怪奇蒐集帳(短編集)

naomikoryo

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136)『ゆびさき回廊』

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静かな雨の午後。
 その美術館は、ひっそりと街の裏通りに佇んでいた。

 蔦の絡まる古い洋館。看板はなく、
 入り口の上にはただ「静観室」とだけ刻まれていた。

 中に入ると、湿った木の匂いと、絵の具と石膏の混ざったような香りが漂っている。

 展示室には、誰もいない。

 ただ、壁に沿って並ぶ彫刻と絵画が、音もなくそこに在るだけだった。

 そして、全ての作品の傍らには、同じ札が掲げられていた。

 > 「展示品には、お手を触れぬようお願いいたします。
 >  指先から、記憶が移ってしまいます。」

 私はその注意書きを見て、くすりと笑った。

 少し凝った演出のつもりか、あるいはアートとしての皮肉か。
 何にせよ、洒落ていると思った。

 だが、その札の文字は――手書きで、妙に生々しかった。

 インクがにじみ、筆跡が歪んでいる。

 ふと、壁際の彫刻のひとつに目がとまった。

 人間の手の形をした石の彫刻。

 掌を上に向け、誰かを待っているように。

 私は、ふらふらとその彫刻に引き寄せられた。

 そして、つい――指先で触れてしまった。

 滑らかで冷たい石の感触。

 その瞬間、視界の端に“別の景色”が滲んだ。

 川沿いのベンチ。夕暮れの光。
  本を読む手の上に、誰かの指が重なる感覚。

 ……これは、誰の記憶だ?

 私は慌てて手を引いた。

 だが、それからというもの、自分の右手が“自分のものではない”ような感覚に囚われていった。

 ・文字を書くと、知らない漢字がスラスラと出てくる
 ・スマホのパスコードが、無意識に違う数字に変わる
 ・触れたものから、断片的な記憶が流れ込んでくる

 そのたびに、自分の記憶が――わずかに、薄れていく。

 やがて、夢を見るようになった。

 異国の街角。赤いワイン。白いカーテン。

 目覚めたとき、自分が知らない外国語のフレーズを口ずさんでいた。

 手のひらには、小さく“ある女性の名前”がペンで書かれていた。

 > 「Amélie」

 私は再び、静観室へ向かった。

 館内には、相変わらず誰もいない。

 ただ、展示品が少し増えている気がした。

 あの“手”の彫刻の隣には、新たな札が立てられていた。

 > 「記憶を渡した者の手を、ここに封じます。
 >  手を返すには、別の記憶を置いてください。」

 奥の部屋には、“椅子に座る石像”があった。

 目を閉じ、穏やかに笑う顔。

 その指先には、私の癖と同じ指の曲がり方があった。

 それを見た瞬間、私は理解した。

 **この回廊にある彫刻は、かつてここに迷い込んだ人々の“抜け殻”**なのだ。

 記憶を渡し、形を残し、そして消えていった者たち。

 私は、自分の指に触れた。

 皮膚の感触が薄い。
 石のように、固く、冷たい。

 このままでは、完全に“他人の手”になる。

 助けを求めようとしたが、すでに“私”の記憶も曖昧になり始めていた。

 ・家族の顔が思い出せない
 ・自分の誕生日が言えない
 ・何の仕事をしていたのか、思い出せない

 最後に、私は“誰かの手の彫刻”に、左手で触れた。

 すると、二人分の記憶が混ざり合った。

 ・モロッコの朝焼け
 ・初恋の人の香水
 ・事故の瞬間の痛み
 ・出産のときの泣き声
 ・図書館の匂い
 ・雨の中でのプロポーズ

 そして――私が初めて描いたスケッチブックの中の猫の絵

 “私”が戻ってきた。

 今、私は美術館の奥に勤めている。

 静観室は、もう“誰にも見えない”場所になった。

 けれど時折、ふらりと入ってくる人がいる。

 そのとき、私はこう告げる。

 > 「どうぞ、展示品にはお手を触れぬよう……」

 そして心の中で呟く。

 「……触れてしまえば、あなたもここに残るのです」

◆エピローグ
 美術館で、妙に手のリアルな彫刻を見たことはありませんか?

 それ、**誰かが記憶を残していった“身体のかけら”**かもしれません。

 そして、あなたの手も……もう他人の記憶で動き始めていませんか?
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