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序章「潮の香る夜に - A Scented Night」
第1話「炭火にほころぶ夜」
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ぱちり、と炭が弾ける音がした。
焼き台の上、反り返るイカの身がじくじくと音を立てていた。
切れ目から滲んだ脂が、焦げた網に落ち、白い煙を細く立ち昇らせる。
煙は天井近くで、潮と炭と醤油の焦げた香りが混ざり合って、店内を満たしていた。
ベネリオは火箸を握り直し、炭の隙間に細かい炭をひとつかみ足した。
炎の赤がじわりと広がり、炭火の温度がまた上がる。
その熱気に額の汗を拭いながら、彼はうんと息をついた。
「……やっぱり、この香りが出るまでは、始まんねぇな」
ひとりごちた声に、カウンターの端から感嘆の声が返る。
「これ、干しイカですか? さっきから、ずっといい匂いで……」
声の主は、さきほど一番に店へ入ってきた若い男だった。
旅装を着崩し、まだ背負ったままの布袋を脇に置いて、湯の入った杯を両手で抱えている。
目の前の炭火と料理に、目を輝かせているあたり、どうやら食い意地は張っていそうだった。
「ああ。昨日漁師の爺さんからもらったヤツを、日陰に吊るしてちょいと干した。三分火で炙って、ちょい塩。味付けは、それで十分だ」
言いながら、ベネリオは焼き上がったイカを一枚、木皿に乗せる。
添えるのは、荒く刻んだ香草と、くし形に切ったレモン。
薄い塩の粒が、わずかに光を反射していた。
「うわ……見た目だけで、もう旨いのわかりますよこれ」
「匂いで旨いと思ったら、それはもう旨いもんだ。熱いうちに食えよ」
皿を前に出すと、男は嬉しそうに「いただきます」と声を弾ませた。
指先でイカの端をつまみ、恐る恐る口に入れる。
一瞬、咀嚼が止まり──そして、目を丸くした。
「んっ……うまっ……!」
「そりゃよかった」
ベネリオは湯を足しながら、焼き台に向き直る。
鍋の中では昆布と煮干しが出汁を吐き出し、泡が静かに縁をなぞっている。
香草を数枚ちぎり、湯気の中に沈めると、さらに複雑な香りが立ちのぼった。
──そのとき、引き戸がきしり、重たく軋んで開いた。
潮と炭の混じる煙が、風に押されてわずかに揺れた。
店の内と外の境に、ひときわ濃い影がひとつ、静かに立っていた。
革鞄を肩に、膝下までの長靴にはまだ乾ききらぬ泥が残っている。
濃い灰の上着に立ち襟のコート、その襟元から覗くのは、歳月を帯びた旅人の疲れ──あるいは、戦いの余韻か。
その目が、炭火の明かりに照らされる。
黒曜のような瞳がわずかに揺れ、そして何も言わず、店の中へと踏み入った。
──ガルド・エスヴァン。
その名を知る者は少ない。だが、この町の静かな一角では、忘れがたい気配として、彼の姿を覚えている者がいる。
男はゆっくりとカウンターに歩を進め、無言のまま、中央の椅子に腰を下ろした。
その動きには、まるで風の流れを読む漁師のような、あるいは火の揺らぎを見極める料理人のような、無駄のなさがあった。
「……ガル。やけに静かに現れやがるな、おまえは」
「……暖簾が揺れてたからな。風が止むまで、外で待ってた」
「そうかよ。んで? なんか用か? まさか、呑みに来たわけじゃ──」
「イカが、焼ける匂いがした」
それだけ言って、ベネリオの顔も見ずに、盃を差し出す。
ベネリオは肩をすくめて、それを受け取り、湯にくぐらせた。
「ったく……誰だよ、あんな無愛想な奴を店に入れたのは」
ぽつりと呟くと、先客の男が、思わず笑いをこらえきれなかった。
「お、お知り合いなんですね……」
「ああ、昔な。荒事ばっかしてた頃の腐れ縁だよ」
「ほう……そっちの方が、冒険者っぽいですね」
