分の気持ちが先行するばかりで互いの話を全く聞いていなかった。
ただ、ラジートが「もうローマットの元へ嫁に行かなくて良いんだ」と喜々として語った時、ようやっとヘデンはハッとした顔をしたのである。
つまり?
どういう事であろうかヘデンはイマイチ理解に苦しみ、自分の耳が何か聞き間違えたのでは無いかと思うのだ。
――ローマットへ嫁に行かなくても良いって!?――
甚だ呆然とするヘデンの肩を乱暴に掴んで、ラジートは満面の笑みで「結婚しよう!」と言う。
しかし、なぜ突然ローマットと結婚しなくて済むようになったのだろう。
ヘデンは理解が追いつかず、何とか脳細胞の一つ一つをつなぎ合わせて「ローマットさんに何があったの?」と呟くのが精一杯だった。
ラジートは言う。
ローマットは死んだと。
俺が殺したと。
ヘデンは、ラジートの胸甲にべったりとくっついた血が、返り血なのだと気付き、ぞわっとした感覚と共に彼の胸を押し離してしまった。
「ヘデン……?」
突然の拒絶をラジートは全く想像していなくて、驚きと混乱が混じる。
「なんで、殺したの?」
「君を守るために」
「だからって……殺さなくても良かったのに」
怯えたヘデンの視線がラジートの心に突き刺さる。
浮かれて、喜び勇んでヘデンの元へとやって来たのに、なぜこんな眼をされなくてはならないのだと困惑した。
気付けば、ラジートは二歩、三歩と後退り、そして、自分自身の意思に反して孤児院を出て行ってしまう。
思考が追いつかなかったので、なぜ自分がヘデンから離れていくのか自分でも分からない。
きっと俺は、これ以上ヘデンに拒絶されて傷付くのが恐いのだなぁ。なんて、他人事のように見ていた。
そのままラジートは孤児院を出る。
「あ、ラジートじゃないか」
ちょうど陶器工房から帰ってきたカーシュと鉢合わせた。
彼はなんでラジートが大急ぎで孤児院から出て来たのか眉をひそめる。
「何かあったのか?」
「ああ。いや、ちょっとヘデンにフラれてね。それじゃ」
ラジートは早口でそう言い、再び走り出す。
カーシュが後ろから、ちょっと待てよと呼ぶ声は聞こえたが、ラジートは振り返らなかった。
そのまま、どう帰ったか覚えの無いまま、気付くと屋敷の自分の部屋に居た。
ザインは居ない。
ついさっきまで彼はラジートの後ろにあるベッドに腰掛けて、何かを話し掛けていた気はするが、少なくとも今は居なかった。
ラジートはつい数分前の事を思い出そうとしたが、完全にボウッとしていたので分からない。
ザインがずっとラジートを心配していたような気はするが、生返事を返していただろうという予想はつく。
少し、悲しい。
ザインはラジートにとって、血肉と魂を分けた双子であり、こんな時に隣に居てくれると、自分が完全で究極で、無敵な存在に思えるものだ。
しかし、今は居ない。
今の自分は五十パーセントの不完全な人間に思えた。
「そうだ。俺はなんて不完全なのだ」
思えば、ヘデンは何も知らないのだ。
ローマットがその性的嗜好から少女を殺した事を。
挙げ句に、殺した少女を絵にして飾っていた異常な事実を。
事情の知らない彼女からしたら、ラジートの方こそ恐ろしい殺人狂であろう。
拒絶された衝撃で、彼女へ事情を説明する事を忘れていた。
しかし、今さらそんな説明を彼女は聞くだろうか。
恐らくはラジートに顔すら合わせないだろう。
彼女の中では、ラジートは凶悪な殺人鬼なのだ。
一体どうすれば良いのかラジートには分からず、頭を抱え込んで机へ突っ伏した。
目の前に揺れる蝋燭の火を眺める。
いつの間にか日はドップリと沈んで、夜のようだ。
ゆらゆらと左右に不規則な踊りを見せる炎を眺めていたら、扉の蝶番が軋んだ。
きっとザインが入ってきたのだろう。
ラジートは炎を見つめたまま、ヘデンに何も伝えられなかった自分の愚かさをザインへ愚痴る。
しかし、ザインは返事をしない。
そして、ラジートの背へふわりと上着を一枚羽織らせたのである。
どうにもザインらしくないので、ラジートは不思議に思って蝋燭から目を離した。
ラジートの隣に立っていたのはキネットである。
彼女は優しげな口調で、悩みがあるなら幾らでも聞きますと言った。
彼女はザインにラジートが落ち込んでいるから慰めてやって欲しいと言われてやって来たのだ。
キネットはこの屋敷でラジートと最も親しいので、悩みを聞くには適任だった。
なので、ラジートも気兼ねなく、彼女へ自身の出来事を話したのである。
キネットは普段の騎士然とした態度では無く、女性らしい母性に溢れた態度で、ラジートへ相槌を打って話を聞いた。
「俺はどうしたら良いんだ」
ラジートは頭を抱え、キネットはそんな彼を優しく抱きしめる。
キネットは剣で生きてきた女性だ。
気の利いた言葉を掛けられない。
だが、その行動は安っぽい慰めの言葉より、よっぽどラジートの落ち込んだ心を慰めてくれた。
優しい匂いがした。
あの厳しいキネットが、今だけは優しいのが嬉しい。
「しばらく……こうしてて欲しい」
ラジートはそう言って、まどろむ。
夢か現か。
瞼が段々と重くなってくるほど、先ほどまでの激しい後悔の気持ちが少しずつ治まってくる。
そんな彼を現実に引き戻したのは、屋敷の前から聞こえてきた争うような声だ。
「貴様、何をしているのだ!」という声。
どうやら、衛兵と誰かが言い争いをしているのか。
すぐ屋敷の前なので、泥棒か何かであろうかと思ったラジートはキネットから離れて、窓から外を見た。
やはり、衛兵が誰かを詰問している。
貧民の身なりをした男が、怪しい者じゃ無いと言い、衛兵は「いいや、怪しい!」と言うのだ。
衛兵のカンテラに照らされる貧民の身なりをした男にラジートは見覚えがある。
「カーシュ!」
窓を開けてラジートは叫んだ。
これにカーシュは嬉しそうな顔で手を振った。
「ヘデンの事でお前に会いに来たんだよ。ヘデンは凄い後悔しているんだ。何も事情を知らなかったのにって!」
カーシュの口から告げられた事を、ラジートは信じられない気持ちで聞いた。
ああ、このような都合の良いことが舞い込んでくる事だろうか?
しかし、ヘデンはラジートの事を信頼していたから、ラジートの積み立てて来た信頼のお陰で、ヘデンがラジートの話を聞かなかった事を後悔したのだ。
「なあ、もう一度ヘデンと話をしてくれないか? それと、出来れば俺をこの人から助けてくれるかな」
「衛兵。その人は俺の友人だ。怪しむには及ばない」
ラジートは衛兵へそう伝えて、カーシュへ会いに向かおうと窓から顔を引っ込める。
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