炭火の夜、潮の香りに灯る店 〜異世界港町グルメ、元冒険者が営む炭火居酒屋〜

夢宮

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序章「潮の香る夜に - A Scented Night」

プロローグ「潮風、灯り、店の名はなく」

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 よるとばり港町みなとまちを覆っていた。
 波止場はとばの灯りが海面かいめんに長く揺れ、遠くで船の帆柱ほばしらきしむ音がする。
 昼の喧騒けんそうはすでに静まり、風としおとが町の隅々を洗っていく。

 通りには人影ひとかげもまばらだった。
 石畳いしだたみの上に落ちる足音は、ことん、ことん、と小さくひびいては消え、軒先のきさきに吊された風鈴ふうりん夜風よかぜに短く鳴った。
 どこかの家の窓から、煮込みにこみの香りがただよってくる。猫がひとつ、静かにその家の前に座り込んでいた。

 その通りの角、朱色しゅいろひさしの下に、ひとつの店がある。

 名前はない。看板もかかげられていない。
 けれど、しおの匂いと共に暮らすこの町の者たちは、誰もがその場所を知っている。

 炭の匂いが染みついた木の戸。すすけたひさしの下から、魚と酒の香りがほのかに漏れている。
 そしてそこにいる、ちょっと怖そうな、でもどこか頼れる男のことも。

 戸が、ぎい、と低くきしんだ。
 わずかな風と、ひとすじのを連れて──ひとりの男が現れる。

 すすけた白シャツの袖をまくり、しおに焼けた腕が引き戸を押し返す。
 金髪は高くたばねられ、額には汗の気配。
 名残なごりが背を照らすなか、屈強くっきょうな肩がひさしの下に影を落とす。

 ──ベネリオ・ファルカ。

 元は名の知れた冒険者。今はこの町で、火と炭を預かる男である。
 その眼差しは鋭くも穏やかで、炭の気配にだけは、ことさらにさとい。

 鍵を腰から抜き、ひとつ回すと、鈍い音が木の格子に響いた。
 火口のふたを持ち上げ、手慣れた手つきで炭を組む。
 火箸ひばし隙間すきまを開け、灰を落とし、奥に赤いしんが潜んでいるかを確かめた。

「……よし、悪くねぇ」

 声は低く、ひとりごとのように短く。
 だがその声音には、確かにひとつの夜が始まる気配があった。

「……さて、今夜はイカをあぶるか。塩加減、ちっと強めにしてな」

 ぽつりとつぶやき、背中を丸めるようにして炭を起こしにかかる。
 き口から漏れる赤い火の粉が、店内の空気を少しずつあたためていく。
 板場の端には今日届いた干物が並び、香草こうそうの束が塩壺しおつぼの横に差してあった。

 彼は炭火すみび火箸ひばしを当てながら、少しだけ鼻を鳴らした。

「……まったく。ガルのやつ、今日も来るのか来ねぇのか、返事くらい寄越よこしゃいいのによ」

 火の中で炭がぱちりと弾ける。
 返事はない。ただ店の中に香ばしさが満ちていく。

 鍋に湯を張り、出汁だしをとる。
 カウンターに並べるさかずきの数を指で数えながら、ふとベネリオは扉の外に目をやった。

 誰かが、暖簾のれんの向こうで足を止めた気配がする。

 ほどなく──控えめに、き戸が二度叩かれた。

「やってるかい?」

 若い男の声だった。
 声の調子からして、初めてではない。だが常連というほど馴染んでもいない。旅人か、あるいは船乗りか。
 ベネリオは返事の代わりに、暖簾のれんをめくって外を見た。

「ああ、やってるさ。まだ火を起こしたとこだけどな」

 声とともに、煙の向こうで口角が上がる。
 男はうなずき、やれ嬉しそうに頭を下げて店に入ってきた。

 扉を閉め、風を遮る。
 火の音だけが残った空間に、今、最初の客が現れた。

 それだけで、居酒屋という場所は静かに目を覚ます。

 ベネリオは炭を少し足し、たなからさかずきをひとつ取り出して、湯にくぐらせる。
 次に入ってくる客の顔を、頭の中でざっくりと想像してみた。
 あの八百屋やおやの娘かもしれないし、口の軽い旅商人たびしょうにんかもしれない。
 あるいは、何の前触れもなく、昔の誰かが現れることだって──なくはない。

 だが今夜は、何があっても、焼きたてのイカが出せる。
 それでいい。

「……さぁて。うまいもん、食っていこうじゃねぇか」

 男はそう言って、暖簾のれんの端を持ち上げた。
 赤くともった看板のない店。その下で、静かに夜が始まる。
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