ガルドがちらりと目をやり、微かに唇を動かす。
「……見た目だけで言うな」
「いやいや、いい意味ですって! 渋いっていうか、その……」
「やめとけ。そいつ、褒められ慣れてねぇから、すぐ黙り込むぞ」
湯を張った盃をガルドに戻すと、彼は黙って受け取り、ぐいとあおった。
ベネリオは炭の上に新たに鱸の切り身を並べる。
銀皮がじりじりと縮み、香ばしい脂が滴っていく。
「そういや、おまえ、名前は?」
「あ、すみません。エルって言います。旅の途中で……魚の匂いに負けて、つい」
「いい名前だ。短くて、呼びやすい」
「ありがとう……ございます?」
ベネリオが笑い、ガルドは酒をもう一杯、注ぎ直す。
気がつけば、三人の間に流れる空気が少し和らいでいた。
イカの皿が空になり、代わって鱸と香草の小鉢が並ぶ。
「うわ……これも……」
「白身は焼きたてより、ちょっと置いたほうが旨い。口の中でほろっと崩れるまで、我慢して食え」
「……この店、最高ですね」
「だろ? 怖い顔の親父がやってるけど、味だけは保証付きだぜ」
ベネリオが火箸を構えたまま「誰が怖い顔だ」とぼやき、二人は同時に笑った。
炭がまた一つ、ぱちりと弾ける。
そのときだった。
暖簾の向こうで、わずかな気配が立ち止まった。
静かに、戸口の木を叩く音──二度、遠慮がちな小さな音。
引き戸がきい、と控えめに開く。
現れたのは、束ねた黒髪が肩に揺れる少女だった。
麻のワンピースの上に薄手のエプロンを重ね、手には白布にくるまれた包みを抱えている。
頬は日差しに焼けた健康的な赤みを帯びているが、その中心に、今は別の朱が滲んでいた。
彼女の足取りは、決して強くない。
けれど、真っすぐだった。
視線をそらしがちに、扉の隙間からそっと顔をのぞかせる。
その仕草は、何度もためらった跡を思わせた。
少女の名は、セシア。
町の八百屋の娘で、日が落ちる少し前、この店によく顔を出す。
──食材を手にして、けれどそれ以上の言葉はなかなか口にできず。
包みの中身よりも、その手に残る温もりが、彼女の気持ちのすべてを語っていた。
「セシア、か」
ベネリオが目を細め、火箸を下ろした。
「べ、べつに……顔見に来たわけじゃ、ないですからっ。ほら、あの……今日は、トマト、いいのが入ったって……!」
少女の言い訳が、炭火の煙といっしょに、夜の居酒屋にふわりと溶けていった。
「おう、そうかい。……トマト、か。赤いのか? それとも黄色いのか?」
「えっ、あ、あの……赤ですけど、えっと、あっちの畑の方で採れて……あの……皮が薄くて……っ」
セシアは慌てて包みを開き、つややかな実をそっと取り出した。
手のひらに乗せたトマトは、月の明かりに照らされて赤く映える。少し青さの残る、若い実だ。
「へぇ。……いい色してんじゃねぇか。さっきの鱸に合わせてみっか。火を通してソースにしてもいい」
「べ、べつに、そういうつもりで持ってきたわけじゃ……っ」
少女がまたそわそわと、足元で裾を握る。
エルがそれを見て目を細めた。
「お知り合い……なんですね?」
「近所の八百屋の娘さ。よく食材持ってくる。いや、持ってきたがる、だな」
「も、持ってきたがってないです!」
言いながらも、セシアはカウンターの端に立ち尽くしている。
どうぞ、と勧められればすぐにでも座りそうな様子なのに、誰もまだそれを言わない。
そこへ、ガルドがふいに口を開いた。
「……座れ。立ってると、料理が冷める」
「……っ!」
セシアは一瞬きょとんとし、次いで、耳まで真っ赤に染めて小さく頷いた。
ベネリオは苦笑して、手近の椅子を引いてやる。
「ったく……みんな、勝手に座って、勝手に呑んで、勝手にうまい言いやがってよ。なんだってんだこの店は」
「いい店ってことですよ、きっと」
エルが笑い、ガルドがまた黙って杯を傾ける。
小さな居酒屋に集う三人と一人。
炭火が燻り、潮風が夜の隙間から入り込む。
