炭火の夜、潮の香りに灯る店 〜異世界港町グルメ、元冒険者が営む炭火居酒屋〜

夢宮

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三章「夏の塩気と、灯る静けさ - Salted Summer」

第16話「開かれるもの、塩の先に」

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 夜の火は、まだ落ちていなかった。
 赤く沈んだ炭が、はいの奥で静かに脈打っている。
 しおと塩とが混じり合う香りは、まだ空気の隅に残っていた。

 湯桶ゆとうの湯はぬるくなり、さかずきも三つだけ。
 客の数が減った分、火の音がよく響くようになっていた。
 カウンターの端でガルドが黙って酒をあおり、セシアは奥で皿を拭いていた。

 ベネリオは炭火すみびの前に立ち、網を見つめている。
 湯気も立たぬその網の上に、今宵最後の食材を並べていた。

 ──はまぐり

 厚く、白いからしおのにおいを封じたまま、火の上で沈黙している。

「……締めは、こいつでいくか」

 そう呟いて、炭をひとつ動かす。
 小さな火花がぱち、と飛び、音だけが空に跳ねた。

 はまぐりは何も言わない。
 だが、そのからの内側では、すでに変化が始まっている。
 熱が伝わり、水気がにじみ、硬い殻が音もなく震え始めていた。

 セシアが、火のほうをちらりと見やる。

「……貝って、開くときの音が、なんだか不思議です」

 その声にベネリオは何も返さず、火箸ひばしで殻の向きを直した。
 セシアは、少しだけほおを染めて視線を落とした。

「昔、母が潮汁を作ってくれたとき……台所からぱかって音がして。びっくりして、泣いたことがあるんです」

 炭が崩れ、赤がゆるく滲んだ。
 その音を聞いていたかのように、ひとつのはまぐりが、かすかにきしむ。

「でも……そのあと、すごくいい匂いがして。あたたかくて、やさしくて……」

 ガルドが、黙ってさかずきを口に運んだ。

 ベネリオは火を見ながら、器をひとつ取った。
 深めのわんに、だしを張る。昆布こんぶ貝柱かいばしらからとった、やや甘い香りの出汁。
 そこへ、火の通ったはまぐりをひとつ、そっと沈める。

 塩壺しおつぼから指先で塩をひとつまみ、てのひらで転がすようにして、わんの湯面に散らした。

「……食ってみろ」

 差し出された器を、セシアは両手で受け取った。
 ふわりと、湯気が立ちのぼる。
 貝の旨味と塩の香りが、蒸気に乗って鼻を打つ。

「いただきます……」

 声は小さく、だが揺れていなかった。
 そっと唇をわんに寄せ、一口、湯をすする。

 塩気がまず舌をでる。
 そのあと、はまぐりの甘みが、ほのかに遅れて追ってきた。
 貝の奥にあったものが、熱と塩で溶けて、輪郭りんかくを変えて舌にほどける。

「……あ」

 ひと息で、セシアは湯をもう一口含んだ。
 今度は殻の縁にある身を、はしでやさしくつまみ、口に運ぶ。
 ほどけた。まなくても、ほどけた。

「お母さんのと、似てます。……でも、ちょっとだけ違う」
「そりゃあな」

 ベネリオは火箸ひばしを置いた。
 塩の量も、湯の温度も、昔とは違う。だが、芯にあるものは近い。

「おまえの母さんは、どうやって作ってたんだ」
「えっと……鍋に水と昆布こんぶと、あと……お酒も入れてて。塩ももうちょっと多かった気がします」
「なるほど。そりゃ、しおの強い味だ」

 セシアは笑った。
 微かに、鼻をすする音がした。

「……でも、嬉しいです。思い出せたから」

 湯気の向こうで、わんの中のはまぐりは、静かに開かれたままだった。

 ガルドが、ようやく口を開く。

「閉じてるもんが開くと、中に旨味が残る。……悪くねぇ」

 それは誰に向けたわけでもない言葉だった。
 けれど、その夜のすべてを肯定する音のようでもあった。

 からの音は、夜の静けさに似ていた。
 誰にも気づかれずに少しずつ動き、あるとき、ぱかりと小さな音を立てて開かれる。

 それは驚くほど、優しい破裂音だった。

 セシアのわんの中では、もうひとつの貝がゆっくりと開いていた。
 塩が湯に溶け、旨味がまざりあい、匂いだけで空腹が満たされていく。
 だが、腹だけが満たされているわけではない。

