炭火の夜、潮の香りに灯る店 〜異世界港町グルメ、元冒険者が営む炭火居酒屋〜

夢宮

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三章「夏の塩気と、灯る静けさ - Salted Summer」

第15話「塩のあとさき、海鳴りとともに」

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 からがひとつ、音を立てて割れた。
 炭火の赤に熱されて、岩牡蠣がきの身が膨らみ、白くつやを帯びてゆく。香りはすでに立っていた。焦げた海藻かいそうのような潮気しおけと、殻の奥に眠る旨味の蒸気。
 その前で、ベネリオは火箸ひばしを動かす。目は炭床すみどこを見据え、指は殻の傾きを整えていた。小さな炭がひとつ、ぱちりと弾け、夜の静けさを照らす。

 居酒屋の引き戸が、かすかに揺れた。

 音は控えめだった。潮風しおかぜに混ざることなく、あくまで人の手によるもの。
 振り返る前に、ベネリオは火を見た。炭は安定している。牡蠣がきの火も通りすぎてはいない。
 それを確かめてから、ようやく扉へと視線を向ける。

 入ってきたのは、灰色の外套がいとうを羽織った男だった。
 年のころは五十を過ぎたあたりか。旅装りょそうには使い込まれたかわふち取り。靴は濡れており、つま先にわずかな泥がついていた。
 だが、それ以上に目を引いたのは、彼の肩から漂う香りだった。しおに濡れた木材のにおい。削られたばかりの板の匂いが、わずかに残っている。

「ひとり、いいかね」

 声は低く、あくまで穏やかだった。
 ベネリオは頷いた。

「空いてるぞ。火のそばがいいか?」
「ああ……そこがいい。火を見ていたい夜でね」

 男はカウンターの端に腰を下ろした。
 その所作に無駄はなかった。だが、どこかのんびりとしていた。しおの町に慣れた者の、歩き疲れた夜の入り方だった。

「酒はいるか?」
「少しだけ。ぬるめで」

 短いやり取りのあと、店内は再び静かになった。
 セシアが片隅で湯を張ったさかずきを整えている。ガルドは黙ったまま、火を見ていた。

 炙られる牡蠣がきの香りが、あらためて満ちていく。
 炭の上では塩がはじけ、殻の隙間から蒸気が立ち上る。しおの芯を抱えたような、濃い香りだった。

 男がぽつりと呟く。

「……火が、昔より静かだ」

 誰にともなく言った言葉だったが、カウンターの空気が、わずかに反応する。
 ベネリオは火箸ひばしを止めた。ガルドはさかずきを手に取り、ゆっくりと傾ける。セシアだけが、小さく眉をひそめた。

「昔より……って、どんな火だったんですか?」

 思わず問うたセシアに、男は笑みを浮かべた。

「強かった。荒々しくて、跳ねるような火だった。……港の奥、造船小屋の、き火だ。うみと木と塩が混ざる匂いだったよ」

 思い出すように、目を細める。
 その目元には、潮風しおかぜに削られたようなしわが刻まれていた。

 火がまた、ひとつ鳴った。
 店の灯りはその音を包み、炭とともに夜を深めていく。

 さかずきが、ぬるく満たされた酒に揺れていた。
 セシアが運んだ小さな膳の上には、朱色しゅいろ小鉢こばちと塩をあしらったはし置き。塩は炙あぶってある。
 男はそれを一瞥すると、てのひらさかずきを包み込むようにして、そっと口をつけた。

「……ありがたい。こうして火を前にして飲むのは、何年ぶりだろうな」

 さかずきを置く音が、静かだった。
 まるで、語るべき何かがその向こうに続いているかのように。

 ベネリオは火箸ひばしを握り直し、牡蠣がきをひとつ、殻ごとすくい上げた。
 そのまま、男の前へと置く。塩は使っていない。炭と殻だけで火を通した、しお牡蠣がきだった。

「……どうぞ。火は今、ちょうどいい」

 男はそれに頷き、はしを取った。
 殻の上に盛られた白い身を、慎重に、しかし慣れた手つきですくい取る。口元に運び、む。

 そのとき。

 香りが、空気ごと変わった。
 火のそばに座る全員が、それを感じた。牡蠣がきの芯が、塩の記憶を呼び起こしたような味を持っていた。

 男が静かに、目を閉じた。

「……舌の裏に、うみが戻る」

 呟きは、詩ではなかった。
 それは、長い時間を越えて戻ってきた“味の場所”を確かめるような言葉だった。

 セシアが、その言葉に息をのんだ。

「……そんなふうに、感じるんですね」
「舌と鼻と、耳で、覚えていた火さ。……昔はもっと塩辛かったが、この味のほうが、いい」

 さかずきを再び持ち上げ、ゆっくりと傾ける。
 火は沈まない。だが、ゆるやかに深まっていく。

「造船小屋って……町の北の方にある、あの?」
「……あそこは、もうない。嵐で潰れた。だが、そこにあったき火の匂いだけは、いまも鼻に残ってる。しおと松と、塩をいたき火だ」