明かりは朱色に灯り、料理の香りはますます濃く──その夜の、最初の宴が、ようやく始まろうとしていた。
焼き台の上、反り返るイカの身がじくじくと音を立てていた。
切れ目から滲んだ脂が、焦げた網に落ち、白い煙を細く立ち昇らせる。
煙は天井近くで、潮と炭と醤油の焦げた香りが混ざり合って、店内を満たしていた。
ベネリオは火箸を握り直し、炭の隙間に細かい炭をひとつかみ足した。
炎の赤がじわりと広がり、炭火の温度がまた上がる。
その熱気に額の汗を拭いながら、彼はうんと息をついた。
「……やっぱり、この香りが出るまでは、始まんねぇな」
ひとりごちた声に、カウンターの端から感嘆の声が返る。
「これ、干しイカですか? さっきから、ずっといい匂いで……」
声の主は、さきほど一番に店へ入ってきた若い男だった。
旅装を着崩し、まだ背負ったままの布袋を脇に置いて、湯の入った杯を両手で抱えている。
目の前の炭火と料理に、目を輝かせているあたり、どうやら食い意地は張っていそうだった。
「ああ。昨日漁師の爺さんからもらったヤツを、日陰に吊るしてちょいと干した。三分火で炙って、ちょい塩。味付けは、それで十分だ」
言いながら、ベネリオは焼き上がったイカを一枚、木皿に乗せる。
添えるのは、荒く刻んだ香草と、くし形に切ったレモン。
薄い塩の粒が、わずかに光を反射していた。
「うわ……見た目だけで、もう旨いのわかりますよこれ」
「匂いで旨いと思ったら、それはもう旨いもんだ。熱いうちに食えよ」
皿を前に出すと、男は嬉しそうに「いただきます」と声を弾ませた。
指先でイカの端をつまみ、恐る恐る口に入れる。
一瞬、咀嚼が止まり──そして、目を丸くした。
「んっ……うまっ……!」
「そりゃよかった」
ベネリオは湯を足しながら、焼き台に向き直る。
鍋の中では昆布と煮干しが出汁を吐き出し、泡が静かに縁をなぞっている。
香草を数枚ちぎり、湯気の中に沈めると、さらに複雑な香りが立ちのぼった。
──そのとき、引き戸がきしり、重たく軋んで開いた。
潮と炭の混じる煙が、風に押されてわずかに揺れた。
店の内と外の境に、ひときわ濃い影がひとつ、静かに立っていた。
革鞄を肩に、膝下までの長靴にはまだ乾ききらぬ泥が残っている。
濃い灰の上着に立ち襟のコート、その襟元から覗くのは、歳月を帯びた旅人の疲れ──あるいは、戦いの余韻か。
その目が、炭火の明かりに照らされる。
黒曜のような瞳がわずかに揺れ、そして何も言わず、店の中へと踏み入った。
──ガルド・エスヴァン。
その名を知る者は少ない。だが、この町の静かな一角では、忘れがたい気配として、彼の姿を覚えている者がいる。
男はゆっくりとカウンターに歩を進め、無言のまま、中央の椅子に腰を下ろした。
その動きには、まるで風の流れを読む漁師のような、あるいは火の揺らぎを見極める料理人のような、無駄のなさがあった。
「……ガル。やけに静かに現れやがるな、おまえは」
「……暖簾が揺れてたからな。風が止むまで、外で待ってた」
「そうかよ。んで? なんか用か? まさか、呑みに来たわけじゃ──」
「イカが、焼ける匂いがした」
それだけ言って、ベネリオの顔も見ずに、盃を差し出す。
ベネリオは肩をすくめて、それを受け取り、湯にくぐらせた。
「ったく……誰だよ、あんな無愛想な奴を店に入れたのは」
ぽつりと呟くと、先客の男が、思わず笑いをこらえきれなかった。
「お、お知り合いなんですね……」
「ああ、昔な。荒事ばっかしてた頃の腐れ縁だよ」
「ほう……そっちの方が、冒険者っぽいですね」
ガルドがちらりと目をやり、微かに唇を動かす。
「……見た目だけで言うな」
「いやいや、いい意味ですって! 渋いっていうか、その……」
「やめとけ。そいつ、褒められ慣れてねぇから、すぐ黙り込むぞ」
湯を張った盃をガルドに戻すと、彼は黙って受け取り、ぐいとあおった。
