怪奇蒐集帳(短編集)

naomikoryo

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103)夜の衣紋掛け

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1
 これは、私の曾祖母が昔、体験した話だ。

 曾祖母が若い頃、彼女の家では「夜に衣紋掛け(えもんかけ)を使ってはいけない」という奇妙な言い伝えがあった。

 衣紋掛けとは、着物を掛けておくための木製のハンガーラックのようなものだ。昔の家にはどこにでもある日用品で、曾祖母の家にも座敷の隅に一本、古い衣紋掛けが置かれていた。

 「日が沈んだら、絶対に着物を掛け直しちゃいけないよ」

 曾祖母は幼い頃から、祖母や曾祖父にそう言われて育った。しかし、理由を尋ねても、「昔からの決まりだから」としか答えてくれなかったという。

 だが、ある夜、曾祖母はうっかりその決まりを破ってしまった。

2
 その日、曾祖母は村の祭りへ出かけ、夜遅くに帰宅した。

 夏の暑い日で、汗をかいたため、帰宅後に浴衣を着替えることにした。

 脱いだ浴衣を放っておくのは嫌だったため、何気なく座敷の衣紋掛けに掛け直した。

 ――その瞬間、背筋に妙な寒気が走った。

 (……何か変だ)

 ふと、掛けた浴衣を見る。

 さっきまでただの木の棒だったはずの衣紋掛けが――

 着物を掛けた途端、誰かがそこに立っているように見えた。

 それは、ほんの一瞬の錯覚だったかもしれない。

 だが、曾祖母はなぜか、目を逸らせなくなった。

3
 その夜、曾祖母は布団に入ったが、なかなか眠れなかった。

 いつもならすぐに寝てしまうのに、その日はどうにも気持ちが落ち着かない。

 ――カサ……カサ……

 微かに、何かが動く音が聞こえた。

 耳を澄ますと、それは部屋の隅――衣紋掛けのある場所から聞こえてくる。

 曾祖母は布団の中で固まった。

 衣紋掛けは風で揺れるようなものではない。家の中に誰かがいるはずもない。

 けれど、確かに聞こえる。

 ――カサ……カサ……カサ……

 それは、まるで掛けた着物の袖がゆっくりと揺れているような音だった。

4
 曾祖母は意を決して、布団の隙間から衣紋掛けの方をそっと覗いた。

 月明かりが差し込む薄暗い座敷。

 そして――

 衣紋掛けの前に、「誰か」が立っていた。

 髪の長い女。

 掛けた浴衣を着ているが、曾祖母が掛けたはずの位置と微妙にズレている。

 (……誰?)

 曾祖母は息を呑んだ。

 その瞬間、女がゆっくりと振り向いた。

 だが――顔がない。

 いや、顔の部分が着物の襟で隠れているだけかもしれない。

 でも、曾祖母には確信があった。

 そこには、本当に顔がなかった。

5
 恐怖で体が動かない。

 女はゆっくりと、曾祖母の方へ近づいてくる。

 カサ……カサ……

 着物の裾が畳を擦る音が響く。

 ――このままでは、何かに連れて行かれる。

 そう思った瞬間、曾祖母は反射的に布団を跳ね上げ、部屋を飛び出した。

 そして、祖母の寝ている部屋へ駆け込み、必死に肩を揺さぶった。

 「おばあちゃん! 何かいる! 何かいるの!」

 祖母は驚いて目を覚ましたが、曾祖母の顔を見た瞬間、表情が強張った。

 そして、低い声で言った。

 「……あんた、夜に衣紋掛けを使ったね?」

6
 祖母はすぐに曾祖母を仏間へ連れて行き、線香を焚きながら何かを唱え始めた。

 曾祖母は震えながら、祖母に問いかけた。

 「あれ……何なの? あの着物の人は……?」

 祖母は、しばらく黙った後、重々しく言った。

 「……あれはな、“着せ替え様(きせかえさま)”だよ」

 曾祖母は聞いたことがなかった。

 祖母は静かに語った。

 「昔、この村には、“夜になると着物を探す者”がいるって言われていた。夜に衣紋掛けに着物を掛けると、それを着て“あれ”がやって来るんだ」

 「それって、何……?」

 「わからない。でも、一度見てしまうと、連れて行かれるって」

 曾祖母は戦慄した。

 確かに、あの“女”は、ゆっくりとこちらへ歩いてきていた。

 もし、もう少し気づくのが遅かったら――。

7
 その後、祖母は曾祖母に言い聞かせた。

 「これからは、日が沈んだら衣紋掛けは使わないこと。もし掛けたなら、絶対に覗いてはいけない。」

 曾祖母はそれ以来、夜の衣紋掛けを決して使わなくなった。

 そして、村ではこの話が語り継がれ、誰も夜には衣紋掛けを使わなくなったという。

 けれど――

 今でも、夜の座敷で衣紋掛けに着物を掛けると、そこには誰かが立っているかもしれない。
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