 ベネリオが、火箸ひばしを動かす手を止めた。
 塩を撒く火。なるほど、そういう焚き方もある。跳ねた塩の音は、きっと炭に響く。

「そっちの大将は、塩を撒いたことは?」

 男の問いに、ベネリオは笑った。

「……ここの火にゃ、塩は撒かねぇ。塩は、食いもんに向けるために使ってる」

 ガルドが、かすかに頷いた。
 それがここのやり方だと、無言で伝えるように。

 男も、それに納得したようだった。

「それがいい。俺たちの火は、船を焼く火だった。うまい火じゃなかったよ」
「船を……焼く?」

 セシアが聞き返す。
 男は一瞬だけ笑って、首を振った。

「いや、たとえ話さ。船を組む前に、焼いて湿気を飛ばす工程があってね。焦げ目がつくくらいの火を焚いた。……そのときの塩の使い道は、虫除けと香り止め」

 塩の火。
 それは、料理ではなく、仕事の火だった。

 セシアは膝の上で手を組み、そっと目を伏せる。

「……塩って、すごいんですね。火といっしょに思い出になるなんて」
「なるさ。塩は覚えてる。舌よりも、鼻よりも、火の音と混ざって残る」

 炭が、またひとつ崩れた。
 火の奥に、少しだけ空白ができる。

 ベネリオが立ち上がる。火箸ひばしではなく、壺から塩をひとつまみ取り、てのひらで押しつぶすように握ると──

 ぱらり。

 ひと振りの塩を、火の隅へと落とした。

 音がした。塩が弾けた音だ。炭の上に乗ったその白さは、すぐに消えた。
 火は変わらず穏やかだった。けれど、その一瞬だけ、なにかが過ぎた。

「……音が、違う」

 セシアの声が、かすかに震えていた。
 ガルドも、それを見つめていた。表情は変えず、だが目は炭の奥へと沈んでいた。

 男が笑った。

「思い出したろう? 火と塩の音。あれは、遠くから帰ってくる音さ」

 さかずきが空になる。
 今夜は、それでちょうどよかった。

 静けさが、店の中に深く根を下ろしていた。
 火の音すら遠くなり、誰もが何かを待っているような間があった。
 だがそれは、重苦しいものではなかった。

 ──満ちた、という感覚。

 誰かが言葉を継がずとも、香りと記憶だけで、この夜の輪郭りんかくは保たれていた。

 ベネリオが、もう一度炭を寄せる。
 火箸ひばしの先が、やわらかく赤を撫でる。ぱち、という音がまた、小さく灯った。

「……なあ、あんた」

 彼は火を見たまま、静かに問うた。

「その火は、いまでも目に浮かぶか?」

 問いは、答えを急がなかった。
 旅装りょそうの男は、さかずきを置いたまま、しばらく口を開かなかった。

 やがて。

「ああ……浮かぶよ。だが、それだけじゃない」

 男は、ぽつりと続けた。

「浮かぶのは……き火の向こうにいた連中の顔さ。火はただの目印だった。あの夜あの場所で、笑った顔、黙った背中、塩を投げすぎて叱られた若造──」

 彼はそこで一度、喉を鳴らした。言葉がふと、重くなる。

「……今じゃ、誰の名も、まともに思い出せない」

 その言葉は、カウンターに落ちた水滴のように静かだった。
 セシアが、何かを言いかけたが、唇だけ動いて声に出さなかった。

 ベネリオは火から視線を外さないまま、返した。

「名前なんざ、いいじゃねぇか。……火が覚えてりゃ、それで十分だろ」

 その言葉に、男はふっと目を細めた。
 さかずきにもう酒はない。だが、胸のうちに何かがまだ温かく灯っているようだった。

 ガルドが、初めて口を開いた。

「火は残る。……焦げた板と、焼けたしおの匂い。忘れても、立ち上る」

 その短い一言に、男は深く頷いた。

「……そうだな。忘れたもんも、火にくべれば戻ってくる。味になって、匂いになって、息の奥から湧いてくる」

 セシアは、ゆっくりと頷いていた。
 彼女の手元には、さっきまでさかずきを温めていた湯の残り。
 それに、彼女はそっと指先を沈めた。

「……塩のあとに、火の温もりが残るんですね」

 その呟きに、誰も何も言わなかった。
 ただ、炭がまたひとつ割れ、赤がひと筋だけ高くなった。

 ──しおの香が、戻ってきた。
 店の中に、炙られた牡蠣がきの匂いとともに、湿った海鳴うみなりが重なっていく。

 夜はまだ、明けない。
 だがそれでも、今夜という火は、この店でひとつ、確かに灯っていた。

 旅装りょそうの男は、静かに立ち上がった。
 言葉もなく、ただ礼のように頭を下げ、引き戸へ向かう。

 扉を開ける。潮風しおかぜが入り、暖簾のれんが揺れた。
 背中越しに、ひとことだけ残す。

「……この火と塩、覚えておくよ」

 それだけを言って、彼は去った。
 波の音が、かすかに響いていた。

 ──火はまだ、消えていない。
 夜の名もなき居酒屋に、赤く、静かに。
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