ベネリオは炭の上に新たに鱸の切り身を並べる。
銀皮がじりじりと縮み、香ばしい脂が滴っていく。
「そういや、おまえ、名前は?」
「あ、すみません。エルって言います。旅の途中で……魚の匂いに負けて、つい」
「いい名前だ。短くて、呼びやすい」
「ありがとう……ございます?」
ベネリオが笑い、ガルドは酒をもう一杯、注ぎ直す。
気がつけば、三人の間に流れる空気が少し和らいでいた。
イカの皿が空になり、代わって鱸と香草の小鉢が並ぶ。
「うわ……これも……」
「白身は焼きたてより、ちょっと置いたほうが旨い。口の中でほろっと崩れるまで、我慢して食え」
「……この店、最高ですね」
「だろ? 怖い顔の親父がやってるけど、味だけは保証付きだぜ」
ベネリオが火箸を構えたまま「誰が怖い顔だ」とぼやき、二人は同時に笑った。
炭がまた一つ、ぱちりと弾ける。
そのときだった。
暖簾の向こうで、わずかな気配が立ち止まった。
静かに、戸口の木を叩く音──二度、遠慮がちな小さな音。
引き戸がきい、と控えめに開く。
現れたのは、束ねた黒髪が肩に揺れる少女だった。
麻のワンピースの上に薄手のエプロンを重ね、手には白布にくるまれた包みを抱えている。
頬は日差しに焼けた健康的な赤みを帯びているが、その中心に、今は別の朱が滲んでいた。
彼女の足取りは、決して強くない。
けれど、真っすぐだった。
視線をそらしがちに、扉の隙間からそっと顔をのぞかせる。
その仕草は、何度もためらった跡を思わせた。
少女の名は、セシア。
町の八百屋の娘で、日が落ちる少し前、この店によく顔を出す。
──食材を手にして、けれどそれ以上の言葉はなかなか口にできず。
包みの中身よりも、その手に残る温もりが、彼女の気持ちのすべてを語っていた。
「セシア、か」
ベネリオが目を細め、火箸を下ろした。
「べ、べつに……顔見に来たわけじゃ、ないですからっ。ほら、あの……今日は、トマト、いいのが入ったって……!」
少女の言い訳が、炭火の煙といっしょに、夜の居酒屋にふわりと溶けていった。
「おう、そうかい。……トマト、か。赤いのか? それとも黄色いのか?」
「えっ、あ、あの……赤ですけど、えっと、あっちの畑の方で採れて……あの……皮が薄くて……っ」
セシアは慌てて包みを開き、つややかな実をそっと取り出した。
手のひらに乗せたトマトは、月の明かりに照らされて赤く映える。少し青さの残る、若い実だ。
「へぇ。……いい色してんじゃねぇか。さっきの鱸に合わせてみっか。火を通してソースにしてもいい」
「べ、べつに、そういうつもりで持ってきたわけじゃ……っ」
少女がまたそわそわと、足元で裾を握る。
エルがそれを見て目を細めた。
「お知り合い……なんですね?」
「近所の八百屋の娘さ。よく食材持ってくる。いや、持ってきたがる、だな」
「も、持ってきたがってないです!」
言いながらも、セシアはカウンターの端に立ち尽くしている。
どうぞ、と勧められればすぐにでも座りそうな様子なのに、誰もまだそれを言わない。
そこへ、ガルドがふいに口を開いた。
「……座れ。立ってると、料理が冷める」
「……っ!」
セシアは一瞬きょとんとし、次いで、耳まで真っ赤に染めて小さく頷いた。
ベネリオは苦笑して、手近の椅子を引いてやる。
「ったく……みんな、勝手に座って、勝手に呑んで、勝手にうまい言いやがってよ。なんだってんだこの店は」
「いい店ってことですよ、きっと」
エルが笑い、ガルドがまた黙って杯を傾ける。
小さな居酒屋に集う三人と一人。
炭火が燻り、潮風が夜の隙間から入り込む。
明かりは朱色に灯り、料理の香りはますます濃く──その夜の、最初の宴が、ようやく始まろうとしていた。
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