 ──なつかしいもの、はっきりとは思い出せないけれど、たしかにあったもの。

 それがこの一杯に染みている。
 彼女は、そっとまぶたを伏せた。

「……母が、今でもときどき作ってくれるんです。誕生日とか、なにか、元気ないときに」

 言葉の端に、笑いが混じる。

「この前、『ちょっと味変わったわね』って言ったら、すっごく怒られて……」
「味が変わるのは、生きてる証拠だ」

 ベネリオの返しは、ぽつりと落ちた石のように短く、重かった。
 火の前で立ったまま、彼はもう一度、網に手を伸ばす。

 残りのはまぐりが、三つ。
 殻はまだ閉じているが、湿り気を帯び、じりじりと熱をためていた。

 ガルドがさかずきを置き、無言のまま一歩、火に近づいた。

 すみの奥で、ひとつの貝が音を立てる。
 ぱき、とわずかな弾ける音がしたかと思えば、からの隙間がぬるりと割れた。

「……ほらよ」

 ベネリオが器をひとつ差し出す。
 ガルドはそれを受け取るでもなく、一瞬だけ、わんの湯面を見た。
 そして、何も言わずに席へ戻る。

 器を手にしたのは、セシアだった。

「いただいていいですか?」
「おまえが火を見てたから、開いたんだろ」

 彼女は笑った。
 それは、湯気に似た、やわらかくて短い笑いだった。

 湯に浮かぶはまぐりは、さきほどよりも白く、身を開いていた。
 その奥から立ち上る香りは、炭の残り香と合わさり、記憶きおくの底をでるようだった。

 火が落ち着いていた。
 炭は赤を内に閉じ込め、はいを纏《まと》いながら、それでも確かに生きていた。

 ──開くものは、きっとまだある。

 店の外から、かすかな波の音が聞こえてきた。
 それはしおの音であり、同時に、遠くの町の寝息のようでもあった。

 夜はまだ終わらない。
 けれど、火と塩と貝が、ひとときの灯を与えてくれていた。

 開いた貝の器は、皿のうえで静かに口を開いたまま、湯気を吐き続けていた。
 そこに火はなく、湯もすでに熱を失いつつあったが──匂いだけは、生きていた。
 炙られたからの焦げ、塩の残り香、湯の奥に沈んだ貝柱かいばしらのやわらかい輪郭りんかく
 それらが重なり、店内の空気に深みを与えていた。

 ガルドがわんを空にし、音を立てずにさかずきを戻した。
 その手つきも目線も、いつものように無駄がなく、けれど、わずかにやわらかかった。

「……汁のあとに、何も残らねぇのがいいな」

 それは、褒め言葉に近かった。
 ベネリオはうなずきもせず、火箸ひばしを炭のあいだに滑らせた。

「身が残ってりゃ、しゃぶるやつもいるがな。……汁でいいってのは、通の証拠だ」
「……昔、ガルドさんにそう言われて、めっちゃ真似した時期がありました」

 セシアの言葉に、誰も笑わなかった。
 代わりに炭が、ぱちりと小さく弾けた。
 その音が、ひとつの笑い声のように響いた。

 店の奥では、使い終えた器が重ねられ、湯桶ゆとうに湯が足されていた。
 今日の仕込みはもうない。残るは炭の火だけ。

 それでも、誰も席を立たなかった。
 この夜にしかないものが、まだ残っているような気がしていた。

 ベネリオが、湯の張られたわんを一つ取り上げる。
 炭火の奥から、最後のはまぐりをひとつ拾い上げ、それをそっと沈める。

「火を、閉じるか」

 彼がそう言ったとき、誰も異を唱えなかった。
 その言葉は終わりを告げるものではなく、むしろ今夜の輪郭りんかくを描くための最後の一手だった。

 火を閉じるとは、ただの消火ではない。
 炭に蓋をするのでもなく、炎を潰すのでもない。
 赤を静かに眠らせること。それが彼にとっての“閉じる”だった。

 セシアが、もうひとつのわんを手にする。

「……貝って、すごいですよね。何にも言わないけど、火があると開く。中を見せる」
「見せたくねぇもんも、たまにあるがな」

 ベネリオの言葉に、セシアは吹き出しそうになってから、ぐっと堪《こら》えた。
 わんの中のはまぐりは、まだ完全には開いていなかった。
 口を閉じることもできず、ただ半開きで、湯の中に沈んでいた。

 その姿が、どこか今の自分の気持ちに似ていると思った。
 言葉にならないまま、伝えたいことだけがじんわりと胸の奥で熱をもっている──
 そんなときが、人にもある。

「……これって、いま開くかもです」

 そう言ってわんを見つめるセシアの目の前で、貝が小さく震えた。
 ひと呼吸して、からが──ぱちり、と音を立てた。

 炭の火でも、湯の熱でもない。
 そこにあったのは、間合いだった。
 ちょうどよいときに、ちょうどよい音を立てて、ひとつのからが開いた。

 ガルドが、黙ってそれを見ていた。
 ベネリオは器をもう見ていなかった。
 店の中に広がったのは、火でも塩でもない、貝の音だった。

 それは、この夜の締めくくりにふさわしい、静かな祝福のようだった。

 そして夜は、音を立てずに、深まっていく。
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